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真の戦争犯罪人は誰であったのか?…最初の一発を撃たせる様に…

 2018-04-18
真の戦争犯罪人は誰であったのか? 

…最初の一発を撃たせる様に…



第196記事1
アメリカ合衆国第32代大統領 フランクリン・デラノ・ルーズベルト


昭和16年(1941年)、日米開戦の仕掛け人は、アメリカ合衆国第32代大統領
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1933年 - 1945年)その人である。
彼こそが、真のスーパーA級戦争犯罪人なのである。

極東国際軍事法廷「東京裁判」に於ける判決趣意書で日本の無罪を主張した
インドのパール判事は、「アメリカが日本に送ったと同一のものを他国に通告
し、このような無理難題を吹っ掛けたら、非力なモナコ公国やルクセンブルク
大公国といった欧州の弱小国でさえ、必ずやアメリカに対して、自衛の為に
武力を以て立ち上がったであろう…」
「時が熱狂と偏見とを和らげた暁には、また、理性が虚偽からその仮面を
剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、
過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」と語った。

また、 イギリスのオリバー・リットルトン軍需生産大臣は、
昭和19年(1944年)6月20日、ロンドンのアメリカ商業会議所で
「アメリカが戦争に追い込まれたというのは、歴史上の狂言である。
アメリカが日本を追い込んだのだ。日本がパールハーバーを攻撃せざるを
得ないまでに、アメリカが強圧したのである」と語った。

パール判事の「アメリカが日本に吹っ掛けた無理難題」、リットルトン大臣の
「追い込んだ」「強圧」とは、日米交渉に於ける最後通牒「ハル・ノート」の
内容を指す。
「ハル・ノート」とは、正式には「合衆国及び日本国間の基礎概略」と言い、
開戦前夜の昭和16年(1941年)11月26日、アメリカ国務長官コーデル・
ハルが日本政府に通告してきた文書である。


第196記事10
米国務長官コーデル・ハル


開戦に至る当時の状況としては……

我が国は昭和12年(1937年)12月、中華民国の首都南京を陥落させたが、
蒋介石は首都を重慶に移し、「援蒋ルート」と呼ばれた輸送路、香港からの
ルート 、仏印ルート(フランス領インドシナ、ベトナム)、ソ連からのルート、
ビルマルートを通じて、軍需物資などの援助をアメリカ、イギリス、ソ連、
ドイツなどから受け、抵抗を続けていた。

昭和13年(1938年)11月3日、第1次近衛内閣は、欧米帝国主義支配からの
アジアの開放と反共産主義、日本、満州、中華民国3ヶ国の連帯を謳う
「東亜新秩序声明」を発表した。

「今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、
支那の要城を勘定したり。 国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。
然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで
は、帝国は断じて矛を収むることなし。
帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。
今次征戦究極の目的亦此に在す。

この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り、
互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、
共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。
是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。

帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。
帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを
期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を
改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を
拒否するものにあらず。

帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを
信じて疑はず。
就中、盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。

惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、
これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。
帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、
万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。
茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す」


第196記事11
近衛文麿首相(当時)


★ この声明にアメリカ政府は態度を硬化させ、昭和14年(1939年)、
日米通商航海条約の廃棄を通告して来た。

★ 昭和15年(1940年)1月、アメリカ政府は、屑鉄・航空機用燃料などの輸出
に制限を設けた。
この輸出制限措置に依って、日本はハイオクタン価ガソリンや屑鉄など、
日中戦争継続に必要不可欠な軍需物資が入らなくなった。
このアメリカ政府の措置に依る経済的圧迫で、地下資源に乏しい日本は窮地に
立たされた。

★ 昭和15年(1940年)9月、米英が中国国民党政権に物資を補給する
援蒋ルート、ビルマルートを遮断する為に、ドイツの傀儡政権であった
フランス・ヴィシー政府との条約締結の下、仏領インドシナ北部に
平和進駐した(北部仏印進駐)。
また同月、我が国は、日独伊三国軍事同盟を締結した。
この同盟締結に依って、アメリカ政府の日本敵視は決定的となり、北部仏印
進駐に対する制裁として、アメリカ政府は屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。

★ 昭和16年(1941年)、我が国は状況を打開する為に、蘭印(オランダ領
東インド、インドネシア)からの石油輸入が出来るように資源買付け交渉
(日蘭会商)を行ったものの、オランダの提示する供給量が、日本の要求量
に満たず、実質的には拒否であった為、6月には交渉を打ち切った。
同年4月には、アメリカ・イギリス・オランダの三国は「軍事参謀会議」を
開催し、対日戦略を合同協議している。

★ 昭和16年(1941年)7月、石油などの資源獲得を目的として、南方進出
に必要な基地を設置する為に、我が国は仏領インドシナ南部にも進駐した。
(南部仏印進駐)。
これに対する制裁という名目で、遂に対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、
イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の
凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。

