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大らかな宗教感覚 …微笑ましき日本人の鷹揚さ

 2012-01-10
大らかな宗教感覚 

…微笑ましき日本人の鷹揚さ


お正月の三箇日、神社や寺院などに出掛け、清々しい心持ちで、新年の無事と
平安をお祈りする初詣(初参り)を為された方はさぞや多かろう。
意外にも、初詣が習慣化したのは、明治時代半ば以降とのことで、それほど
長い歴史のある風習ではないという。
初詣にお参りする先が、神社であれ、仏教寺院であれ、何れであっても殊更
拘らないという大方の日本人の感覚は、1000年以上に亘る神仏習合に依る
神道と仏教の区別無き信仰の名残りであろうと思われる。
寺院でも、年神様の依代(よりしろ)となる門松や鏡餅を飾ったり、お供え
しているところなどは微笑ましいものだ。
古神道的な山岳信仰と秘密仏教や道教、陰陽道などが習合した混淆宗教である
修験道(しゅげんどう)の歴史を持つ霊場には、神社とも寺院とも判別し難い
ところもある。

初詣の参拝者数に付いて、2009年までは警察庁から全国ランキングが発表
されていたものであるが、それ以降は行なわれていない。
過去のデータに依れば、参拝者数の多い上位の神社、仏閣は大体固定化して
いたようである。
1位は東京都渋谷の「明治神宮」、2位は千葉県成田の「成田山新勝寺」
3位は神奈川県川崎の「川崎大師」、後は京都の「伏見稲荷大社」、名古屋の
「熱田神宮」と、200万人~300万人近い参拝者が初詣に訪れるという人気寺社
の常連さんである。

初詣 神田神社400

私がとても愉快に思うのは、「明治神宮」の参拝者の中に、お祀りしている
ご祭神が「明治天皇」様と「昭憲皇太后」様であることをご存知ない方が
多いという調査結果である。
明治45年(1912年)に明治大帝が崩御され、続いて大正3年(1914年)に
皇后で在られた昭憲皇太后が崩御されると、翌大正4年(1915年)官幣大社
として、明治神宮を創建することが内務省告示で発表され、大正9年(1920年)
に鎮座祭が行われたということであるから、創建100年も経っていない。

一口に「神社」と言っても、その発祥の経緯は千差万別、様々有り、そもそも
天津神系なのか、国津神系なのか、その中でも、伊勢信仰や出雲信仰、八幡信仰、
天神信仰、稲荷信仰、熊野信仰、諏訪信仰等々の相違が有り、各々の神社で、
その歴史的な経緯が大いに異なる。
奈良時代以降、「人霊」を「神」として祀ることも行われて来た。
例えば、この世に怨念を残しながら、非業の死を遂げた人のタタリ(崇り)を
鎮める為という理由で創建された、菅原道真公の北野天満宮や大宰府天満宮の
天神信仰などである。
明治神宮の場合は、王政復古の大号令を発せられ、明治近代国家確立を推進
為された遺徳を偲ぶ為に、「明治天皇」様と「昭憲皇太后」様のお二人をお祀り
する神社を建立しようという機運の高まりで造営されたものなのである。

明治神宮400

明治神宮の参拝者の例に限らず、自分が参拝している神社のご祭神をご存知
ない人々の多いことを、特定の教団に所属して、自覚的に信仰為さっている
人々は、宗教的に無知であるとか、いい加減であるとか、嘆かれたり、批判
されたりする向きがあるが、私はむしろ、如何にも日本人らしい宗教的特性
だと微笑ましく思うのだ。

実は、日本人は昔から、参拝する神社のご祭神のご神名に付いては無頓着な
ところがあったようなのだ。
私がお参りする、神奈川県箱根町に在る関東総鎮守箱根神社さんのご祭神は、
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、木花咲耶姫命(コノハナサクヤビメノミコト)、
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)のご三神(三柱《みはしら》)であるが、
おそらく多くの参拝者はこのご三神を格別には意識されていないのではないか
と思われる。
瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊のご三神を総称して、「箱根大神」と
お呼び申し上げるのだが、社号に敬称を付けて、「箱根神社さん」とか「箱根
神社様」、神仏習合の名残りを残して、「箱根権現(はこねごんげん)」等と、
そんな風にご神名をお呼びしても一向に構わないのである。

