華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 企業運命学

社名(商号)変更の歴史夜話(60)…㈱マンダム

社名(商号)変更の歴史夜話(60)

…㈱マンダム



我が国では1980年代、社名(商号)を変更する企業が急激に増加した。
「早稲田商学」357号(1993年7月)所収論文「社名変更に対する株式市場の反応」
の研究に依れば、「1981年4月から1992年3月までに,東証1部上場企業で
社名を変更した企業は175社に及ぶ」とのことである。

企業は様々な理由で、社名を変更する。
社名変更の主な理由としては、「事業の多角化や業態の変更、事業領域の拡大」、
「合併や吸収」、「略称や通称への変更」、「ブランド名への変更」、「イメージ刷新」、
「系列や傘下入り」等が挙げられる。
何れにせよ、企業は経営全般の革新、イメージの向上、社内の活性化など、
何らかのプラス効果を期待し、社名変更を行なうはずである。

相と実体は相関関係にあり、人物の名相にその後天運が暗示されている様に、
会社名(法人名、商号、屋号)の名相にも、その企業の栄枯盛衰の有り様が
暗示されている。
不思議なもので、成功する企業は自ずと吉祥名を選定する様になっている。



㈱マンダム

昭和2年(1927年)、大阪で輸入雑貨品販売をしていた大崎組商会の倒産後、
その後継として、「金鶴香水(きんつるこうすい)株式会社」を設立。


第96記事金鶴香水
※画像は、㈱マンダム様のHP依り、拝借。


昭和8年(1933年)、整髪料「丹頂チック」を発売。
一世を風靡する大ヒット商品となる。

昭和34年(1959年)、「丹頂株式会社」に社名変更。


第96記事丹頂チック
※画像は、㈱マンダム様のHP依り、拝借。


昭和38年(1963年)、㈱資生堂が男性用化粧品MG5シリーズを開始し、
昭和44年(1969年)にはMG5がフルラインナップ化されたことに依り、
丹頂㈱はシェアを奪われ、一時、倒産寸前にまで追い込まれる事態に至った。

昭和45年(1970年)、「マンダム」シリーズを発売。

MG5の都会的でスタイリッシュなイメージに対抗し、男らしさを象徴する、
武骨なイメージのハリウッドスター、チャールズ・ブロンソン氏を
イメージキャラクターに起用するというイメージ戦略が功を奏し、「MG5」に
奪われたシェアの奪回に成功。

昭和46年(1971年)、「株式会社マンダム」に社名変更。


第96記事ph003
※画像は、㈱マンダム様のHP依り、拝借。

第96記事mandom_2
テレビCMでのチャールズ・ブロンソン氏の台詞「う~ん、マンダム」は
一躍、当時の流行語となる程迄にインパクトが大きかった。
※画像は、米国ブログ「Blogfoot」様依り、拝借。



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2017/07/17 04:37 | 企業運命学COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

社名(商号)変更の歴史夜話(59)…森下仁丹㈱

社名(商号)変更の歴史夜話(59)

…森下仁丹㈱



我が国では1980年代、社名(商号)を変更する企業が急激に増加した。
「早稲田商学」357号(1993年7月)所収論文「社名変更に対する株式市場の反応」
の研究に依れば、「1981年4月から1992年3月までに,東証1部上場企業で
社名を変更した企業は175社に及ぶ」とのことである。

企業は様々な理由で、社名を変更する。
社名変更の主な理由としては、「事業の多角化や業態の変更、事業領域の拡大」、
「合併や吸収」、「略称や通称への変更」、「ブランド名への変更」、「イメージ刷新」、
「系列や傘下入り」等が挙げられる。
何れにせよ、企業は経営全般の革新、イメージの向上、社内の活性化など、
何らかのプラス効果を期待し、社名変更を行なうはずである。

相と実体は相関関係にあり、人物の名相にその後天運が暗示されている様に、
会社名(法人名、商号、屋号)の名相にも、その企業の栄枯盛衰の有り様が
暗示されている。
不思議なもので、成功する企業は自ずと吉祥名を選定する様になっている。



森下仁丹㈱

明治26年(1893年)、森下博氏が大阪市で、薬種商「森下南陽堂」を創業。

明治33年(1900年)、笹川三男三(ささがわみおぞう) 医学博士の処方に依る
梅毒薬「毒滅」を発売。
梅毒が猛威を振るっていた当時、このプロイセン宰相ビスマルクを商標にした
梅毒薬「毒滅」は画期的な新薬として注目され、この成功で「森下南陽堂」の
販売業績が軌道に乗り始めたという。

