機雷戦のエピローグ②…GHQが海上保安庁に、朝鮮戦争参戦を強要

 2018-05-06
機雷戦のエピローグ②

…GHQが海上保安庁に、朝鮮戦争参戦を強要



昭和23年(1948年)
8月15日
大韓民国樹立宣言

9月9日
朝鮮民主主義人民共和国成立

12月26日
ソ連軍が朝鮮半島から撤兵完了。

昭和24年(1949年)
6月29日
米軍が朝鮮半島から撤兵完了。

昭和25年(1950年)
1月12日
ディーン・アチソン米国務長官が「西太平洋の防衛ラインは、アリューシャン
―日本―沖縄―フィリピンを結ぶライン」と演説。(アチソン演説)
北朝鮮はこの発言に拠って、米国政府は朝鮮動乱に参戦しないと判断。

6月25日
北朝鮮軍約10万人が国境の38度線を突破し、韓国内に進撃開始。
国連安保理事会(ソ連欠席)は、北朝鮮の武力侵攻の撃退を国連加盟諸国に勧告。

6月27日
米国政府が軍隊派遣を決定。

6月28日
ソウル陥落。韓国政府は朝鮮半島南部に逃走。

7月7日
国連安保理事会が、米国政府の管轄下に「統一司令部」設置を決定し、
「国連旗」の使用を許可。

7月8日
米国政府が、ダクラス・マッカーサー元帥を国連軍総司令官に任命。

8月12日
国連軍が朝鮮半島南部に撤退し、釜山に橋頭保を築く。

9月15日
国連軍が仁川上陸に成功。北朝鮮軍が撤退を開始。

9月26日
国連軍がソウルを奪還。

10月19日
国連軍が北朝鮮の首都ピョンヤンを占領。

10月25日
「中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)」の名目で、中国軍が参戦。
総兵力約100万人(前線に約20万人を投入)

10月26日
国連軍(米軍第10軍団)が元山上陸に成功。

※この元山上陸作戦に際し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP) は、
米極東海軍司令官(CNFFE)C・ターナー・ジョイ中将の要請を受け、
海上保安庁「航路啓開隊(機雷掃海部隊)」に朝鮮海域での「敵前掃海」を指令。


第271記事7


昭和25年(1950年)9月26日のソウル奪還後、9月29日、国連軍総司令官
ダグラス・マッカーサー元帥は、第8軍団の陸路北進と第10軍団の元山上陸
作戦構想を各司令官に提示。
米海軍は、上陸作戦用の艦船不足を理由に、元山上陸作戦に反対したが、米軍
統合参謀本部の承認を得、「テイルボード作戦」と名付けられた元山上陸作戦を、
国連軍が発動させた。

米海軍第7艦隊は、9月11日には北朝鮮軍に依る機雷戦への対処を開始していた
ものの、日本の降伏後、米海軍太平洋艦隊(第3艦隊と第7艦隊)の機雷戦部隊は、
兵員の動員解除や軍事予算削減の為、掃海駆逐艦は太平洋巡洋駆逐艦部隊に、
掃海艇は太平洋艦隊補給部隊に配属した結果、機雷戦の戦術研究には進展が無く、
掃海訓練も減少していた為、その対機雷戦即応能力を大幅に低下させていた。
朝鮮戦争勃発時、米極東海軍司令官指揮下の掃海艇は、僅か第31掃海隊のAMS6隻と
第32掃海隊のAM1隻、計7隻に過ぎなかったのである。


機雷掃海艇1
掃海艇に転用された、旧駆潜特務艇第203号 ちよづる型「しらとり」MS17



そこで、「航路啓開」作業に邁進し、優秀な技量を保持していた、日本の掃海隊の
協力が必要となり、10月2日、米極東海軍参謀副長アーレイ・バーク少将は、
海上保安庁大久保武雄長官を米極東海軍司令部に呼び出し、国連軍の元山上陸作戦と
同海域に於けるソ連製機雷除去の必要性、掃海能力不足を理由に、日本掃海隊の
協力を要請。
大久保長官は、戦時下の朝鮮海域に対する掃海隊派遣命令の決定権は長官職に無く、
吉田首相の高度な政治判断が必要とバーク少将に回答。
吉田首相とバーク少将の会談の結果、超法規的措置で特別掃海隊の派遣を決定。
但し、形式上、米極東海軍司令官(CNFFE)C・ターナー・ジョイ中将の指令
ではなく、連合国最高司令官総司令部(GHQ)から日本政府に対し、文書に依る
派遣命令が欲しいと申し入れた。

大久保長官は、海上保安庁緊急幹部会を招集し、「GHQの指令に依り、朝鮮海域での
掃海を実施する。艦艇を至急、門司に集結せしめよ」との準備命令を全国の
航路啓開隊に発令。
10月6日には、母船1隻、掃海艇10隻、巡視船4隻が下関唐戸桟橋に集合。


第271記事8
日本特別掃海隊 指揮艇MS62「ゆうちどり」と同型の公称第1264号
昭和24年(1949年)12/5海上保安庁に移管され、
巡視船(PS58)「ともちどり」と改名。 昭和45年(1970年) 除籍


