靖国神社四方山話⑦…皇祖皇宗の大御心(おおみごころ)を奉戴する天皇

靖国神社四方山話⑦

…皇祖皇宗の大御心(おおみごころ)を奉戴する天皇



政府首脳の靖国神社参拝を非難する論者には、「昭和天皇はA級戦犯合祀に
不快感を抱かれ、それ以降、靖国神社参拝を止められた」ことを取り上げ、
A級戦犯が合祀された靖国神社参拝を拒否為さる、昭和天皇と今上天皇の
「お心」に背いてまで、参拝するのは間違っていると論難する者が多い。

先帝陛下が靖国神社のいわゆる「A級戦争犯罪人」14人の合祀に不快感を
示されたとの根拠として、元宮内庁長官富田朝彦氏の「富田メモ」や、
元侍従卜部亮吾氏の「卜部亮吾侍従日記」が挙げられ、俗に「天皇の親拝問題」
と言われている。
この靖国神社の一件で、「親拝」という言葉を用いるのは誤用である。
本来、「御親拝」という語は、天皇が天照大御神をお祀りする伊勢の皇大神宮や
皇祖皇宗をお祀りする御社を礼拝される場合にのみ用いるべきものである。
靖国神社や護国神社の場合、ご祭神は天皇の臣下である臣民であるからして、
「行幸(ぎょうこう)」という語を用いるのが正しい。

それにしても、この「天皇の親拝問題」を取り上げる輩は、それほどまでに、
「天皇のお心」なるものを気遣い、そのお心に沿わんとする忠臣たちなので
あろうかと、皮肉の一つも吐いてみたくなる。
己らの都合の良い時にだけ、尊敬してもいない「先帝陛下と今上陛下のお心」
を騙り、利用するとは、不届き千万な所業である。




昭和天皇の不快感報道


2013年12月27日付、東奥日報のコラム「天地人」で、
先帝陛下が昭和61年(1986年)8月15日に詠まれた御製
「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」を挙げ、
「昭和天皇はかつて終戦の日に合わせてこう詠まれた。靖国神社には1978年、
東京裁判のA級戦犯が合祀された。昭和天皇の憂いが深い理由だ。
合祀以降、昭和天皇も現在の天皇陛下も参拝されていない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『日本のために尊い命を犠牲にした英霊に尊崇の念を表した』
その首相の気持ちに国民も異論はなかろう。
だが、中韓との亀裂を深めるとなれば話は別だ。
そもそも国民の象徴である天皇陛下が参拝できない状況はおかしい。
英霊のためを思うなら、そのことを改善する方が先ではないのか」と書いている。
この記事でも、「昭和天皇の憂いが深い理由」を、「1978年、靖国神社に
東京裁判のA級戦犯が合祀された」ことと断定し、「天皇のお心」なるものを
手前勝手に利用している。

平成16年(2004年)、当時の小泉内閣は「皇位継承制度と関連する制度に就いて、
高い識見を有する人々の参集を求めて検討を行う」として、「皇室典範に関する
有識者会議」の設置を決定し、翌年この有識者会議なるものは、 皇位継承を
「女系皇族へ拡大する」方針を発表し、小泉首相は皇室典範の改正準備に
着手している旨を公表した。
この時期にも、「女性天皇容認は、今上陛下のご意思である」との怪情報を
触れ回り、皇統断絶を策謀する者どもがいた。
女性天皇容認論、女系天皇容認論は、平成18年(2006年)、秋篠宮家に若宮が
ご誕生され、立ち消えになったものの、女性宮家創設が話題に上った時期にも同様、
執拗に皇統断絶を狙う勢力が、「女性宮家創設は今上陛下のご意思である」と
騙り、巧妙な悪巧みを仕掛けて来た。




皇室典範義解


「天皇のお心、お考え」を意味する「大御心(おおみごころ)」という語がある。
「叡慮(えいりょ)」とも言う。
我が国の国体は本来、万世一系の天皇が皇祖皇宗の神勅を奉じて統治する
一大家族国家という在り方である。
天皇は皇祖皇宗、ご歴代天皇の神霊を祀り、その「大御心」を奉戴して国を
統治し、国民はそのご歴代天皇の下で臣民として生きたご先祖代々を敬い、
君臣共に「生者のみの概念」でものを考えないのである。
神代以来の万世一系の天皇と臣民という関係の連続性があると同時に、
各時代の天皇は、皇統という縦糸の連続体の中に在る。
天皇は世襲である。その天皇のお心、すなわち「大御心」も皇祖皇宗のお心として、
世襲でなければならないのである。