明治38年(1905年)、「森下博薬房」と改称。
懐中薬「仁丹」(赤大粒)を発売。


第95記事1
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借


大正10年(1921年)、梅毒薬「毒滅」を処方した笹川三男三博士は、
北里柴三郎博士、体温計製造の竹内製作所社長竹内英二氏らと共に、
「赤線検温器株式会社」(現在のテルモ株式会社)を設立。

大正11年(1922年)、森下博氏は、「赤線検温器株式会社」が体温計
「赤線検温器」を発売するに当たり、出資。

因みに、「赤線検温器」は、昭和11年(1936年)に「仁丹体温計」と改称し、
更に昭和38年(1963年)、「仁丹テルモ」と改称。
「テルモ」の名は、ドイツ語で体温計を意味する「テルモメーター」
(Thermometer)に由来するという。


昭和2年(1927年)、「赤小粒仁丹」を発売。

昭和4年(1929年)、「銀粒仁丹」を発売。

昭和11年(1936年)、「森下仁丹株式会社」を設立。


第95記事明治40年1907年大阪駅前の大広告塔
明治40年(1907年)大阪駅前の大広告塔
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借


創業者の森下博氏は、類い稀なる優れた発想力や天性の事業手腕、管理能力、
成功運に恵まれた人物であったに違いない。
「仁丹といえば広告」との定評がある程に、明治年間の「森下博薬房」時代から、
瞠目すべきダイナミックな広告宣伝戦略を展開し、その販売方式もまた、実に
ユニークであった。

薬種商「森下南陽堂」創業当時、25歳の若き森下博氏は事業の基本方針として、
①原料の精選を生命とし、優良品の製造販売。
② 進みては、外貨の獲得を実現し、
③広告による薫化益世を使命とする。
との3ヶ条を掲げたという。
如何にも、明治青年の清新な気概が迸っているかの様である。

この3条目の「広告による薫化益世を使命とする」の条であるが、企業が
営業利益を追及する為の広告宣伝を、尚且つ「世を益する」こととして、
具体的に実践するのは難しい。

しかし、優れたアイデアマン率いる「森下南陽堂」「森下博薬房」「森下仁丹」は、
奇想天外な方法でこれを遣って退けたのである。

明治40年(1907年)、大阪駅前にイルミネーションで飾られた大広告塔を
建築したが、これは都市の新名所作りをも意図したものであるという。
その後、順次、他の都市でも大広告塔が造られた。

明治43年(1910年)、当時、町名の表示板が無く、来訪者や郵便配達人でさえもが
道に迷い、苦労していた事情に鑑みて、大礼服マークの入った仁丹町名看板を
掲げ始めたという。
大阪、東京、京都と、先ずは都市部から掲示を始め、やがて、この仁丹町名看板は
全国津々浦々にまで行き渡ったという。

大正3年(1941年)、「天は自ら助くる者を助く」等、5000種もの古今東西の金言を
新聞広告や電柱広告、看板などに書き込んだ「金言広告」を開始し、学校等から
感謝状を寄せられる程、世に好評を博したという。


第95記事1910年頃仁丹町名看板
明治43年(1910年頃)「仁丹町名看板」
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借


「広告益世」の事例ではないが、「森下南陽堂」「森下博薬房」「森下仁丹」の
主力商材は安価で小粒なのにも拘わらず、広告戦略、販売戦略の視野が広く、
とにかくスケールが大きい。

1900年(明治33年)、梅毒薬「毒滅」の発売に当たっては、森下博氏は
家財の一切を広告費に注ぎ込み、日刊紙各紙に全面広告を出し、更に全国の
街角の掲示板にポスターを貼り出したという。


「仁丹」の販売に際しては、全国の薬局に突き出し屋根看板や幟、自動販売機に
至る迄を設置し、日刊紙各紙に全面広告を連続掲載した。
その結果、「仁丹」は発売僅か2年で、売薬の売上高第1位を達成したという。