これで、我が国への貿易制限、経済封鎖である、アメリカ(America)、
イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国
(China)に依るABCD包囲網、ABCD経済包囲陣が完成し、我が国は
絶体絶命の窮地に陥ったのである。

この対日経済封鎖網に依って、石油・ゴム・タングステンなどの資源の殆ど
総べてを供給停止(禁輸)されてしまい、我が国には国民生活に必要な資源
さえもが供給されないという非常事態に陥ったのである。
当時、我が国には戦時で1年半分、平時で二年分しか石油の備蓄が無く、
正に究極的な死活問題であったのである。


第196記事2


このABCDラインの対日経済封鎖について、
イギリスのチャーチル首相は、
「英米両政府は緊密な連繋のもとに日本に対して行動していた」
「イギリスも同時に行動を取り、オランダがこれに倣った」と述べている。
また、「我々の共同禁輸政策は確実に、日本をして平和か、戦争かの瀬戸際に
追い遣りつつあります』と書簡に記した。

当時のアメリカ駐日大使、ジョセフ・グルーは、
「もし日本が、南方における主導権を軍隊によって追求しようとするならば、
日本は直ぐにABCD諸国と戦争になり、疑問の余地なく敗北し、三等国になる
であろう」と述べている。

イギリスの戦史家リデル・ハートは、
「アメリカ政府の資産凍結措置と同時に、イギリス政府も行動を取り、
ロンドンのオランダ亡命政府も誘導されて、追随した」
「このような措置は、日本を戦争に追い込むことは必定だった」
「いかなる国にも、とりわけ日本のような面子を重んじる国にとっては、
このような要求を容れることは不可能であった」
「日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていた
ことは、注目に値する」と述べている。

イギリスのJ・F・C・フラーは「経済戦争の宣言であり、実質的な闘争の
開始であった」と述べている。

ルーズベルト大統領は大西洋会議で、チャーチル首相に対し、
「私は決して、宣戦布告をやる訳にはいかないでしょうが、戦争を開始する
ことは出来るでしょう」と、我が国を開戦へと誘引する戦略が成功するで
あろうとの見通しを明らかにしている。 
ルーズベルトは、1940年の大統領選挙で当時、自国の参戦を忌避していた
アメリカ世論を慮って、フランスがドイツに敗北しても「ヨーロツパ戦線には
加わらない」との不戦の公約で大統領選挙三選を果たしていたことから、
日米開戦を望む彼としては、西部のガンマン宜しく、ファースト・ショット
を日本に撃たせて、愛国心を盛り上げ、好戦気分を醸造する必要があった。
奴らは正しく、我が国を地獄に導く悪霊、「鬼畜米英」であったのである。


このような状況下に追い詰められながらも、我が国政府は日米戦争を回避す
べく、譲歩出来る限りの条件を提示して、外交交渉の努力を続けたのである。
しかし、日米交渉は進展せず、近衛内閣は総辞職、政府が最後の望みを賭けて
継続していた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることが出来る唯一の人物で
あるとして、東條英機陸軍中将が組閣の大命を受け、
昭和16年(1941年)10月18日、第40代内閣総理大臣兼内務大臣、陸軍大臣
に就任した。(陸軍大将に昇進)


第196記事3
東條内閣


東條内閣は日米開戦を回避させる為、一旦「帝国国策遂行要領」を白紙に戻し、
「戦争決意の下に、作戦準備を整えるとともに、外交施策を続行して、これの
妥結に努める」「外交交渉を続けるも、止むを得ざる場合は開戦とする」として、
日米交渉の妥結を願ったのである。

東條内閣は対米交渉案件として、二段構えの「甲案」「乙案」を策定した。

第一段階の「甲案」は、
① 通商無差別問題においては、無差別原則が全世界に通用されるのであれば、
 太平洋全地域即ち支那においてもその適用を承認する。
② 三国同盟に依る参戦義務が発生したかどうかの解釈は、
 あくまで自主的に行う。
③ 支那駐兵は防共政策から概ね25年程度駐屯を続けるが、平和成立と
 同時に撤兵を開始し、2年以内に撤兵を完了する。
④ 仏領印度支那に駐留している軍隊は、支那事変の解決又は公正なる
 極東平和の確立と共に撤兵する。


「乙案」は「甲案」が妥結に至らなかった場合に備え、それでも日米交渉を
継続する為の暫定措置案として、作成されたものである。

① 日米両国政府は、何れも仏印以外の南アジア及び南太平洋地域に
 武力進出を行はざることを確約す。
② 日米両国政府は蘭領印度に於いても、其の必要とする物資の獲得が保障
 せらるる様互いに協力するものとす。
③ 日米両政府は相互に、通商関係を資産凍結前の情況に復帰すべし。
 南部仏印進駐の日本軍は北部へ移動し、米国政府は年100万トンの
 航空機用揮発油の対日供給を確約す。
④ 米国政府は、日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に
 出ざるべし。