※日本特別掃海隊 指揮艇MS62「ゆうちどり」
旧日本海軍 300t型飛行機救難艇16号 公称第1536号
昭和24年(1949年)8/15 
海上保安庁に移管され、巡視船(PB47)「ゆうちどり」と改名。
横浜海上保安本部に配属
12/5 掃海船(MS62) 12/20 掃海母船(MS62)と任務変更。
昭和25年(1950年)6/1 呉航路啓開部に配属。
昭和53年(1978年)3/20 除籍


10月6日、米極東海軍司令官ターナー・ジョイ中将の要請を受け、連合国最高司令官
総司令部(GHQ)は、運輸省管轄下の海上保安庁に対し、朝鮮海域に於ける掃海活動
(機雷掃海は国際法上、戦闘行為である)を下命した。
海上保安庁法の第25条に、「海上保安庁は非軍事組織である」と明記されていたにも
拘わらず、当時は対日講和条約草案が検討されていたデリケートな時期であった
ことから、吉田茂首相は憲法違反を犯し、超法規的措置で「日本特別掃海隊」の派遣を
秘密裏に決定し、非軍人の海上保安官を国連軍監督下に置き、命懸けの戦闘作戦
任務に従事させたのである。

10月6日14:00、下関唐戸岸壁に集結した全船艇の指揮官は、指揮艇MS62
「ゆうちどり」の士官室に参集、指揮官会議が開かれた。
旧海軍省軍務局掃海部部長で当時、海上保安庁航路啓開本部の田村久三本部長
(特別掃海隊総指揮官)から、10月4日に米極東海軍司令官ターナー・ジョイ中将依り、
山崎猛運輸大臣に対し、掃海艇20隻、母船1隻、巡視船4隻を朝鮮海域での
掃海作業に派遣せよとの下命が有った旨の説明後、部隊区分と各指揮官予定者の
発表が為された。
(尚、この特別掃海隊の任務に従事する海上保安官には、倍額の給与が支給される旨、
この段階で発表された)


第271記事2
1950年10月18日、元山沖を掃海中に触雷、爆発した韓国軍の掃海艇YMS-516


米極東海軍司令官ターナー・ジョイ中将は、元山上陸作戦の掃海の為、米海軍
第7艦隊指揮官、アーサー・D・ストラブル中将を指揮官に、第95.6掃海・
護衛任務群を編成した。
高速輸送艦「ダイアチェンコ」を旗艦兼掃海母艦、第31、32掃海隊のAM3隻と
AMS7隻、及び第1掃海隊のDMS2隻を基幹に編成し、工作艦「ルーズベルト」、
フリゲート艦4隻、そして、日本の掃海艇8隻が編入された。

※AMS(木造掃海艇) AM(鋼製艦隊掃海艇) DMS(掃海駆逐艦)


北朝鮮元山沖に敷設されたソ連製の機雷除去は、国連軍の反攻作戦元山上陸に必要な、
危険極まり無き敵前掃海であり、「日本特別掃海隊」の参戦が「テイルボード作戦」
自体に組み込まれていたのである。
米極東海軍司令部は、日本の掃海艇20隻、母船1隻、巡視船4隻、延べ1,200名を
戦時下の朝鮮海域に投入したのである。


※我が国が連合国軍の占領下に在った当時、日本船舶が領海外を航行する際、
日本国旗の掲揚は禁止され、国際信号旗“E”旗の変形旗である燕尾旗の掲揚を、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から命じられていた。


第271記事E旗の燕尾旗
国際信号旗“E”旗の変形旗である燕尾旗


10月7日、第1特別掃海隊が下関を出港。
10月12日、元山沖の掃海作業では、北朝鮮軍の砲撃を受けながらも、3発の
機雷を処分。 この日、米海軍掃海艇2隻が触雷、沈没した。

10月17日、元海軍中佐であった、能勢省吾運輸事務官を指揮官とする第2特別掃海隊が
元山沖を掃海艇4隻で掃海していたところ、MS14号が浅海面で触雷。
掃海艇MS14号は木っ端微塵と化し、船倉に降りていた海上保安官の中谷坂太郎隊員
(21歳)が行方不明、22名が重軽傷を負った。
朝鮮戦争に参戦した日本特別掃海隊での行方不明者である中谷坂太郎隊員はその実、
戦死であり、22名の重軽傷者は戦傷者である。


第271記事3元山上陸作戦1
元山上陸作戦


本来であれば、浅深度の小掃海の後に、日本特別掃海隊が掃海すべきところを、
上陸作戦の開始を2日後に控えていたことから、米極東海軍司令部は掃海作業の
安全性を犠牲にし、危険な掃海の続行を日本特別掃海隊に強いたのである。
日本側の「触雷必至が予想される掃海は出来ない」との、浅海面小掃海の要望は
却下され、米極東海軍司令部は、「日本の掃海艇3隻は15分以内に出港し、内地に
帰れ!然らざれば、15分以内に掃海に掛かれ!」と無礼千万な暴言を吐いた。

能勢指揮官率いる第2特別掃海隊は帰国したが、海上保安庁では現地掃海隊に、
米極東海軍司令部に指示された掃海任務に精励せよとの長官命令が発令された。
吉田首相は現地の特別掃海隊へのメッセージで、「日本政府としては、国連軍に対し、
全面的に協力し、これに依って、講和条約を我が国に有利に導く考えである。
全力を挙げて掃海作業を実施し、米海軍の要望に副って頂きたい」と述べ、
危険極まり無き「敵前掃海」「浅深度の小掃海を省いた掃海」の続行を命じたのである。