明治38年(1905年)の「仁丹」発売開始の僅か2年後、明治40年(1907年)には、
「森下博薬房」に輸出部が開設され、海外市場開拓作業が開始された。
販売委託した先方に「仁丹」を送付する、通信委託販売システムが考案され、
海外市場開拓の手始めに、明治41年(1908年)には、中国全土4000ヵ所の
郵便代弁処(郵便局)に「仁丹」の現物と宣伝ビラを小包で送り、委託販売を依頼。 
天津、漢口、上海には出張所を開設。

明治44年(1911年)にはインド、大正4年(1915年)にはインドネシア、
ハワイ、チリ、その後も順次、タイ、フィリピン、シンガポール、マレーシア、
エチオピア、モンバサ、ウガンダと南米やアフリカに至る迄、輸出されたという。


第95記事大正6年1917年仁丹金言看板
大正6年(1917年)「仁丹金言看板」
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借


大正11年(1922年)、「赤線検温器」(体温計)発売開始当初、「売薬屋の体温計」と
揶揄され、売上げ不振であった状況を打開する為に採った販売方法が非常に
大胆であった。
全国8万3千人に直接、「赤線検温器」を送り付け、不要な場合は返品して貰う
というダイレクトセールスを行なって、次第に業績を上げて行ったとのこと。
半ば押し売りに近い強引さであるが、商材の品質に自信があったのであろう。


昭和4年(1929年)10月24日(暗黒の木曜日)のニューヨークウォール街での
株の大暴落に端を発する昭和恐慌をも創意工夫で乗り切った「森下仁丹㈱」は、
戦時中の昭和17年(1942年)、「仁丹」の生産実績で1,300万円を超え、
医薬品業界のトップになったという。


第95記事2
「仁丹」と言えば、携帯性やデザイン性、時代性を考慮した、
弛まぬ新容器開発の努力もその特徴に挙げられる。
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借



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2017/07/16 02:25 | 企業運命学COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

社名(商号)変更の歴史夜話(58)…わかもと製薬㈱

社名(商号)変更の歴史夜話(58)

…わかもと製薬㈱




我が国では1980年代、社名(商号)を変更する企業が急激に増加した。
「早稲田商学」357号(1993年7月)所収論文「社名変更に対する株式市場の反応」
の研究に依れば、「1981年4月から1992年3月までに,東証1部上場企業で
社名を変更した企業は175社に及ぶ」とのことである。

企業は様々な理由で、社名を変更する。
社名変更の主な理由としては、「事業の多角化や業態の変更、事業領域の拡大」、
「合併や吸収」、「略称や通称への変更」、「ブランド名への変更」、「イメージ刷新」、
「系列や傘下入り」等が挙げられる。
何れにせよ、企業は経営全般の革新、イメージの向上、社内の活性化など、
何らかのプラス効果を期待し、社名変更を行なうはずである。

相と実体は相関関係にあり、人物の名相にその後天運が暗示されている様に、
会社名(法人名、商号、屋号)の名相にも、その企業の栄枯盛衰の有り様が
暗示されている。
不思議なもので、成功する企業は自ずと吉祥名を選定する様になっている。



わかもと製薬㈱

昭和4年(1929年)、東京市芝公園大門に長尾欽弥氏らが
「合資会社 栄養と育児の会」を設立。

東京帝国大学農学部の農芸化学者沢村真博士の協力を得て、ビール酵母を
単一で製剤化した、初めての家庭薬である「若素(わかもと)」を発売。
商品名「若素(わかもと)」は、「若さの素」を意味する。

昭和6年(1931年)、「若素」を「わかもと」と、ひらがな表記に変更。

昭和8年(1933年)、「株式会社 栄養と育児の会」を設立。

昭和18年(1943年)、「わかもと製薬株式会社」に社名変更。


第94記事1
戦前の「わかもと」
※画像は、一般社団法人北多摩薬剤師会様のHP依り、拝借。


昭和37年(1962年)、乳酸菌数を増量し、ビタミンB1、B2、ニコチン酸アミド、
ビール酵母等を強化充実させた「強力わかもと」を発売。

平成16年(2004年)、「強力わかもと」は医薬品から医薬部外品へと移行。


国民の栄養状態が極めて悪かったという昭和初期、栄養補給を主目的とした
ビール酵母単一製剤を安価な大衆保健薬として誕生させ、順次の改良に依って、
発売当初の「わかもと」よりも一層強力な、一剤で酵母剤、酵素剤、乳酸菌剤、
栄養剤の働きを併せ持つ、安価な胃腸薬を国民に提供した社会的功績は大きい。