「乙案」は、「甲案」での交渉決裂に備え、日米戦争勃発を未然に防ぐ為の
暫定協定案として、日米間の基本問題を一応棚上げし、事態が決定的に悪化
した南部仏印進駐以前の状態に事態を戻して、交渉を遣り直そうというもので、
東條内閣が如何に日米開戦を避けようと外交努力していたかが理解出来るのである。


第196記事9


我が国としては経済封鎖が解除され、石油等の資源が供給されるという状態に
戻るのであれば、資源確保の為に南方(仏印や蘭印)へ進出する必要性は
無かったのである。
しかも、その代価として、我が軍は支那・仏印からの全面撤退に応じるという
内容のものであったのである。

ロバート・クレーギー駐日英国大使は帰国後、政府に提出した報告書で
「日本にとって、最大の問題は「南進」(仏印・蘭印への進出)では無く、
耐え難く成り行く「喉輪攻め」(経済封鎖を意味する)を、何としてでも
振り解くことだった」 と述べている。
彼は、日本の南方進出が「領土的野心」からでなく、必要に迫られた、
止むに止まれぬ軍事行動であったことを理解していたのである。

東京裁判に於いて、日本側のブレークニー弁護人は
「日本の真に重大な譲歩は東條内閣が作成した「甲案」であり、
「甲案」に於いて、日本の譲歩は極限に達した」

この「甲案」「乙案」の内容は、野村大使、来栖大使がハル国務長官と
会談の上、提出するまでもなく、アメリカ側は無線を傍受、暗号解読
していたのだが、日本政府が心血注いで作成した「甲案」「乙案」の
両案共に完全に否定されてしまったのである。
そもそも日本側がどのような譲歩を示そうと、日米開戦を望んでいた
アメリカ政府は、日本に譲歩するはずもなく、対日戦争を選択することを
既定事項としていた戦略を遂行する為に、受諾不可能な要求を突き付け、
我が国が好むと好まざるとに関わらず、対米開戦に踏み切らざるを得ない
状況に追い込み、対米開戦を選択させる様、仕向ける方針だったのである。

東京裁判で、ブレークニー弁護人は、
「アメリカ国務省は、乙案について対案を出すこともなく、日本側の説明に
注意を払うこともなかった」と述べ、アメリカ側の不遜で不誠実な対応を
非難している。


第196記事4


実は、アメリカ国務省は一般案と暫定協定案に分けて作成し、その内の暫定
協定案を削除されたものがハル・ノートとして、日本に提示されたのであるが、
暫定案では南部仏印からの撤兵を求める代わりに、北部仏印での駐兵を制限
付きながら認めていたり、両国の資産凍結解除、民需用石油の輸出許可などが
盛り込まれており、もしこれが日本政府に提示されていたとしたら、日米交渉
が継続されていた可能性が高いのである。

しかし、実はこの暫定案さえもが、巧妙な罠であったのである。
ハル国務長官は「我ら5ヶ国にとって大いなる利益は向こう3ヶ月に亘り、
日本を平和路線に縛り付けることであり、かつ、5ヶ国に於いてはその間
更に戦争への諸準備を整える余分の時間を持ち得る等の利点がある」
と述べている。
日本に交渉妥結の期待を持たせ続けて、戦争準備が充分に整う時期の開戦まで、
自国に有利な時間稼ぎをしようという魂胆であっただけなのである。

アメリカにとっての時間稼ぎは、何の為であったか。
それは当時、アメリカ軍に依って、フィリピン・コレヒドール島やグアム島、
ウェーキ島の要塞化が着々と進められていたからなのである。
また、アメリカの半植民地であった準州のフィリピンにはマッカーサー元帥が
着任して、フィリピン国軍の全指揮権を掌握、装備としては「空の要塞」B-17
爆撃機が配備され、長期防衛可能な準備を進めている真っ最中であった。

日本陸軍の統帥部が開戦を急がねばならなかった理由の一つは、軍事的見地
からして、何れ戦うならば、アメリカの防御要塞が完成する前に攻撃を開始
する必要があったからなのである。
そういう意味でも、我が国にとっては一刻の猶予もなかったのだ。
日露戦争開戦の時期を、ロシア軍の大量動員が可能になるシベリア鉄道複線化
工事が終了する前にしなければならなかったのと同じ事情である。


ハル国務長官自身は、暫定案を日本政府に提示する積もりでいたというが、
イギリス・オランダ、支那・オーストラリアの各大使を呼び、この暫定案
に付いての意見を求めた際、支那が猛烈に反対し、一時的にせよ日米が
暫定協定締結しようとしたことを知った蒋介石は、イギリスのチャーチル
首相にまで工作を行なうなど、形振り構わぬ抗議を行ない、阻止したのだ。
何故なら、支那にはアメリカの支援無くして、抗日戦を継続する国力など
無かったからである。