明治22年(1889年)、伊藤博文著として出版された「帝国憲法皇室典範義解」
の「皇室典範義解(こうしつてんぱんぎげ)」の前文に、
「祖宗肇国、一系承継、與天地無窮、此不仮言説、有一定之模範、以為不易基準」
「祖宗国を肇め、一系相承け、天壌と與に無窮に垂る。此れ蓋し言説を
仮らずして既に一定の模範あり。以て不易の基準たるに因るに非ざるはなし」とある。
【意訳】
「皇祖(神武天皇)皇宗(歴代天皇)が国を創られ、一つの流れを相承され、
天地と共に永遠に極まりなく続く。これは言葉にはしないが、既に定まった
模範、決まりがある。決して変更されてはならない基準、決まりに因っている」
                              (文責在詠山史純)


建国


何が言いたいのかと言えば、極端な話、先帝陛下や今上陛下が、靖国神社への
いわゆるA級戦犯合祀に不快感を抱かれようが、どう思われようが、それは
どうでも良いことなのである。
人格としての先帝陛下、すなわち、諱を裕仁(ひろひと)と名乗られた人物、
人格としての今上陛下、すなわち、諱を明仁(あきひと)と名乗られる人物が、
何をどの様にお考えになろうが、その玉体からどの様なお言葉が発せられようが、
絶対君主制ではなく、立憲君主制の我が国では何ら問題にならないのである。
神格で在らせられる第124代天皇としての先帝陛下、神格で在らせられる
第125代天皇としての今上陛下のお心は、皇祖皇宗に連なるお心、「大御心」で
なければならないからである。

万が一にも有り得ないことであると確信しているが、仮に今上陛下が
「女系天皇」「女性宮家創設」を容認されるご意思をお持ちであったとしても、
その人格としての明仁と名乗られる人物のお考えは、皇祖皇宗が示された模範
に背くことになり、それは「大御心」たり得ない誤りなのである。
たとえ、それが今上陛下の玉体から発せられたお言葉であろうが、それは勅語、
勅命たり得ず、詔承必勤と言えども、大義無き勅語、勅命はその対象外で無効、
臣民は従ってはいけないのである。
皇祖皇宗に連なる、万世一系の天皇とは、そう在るべき神格なのである。


「天皇の親拝問題」なるものは、靖国神社で春秋に執行される例大祭には必ず、
先帝陛下、今上陛下のお遣いである勅使が参向になり、天皇陛下依りの御幣物
(ごへいもつ=供え物)が献じられ、御祭文(ごさいもん)が奏上されるという、
「大御心」の顕現である事実を以って、その論は霧散するのである。
※天皇が奏するものを「御告文(おつげぶみ)」勅使が奏するものを
「御祭文(ごさいもん)」という。

天皇陛下が「勅使」を差遣為さるということの意味の重さを知るべきである。
勅使は天皇陛下の「大身代わり」として、征夷大将軍宣下や勅令の伝達に
際しては、いつの時代にも天皇陛下への臣礼同様の敬意が払われたのである。
江戸幕府では一時期、江戸城内での将軍宣下に際し、勅使を下座に、将軍が
上座に坐すという非礼が行なわれたとのことであるが、それも幕末には逆転し、
勅使が上座に座し、将軍が下座に座すという作法に戻されたとのことである。


東條英機 絞首刑V
旧南部盛岡藩士東條英俊の孫、元総理大臣東條英機陸軍大将の名誉恢復を願う。


日本人でありながら、大日本帝国の戦争責任者たちが戦勝国に押し付けられた
「戦争犯罪人」という不当な汚名を好んで使い続ける人々がいる。
曰く、靖国神社に「A級戦犯」刑死者7人を含む14人が合祀されている云々と。
「敗戦国日本の戦争犯罪」、「日本の戦争犯罪人」とは、戦勝国側の概念であり、
呼称に過ぎないのである。
戦勝国側から戦争犯罪人の汚名を着せられ、処刑された同胞が国内法に於いて、
犯罪者であろうはずがない。
彼らもまた、敬意を払うべき、国家に殉じた昭和の殉難者ではないか。
0007_なく_なみだ[顔・表情]