米極東海軍司令部からは、「能勢指揮官及び3名の艇長を、航路啓開隊から排除せよ」
との強硬な指令が発せられ、理不尽にも、彼ら4名は海上保安庁を退職させられた。

この日本特別掃海隊の朝鮮戦争参戦は、米極東海軍司令官ターナー・ジョイ中将の
命令に依る掃海作業であったが、国連軍では形式上、「臨時雇用」と位置付けていた。
一方、日本特別掃海隊の艇長達は非軍人でありながら、日本政府の命令に依る
一般公務員の業務として、落命の危険性高き、戦時下の朝鮮海域での活動を
強いられたのである。
国際法上、実に曖昧に強いられた憲法違反の戦闘行為であったのである。


第271記事4
元山上陸作戦


12月15日、米極東海軍司令官ターナー・ジョイ中将の掃海作業終了命令を以って、
日本特別掃海隊は解隊と成った。
日本特別掃海隊は、昭和25年(1950年)10月から、解隊の12月15日迄に、
46隻の掃海艇が出動し、元山沖、仁川沖、鎮南浦沖、群山沖の掃海作業に従事、
機雷27発を処分する成果を挙げた。

朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日休戦協定締結)開戦当時、
連合国軍の占領下に在った我が国は、特別掃海隊として派遣された海上保安官
以外にも、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令で、海上輸送や港湾荷役に
従事する民間人等、総計で8,000人以上の日本人が朝鮮半島、及びその周辺海域での
危険な活動を強いられ、開戦から半年間で、実に56名もが落命しているのである。



第271記事6掃海艇ゆりしま
海上自衛隊 掃海艇 MSC-668「ゆりしま」
はつしま型掃海艇の20番艇。 平成19年(2007年)2月除籍。


日本政府は、湾岸戦争(1991年1月17日~2月28日)後の平成3年(1991年)、
PKO(国連平和維持活動)協力法に基づき、機雷除去を任務として、ペルシャ湾に
海上自衛隊の掃海艇を派遣した。
※掃海母艦「はやせ」、掃海艇「ゆりしま」「ひこしま」「あわしま」「さくしま」、
補給艦「ときわ」の計6隻を派遣。

世界有数の掃海技術を誇る、海上自衛隊の掃海部隊であるが、対応して来た機雷の
多くは大東亜戦争当時のもので、その後に大きく進歩発達した機雷には派遣当時、
充分に対応出来なかったと、掃海の指揮を執った落合畯海将補(派遣当時は1等海佐
-第1掃海隊群司令)は述懐した。
掃海部隊の装備自体は、ヨーロッパ諸国の海軍の方が勝っていた様である。
その後、海上自衛隊の掃海部隊は装備面でも近代化、大型化を進めているとのこと。

※この「自衛隊ペルシャ湾派遣」は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に
強いられた、朝鮮戦争に於ける日本特別掃海隊の活動以来の海外派遣であった。



※平成14年(2002年)10月24日、韓国国防部軍史編纂研究所開催の
「日韓軍事史研究会」で発表された、防衛研究所主任研究官 谷村文雄1等海佐の
論文「朝鮮戦争に於ける対機雷戦(日本特別掃海隊の役割)」参照




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機雷戦のエピローグ①…昭和20年、海上封鎖された日本列島

 2018-05-04
機雷戦のエピローグ①

…昭和20年、海上封鎖された日本列島



我が国がポツダム宣言を受諾し、大東亜戦争で降伏した昭和20年8月15日の段階で、
日本本土は約66,000発の機雷に依って、海上封鎖されていた。
日本海軍は対米英開戦に当たり、敵艦船の侵入を防ぐ為に、約55,000発の「係維機雷」を
日本沿岸の各水道や港湾の入り口、海峡等の航路に敷設していた。

「係維機雷」(けいいきらい)というのは、爆薬を装填した丸い缶体を海水面下の水中に
浮遊させ、これを係維策と呼ばれるワイヤーで海底の錘量(重り)に結び付けたもので、
艦船がこの缶体に当たると、その衝撃で爆発する仕掛けに成っていた。
この係維機雷は当時、世界水準からすれば既に旧式であったが、日露戦争で大きな成果を
挙げただけにその後、日本海軍は技術的進歩の必要性を認識していなかった模様である。


エピ1機雷の敷設


米軍は戦争末期、「飢餓作戦(Operation Starvation)」と名付けた機雷封鎖作戦で、
日本本土を海上封鎖することに依って、重工業の弱体化を図り、また食料や
必要物資の輸入を阻止することを意図し、B-29爆撃機や潜水艦から「感応機雷」
約10,700発を投下敷設した。
我が国は当時、近海に至るまで海上交通路を機雷で封鎖され、輸送船への航空機に
依る空爆、米潜水艦の魚雷攻撃もあり、僅かに食料を輸入していた満洲国からでさえ、
本土への物資搬入は困難で、戦争継続能力を完全に失っていたのである。