アメリカ政府は、11月7日に「甲案」を、11月20日に「乙案」をも
拒絶、11月26日、遂に「ハル・ノート」を突き付けて来たのである。

因みに、この「ハル・ノート」を作成したのは対外政策担当の首席補佐官
ハリー・デクスター・ホワイトであったが、ルーズベルト大統領の首席秘書
ラフリン・カリーと共に、彼らがソ連国家保安委員会KGBの諜報員であった
ことが、アメリカ連邦捜査局FBIの調査に依り、判明している。


第196記事5
ハリー・デクスター・ホワイトとジョン・メイナード・ケインズ

………………………………………………………………………………

日米交渉 昭和16年(1941年)11月26日
アメリカ合衆国側提案(所謂ハル・ノート)

合衆国及び日本国間協定の基礎概略
第2項
合衆国政府及び日本国政府は、左の如き措置を採ることを提案す

①両国政府は、英蘭支ソ泰及び米国との間に共に多辺的不可侵条約を締結する。

② 両国政府は米英支日蘭及び泰政府間に、各国政府が仏印の領土主権尊重に
関する協定を締結する。

③ 日本国政府は、支那及び仏印より一切の陸海空軍兵力及び警察力を
撤収させる。

④両国政府は、臨時に首都を重慶に置ける中華民国政府以外の支那に於ける
如何なる政府、若しくは政権をも軍事的、政治的、経済的に支援しない。

⑤ 両国政府は、外国租界及び居留地に於ける諸権利、並びに1901年の
団匪事件(義和団事件)議定書による諸権利を含む、支那に於ける治外法権
放棄に付き、英国政府及びその他の諸政府の同意を取り付けるべく努力する。

⑥ 両国政府は互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする
新通商条約締結の交渉に入る。

⑦両国政府は相互に資産凍結措置を撤廃する。

⑧両国政府は、円ドル為替安定に関する案について協議する。

⑨両国政府は、その何れかの一方が第三国と締結した如何なる協定も、
同国により本協定の根本目的、即ち太平洋全地域の平和確立及び保持と
矛盾するが如く解釈されてはならない。

⑩両国政府は他国政府をして、本協定に規定せる基本的な政治的及び経済的
諸原則を遵守し、且つこれを実際に適用せしむる為、その影響力を行使する
ものとする。

……………………………………………………………………………

★ 日本軍の支那・仏印からの無条件撤兵、★支那に於ける重慶政府(蒋介石
政権)以外の政権の否定(詰まりは、日本が支援する南京国民政府=汪兆銘
政権の否定)、★日独伊三国同盟の死文化(独伊両国との同盟を一方的に解消)
を要求する内容であった。
要するに、日本が日露戦争以降に大陸で築いた一切の権益を無条件で全て放棄
しろということであった。
また、我が国が他国と結んで来た条約を、外圧に依って放棄することは国際
社会に於いて、日本の信用を一挙に失うことになる。
それでいて、日本にとっての緊急課題であった「経済封鎖」の解除には一切
触れていなかったのである。

東郷重徳外務大臣は、
「米国は従来の交渉経緯と一致点を全て無視し、最後通牒を突き付けて来た
のだ。我々は米側が明らかに平和解決への望みも意思も持っていないと感じた。
蓋しハル・ノートは平和の代価として日本が米国の立場に全面降伏することを
要求するものであることは我々に明らかであり、米側にも明らかであったに
違いないからだ。
日本は今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、極東の大国たる
国際的地位を棄てることを求められたのである。之は国家的自殺に等しく、
この挑戦に対抗し、自らを護る唯一の残された途は戦争であった」
「眼も眩むばかりの失望に撃たれた」とハル・ノートを受電した当時の心境を、
東京裁判の口述書で述べている。


第196記事6


一方、ハル国務長官は「ハル・ノート」を日本に提示した翌日、スチムソン
陸軍長官に、「私はこれで両手を洗った。これからは君とノックス海軍長官の
手に移った」と語った。
つまり、日本政府が受諾出来ない内容の「ハル・ノート」を提示した以上、
日本には戦争以外の選択肢は無いはずで、開戦は必至であるから、戦争は
陸海軍に任せるという意味であった。

更に、アメリカ政府はフィリピン・タイ・ボルネオなどに、「対日交渉は既に
終了した。日本の攻撃は数日以内に予測されるから、適切な防御を行うように」
と打電したのである。
そして、真珠湾攻撃の報告を受けたスチムソン陸軍長官は12月7日の日記に、
「日本が我が国を攻撃したという第一報を受けた時、私の最初の気持ちは、
救われたということであった…団結したわが国は、事実上恐れるものはない、
と感じたからである」と認めた。