東條英機 享年64歳 陸軍大将
昭和23年(1948年)12月23日 絞首刑
内閣総理大臣、陸軍大臣等を歴任。

広田弘毅 享年70歳 外交官
昭和23年(1948年)12月23日 絞首刑
内閣総理大臣、外務大臣、駐ソ連大使等を歴任。

土肥原賢二 享年65歳 陸軍大将
昭和23年(1948年)12月23日 絞首刑
奉天特務機関長等を歴任。

板垣征四郎 享年63歳 陸軍大将
昭和23年(1948年)12月23日 絞首刑
支那派遣軍総参謀長等を歴任。

木村兵太郎 享年60歳 陸軍大将
昭和23年(1948年)12月23日 絞首刑
ビルマ方面軍司令官等を歴任。

松井石根 享年70歳 陸軍大将
昭和23年(1948年)12月23日 絞首刑
中支那方面軍司令官等を歴任。

武藤章 享年56歳 陸軍中将
昭和23年(1948年)12月23日 絞首刑
陸軍省軍務局長等を歴任。

平沼騏一郎 享年84歳 司法官
昭和27年(1952年)8月22日 刑期中に病死(終身刑)
内閣総理大臣、枢密院議長等を歴任。

白鳥敏夫 享年61歳 外交官
昭和24年(1949年)6月3日 刑期中に病死(終身刑)
駐イタリア大使等を歴任。

小磯国昭 享年70歳 陸軍大将
昭和25年(1950年)11月3日 刑期中に病死(終身刑)
内閣総理大臣、朝鮮総督等を歴任。

梅津美治郎 享年67歳 陸軍大将
昭和24年(1949年)1月8日 刑期中に病死(終身刑)
関東軍司令官、陸軍参謀総長等を歴任。

東郷茂徳 享年67歳 外交官
昭和25年(1950年)7月23日 刑期中に病死(禁固20年)
外務大臣、駐ドイツ大使等を歴任。

永野修身 享年66歳 海軍大将
昭和22年(1947年)1月5日 判決前に病死
海軍大臣、海軍軍令部総長等を歴任。

松岡洋右 享年66歳 外交官
昭和21年(1946年)6月27日 判決前に病死
外務大臣、南満州鉄道総裁等を歴任。



★戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議 
…昭和27年(1952年)12月の国会決議
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-363.html

★戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議
…昭和28年(1953年)8月の国会決議
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-364.html

泣きまくり








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靖国神社四方山話⑥ …神道の一神教化志向

靖国神社四方山話⑥ …神道の一神教化志向

…明治政府の神道政策


我々の祖先は太古の昔、自然界の山や川、空、海、森、動物など、物皆全てに
霊性を認め、畏敬と感謝の念を抱きつつ、接したことであろうと想像される。
神道はこのような、我々の祖先の自然観や人間観、神祇観などに基づき、
生活文化の中から自然成立し、変遷して来た信仰であり、八百万(やおよろず)
と言われるほどに、多くの神々を信仰の対象としている多神教的な宗教である。

明治新政府は我が国を近代国家、国民国家にする為に、西欧の精神原理である
キリスト教に対応する精神的な機軸として、万世一系の天皇の神聖性と権威を対置し、
維新政府樹立直後には、神道を国家統合の精神とすることを目論むも、
やがて、「神道は宗教ではなく、治教である」「神社神道は宗教ではなく、
国家祭祀である」として、神道から祭祀のみを分離し、神社信仰という宗教性
を神社神道から完全に切り離した。
神社神道は宗教的に形骸化され、「非宗教の神社神道」=「天皇を中心とした、
記紀神話を基にする制度的な体系」=「いわゆる国家神道という祭祀体系」が
人為的に創作された。
こうして、伝統的な神道とは全く別物で、特異な観念体系、祭祀体系が構築
されたのである。


明治大帝 東京行幸A
明治天皇の東京行幸(中央の鳳輦内に明治天皇)
聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」(小堀鞆音画)
明治元年10月13日(1868年11月26日)皇居二重橋


天皇と神道との関係が論理的に再構築され、「神道の一神教化」が志向された。
記紀神話で天皇の祖神とされる、天照大御神を祀る伊勢神宮が最高位に就けられ、
神宮の祭祀を国家祭祀として、重要視することになった。
そして、伊勢神宮を頂点とする、全国の神社の体系化が行なわれた。
明治政府は、「延喜式内社」などの記録にある神社の国家管理体制を参考に、
全ての神社の社格(神社の位階)を制定し、官社としては官幣社と国幣社
(それぞれを更に大社、中社、小社に分類)、諸社としては府社、県社、郷社、
村社、無格社とランクを定めた。





靖国神社四方山話⑤…国家神道なるものの成立の経緯

靖国神社四方山話⑤ 

…国家神道なるものの成立の経緯

…明治新政府の神道政策



明治維新の王政復古は、水戸学、国学に基づく天皇崇拝の尊王思想や復古神道
の神国思想を中核的なイデオロギーに据えて、断行されたクーデターであったと言える。
ごく少数で政権奪取に成功し、その成立基盤の惰弱な新政府の指導者たちには、
自分たちの立場の正当性の根拠として、万世一系の天皇の神聖性と国体の権威
を強調することが必要であった。