機雷投下

Mk26機雷
Mk26感応機雷


「感応機雷」とは、鋼鉄製の艦船が航行する時に地球磁気を撹乱して行くので、
その磁気の撹乱に反応して作動する仕掛けの「磁気機雷」や、艦船のスクリュー音に
感応して作動する「音響機雷」、また、水圧の変化と磁気の撹乱を組み合わせて
作動させる、「磁気水圧複合機雷」等の新式機雷であった。

従がって、我が国の戦後処理作業の緊急、且つ最重要課題は、食糧の欠乏が逼迫し、
飢餓に瀕していた国民に即刻、生活必需品を供給する為に、機雷を除去(掃海)し、
日本沿岸の航路を開いて、船舶の安全運航を図ることであった。


エピ1MK26機雷
MK26感応機雷


昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリでの降伏調印式の当日、
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は一般命令第1号で、我が国
大本営に対し、掃海艇の準備と機雷の除去を指令しているところからしても、
日本近海の掃海が、如何に最重要緊急課題であったかが伺い知れるのである。


●昭和20年(1945年)9月2日発令
連合国軍最高司令官(SCAP)一般命令第1号
「陸海軍武装解除降伏等に関する一般命令」
艦船、機雷関係
※全船舶の移動禁止と日本周辺海域の機雷除去を指令。
「一切の海軍艦艇及び、商船は連合国最高司令官の指示がある迄、
これを毀損することなく保全し、且つ移動を企画しないものとする。
一切の日本国の機雷、機雷原その他の陸上、海上空中の行動に対する
障害物は、何れの位置にあるを問わず、連合国最高司令官の指示に従い、
これを除去すること」

●昭和20年(1945年)9月3日発令
連合国軍最高司令官(SCAP)一般命令第2号
「陸海軍武装解除降伏等に関する一般命令」
機雷関係
※大本営に、掃海艇の準備と機雷の明示及び除去を指令。
「一切の機雷、機雷原及び、指令の関する地域の何処にあるを問わず、
陸上、海上及び、空中に於ける行動の障害物を明瞭に表示する措置を
直ちに執るべし。
日本帝国大本営は、一切の掃海艇が所定の武装解除の措置を実行し、
所要の燃料を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存すべし。
日本国及び、朝鮮水域に於ける水中機雷は、連合国最高司令官の
指定海軍代表者に依り、指示せらるる所に従がい、除去せらるべし」



※連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers; SCAP)

※アメリカ太平洋陸軍総司令部
General Headquarters, United States Army Forces, Pacific
(GHQ/USAFPAC or AFPAC)

※連合国軍最高司令官総司令部
General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP)

アメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)は日本進駐以前、軍に依る
「直接統治」を前提に、軍政局を設けていたが、予想外の早期、且つ順調な
降伏であったが故に、「間接統治」に転換し、軍政局に代え、SCAPに再編した。
GHQ/SCAPは、昭和20年(1945年)10月2日に設置され、GHQ/AFPACと併存し、
GHQはAFPACとSCAPとの二重構造で、日本の占領行政を行なったのである。
従がって、GHQとは、「アメリカ太平洋陸軍総司令部」と「連合国軍最高司令官
総司令部」の双方を指す。
我が国では一般に、連合(国)軍最高司令官総司令部=連合(国)軍最高司令部を
GHQと呼称した。



9月3日発令のSCAP指令第2号を受け、9月18日、海軍省軍務局内に
「掃海部」が新設された。
部長は田村久三海軍大佐で、10月10日には地方掃海部6箇所、支部掃海部
17箇所が設置され、海軍軍人約10,000名、掃海関係艦艇348隻の陣容で、
「機雷掃海部隊(航路啓開部隊)」の掃海業務態勢が整備された。

10月21日、全国の機雷掃海部隊は、米海軍第52機動部隊指揮官アーサー・D・
ストラブル少将の指揮下に置かれ、各地方の掃海部隊は各地区の米海軍掃海部隊長の
発令する掃海計画を実施し、昭和21年(1946年)8月迄に、係維機雷の掃海は
ほぼ終了させた。
そして、最終的に日本掃海部隊は、米軍敷設の約10,700発の感応機雷と日本軍敷設の
約55,000発の防備用係維機雷の掃海作業を見事に完了させた。

この掃海部隊は敗戦後2ヶ月間で、83隻もの艦船が機雷に接触(触雷)し、
損害を被ったという記録が残っているほどの凄まじい爆発頻度であった。


軍艦の頑丈な装甲を破壊する、機雷爆裂の威力は、実に凄まじいものである。
平成22年(2010年)6月12日、神戸港で発見された太平洋戦争時の米国製
円筒形機雷(直径40cm長さ170cm)爆薬THN500kg重量1tの爆破処理が、
六甲アイランド沖合い半径600メートルの海域を船舶往来全面禁止にして
行われたが、高さ80メートルもの水柱が立ったと、その凄まじい爆裂の威力が
話題となったものである。


エピ1広島


係維機雷の処理方法は、喫水線の浅い掃海艇2隻が対に成り、強力な特殊ワイヤーを
水中に曳航しながら航行し、機雷の係維策を切断する。
そして、缶体自身の浮力で水面に浮上して来る機雷を、銃撃等に依って爆破するのである。