日本は連合国側が仕掛けた、避け難く巧妙な罠に嵌められたのであった。

………………………………………………………………………

最近は勉学にもスポーツにも頭角を表わして来た優等生の日ノ本君。
日ノ本君は品行方正、その上、学業優秀であるが故にやっかまれて、
学校で底意地の悪い米助、英男、中太郎、仏太、蘭丸ども
悪党グループの陰湿で耐え難い虐めに遭っていた。

日ノ本君は稀に見る人格者だったから、馬鹿どもの虐めなんかに
負けないで、耐えに耐えていたものの、日に日にエスカレートする
虐めに閉口していた、そんなある日、教壇に上って、オチンチンを
みんなに見せろ、そうしないと二度と学校に来られないようにして
やるぞ!と決定的に脅されてしまった。
日ノ本君は、これはもう我慢の限界を超える仕打ちだなと受け取った。
そんなことまで言い成りになったら、誇りまで傷付けられてしまう
と深刻に悩んだ末、遂に堪忍袋の緒が切れて、大反撃を決意した。

実は、これは米助や英男が、目障りな日ノ本君をクラス中で袋叩きに
してしまおうとの悪巧みであったのである。
だが、それを知らない一本気な日ノ本君はまんまと罠に嵌ってしまった。
翌日、学校に木刀を持ち込んで、猛然と米助どもに殴り込みを掛けてやった。
最初の内は優勢で、日頃の恨みを晴らすべく、ボコボコに打っ叩いてやった
までは良かったが、所詮は多勢に無勢で、仕舞いにはガソリンを
浴びせられ、火まで掛けられて、遂に降参させられてしまった。

その上、正義面した米助に、査問委員会にまで掛けられて、
「全て、僕が悪うございました。許して下さいませ」と謝らされた。
更に、「これからはやられても、僕はやりません」「僕は殴られても、
人を殴りません。どうぞ、ご自由に為さって下さい」と、念書まで
一筆啓上させられてしまった。

日ノ本君は自分でも、自分が悪かったのだと思い込むようになって、
誰に対しても、会う度に「その節は、僕が悪うございました」と
米搗きバッタのように平身低頭してお詫びを続けている。
去勢された日ノ本君は未だに、トラウマから抜け出せないでいる。

最近では、顔も頭も性格も恐ろしく悪いが、背丈だけは伸びた中太郎が、
日ノ本君は手を出せないことを良いことに、調子に乗って何やかやと
言掛かりを吹っ掛けて来るようになった。

この日ノ本君の姿こそが、我が国の写し絵である。

 …………………………………………………………………………………

因みに、東條英機元首相は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事
法廷(東京裁判)に於いて、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を
殺害した罪」に問われ、絞首刑の判決を受けた。
12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内に於いて、死刑執行。
享年65歳。 辞世の句は、
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」

片や、コーデル・ハルは1945年、「国連憲章」の起草を理由として、
ノーベル平和賞を受賞者した。「国際連合の父」と称される。


第196記事7


日米開戦已む無しと血気に逸る陸軍を抑え、陸軍部内から変節漢と罵られ
ながらも、開戦には慎重で、日米交渉妥結の努力を重ねた東條元首相が
A級戦争犯罪人として処刑され、日本交渉を妥結させまいと陰謀を廻らせ、
好むと好まざるとに関わらず、我が国を開戦の選択肢しかない窮地に
追い込んだコーデル・ハルが選りに選って、ノーベル平和賞を受賞するとは。
パール判事が述べられた如く、「正義の女神にこの賞罰、そのところを変えることを
要求」したいものである。
少なくとも、日本人の心の中だけでも、東條元首相の名誉は回復されるべき
であると願う。


第196記事8


因みに、東條元首相のお嬢様のお一人は、私の母校の先輩に当たる。



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ジェファーソン・デイヴィスの論考の一節…パール判決書に引用された一文

 2018-04-17
ジェファーソン・デイヴィスの論考の一節 

…パール判決書に引用された一文



アメリカ南北戦争(American Civil War 1861年~1865年)終結後、
旧南軍(アメリカ連合国軍)のアンダーソンヴィル捕虜収容所に於ける、
北軍(アメリカ合衆国軍)捕虜への虐待行為に就いて、軍事裁判が開かれ、
収容所の責任者であったヘンリー・ワーズ(Henry Wirz)大尉(1823年-
1865年)は、南北戦争で戦争犯罪を問われ、死刑に処せられた唯一の人物
として、絞首刑に処された。


南北戦争1


裁判での絞首刑宣告後、収監中のワーズ大尉に北部の有力政治家から使者が
派遣され、「元南部連合大統領のジェファーソン・デイヴィス(Jefferson Davis)も
捕虜虐待に加担していたと証言してくれれば、死刑を取り止めるが…」との
申し出があったが、彼は「そんな嘘は吐けない」とその司法取引を拒否し、
1865年11月10日、首都ワシントンで衆人環視の中、絞首刑に処された。