慶応4年(1868年)、新政府は先ず、古代の律令体制下で、朝廷の祭祀を司り、
太政官と並ぶ中央最高官庁であった、神祇官を約1000年振りに復活させた。
明治3年(1870年)には、復古神道を奉じる平田派国学者に依る祭政一致論に
基づく、「大教宣布の詔」が発布され、天皇を神格とし、神道を国教として、
祭政一致の国家建設の方針が示された。


明治天皇 東京行幸
明治天皇の東京行幸


明治4年(1871年)、官職のトップである神祇官が廃止され、神祇省と改称の上、
太政官所管に格下げされた。
同年、「神社ノ儀ハ、国家ノ宗祀ニテ、一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ
勿論ノ事ニ候処…」との太政官布告(第234号)で、神社を「国家の宗祀」と
位置付け、神社の神職の世襲制度が廃止された。
明治政府は、「神道は宗教ではなく、治教である」「神社神道は宗教ではなく、
国家祭祀である」として、神道から祭祀のみを分離し、神社信仰という宗教性
を神社神道から完全に切り離したのである。
明治政府に依って創作された、この「非宗教の神社神道」が後に「国家神道」
と呼ばれることになる。

明治5年(1872年)、神祇省を改組し、民部省社寺掛を併合の上、新たに
教部省が設置され、神祇行政が移管された。
同年、尊皇愛国思想の教化運動(大教宣布)を展開する為の機関である大教院
が設置され、「三条の教憲」が制定された。

「三条の教憲」
①敬神愛国の旨を体すべき事。
②天理人道を明らかにすべき事。
③皇上を奉戴し、朝旨を遵守せしむべき事。(文責在詠山史純)

「神を敬い、国を愛し、天理人道を明らかにし、天皇を謹んで戴き奉り、
天皇のご意向を遵守すること(文責在詠山史純)」と国民は教導された。

神道政策に於ける朝令暮改の経緯からして、新政府は明治初年の段階で、
ロシア帝国に於ける皇帝がそうであったように、天皇を宗教的最高権威とする
祭政一致の神政国家体制を志向していたと思われるが、神道から祭祀のみを
分離し、神社信仰という宗教性を神社神道から完全に切り離すことで、
非宗教の祭政一致で、政教分離を実現する方向へと大転換したと推察される。




神社にお祀りされる多彩な神々…カミの概念に関する甚だしき無知と誤解

神社にお祀りされる多彩な神々 

…カミの概念に関する甚だしき無知と誤解



安倍晋三内閣総理大臣の靖国神社参拝を非難する人々の賢しらな論理展開には、
神道とその歴史、明治政府が創作した国家神道、靖国神社、極東国際軍事裁判に
関する認識不足で見当違いの評価、断定が見受けられ、甚だ呆れ返るばかりである。
我が国では、神道に関する悪口雑言に限っては、児童レベルの乏しい知識と
完全なる事実誤認を以ってして、充分且つ正当と許容されているようである。

特に、私が「日本語史上、最大級の誤訳」と考えている「神の概念」に関わる
無知と誤解は根が深い。

(参考)
日本語史上、最大級の誤訳「神」① …天皇は神であるが、Godは神ではない
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-367.html
日本語史上、最大級の誤訳「神」② …日本の「カミ」の概念
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-369.html
日本語史上、最大級の誤訳「神」③ …国会に於ける「神の概念」論議
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-370.html


古い記事であるが、2005年6月15日付「しんぶん赤旗」の靖国神社批判記事
などは、その典型的な例である。
「これが靖国神社『遊就館』の実態だ」「徹底ルポ『靖国史観』の現場をゆく」
「A級戦犯を『神』と展示」
「東条英機の遺影 …展示室の最後には、壁を埋め尽くした四千枚を超える
戦没者の遺影。その中に、次の名前がありました。
『陸軍大将 東条英機命(みこと)昭和23年12月23日 東京都巣鴨拘置所
にて法務死 東京都』
太平洋戦争開戦時の首相として、東京裁判で絞首刑の判決がくだされたA級戦犯。
その人物の写真が『靖国の神々』として堂々と展示してあったのです」