係維機雷に比して、感応機雷の処理作業は、実に厄介であったという。
抑々、鋼鉄製の船体が航行する時に地球磁気を撹乱することを感知して爆発する
仕掛けであるから、鉄分の少ない木造船等でなければ、掃海出来ない。
木造の掃海艇2隻が対に成って、両艇の間に網のような電纜(でんらん)
=ケーブルを水中に曳航し、この電纜に強力な電流を流すことに依って、
地球磁気を強く撹乱し、海中の磁気機雷を爆破するのである。

しかし、更に難儀な問題があった。
米軍の磁気機雷には「回数起爆装置」というものが装備されていて、その機雷の
上を一回航行しただけでは爆発せずに、設定された回数、地球磁気の撹乱が
必要であったのである。
その回数起爆装置が2回~12回も掛けられた磁気機雷があったので、つまり、
敷設海域に依っては、掃海を12回も繰り返さねばならなかったということなのである。


エピ1MK25
MK25感応機雷


この命懸けの機雷掃海で、航路啓開部隊(日本掃海部隊)は79名もの殉職者、
200名を超える負傷者という甚大な犠牲を払ったのである。
彼らの多くが旧海軍軍人で、早期に残存機雷を除去し、安全な海上交通を再開
させることこそが、国家再建の緊急業務であるとの使命感を奮い立たせ、勇敢にも、
危険極まり無き航路啓開業務に挺身されたのである。

機雷掃海は国際法上、戦闘行為であり、戦後の機雷処理は当事国(敷設した国)の
責務である。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、敗戦国であった我が国に米軍の敷設した
感応機雷約10,700発をも含め、全掃海作業を命じたのは、国際法違反である。


79名もの航路啓開部隊の隊員達が、掃海という国家事業で殉死したにも拘わらず、
彼らは靖国神社にお祀りされてはいない。
彼らの偉業を称え、香川県中多度郡琴平町の金刀比羅宮には、掃海殉職者顕彰碑が
建立されている。

彼らが自らの危険をも顧みず、国家の復興に貢献したお陰で、昭和27年(1952年)、
日本沿岸の総べての主要航路と100余箇所の港湾に対する「安全宣言」を全世界に
発することが出来たのである。


第270記事1


戦後、この掃海業務の担当機関は、
昭和20年(1945年)9月3日、海軍省軍務局掃海部
昭和20年(1945年)12月1日、第二復員省総務局掃海課(海軍省廃止に伴い)
昭和21年(1946年)6月15日、復員庁第二復員局総務部掃海課(政府組織改編)
昭和23年(1948年)1月1日、運輸省海運総局掃海管船部
昭和23年(1948年)5月1日、海上保安庁掃海課(海上保安庁創立)

昭和27年(1952年)8月1日、保安庁管轄の警備隊掃海隊(警備隊創立に伴い)
昭和29年(1954年)7月1日、防衛庁管轄の海上自衛隊掃海隊(海上自衛隊創立に伴い)
と激しく移管を繰り返されながらも、掃海部隊の伝統は受け継がれて来たのである。
海上自衛隊が保有する警備艦艇約120隻の内、その三分の一を掃海艦艇が
占めているのが現状である。




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日本人が好んだ名前③…昭和戦中・戦後編(1944年&1946年)

 2018-04-30
日本人が好んだ名前 ベストランキング③

昭和戦中・戦後編(1944年&1946年)



●昭和19年(1944年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子     女の子
「ひろし」   「ひろこ」
「たけし」   「ようこ」
「たかし」   「かずこ」
「あきら」   「けいこ」
「いさお」   「よしこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子     女の子
「勝」     「和子」
「勇」     「洋子」
「勝利」    「幸子」
「進」     「節子」
「勲」     「勝子」
「清」     「弘子」
「博」     「美智子」
「弘」     「光子」
「武」     「悦子」
「功」     「昭子」


昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃から3年目を迎え、
戦況が絶望的な様相を呈していた時期であり、世相を反映して「勝」
「勇」「勝利」「勲」「功」など、武張った名前が上位を占めている。
翌年、昭和20年8月15日に無条件降伏を受け入れ、終戦となる。


第269記事1
シブヤン海峡にて、米軍の急降下爆撃で、第一砲塔に被弾した戦艦大和


1月
米軍、ニューギニア島に上陸。
大本営、インパール作戦を認可。
大本営が大陸打通作戦を命令。
東京・名古屋で初の疎開命令(建物の強制取壊し)。
ソ連軍、レニングラード市を解放。
「中央公論」「改造」の編集者が検挙される(横浜事件)。

2月
米軍、マーシャル諸島占領。
米軍、トラック島空襲。

3月
政府が三綱領(国民学校学童給食・空地利用食糧増産
疎開促進)を発表。
宝塚歌劇団休演前最終公演(ファンが殺到し警官が抜刀して整理)。
警視庁の指令により、待合茶屋・バー・料亭が閉鎖される。
全国の新聞で夕刊が廃止。
日本軍、インパール作戦を開始。
岩手県宮古で豪雪(死者164名、全壊209戸)。
連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将が殉職(海軍乙事件)。
松竹少女歌劇団解散(松竹芸能本部女子挺身隊結成)。