ワーズ処刑1


ジェファーソン・デイヴィス(1808年-1889年)は米国陸軍士官学校
(ウェストポイント)出身のエリート軍人、政治家であった。
1844年、ミシシッピ州選出の下院議員に当選するも、1846年にメキシコとの
米墨戦争が勃発すると議員を辞職、ミシシッピ州の義勇軍(州軍)に志願し、
ミシシッピ・ライフル兵連隊の義勇軍大佐として、前線で活躍。
デイヴィスは戦後、政界に復帰、1861年1月、連邦上院に於いて、ミシシッピ州
代表として、連邦からの分離を宣言し、議員辞職した。
デイヴィスは南軍の義勇軍少将として、ミシシッピ州軍の指揮官に任命され、
1861年2月、「連合国憲法制定会議」(実質的なアメリカ連合国の準備政府)の
要請を受諾し、南部連合の暫定大統領に就任した。
南部戦争当時の人口は、北部2200万人、南部900万人、内400万人が奴隷。
動員数は北軍156万人、南軍60万人で、死者62万人。
1865年4月3日に南部の首都リッチモンドが陥落、9日に南部連合軍司令官
ロバート・リー(Robert Lee)将軍が降伏し、南北戦争は事実上、終結した。
1865年5月、デイヴィスはバージニア州ハンプトンのモンロー砦に収監され、
国家反逆罪の審議が行われたが、1869年に起訴は取り下げられた。



ジェファーソン・デイヴィス(1808年-1889年)

JD大統領就任式
ジェファーソン・デイヴィスの南部連合(アメリカ連合国)
大統領就任式 1861年2月


デイヴィスは81歳で亡くなる前年の1888年、ワーズ大尉の冤罪を実証的に
論証する捕虜虐待問題の論考を書いた。
その論考の中で、ワーズ大尉の汚名がいつかは雪がれるであろうと書いた。

When time shall have softened passion and prejudice, when Reason shall
have stripped the mask from misrepresentation, then, justice, holding evenly
her scales, will require much of past censure and praise to change places.

「時が、熱狂と、偏見を和らげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を
剥ぎ取った暁にはその時こそ、正義の女神はその天秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに、その所を変える事を要求するであろう」


南部連合軍の戦死者を追悼する女性団体であるUDC「南部連合の娘たち
(The United Daughters of the Confederacy)」は1908年、ワーズ大尉の
鎮魂の為、アンダーソンヴィルに記念碑を建立し、その第4面にデイヴィスの
上記の言葉が刻まれた。


Wirzモニュメント
The Wirz Monument アンダーソンヴィル


昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決が下った。
11人の判事の内、唯一の国際法の専門家であったインド代表のラダ・ビノード・
パール判事は、極東国際軍事法廷が下した判決に対し、英文で1275ページにも
及ぶ反対意見書(Dissentient Judgement)を提出し、東京裁判は勝者が敗者を
一方的に裁いた、国際法に違反する復讐であるとしてその違法性と、起訴の
非合理性を主張した。
※このパール判事の「反対意見書」は一般に、「パール判決書」と呼ばれている。


パール判事は、南北戦争に於けるワーズ裁判と、大東亜戦争に於ける東京裁判
に類似性を見て取り、ジェファーソン・デイヴィスの言葉を反対意見書の中に
引用したに相違ない。

"When time shall have softened passion and prejudice, when Reason shall
have stripped the mask from misrepresentation, then, justice, holding evenly
her scales, will require much of past censure and praise to change places."と、
引用符「” ”」が用いられているのは、その所為である。


靖国神社内の顕彰碑
靖国神社内のパール判事顕彰碑

京都護国神社内の顕彰碑
京都護国神社内のパール判事顕彰碑

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捕虜虐待という戦争犯罪の概念…アンダーソンヴィル裁判からBC級戦犯裁判へ

 2018-04-17
捕虜虐待という戦争犯罪の概念

…アンダーソンヴィル裁判からBC級戦犯裁判へ



昭和20年(1945年)8月14日午後11時、大日本帝国はポツダム宣言受諾を
連合国に通達し、事実上の無条件降伏をした。
厳密に言えば、大日本帝国陸海軍の無条件降伏であって、大日本帝国自体の
無条件降伏ではないのであるが。

ポツダム宣言の第10項に、「われわれは、日本を人種として奴隷化するつもり
もなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を
虐待した者を含めて、すべての戦争犯罪人に対しては、厳重な処罰を加える
ものである。……」とある。

(10)we do not intend that the japanese shall be enslaved as a race or
destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war
criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners.