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2017/07/15 02:29 | 企業運命学COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

社名(商号)変更の歴史夜話(57)…ヤマハ㈱

社名(商号)変更の歴史夜話(57)

…ヤマハ㈱



我が国では1980年代、社名(商号)を変更する企業が急激に増加した。
「早稲田商学」357号(1993年7月)所収論文「社名変更に対する株式市場の反応」
の研究に依れば、「1981年4月から1992年3月までに,東証1部上場企業で
社名を変更した企業は175社に及ぶ」とのことである。

企業は様々な理由で、社名を変更する。
社名変更の主な理由としては、「事業の多角化や業態の変更、事業領域の拡大」、
「合併や吸収」、「略称や通称への変更」、「ブランド名への変更」、「イメージ刷新」、
「系列や傘下入り」等が挙げられる。
何れにせよ、企業は経営全般の革新、イメージの向上、社内の活性化など、
何らかのプラス効果を期待し、社名変更を行なうはずである。

相と実体は相関関係にあり、人物の名相にその後天運が暗示されている様に、
会社名(法人名、商号、屋号)の名相にも、その企業の栄枯盛衰の有り様が
暗示されている。
不思議なもので、成功する企業は自ずと吉祥名を選定する様になっている。



ヤマハ㈱

明治20年(1887年)、山葉寅楠(やまは とらくす)氏が、浜松尋常小学校で、
アメリカ製オルガンを修理し、その構造を学ぶ。

同年、山葉寅楠氏は、日本最初の本格的オルガンの製造に成功。

明治22年(1889年)、「合資会社山葉風琴製造所」を設立。

明治24年(1891年)、「山葉風琴製造所」が解散。
「山葉楽器製造所」を設立。

明治30年(1897年)、「山葉楽器製造所」を改組し、「日本楽器製造株式会社 」
を設立。

昭和62年(1987年)、山葉寅楠氏のオルガン修理から100周年を記念し、
「日本楽器製造株式会社」を「ヤマハ株式会社」に社名変更。


第88記事1
山葉寅楠氏と山葉風琴製造所


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2017/06/11 17:29 | 企業運命学COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

社名(商号)変更の歴史夜話(56)…㈱ケンウッド (現:㈱JVCケンウッド)

社名(商号)変更の歴史夜話(56)

…㈱ケンウッド (現:㈱JVCケンウッド)



我が国では1980年代、社名(商号)を変更する企業が急激に増加した。
「早稲田商学」357号(1993年7月)所収論文「社名変更に対する株式市場の反応」
の研究に依れば、「1981年4月から1992年3月までに,東証1部上場企業で
社名を変更した企業は175社に及ぶ」とのことである。

企業は様々な理由で、社名を変更する。
社名変更の主な理由としては、「事業の多角化や業態の変更、事業領域の拡大」、
「合併や吸収」、「略称や通称への変更」、「ブランド名への変更」、「イメージ刷新」、
「系列や傘下入り」等が挙げられる。
何れにせよ、企業は経営全般の革新、イメージの向上、社内の活性化など、
何らかのプラス効果を期待し、社名変更を行なうはずである。

相と実体は相関関係にあり、人物の名相にその後天運が暗示されている様に、
会社名(法人名、商号、屋号)の名相にも、その企業の栄枯盛衰の有り様が
暗示されている。
不思議なもので、成功する企業は自ずと吉祥名を選定する様になっている。



㈱ケンウッド (現:㈱JVCケンウッド)

昭和21年(1946年)、「有限会社春日無線電機商会」を設立。

昭和22年(1947年)、「TRIO」を商標登録。

昭和25年(1950年)、「春日無線工業株式会社」に社名変更。

昭和35年(1960年)、「トリオ商事株式会社」に社名変更。

昭和36年(1961年)、海外向けブランド名「KENWOOD」が誕生。

昭和61年(1986年)、「株式会社ケンウッド」に社名変更。

平成20年(2008年)日本ビクターと共同持株会社、
「JVC・ケンウッド・ ホールディングス株式会社」を設立。
「JVC・ケンウッド・ホールディングス」の完全子会社となる。

平成23年(2011年)、「株式会社JVCケンウッド」に合併。


第87記事1



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2017/06/11 17:20 | 企業運命学COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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