江戸総鎮守神田神社さんのご祭神は、一ノ宮に大己貴命(オオナムチノミコト)、
二ノ宮に少彦名命(スクナヒコナノミコト)、三ノ宮に平将門命(タイラノ
マサカドノミコト)のご三神であるが、総称して、「神田大神」とお呼びし、
一般的には、やはり神仏習合の名残りを残して、「神田明神」とか「神田神社様」
「神田さん」とご神名をお呼びしたりする。
因みに、大己貴命は別名「大黒様」であり、少彦名命は「恵比寿様」である。

古来、日本人がご祭神のご神名を殊更気に掛けない傾向があったというのは、
八百万(やおよろず)の神々がいらっしゃるのは極々当たり前のことであり、
そもそも神なるものの存在を「信じる」とか、「信じない」とかいう概念自体が
希薄なのであろうと思われる。
そうであるから、教派神道の信者は別としても、神社参拝に訪れる人々の殆ど
は、自分を殊更「神道の信者」であるなどとは考えてもいないに違いない。

箱根神社F400

表参道は、青山通りから明治神宮の神宮橋交差点に至るオシャレな通りである。
クリスマスの時期には、「表参道イルミネーション」と称するイベントが行われ、
約1kmの欅並木を光のオブジェが美しく飾る。
この表参道は大正8年(1919年)に、「明治神宮への参道」として整備された大通り
なのである。 表参道入口に立つ石灯籠が、それを物語る。
このように、「神社への参道」を、イエス・キリストの生誕を祝うクリスマスの
イベントとして、通りをイルミネーションで飾るという面白さがある。
やれ、神道だの、やれ、キリスト教だのと、誰も目くじら立てて問題視しない、
明治神宮さんも文句を言わないという、そういう日本人の宗教的な鷹揚さ、
寛大さを、私は好ましく思うのだ。


神社の境内は、神が宿る場所(依り代《よりしろ》)としての神域(しんいき)
であるが、大方の神社では境内を広く開放しているものである。
何れの宗教であれ、その教団の宗教施設というものはその宗教の「信者」の為
のものであり、「信者でない者」を排除するのが普通のことであろう。
しかし、神社の場合は、訪れる人が神道を「信じる者」であるのか、「信じて
いない者」なのか、仏教徒なのか、キリスト教徒なのか、イスラム教徒なのか、
などということは、一向に拘らない。
神社さんの側でも、「信じる」「信じない」という概念自体が希薄なのだ。
何とも、懐の深い大らかさではないか。


英国ウェールズ出身で、長野在住の作家、C.W.ニコル氏の「聖なる森」という
「神社新報」(平成3年)への寄稿文の中で、特に私の好きな文章がある。
「何処の国であろうと、宗教が何であろうと、聖なる地、聖なる森に於いて
 目に見えない存在を疑うほど、私は未熟ではない」
「日本人であれば、悩みがあったら、どんな信仰を持っている人でも、
 お宮を訪ねなさい」

正神界のご神霊のいらっしゃる神社の神域では、神秘体験を味わうものである。
古代人はきっと、現代人よりも遥かに自然の霊性を感じる直感と繊細さを持ち、
自然現象の中から、神々の声を聞いていたに違いない。
高級神霊との交感の無い宗教は、味気無いものである。

伊勢神宮400

平安時代末期から鎌倉時代初期に掛けての武士、僧侶、歌人であった
西行法師(1118年-1190年)が、伊勢神宮にお参りした際に詠った有名な歌に
「何事のおはしますをば知らねども かたじけなさの涙こぼるる」がある。
僧侶の身ではあったが、伊勢神宮の神々しい佇まいに胸を打たれ、如何なる
ご神霊がいらっしゃるのかは分からないが、有り難さに感涙したと詠んでいる。
西行は真言宗の僧侶であったということから、神道のことは「知らねども」と
詠みつつも、本地垂迹説の考え方から、伊勢神宮の天照大御神は密教の本尊
大日如来が本地であり、その垂迹と捉えた思いが感動をより大きくしたこと
も推察されるが、何れにせよ、神域で涙を流すほどに感動する宗教体験を
味わったことのようだ。