この日本共産党員の記者は一体全体、「東条英機命(みこと)」や「靖国の神々」
という文言の何処がどう、間違っていると言うのであろうか?
斜に構えて、詰まらない能書きを垂れる前に、己の生活環境を省みると良い。
唯物論者であるはずの己の家にも、何故か仏壇があって、その中にはご先祖様
の位牌が安置されていることであろう。
位牌を仏壇に納めている行為自体、ご先祖様をホトケ扱いしている証である。
更に、仏壇に左巻きの頭を突っ込んで、円らなお目目を引ん剥いて、よ~く
位牌の文字を読んでみるが良い。
その位牌に書いてある戒名からすれば、仏道修行もしていないにも拘わらず、
ご先祖様はホトケに成っていることに成っているはずである。
我が国では一般に、死者をホトケと呼ぶが、これは他の仏教国では有り得ない
ことである。
日本仏教界が神道の模倣をしたということである。

神道に於いては霊学的に、我々の御霊(みたま)は、神様に依って創られた存在
ではなく、神様の御霊を分け与えられた存在、分霊(わけみたま)であると考える。
※分霊(ぶんれい)と言う場合、ある神社のご祭神の霊を分けて、
他の神社を祀ることを意味する。
尤も、この場合でも「わけみたま」と言うこともあるが。


古事記伝 本居宣長
古事記伝 本居宣長著


本居宣長は、その著「古事記伝三」で、日本人の「カミ」の概念を要領良く
表現している。
「さて、凡て(すべて)迦微(かみ)とは、古(いにしえ)の御典等(みふみども)
に見えたる、天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社(やしろ)
に坐ます(まします)御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云わず、
鳥獣木草のたぐい、海山など、其余(そのほか)何にまれ(なににもあれ)、
尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き(かしこき)ものを迦微(かみ)
とは云うなり」

神社の本質はご神霊の占有空間にあり、原初の神社には、社殿は存在しなかった。
古代の日本人は、「此処はご神霊をお迎えし、お祭りするに相応しい清浄な場所
である」と、本能的な直感力で霊地を選び、その場所の周囲に常磐木(ときわぎ=
常緑樹)を立て、ご神霊に降臨して頂く聖なる領域と、人間が暮らす俗なる領域とを
峻別したと考えられる。
そして、その神域にご神霊の宿られる石や木や山自体を依代(よりしろ)として
設定し、ご神霊をお招きし、祭りを行い、祭りを終えれば、またお戻り頂くと
いう「神籬磐座(ひもろぎのいわくら)」の形態で祭祀(おまつり)を行っていた
であろうことが推察される。
縄文時代、弥生時代と推定される遺跡群から、明らかに日本神道に繋がると推察
される祭りの形態である祭祀遺跡が発掘されている。


平安時代中期に編纂された格式(=律令の施行細則)である延喜式(えんぎしき)の
神祇官関係の巻では、「神社」を「かむつやしろ」と訓んでいた。
この「社(やしろ)」は「屋代(やしろ)」であり、また「時間的にも空間的にも、
伸びやかに満ち亘る」という意味の「弥(いよいよ、ますます)」に「城(しろ)」で、
「弥(や)+城(しろ)」の「やしろ」である。
「社」は極端な話、形状的には、何も無いただの平地でも良かったのである。
「鎮守の森」と言って、神社には森が付き物であるが、それは人が立ち入ることを
禁じられた聖なる領域であったが為に、自ずと樹木が生えて、結果的にこんもりと
繁った森になったということなのである。
神社の本質からすれば、玉垣(神社の周りに廻らせた垣根=瑞垣《みずがき》)や
鳥居、注連縄(しめなわ)などを設けて、ご神霊が占有する聖なる空間の境界を
明らかにしておきさえすれば、何も殊更、常設の建造物は必要としないのであるが、
仏教伝来後、仏教寺院の大伽藍建築の影響を受けてしまったのであろう、社殿を
設けた今日の神社形態へと大きく変貌を遂げたのである。

ご神霊を祀る場所を意味する言葉に「宮」もあるが、この「宮」は「御屋(みや)」
であり、神域に建てられた社殿を意味する。
同様に、「祠(ほこら)」の語源は「秀倉(ほくら)」であるが、神域に建てられた、
「宮」よりも小規模な建造物を意味している。


皇大神宮AA
皇大神宮(内宮)


神社に祀られるご祭神は、実に多彩である。
先ずは、記紀(「古事記」と「日本書紀」)の神話に登場する神々が挙げられる。
伊勢神宮内宮の天照大御神(天津神)や出雲大社の大国主大神(国津神)などが、
その代表例として挙げられる。
また、それぞれの地域ごとにその土地を守護される土着の神々、すなわち
「地主神(じぬしのかみ)」が祀られている神社もある。
大神(おおみわ)神社の大物主神(おおものぬしのかみ)や、
猿田彦(さるたひこ)神社の猿田彦大神などが挙げられる。