4月
旅行制限強化。
日本軍、大陸打通作戦を開始( - 翌1945年1月)。


第269記事2
昭和19年(1944年)9月15日、ニューギニア モロタイ島に上陸した
南西太平洋方面連合軍総司令官米陸軍ダグラス・マッカーサー大将


6月
連合軍、ローマ入城。
連合軍、ノルマンディー上陸。
ドイツ軍、V1飛行爆弾でのイギリス攻撃開始。
米軍、サイパン島に上陸。
米軍のB29が中国の成都から出撃し、
翌日未明に北九州の八幡を爆撃。(B-29の本土初空襲)
マリアナ沖海戦。
北海道で大噴火、昭和新山と命名される。

7月
日本軍、インパール作戦を放棄。
サイパン島で日本軍が全滅。
東条内閣総辞職。
ドイツでヒトラー暗殺未遂事件が発生。
米軍、グアム島に上陸。
小磯内閣成立。


第269記事4


8月
大本営政府連絡会議を最高戦争指導会議と改称。
国民総武装を閣議決定。
グァム島で日本軍全滅。
在支米空軍約80機が九州・中国地方に来襲。
沖縄からの疎開船対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃により沈没。
(学童七百人を含む千五百人が死亡)
ドイツ占領下のパリ市民が武装蜂起。
連合軍、パリ解放。

9月
ドイツ軍、V2ロケットでのロンドン攻撃を開始。

10月
米国機動部隊、沖縄本島を空爆。
米軍、台湾を空爆。台湾沖航空戦。
ドイツのロンメル将軍が自殺。
レイテ島の戦い。フィリピンの戦い (1944-1945年)が始まる。
レイテ沖海戦で連合艦隊は戦艦武蔵以下30隻を失い、事実上消滅。
神風特別攻撃隊が初出撃。特攻作戦の開始。

11月
ゾルゲ事件 リヒャルト・ゾルゲ・尾崎秀実が処刑される。
マリアナ群島のサイパン米軍基地を出撃したB-29が東京初空襲。

12月
東海沖でマグニチュード7.9の東南海地震発生。
死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件。
ドイツ軍、アルデンヌで大攻勢。
軍需省が全国の飼い犬の強制的供出を決定。
(肉は食用に、毛皮は飛行服の材料に)


第269記事3空母イントレピッド19441125
フィリピン レイテ湾沖で特攻機の体当たり攻撃を受ける米空母イントレピッド



●昭和21年(1946年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子     女の子
「ひろし」   「かずこ」
「かずお」   「けいこ」
「たかし」   「ひろこ」
「けんじ」   「みちこ」
「としお」   「よしこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子     女の子
「稔」     「和子」
「和夫」    「幸子」
「清」     「洋子」
「弘」     「美智子」
「博」     「節子」
「豊」     「弘子」
「進」     「京子」
「勇」     「悦子」
「修」     「恵子」
「明」     「美代子」

終戦の翌年であることから、武張った名前は上位から姿を消して、
「稔」「豊」「明」など、平和な時代へ向けての明るいイメージの
名前が上位を占めるようになった。


第269記事5MPの交通整理
交通整理をする米軍MP(ミリタリー・ポリス)


1月
1月1日に官報で昭和天皇の詔書が発布され、天皇が現人神(あらひとがみ)で
あることを自ら否定された。(いわゆる人間宣言)
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)、超国家主義団体の解体を指令。
GHQ、公職追放を指令。
国際連合総会第1回開催。
マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所の設置を命令。
NHK「のど自慢素人音楽会」(後のNHKのど自慢)放送開始。

2月
第1次農地改革実施。
マッカーサー元帥が憲法3原則をGHQ 民政局に指示。
通化事件が起き中国在留日本人が多数殺害される。
天皇が神奈川県下を行幸。
部落解放全国委員会結成。
ソ連が千島列島・樺太の領有を布告。
公職追放令公布。

3月
労働組合法施行 (公布1945年12月22日)。
英チャーチル前首相が鉄のカーテン演説を行う。
政府が憲法改正草案要綱を発表(主権在民・天皇象徴・戦争放棄)。
国鉄労働組合結成。
警視庁講習所で初の婦人警官入所式。
米陸軍アイケルバーガー第8軍司令官が米将兵に
日本女性への公然な愛情表現を禁止する旨指令。
GHQ、特殊慰安施設閉鎖。


第269記事71946年TdQW4


4月
マッカーサー元帥が米将兵に日本女性との醜行自粛を訓示。
第22回衆議院議員総選挙で婦人議員39名当選。
国際連盟が解散を決議。
幣原内閣総辞職。
「サザエさん」連載開始 (夕刊フクニチ)
沖縄民政府発足。
初の婦人警官62名が勤務開始。

5月
メーデー復活(第17回、11年ぶり)。
広島・長崎で白血病が発症し始める。
極東国際軍事裁判所開廷。
東京通信工業(現在のソニー)設立。
第1次吉田内閣成立。
天皇がマッカーサー元帥を訪問。


第269記事6


6月
天皇が千葉県下を行幸
中華民国の依頼により外務省が「支那の呼称を避けることに
関する件」を各官公庁に通達、雑誌社・新聞社に連絡。
GHQ、東京にある洋式家屋を接収する旨通告。

7月 
米ビキニ環礁で原爆実験。
文部省が公民館設置を市町村に通達。
警察官のサーベル廃止し警棒を携帯。
米軍渉外局が連合軍専用海水浴場への日本人立入禁止を発表。