信奉する宗教、宗派の違い、信仰信条の違いを理由に、赤の他人にまで喧嘩腰
になって、罵詈雑言を浴びせ掛けて来る人が見受けられるが、もう少し大らか
に成られると宜しい。



インド初代首相であるジャワハルラール・ネルーを父に持つ、インド第5代、
第8代首相を務めた女性政治家インディラ・ガンディーは1984年、シーク教徒の
警護警官の銃撃で暗殺されたが、その2週間前に開催された「仏教及び国民
文化に関する第一回国際会議」に於いて、「仏教はドグマから遠い教えである」
と発言されている。
インドでは仏教は無きにも等しい宗教事情であり、インドの政治指導者層は
ヒンドゥー教徒かイスラム教徒しか居ないにも拘わらず、「過去の世界の
生んだ偉大な精神的指導者の教えに耳を傾けるべきである」として、その一人
に仏教開祖ゴータマ・ブッダを挙げ、「仏教は教義を盾にして、人を縛ることが
最も少ない」と述べたのだ。
彼女の念頭に有った仏教とは、原始仏教、南伝仏教のことであろうが、
教条主義で硬直化した日本の大乗仏教界の現状とは程遠い高評価である。



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宗教に於ける原理主義の悪連鎖

 2011-06-24
宗教に於ける原理主義の悪連鎖


原理主義と言えば、現代では過激な暴力が猛威を振るっている
イスラム原理主義運動を連想してしまうが、そもそもキリスト教
プロテスタントのファンダメンタリズム、根本主義を指していた。

我が国はイスラム教とは無縁であるから、
問題となるのは、仏教とキリスト教の原理主義に限られる。

顕著な代表的事例としては、仏教では日蓮宗、なかんずく創価学会や
顕正会、正信会などを派生させた日蓮正宗を中心とする富士五山の日興門流、
キリスト教では、チャールズ・テイズ・ラッセル氏を創始者とする
エホバの証人(ラッセル派、ものみの塔聖書冊子協会)を含む、
福音主義プロテスタントであろう。

そもそも、これら原理主義の連鎖は、日蓮上人とルター師が原理主義者で
あったことに起因する。
それぞれの宗教が誕生した初期の状態へと今一度、回帰し、その原点を
踏まえた上で、従来の過てる方向性を修正、清新な宗教的息吹を復活
させようとする意図は悪くない。
日蓮上人は「法華経」に、ルター師は新約聖書、その中でも「パウロ書簡」
に原点を求めた。
それぞれが、至上の権威を「仏の言葉」「神の言葉」に求めたということになる。



この二流の原理主義運動は、頑なに原典主義を採っているという共通性がある。
日蓮遺文集と新約聖書の無謬性を前提とした教条主義である。
(「エホバの証人」は独自の「新世界訳聖書」を用いているが)
そして、教義解釈の相違に依る分派を繰り返し、先鋭化、カルト化する宿命に
あるようだ。

お釈迦様とイエス様は、ご自身では著作を遺されてはいない。
日蓮上人もルター師も原点回帰したかったのであれば、後世の他人の著述で
ある法華経や聖書を絶対視した原典主義を採るのではなくて、お釈迦様その人、
イエス様その人に戻るべきであったのだ。
その中途半端な原理主義が後世、次から次へと弊害を生み出し続けている。
愚かしくも、在り得ない原典の無謬性を前提にした原理主義の悪連鎖は続き、
宗教の硬直化が果てしなく続くのだ。