平安時代に登場した「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」に依り、
インドから遣って来た、仏・菩薩・神は、日本の神々の真の姿(本地)であり、
日本の八百万の神々は、それらの仏・菩薩・神が衆生を助ける為に仮の姿(垂迹)、
つまり権現(ごんげん)と成って、日本の地に現われたものであるという
「神仏習合」と呼ばれる、神仏を同一視する特異な信仰体系から、「習合神」が
祀られた神社もある。
宇佐神宮の八幡大菩薩(応神天皇)や、熊野三社の熊野三所権現などが、
その典型的な例である。

神社には傑出した才能を発揮した人物も、神として祀られることがある。
代表例としては、飛鳥時代の宮廷歌人で、「歌聖(かせい)」と称えられる
柿本人麿(かきのもと ひとまろ)を祀る柿本神社や、平安時代に異彩を放った
陰陽師で、土御門家の祖である安倍晴明(あべの せいめい)を祀る晴明神社が
挙げられる。
鎌倉時代末期、後醍醐天皇に忠勤を尽くした武将たち、楠木正成を祀る
湊川(みなとがわ)神社や、新田義貞を祀る新田神社などもある。
戦国武将で、織田信長を祀る建勲神社、豊臣秀吉を祀る豊国神社、武田信玄を
祀る武田神社、上杉謙信を祀る上杉神社、徳川家康を祀る日光東照宮などもある。
幕末に松下村塾で、維新の有為な指導者たちを育成した、長州藩の吉田松陰を
祀る松陰神社、薩摩藩の西郷隆盛を祀る南洲神社、日露戦争で功労のあった、
連合艦隊司令長官、東郷平八郎を祀る東郷神社、旅順要塞を攻略した第3軍
司令官、乃木希典を祀る乃木神社などもある。


出雲大社A
出雲大社


神社に祀られるご祭神を、仏教寺院に於ける本尊同様の概念で捉えるのは、
大きな誤りである。
華厳宗では毘盧遮那仏を本尊とし、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀如来、
日蓮宗は久遠実成の釈迦牟尼仏を本尊としている。
天台宗では特定の本尊を立てていないが、比叡山延暦寺根本中堂には薬師如来
が祀られている。
何れにせよ、仏教寺院で祀られているのは本尊とは、「根本尊敬」の対象であり、
絶対的な帰依の対象であるが、神社に祀られているご祭神の場合は、必ずしも
そうではないのである。

古来、怨霊を鎮める為の御霊(ごりょう)信仰というものがある。
古代の人々は、深い怨念を抱いて亡くなった人の霊が祟り、疫病の流行や災害
を齎すと信じて恐れ、御霊と呼ぶその怨霊の鎮魂の為に、ご祭神として祀る
「御霊神社」が各地で建立された。

奈良時代、光仁天皇の皇子で、桓武天皇の弟、早良親王(さわらしんのう)は、
藤原種継暗殺事件に連座したとして、幽閉され、淡路国に配流の途中、絶食の末、
桓武天皇を深く怨みながら薨じたという。
その後、桓武天皇の周辺で病死が続き、疫病の流行や災害、反乱などが多発、
これらの災厄を早良親王の祟りであるとして、恐れられた。
早良親王は、「崇道(すどう)天皇」と追称され、大和国に改葬、御霊神社や
八嶋神社、崇道天皇社に祀られ、その怨霊は鎮められたという。
また、京都の上御霊神社には、八所御霊(はっしょごりょう)と呼ばれる、
早良親王を始め、井上皇后(いのうえのきさき=光仁天皇の皇后)、橘逸勢
(たちばな はやなり)など、奈良時代から平安時代に掛けて、非業の死を
遂げたとされる8人の皇族、貴族が合祀されている。

平安時代に右大臣にまで昇った学者、菅原道真は藤原時平の讒言に依って、
大宰府に左遷され、配所で死去。
道真の死後、藤原氏の実力者が相次いで怪死、朝議中の清涼殿が落雷を受け、
朝廷要人に多くの死傷者が出るなど、都に異変が相次いだのは道真の祟りと
恐れられた。
清涼殿落雷事件から、道真の怨霊は雷神と結び付けられ、「天満大自在天神
(雷神)」として、北野天満宮に祀られた。
今日では、「学問の神様」「天神様」と親しまれている道真であるが、そもそもは
怨霊の祟りを鎮める為に祀られた恐ろしい御霊であった。


東京招魂社BB
東京招魂社(現靖国神社)