8月
日本労働組合総同盟結成。
都市対抗野球大会復活 (後楽園球場)。
経済安定本部設置、物価庁設置。
全国中等学校野球大会再開 (西宮球場)。


第269記事8沖縄の子供たち


9月
第1回芸術祭(文部省芸術課長今日出海提唱)。
生活保護法公布(施行10月1日)。
経済団体連合会(経団連)設立。

10月
GHQ、皇太子の家庭教師としてヴァイニング夫人が来日。

11月
日本国憲法公布。
文部省、当用漢字を発表。
特飲街と赤線区域を指定。
内閣が当用漢字・現代かなづかいを告示。
日本商工会議所設立。
青森県五所川原で大火(841戸焼失)。

12月
シベリア引揚第1船が舞鶴に入港。
南海地震が和歌山県潮岬沖で発生(死者1,443名)。
文部省、六三三四教育制度を発表。







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日本人が好んだ名前②…昭和戦前編(1927年~1940年)

 2018-04-29
日本人が好んだ名前 ベストランキング② 

昭和戦前編(1927年~1940年)



●昭和2年(1927年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子     女の子
「しょうじ」  「かずこ」
「ひろし」   「よしこ」
「あきら」   「てるこ」
「かずお」   「としこ」
「よしお」   「あきこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子     女の子
「昭二」    「和子」
「昭」     「昭子」
「和夫」    「久子」
「清」     「照子」
「昭一」    「幸子」
「博」     「美代子」
「勇」     「光子」
「茂」     「文子」
「実」     「信子」
「弘」     「節子」


第268記事5
お洒落なモダンガール(略称モガ 男性はモダンボーイ「略称モボ」)


大正天皇が47歳で崩御されたのは、前年の大正15年12月25日で
あったので、この昭和2年が実質的な昭和初年と言える。

この年は、「昭和」という新元号に因んだ「昭二」「昭一」「昭」「和子」「昭子」
など、「昭」と「和」の字を用いた名付けが大いに流行ったことになる。
この「昭和」は支那の古典、書経・尭典の「百姓昭明 協和万邦」に基づき、
「天下があきらかで、平和に治まる」ことを意味している。

この「昭」の字は、「日」プラス「召」で、「日を招く」の意から、
転じて「昭か(あきらか)」「日が照り輝いて、明るい」を表わす。
そもそも、この「昭」の文字は改元以前には一般的に馴染みは薄く、
名付けに用いられていた形跡が余りない。


第268記事1
昭和天皇(馬上の大元帥陛下)



●昭和5年(1930年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子     女の子
「ひろし」   「かずこ」
「かずお」   「よしこ」
「としお」   「としこ」
「あきら」   「みちこ」
「よしお」   「まさこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子     女の子
「清」     「和子」
「勇」     「幸子」
「実」     「節子」
「進」     「美代子」
「茂」     「愛子」
「博」     「久子」
「和夫」    「文子」
「三郎」    「光子」
「弘」     「孝子」
「幸雄」    「敏子」


この昭和5年(1930年)は世界恐慌が我が国に波及した年であった。

日本政府はロンドン軍縮会議で海軍の反対を押し切り、軍縮条約に調印。
これを軍部は天皇の統帥権を犯すものとして、「統帥権干犯問題」が生起。
明治憲法を楯に取って、軍部の横暴が顕著になり始めて来た時代であった。


第268記事7



●昭和10年(1935年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子     女の子
「ひろし」   「よしこ」
「としお」   「ひろこ」
「あきら」   「かずこ」
「よしお」   「としこ」
「たかし」   「まさこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子     女の子
「弘」     「和子」
「清」     「幸子」
「勇」     「節子」
「実」     「弘子」
「博」     「久子」
「進」     「洋子」
「正」     「美智子」
「茂」     「栄子」
「隆」     「良子」
「稔」     「美代子」


第268記事3
226事件(陸軍皇道派青年将校のクーデター未遂事件)


当時、最も現実に適応した学説として、東京帝国大学名誉教授で
貴族院議員であった美濃部達吉博士の学説「天皇機関説」が批判され、
不敬罪で告発された。
軍部にとって都合の良いように、度を越した天皇の神格化が顕著に
なって来た時代であった。
翌年の昭和11年には陸軍皇道派将校に依るクーデター未遂事件、
2.26事件が起こり、これに乗じて陸軍統制派の暴走に拍車が掛かった。

男の子の名前で、一字名が上位を独占するほどに好まれた。
女の子の名前の人気には、大きな変化は見られない。


第268記事2
経済不況に依って、農村の疲弊が極に達し、農家の娘の身売りが
公然と行われる悲劇が生じた。



●昭和15年(1940年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子     女の子
「ひろし」   「のりこ」
「たつお」   「ひろこ」
「かずお」   「よしこ」
「としお」   「けいこ」
「たかし」   「ようこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子     女の子
「勇」     「紀子」
「清」     「和子」
「進」     「幸子」
「博」     「節子」
「弘」     「洋子」
「勲」     「弘子」
「勝」     「美智子」
「武」     「久子」
「稔」     「文子」
「茂」     「悦子」