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岩手宮古湾の海戦 …新撰組隊士海上の斬り込み

 2011-06-21
宮古湾の海戦 …新撰組隊士海上の斬り込み



宮古湾は岩手県中部東側にある、リアス式海岸であり、
幅3km長さ6km。 北東側に開け、太平洋と繋がっている。
東日本大震災では、宮古湾沿岸でも甚大な被害を蒙った。
宮古湾沿岸部被災状況の報道に接すると、幕末史が好きな私は、
1869年(明治2年)5月に戦われた宮古湾の海戦を想起してしまう。

宮古湾地図400

明治元年(1868年)に、徳川方は新政府軍に降伏して、
江戸城を無血開城したが、徹底抗戦を主張していた
榎本武揚率いる旧幕府海軍の艦隊は降伏を拒否して、
江戸沖から脱走し、蝦夷地の箱館を占領した。

江戸城無血開城の時点では、旧幕府軍の海軍戦力は、
新政府軍のそれを上回っていたのだ。
特に、旧幕府艦隊の旗艦開陽は最強の軍艦であった。

榎本艦隊は蝦夷地に向う途中で寄港した仙台で、
新撰組の土方歳三以下、生き残り隊士達と合流した。

ところが、榎本艦隊の旗艦開陽は箱館沖で
暴風雨に遭遇し、沈没してしまったのだ。

片や、新政府軍は当時、世界でも最先端技術の結晶であった
鋼鉄製装甲の軍艦ストーンウォール号を米国から購入した。

ストーンウォール号400

このストーンウォール号は後に、東艦(あずまかん)と
呼ばれたが、当時は甲鉄艦(こうてつかん)と呼ばれたそうだ。
この甲鉄艦は元々、米国の南北戦争時に南部同盟が仏国に
発注したものであったが、南軍の敗戦で北軍の手に渡った。

それを江戸幕府が米国に発注したものであったことから、
榎本武揚は江戸沖脱走以前から、この甲鉄艦の譲渡を米国と
交渉していたのだが、米国は日本が内戦中であることから、
中立を守る立場を堅持して、引渡しには応じなかったのだ。

旧幕府軍が蝦夷地に集結して、局地戦の様相を呈して来た段階で、
米国は甲鉄艦を新政府に引き渡してしまった。
ここで、両軍の海上戦力の優劣が大きく逆転してしまったのだ。


明治2年、春の到来を待って、新政府軍は旧幕府軍への
攻撃作戦を開始した。
榎本や土方は、甲鉄艦を含む新政府軍の艦隊8隻が、
岩手(当時の盛岡藩)の宮古湾に入港するとの情報を得て、
近代戦では余り例を見ない作戦を立案、決行することにした。
それは接舷攻撃で、敵艦に接舷して、乗り込み、艦を奪う
という、実に稀な作戦計画であった。

当時、仏国のナポレオン3世が江戸幕府に軍事顧問団を派遣
していた縁で、そのまま仏国の軍人が榎本軍に随行していた。
その為にこの作戦は当時、仏語で「アボルダージュ」と
呼ばれていた。
剣客であった新撰組隊士の面々も、この海上の斬り込みを
「アボルダージュ」と仏語を口にしたのか。

榎本軍は回天、蟠龍、高雄の3隻の軍艦で出撃したものの、
途中で嵐に遭遇して、蟠龍は機関を損傷してしまった為に、
回天と高雄の2艦だけで湾内に突入することとなった。

宮古湾海戦1 400

旗艦の回天には土方歳三と相馬主計、野村利三郎が
乗り込んでいた。
新撰組隊士相馬主計と野村利三郎の二人は、千葉流山で
近藤勇が新政府軍に降伏した際に同行し、近藤と共に
処刑される予定であったが、近藤の助命嘆願により、
二人は処刑を免れていたのだ。

回天と高雄は宮古湾突入の奇襲には成功したものの、
回天は甲鉄艦に上手く接舷出来ずに、回天の船首が
甲鉄艦の船腹に突っ込んでしまい、乗り上げてしまった。
その為に、3メートル程もの高低差が生じた上、
甲鉄艦に乗り移れる位置が、回天の船首に限定されて
しまったので、乗り込む以前に甲鉄艦側のガトリング銃
の餌食とされて、甲鉄艦に斬り込めたのは野村利三郎ほか
僅か数名であったとのこと。
旧幕府側が撤退するまでの、約30分の戦いであったという。