靖国神社は昭和21年(1946年)9月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
が「日本国政府宛覚書」として発令した、ハーグ国際陸戦法条約違反である
「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止
ニ関スル件」、略称「神道指令」に依って、官立から一宗教法人としての
再出発を余儀なくされた。

昭和27年(1952年)9月30日制定の「宗教法人靖国神社規則」第3条(目的)には、
「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた『安国』の聖旨に基づき、国事に
殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、
本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者(以下『崇敬者』といふ)を
教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための
業務及び事業を行ふことを目的とする」とある。

また、昭和27年(1952年)9月30日制定の「靖国神社社憲」前文には、
本神社は明治天皇の思召に基づき、嘉永6年以降国事に殉ぜられたる人人を
奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を
万代に顕彰するため、明治2年6月29日創立せられた神社である。
いやしくも本神社に職を奉ずる者は、その任の軽重、職域の如何を問はず、
深く本神社を信奉し、祭神の御神徳を体し、清明を以てその任に当り、
祭祀を厳修し、祭神の遺族崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り、
以て万世にゆるぎなき太平の基を開き、本神社御創立のよって立つ
安国の理想の実現に一意邁進しなければならない」とあり、
第1章 総則 第2条(目的)には、「本神社は、御創立の精神に基き、
祭祀を執行し、祭神の神徳を弘め、その理想を祭神の遺族崇敬者及び
一般に宣揚普及し、社運の隆昌を計り、万世にゆるぎなき太平の基を開き、
以て安国の実現に寄与するを以て根幹の目的とする」とある。

靖国神社は元より、怨霊を鎮める為の御霊信仰ではないが、「国事に殉ぜられた
人々を奉斎し、永く神道の祭祀を斎行して、その『御霊(みたま)』を奉慰し、
その御名を万代に顕彰する為」に英霊を招魂し、合祀する神社であるからして、
一般の神社とはその存在意義が大いに異なり、我々参拝者が246万6千余柱の
ご神霊の鎮魂を願い、同胞としての感謝の念を胸に、祈りを捧げるべき場所で
あって、「負い持つ業に励ましめ給い、家門高く、身健やかに…」と、個人的な
幸福招来をお願いする為にお参りする神社ではないと思われる。




陸軍特攻誠第119飛行隊
陸軍特攻 誠第119飛行隊の遺影。 台湾桃園航空基地にて。 
昭和20年4月22日午前8時半頃、出撃1時間半前の写真。
少年飛行兵出身14名の搭乗員達。
特攻散華を目前にしていながら、護国の覚悟に輝くばかりの笑顔を見せる、
18歳から19歳の天晴れな日本男児達。 泣きまくり

(西村真悟衆議院議員のHP依り、拝借)


岩手県北上市展勝地
岩手県北上市展勝地の見事な桜並木


少なくとも江戸時代からの日本人の子孫である大和系日本人であるならば、
偽論である東京裁判史観、自虐史観に惑わされることなく、先祖への尊崇の念と
祖国への愛念を胸に抱きつつ、真摯に正視眼的に祖国の近現代の歴史的事実に
向き合うべきではないのか。





靖国神社四方山話③ …日本人であるならば、「戦犯」と呼ぶ勿れ!

靖国神社四方山話③ 
…日本人であるならば、「戦犯」と呼ぶ勿れ!


戦勝国側の呼称「戦犯」という汚名は、
60年前に抹消されているのである。



日本国内閣総理大臣の靖国神社参拝を非難する理由として、中国政府や
韓国政府は、いわゆる「A級戦犯」が合祀されていることを挙げるが、
時系列を辿れば、それは単なる外交カードにする口実に過ぎず、全くの詭弁
であることは明々白々である。

安倍晋三総理大臣は2月7日の衆議院予算委員会で、靖国神社参拝に就いて
「第1次安倍内閣に於いて、参拝出来なかったことは痛恨の極み」と述べ、
4月24日の参議院予算委員会では、安倍内閣の閣僚の靖国神社参拝に、
中国や韓国が反発していることに対し、「国の為に尊い命を落とした英霊に、
尊崇の念を表するのは当たり前。我が閣僚はどんな脅かしにも屈しない。
その自由は確保している。当然だろう」と述べられた。

また、韓国が靖国神社参拝に言い掛かりを付けていることに就いて、
「靖国神社参拝の抗議を始めたのは、盧武鉉政権時代が顕著になったが、
それ以前は殆ど無い。何故、急に態度が変わったかも調べる必要がある」
中国に対しても、「いわゆるA級戦犯が合祀された際、時の首相の参拝に
抗議せず、ある日突然抗議をし始めた」
「歴史や伝統の上に立った、私たちの誇りを守ることも私の仕事だ。
それを削れば、(中国や韓国との)関係が上手く行くとの考えは間違っている」
と述べられた。