第268記事4
皇紀2600年の祝賀行事で、「二六〇〇」を描いた人文字


昭和12年から日中戦争が戦われており、男の子の名前では、
「勇」「勲」「勝」「武」など武功を尊ぶ、武張った名付けの
上位ランクインが際立って来た時代である。

また、この年は皇紀2600年に当たるとして、記念式典が開催された。
この皇紀というのは、明治政府が明治5年(1872年)に定めた
我が国独自の紀年法で、記紀(古事記と日本書紀)の記述から、
神武(じんむ)天皇が即位した年(天皇制の始まりの年)を
西暦紀元前660年として、その年を皇紀元年としたもの。
因みに、海軍艦上戦闘機「ゼロ戦」の「零(ゼロ)」は、
この2600の一桁の「0」から名付けられたものである。

この「皇紀」に因んだのであろう「紀子」という女の子の名前が、
ベスト10初登場で一位となった。


第268記事6
富士山麓上空を編隊飛行する、海軍の一式陸上攻撃機



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日本人が好んだ名前①…大正時代編(1912年~1926年)

 2018-04-29
日本人が好んだ名前 ベストランキング①

…大正時代編(1912年~1926年)



●大正元年(明治45年 1912年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子    女の子
「まさお」   「まさこ」
「よしお」   「よしこ」
「たけお」   「ふみこ」
「きよし」   「きみ」
「しょういち」 「ちよ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子    女の子
「正一」    「千代」
「清」     「ハル」
「正雄」    「ハナ」
「正」     「正子」
「茂」     「文子」
「武雄」    「ヨシ」
「正治」    「千代子」
「三郎」    「キヨ」
「正夫」    「静子」
「一郎」    「はる」


第267記事5
賑わう浅草六区(東京市)


明治45年(1912年)7月30日、明治天皇が59歳で崩御され、「大正」と改元
されたので、大正元年は5ヶ月しかなかった訳であるから、新年号「大正」を
反映した名前が多かったとしても、一年を通した統計には現われ難いはずである。
明治時代に於ける人気名前の統計が残されていないので、確証は無いが、
「正一」や「正雄」「正治」「正子」と「正」の文字が多用されたのには、
新年号「大正」の影響があったのかも知れない。

大正、昭和を通じて、「三郎」が「一郎」「二郎」よりも多く、ベスト10の常連で
あったことは目を惹く。
三男が居たということは当然、長男も次男も居たはずであるが何故…と思うと
面白いが、これには訳がある。
長男の場合は「一郎」の他に「太郎」と名付けられる場合も多く、次男の場合は
「二郎」の他に「次郎」と名付けられる場合があるが、「三郎」の場合には「三」に
代わる文字が無いことを思えば、当然のことなのである。


第267記事井後列右側賢治 盛岡高等農林学校時代
盛岡高等農林学校時代の宮澤賢治(後列右側)



●大正5年(1916年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子    女の子
「たつお」   「よしこ」
「よしお」   「としこ」
「まさお」   「まさこ」
「としお」   「きよこ」
「ひろし」   「ふみこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子    女の子
「辰雄」    「文子」
「清」     「千代子」
「三郎」    「千代」
「勇」     「清子」
「一郎」    「キミ」
「茂」     「八重子」
「実」     「フミ」
「正雄」    「キヨ」
「秀雄」    「静子」
「辰男」    「貞子」

男の子の名前1位に「辰雄」、10位に「辰男」がランクインしているのは、
この年の干支が丙辰(ひのえたつ)であったが為と思われる。
女の子では、「千代」「千代子」の人気が高かったことが目を惹く。
また、男の子の「清」は、時代を通して常に人気が高かった。


第267記事少女画報 大正2年1913年 於弁天橋 東都女学生通学衣装
大正2年(1913年)「少女画報」12月号掲載の写真
東都女学校生徒の通学衣装(東京 弁天橋)



●大正10年(1921年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子    女の子
「よしお」   「よしこ」
「ひろし」   「ふみこ」
「まさお」   「としこ」
「としお」   「きよこ」
「きよし」   「きみこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子    女の子
「清」     「文子」
「三郎」    「千代子」
「茂」     「清子」
「勇」     「久子」
「博」     「芳子」
「一郎」    「静子」
「実」     「幸子」
「弘」     「美代子」
「正」     「敏子」
「正雄」    「愛子」

男の子の名前で、一字名が好まれる傾向が顕著になって来た。
女の子の名前では、「幸子」「愛子」の登場が目を惹く。


第267記事6



●大正15年(1926年 昭和元年)

「音読」 名前人気ベスト5

男の子    女の子
「ひろし」   「よしこ」
「よしお」   「としこ」
「としお」   「てるこ」
「まさお」   「ふみこ」
「きよし」   「きよこ」


「漢字」 名前人気ベスト10

男の子    女の子
「清」     「久子」
「勇」     「幸子」
「博」     「美代子」
「実」     「照子」
「茂」     「文子」
「三郎」    「和子」
「弘」     「信子」
「正」     「千代子」
「進」     「光子」
「一男」    「貞子」

大正天皇は大正15年12月25日に崩御されているので、昭和元年は一週間しか無く、
新年号「昭和」の文字の影響が出るのは、翌年の昭和2年以降のこととなる。
女の子の名前では、「美代子」「和子」の登場が目を惹く。
男の子の名前では「勇」「進」など、勇ましい名前の人気が上がって来た。
また、一字名が好まれる傾向が更に顕著になって来た。


第267記事3
東京駅 大正3年(1914年)12月20日開業



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