宮古湾海戦2 400

野村利三郎は甲鉄艦上で戦死。その遺体は海に打ち棄てられた。

相馬主計は、箱館で新政府軍に降伏した際、
新撰組隊長として、恭順書に署名をした人物である。
相馬主計は何故か、明治8年に割腹して、哀しい最期を遂げた。

土方歳三は新政府軍の箱館総攻撃の折、馬上指揮中、
銃撃を受けて戦死を遂げた。






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陸奥宗光と社交界の華亮子

 2011-06-21
陸奥宗光と社交界の華亮子


幕末の動乱期に活躍し、歴史に名を残した人々の中で、
私が僅かながらもご縁を持っているのは、佐幕派では
新撰組の沖田総司だが、討幕派では、大江卓、後藤象二郎と
土佐系の志士達だ。
そんな関係で、少年の頃から陸奥宗光にも興味があった。

彼は紀州藩士の六男として生まれた。
伊達家の分家、駿河伊達家の子孫であったようだ。
若き日には、陸奥陽之助、伊達小次郎と名乗った。
頭脳明晰な俊英であった彼は、江戸時代の儒学を
集大成したとされる儒学者安井息軒に師事するも、
遊郭吉原通いが露見して、破門を受けた。

安井息軒は、近代漢学の基礎を築いたとされ、
「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。
一生の計は少壮の時にあり」
という有名な言葉を残した人だ。



陸奥陽之助は、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(後の木戸孝允)
伊藤俊輔(後の伊藤博文)と交友を持ち、勝海舟の神戸海軍操練所に
学び、その後、坂本龍馬の海援隊に加盟した。
坂本龍馬が彼を評した有名な言葉が残っている。
「二本(刀を)差さなくても食って行けるのは、俺と陸奥だけだ」
それに対して、陽之助は龍馬を評して、
「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき
 自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と語り残している。

明治10年に薩摩の私学校党が西郷隆盛を擁して、政府軍と戦った
西南戦争に際して、陽之助は土佐の大江卓らとともに、政府転覆を
謀ったが、明治11年にそのことが露見して、禁固5年の刑で投獄。
明治16年に特赦で出獄、その後は旧友伊藤博文の後援もあって、
ヨーロッパに留学。
政界に復帰後の彼の活躍は目覚ましかった。
外交官、大臣として活躍し、江戸幕府が諸外国と締結していた
15カ国との不平等条約を改正し、治外法権の撤廃を成し遂げたのは
総べて、彼の外務大臣在任期間中のことであった。

陽之助は芸妓出身の妻蓮子を亡くし、明治6年に後添えを得た。
その名を亮子と言う。 当時、17歳。
彼女は明治維新で没落した士族の生まれであったそうで、
徳川家旗本金田淡路守の娘、また播州竜野藩士の娘との説もある。
士族の娘が花柳界や遊郭に身を沈めたという例は当時、多かった。

柏屋の芸妓「小鈴」として、新橋で一二を争う美貌は評判となり、
大いに売れたそうだ。
しかも、「男嫌い」との評判もあり、身持ちは堅かったとか。

明治11年に夫の陽之助が政府転覆運動に加担した罪で
投獄されている間、相思相愛の二人は往復書簡で支え合い、
聡明な亮子は賢夫人として、立派に逆境を耐えた。

この亮子は、陽之助の政界復帰後に、その美貌と聡明さで「鹿鳴館の華」
陽之助の駐米公使時代には「ワシントン社交界の華」と謳われたのだ。



明治16年、現在の内幸町に建てられた鹿鳴館は、外国からの賓客の接待や
舞踏会などが催された、文明開化の象徴とされると共に、西洋人の猿真似
として、当時の退廃的文化の象徴でもあったかも知れない。