終戦後、敗戦国日本はこのポツダム宣言10項に依拠する戦犯裁判で、5,000人
を超える旧日本軍将兵が裁かれ、国内外で獄中死も含み、1,068人が落命した。
特に捕虜収容所勤務者は、死刑を含む重罪に処せられた。



痩せさらばえた北軍兵士1 1863年撮影、1864年公表


痩せさらばえた北軍兵士2 1863年撮影、1864年公表

ワーズ裁判1
ワーズ裁判(映画の1シーン)

ワーズ裁判2
ワーズ裁判(映画の1シーン)

ワーズ裁判4
ワーズ裁判(映画の1シーン)


極東国際軍事裁判所条例に於ける、A級B級C級戦争犯罪という戦争犯罪類型
は、単なる分類であって、戦争犯罪の軽重を意味している訳ではない。

A級戦争犯罪とは、「平和に対する罪」(Crimes against Peace) であり、
東京の極東国際軍事裁判所(市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂)で審理された。
B級戦争犯罪とは、「通例の戦争犯罪」( Conventional War Crimes) であり、
戦時国際法に於ける交戦法規違反行為を意味し、戦場地域の各国に於いて、
審理された。
C級戦争犯罪とは、「人道に対する罪」( Crimes against Humanity) であり、
日本に対しては殆ど適用されなかったとは言え、現実には、「捕虜虐待の指揮、
監督当たった士官など」をB級、そして、「直接捕虜を取り扱い、虐待の命令を
具体的に実行した、主に下士官、兵士、軍属」がC級として、処断された。


Henry Wirz3
南軍アンダーソンヴィル捕虜収容所所長 ヘンリー・ワーズ大尉


ワーズ裁判


ワーズ裁判


現代の日本人は、戦争を倫理的判断から絶対的な罪悪と捉え、法律論より
道義論に走る傾向が強いが、国際法上、戦争自体は合法的な行為であり、
違法行為ではない。

「侵略戦争は犯罪である」との見解があるが、「侵略戦争」は「aggressive war」
の和訳で、本来は「先制攻撃」程度のニュアンスでしかない。
平成7年(1995年)8月15日に大日本帝国の植民地支配と侵略を謝罪する
「村山談話」を発表した村山富市元首相は「武力で敵国に乗り込めば、それが
侵略」と述べたが、実は侵略戦争の定義は国際的にも明確に定まってはいない。
国際法に於いては、「aggressive war」は犯罪とはならないのである。
そうであるからこそ、国際軍事裁判所条例(1945年8月8日、英米仏ソ4ヶ国
がロンドンで調印した、ニュルンベルク裁判及び、東京裁判の基本法)以前に
は存在しなかった「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい犯罪
規定の事後法が適用されたのである。

戦争犯罪とは言え、戦争自体は国際法上、合法的行為であることから、
戦場で展開された戦闘行為を犯罪と見做すものではない。
連合国が特に拘ったのは、ポツダム宣言の第10項に「捕虜を虐待した者」云々
とあるように、捕虜への暴行や食事、医療の不充分な処遇であって、多くの
旧日本軍将兵がB級、C級戦争犯罪人として、裁かれたのである。
食事に沢庵を出したケースでは、捕虜に腐った物を食わせたと死刑に処され、
ゴボウを出したケースでは、木の根っこを食わせたと死刑に処され、神経痛の
捕虜に好意でお灸を据えてやったケースでは、火責めの拷問に掛けたと死刑に
処され…と極めて理不尽な理由で処刑されているのである。

アメリカ映画には「第17捕虜収容所」(1953)や「戦場にかける橋」 (1957)、
「大脱走」 (1963)、「勝利への脱出」(1981)、「ジャスティス」 (2002)等々、
捕虜収容所を扱った名作が数多いが、日本人には理解し難いほど、捕虜の待遇
には強い拘りを持っているようである。
尤も、イラクのアブグレイブ刑務所に於ける捕虜虐待事件では、BC級戦犯裁判
であれば、死刑に処されていたはずの罪状でも禁固刑で済まされているように、
自国の軍隊の捕虜虐待体質に対しては追求が甚だ甘い。
そう言えば、昨年の暮れ、アンジェリーナ・ジョリーの監督で、日本軍に依る
捕虜虐待を描く小説「Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience,
and Redemption」が映画化されるという報道があったが、どうなったことやら。


アンダーソンビル収容所7
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所1
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所5
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所4
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所2
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所3
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州


戦後に捕虜虐待の責任者を追求するという裁判の雛形は、アメリカ合衆国の
南北戦争(American Civil War 1861年~1865年)の戦後処理にあった。
南北戦争の終結後、旧南軍(アメリカ連合国軍)の捕虜収容所に於ける、
北軍(アメリカ合衆国軍)捕虜への虐待行為に就いて、軍事法廷が開かれた。
その結果、ジョージア州のアンダーソンビル(Andersonville)捕虜収容所の
所長であったヘンリー・ワーズ(Henry Wirz)大尉が絞首刑に処せられた。
620,000人もの死者を出した大戦争で戦争犯罪を問われ、死刑に処せられた
唯一の人物が捕虜収容所勤務者であったのである。

南北戦争に於ける捕虜収容所の環境は南軍北軍を問わず、悲惨であったという。
開戦当初、リンカーン大統領は、捕虜の交換は南部連合を政府として公認する
ことを意味するとして、捕虜の交換を拒否していたが、特にヴァージニア戦線で
大勢の北軍兵士が南軍の捕虜となる事態を迎えるに至り、捕虜交換を諒承した。
1862年7月、北軍ジョン・ディックス(John Dix)将軍と南軍ダニエル・ヒル
(Daniel Hill)将軍間の交渉で、全ての捕虜は原則10日以内に交換、若しくは
従軍しないことを条件に仮釈放すること、階級に応じた交換比率が決められた。
しかし、1863年に北軍が黒人兵を投入、南軍は拘束した黒人兵を捕虜として
認めなかったことから、この協定は機能しなくなった。
1864年3月に北軍の総司令官に就いたユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)
将軍が従来の捕虜政策を転換させ、捕虜交換を停止させたことから、両軍共に
捕虜収容施設の整備に苦慮することとなった。

1864年2月、ジョージア州アンダーソンヴィルに急造された捕虜収容所サムター砦
(Fort Sumter)は収容定員8,000人に対し、最盛期の同年8月には32,000人
が収容され、1865年3月に閉鎖されるまでの14ヶ月で延べ45,000人の捕虜
が収容された。
45,000人の内、13,000人が死亡し、29%の死亡率であった。
南北戦争全期を通して、捕虜収容所での死亡は、北軍兵士捕虜211,400人の
内、30,208人(14%)、南軍兵士捕虜462,000人の内、25,976人(6%)である
ことからして、アンダーソンヴィル捕虜収容所の29%の死亡率は異様に高かった。


キャンプダグラス
北軍のダグラス捕虜収容所 イリノイ州シカゴ 

キャンプチェイス1
北軍のチェイス捕虜収容所 オハイオ州コロンバス

キャンプチェイス
北軍のチェイス捕虜収容所 オハイオ州コロンバス

キャンプチェイス3
北軍のチェイス捕虜収容所 オハイオ州コロンバス


戦争の長期化で食料や衣料、医薬品が極端に不足し、アンダーソンヴィル捕虜
収容所では医療も施せず、深刻な過密状態の収容スペースは極めて劣悪な衛生
環境状態で、飲料水の不足、赤痢などの伝染病の発生にも苦しめられたという。
収容所から脱走した北軍兵士の証言で、その劣悪な環境は新聞でも報じられ、
解放以前からアンダーソンヴィル捕虜収容所の悪名は高かった。

1963年に捕虜交換で帰還した北軍兵士の痩せさらばえた姿を写した写真8枚が
1964年に公開され、その余りの悲惨さに衝撃を受けた北部人は南軍への憎悪を
滾らせ、連邦議会では虐待した者を絞首刑にするとの決議をした。
これらの写真の被写体は「生ける屍(living corpse)」と称され、
ニューヨーク・タイムズ紙やハーバーズ・ウイークリー紙などに掲載され、
収容所内での捕虜虐待の証拠写真になった。
これらの写真を、アンダーソンヴィル捕虜収容所の解放後に撮影されたとする
記事があるが、アンダーソンヴィル捕虜収容所の開設は1864年2月で、1865年
3月に閉鎖されていることから、当該写真の北軍捕虜は別の収容所に居たはずである。

戦後、アンダーソンヴィル捕虜収容所の責任者であったヘンリー・ワーズ大尉
(1823年-1865年)は逮捕され、1865年8月23日から10月18日までの裁判で
絞首刑が宣告され、11月10日に執行された。
捕虜の殺害と虐待を訴因とする裁判であったが、死刑執行後11日を経て、
証人の偽証が明らかになるなど、初めに有罪の結論有りきの杜撰な審議で
あったようである。
この軍事法廷の開廷4ヶ月前、1965年4月14日にリンカーン大統領暗殺事件
が起きていたことも、ワーズ大尉にとっての不運であったと言える。
軍事法廷での絞首刑宣告後、ワーズ大尉は北軍から「全ての罪を認めろ。
アメリカ連合国大統領のジェファーソン・デイヴィス (1808年-1889年)の
命令であったと供述すれば、罪を許す」との司法取引を持ち掛けられたが、
「そんな嘘は吐けない」と拒否し、従容と処刑台の階段を上ったという。

因みに、1865年は日本では元治2年で、慶応に改元された年である。
徳川家茂が長州再征を上奏、薩摩の西郷吉之助が流罪から帰藩、長州で正義派
のクーデターが成功、坂本龍馬と中岡慎太郎が薩長連合に奔走、土佐勤皇党の
武市半平太や岡田以蔵などが刑死、そんな時代であった。

ワーズ処刑8

ワーズ処刑6

ワーズ処刑2

ワーズ処刑3








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