それにしても、その聡明さと美貌を外国人からも賛嘆、絶賛された亮子の
有名な写真はワシントンのスタジオで撮影されたとされるが、確かに美しい。



陽之助は若き日に、映画の鞍馬天狗のような頭巾を被った写真を残している。
坂本龍馬暗殺の敵討ちとして、海援隊同志15人と共に新撰組隊士と紀州藩士が
護衛する紀州藩公用人三浦休太郎 (彼を龍馬暗殺の黒幕と誤解した訳だが)
の宿、天満屋に斬り込んだという壮烈な戦い振りも見せている。

そんな彼が明治時代の政治家として、亮子を伴なっては鹿鳴館に馬車で
出入りし、外交官としては、社交界の華と謳われた妻亮子と共に、
ワシントン政界で活躍したというのだから、隔世の感がある。
やはり、明治維新は日本の歴史を隔する一大革命であったのだ。



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ビクトル・ハラの歌声 …もう一つの9.11

 2011-06-20
ビクトル・ハラの歌声  …もう一つの9.11



キューバ政府が、チェ・ゲバラ少佐の未刊の日記(ゲリラ戦記)
「ディアリオ・デ・ウン・コンバティエンテ(ある戦士の日記)」
(1956年12月~1958年12月までの日記)を出版したとの報道に
接し、久し振りに、チリのフォークシンガー、ビクトル・ハラの
「チェ・ゲバラの為のサンバ」を聴いた。

十代の頃に初めて聴いた時、鳥肌が立ったほどに衝撃を受けものだ。
そして、その時には既に彼はこの世の人でなく、邪悪な国家権力と、
その命が尽きるまで、歌とギターで戦い抜いた人であったと、
彼の生き様を知って、深く悲しみ、尊敬の念を抱いたものだった。



1960年代以降、ラテンアメリカでは 音楽を通した社会変革運動
ヌエバ・カンシオン「新しい歌運動」が 大きく盛り上がった。
特にチリでは1960年代末から1973年まで、ビクトル・ハラと
ビオレータ・パラを中心に、キラパジュンなどの 多くの優れた
音楽家達が登場したのだった。
キラパジュンの「チェ・ゲバラのエレジー」も涙なくしては
聴けないほどに素晴らしい楽曲である。

1970年、チリの大統領選挙でサルバドール・アジェンデが 勝利して、
史上初めて、選挙に依って社会主義国家が誕生した ものの、1973年に
ピノチェット将軍が陸海空三軍を率いてクーデターを起こし、
アジェンデ政権を崩壊させた。

ビクトル・ハラA400

1973年9月11日
その日、軍部に抵抗した7000人もの人々がスタジアムに閉じ込められ、
拷問を受け、処刑された。
伝説として伝えられていることは、このスタジアムでビクトル・ハラは
みんなを励ます為に ギターを弾いて「ベンセレーモス(勝利するぞ)」を
歌って抵抗したという。
反乱軍兵士がギターを取り上げても、彼は手拍子で歌い続け、 その姿に
逆上した兵士達は、彼の両腕を圧し折り、手の指を小銃の台尻で
打ち砕いた。
それでも彼は立ち上がって、歌おうとした。
その彼の口元を、兵士は銃剣で切り裂き、自動小銃の弾丸を
撃ち込んだ。 享年34歳。

一週間後に、彼の遺体と対面したご妻女が「胸は穴だらけで、
手首が折れ曲がっていた」と証言した記録が残されている。
このサンティアゴのチリ・スタジアムは民政復帰後、
「ビクトル・ハラ・スタジアム」と改名されたそうだ。

ビクトル・ハラB400

このピノチェット軍事独裁政権下では、4万人が虐殺され、
10万人が逮捕、拷問を受けた。
チリの全人口の5分の1が亡命するという異常事態であった。
その後、1990年までの17年間も、彼の曲は放送禁止とされていた。

ゲリラ戦士でもなかった彼が、無残にも虐殺された。
彼は歌わずにいれば、殺されなかったかも知れない。
しかし、彼は歌わずにはいられなかったのだ。
アーティストは、神様に一番近い存在なのだと私は思っている。





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