極東国際軍事裁判所条例に於ける、A級B級C級戦争犯罪の相違さえ認識して
いない癖して、政府の煽動通りに能書きを垂れ、馬鹿踊りに狂奔する支那人やら、
朝鮮人やらの戯言なんぞは完全に黙殺するが良い。
可愛い音頭取り

脱亜細亜



      


私が問題視するのは、日本人でありながら、大日本帝国の戦争責任者たちが
戦勝国に押し付けられた「戦争犯罪人」という不当な汚名を好んで使い続ける、
大勢の獅子身中の虫どもが蠢いていることである。
曰く、靖国神社のご祭神に「A級戦犯」刑死者7人が合祀されている云々と。
「敗戦国日本の戦争犯罪」、「日本の戦争犯罪人」とは、戦勝国側の概念であり、
呼称に過ぎないのである。
戦勝国側から戦争犯罪人の汚名を着せられ、処刑された同胞が国内法に於いて、
犯罪者であろうはずがない。
彼らは日本人にとっては、敬意を払うべき、国家に殉じた尊い殉死者である。

昭和16年(1941年)、日米開戦の仕掛け人は、アメリカ合衆国第32代大統領
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1933年-1945年)である。
彼こそが、真の超A級戦争犯罪人なのである。
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-284.html


明治大帝の御製 靖国神社
明治大帝御製


大日本帝国は昭和20年(1945年)8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾を
連合国に通達して、事実上の無条件降伏をした。

終戦後、敗戦国日本は極東国際軍事裁判(東京裁判)に於いて、極東国際軍事
裁判所条例という、国際法で認められない事後法に依って裁かれ、また国内外
で、地域限定の戦争犯罪人として、多くの旧日本軍兵士が軍事裁判で裁かれた。
国内外で、戦争犯罪人として落命された人々は獄中死も含み、1068人にも上る。


極東国際軍事裁判所条例に於ける、A級B級C級戦争犯罪という戦争犯罪類型
は、単なる分類であって、戦争犯罪の軽重を意味している訳ではない。
本来ならば、A類B類C類と呼称すべき類のものである。

A級戦争犯罪とは、「平和に対する罪」(Crimes against Peace) であり、
東京の極東国際軍事裁判所(市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂)で審理された。
B級戦争犯罪とは、「通例の戦争犯罪」( Conventional War Crimes) であり、
戦時国際法に於ける交戦法規違反行為を意味し、戦場地域の各国に於いて、
審理された。
C級戦争犯罪とは、「人道に対する罪」( Crimes against Humanity) であり、
日本に対しては殆ど適用されなかったとは言え、現実には、「捕虜虐待の指揮、
監督当たった士官など」をB級、そして、「直接捕虜を取り扱い、虐待の命令を
具体的に実行した、主に下士官、兵士、軍属」がC級として、処断された。


サンフランシスコ講和条約500


昭和26年(1951年)9月署名、11月批准、昭和27年4月28日に発効した
サンフランシスコ講和条約に依って、連合国は日本の主権を承認し、国際法上、
正式に日本と連合国間の戦争状態が終結した。
日本が主権を回復した、昭和27年から28年に掛けて、戦犯の釈放を求める声
が高まり、全国的規模で一斉に「戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の
署名運動が始められ、戦争受刑者釈放運動が巻き起こったという。
日本の人口が約8500万であった当時、その署名数は、地方自治体に依るもの
約2000万、各種団体に依るもの約2000万、合計約4000万にも達したという。

国会では、
●「戦犯在所者の釈放等に関する決議」 昭和27年(1952年)
  6月9日 第13回国会参議院本会議 第49号
●「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」 昭和27年(1952年)
  12月9日 第15回国会 衆議院本会議 第11号
●「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」 昭和28年(1953年)
  8月3日 第16回国会 衆議院本会議  第35号
●「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」 昭和30年(1955年)
  7月19日 第22回国会衆議院本会議 第43号
が可決されている。

国会で正式に、ABC級戦犯は法的には戦死者や戦場に於ける病死者同様、
国家の為に犠牲となった殉死者であり、公務死(戸籍記載は法務死)である
と決議された結果、公文書からも「戦犯刑死」という文字は削除され、
日本から「戦犯」という言葉は消えたのである。


国会の決議は、廃案が公布されない限りに於いて、恒久的な拘束力を持つ。
戦犯発言をする国会議員は、国会決議違反を犯していることになるのである。


戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議 
…昭和27年(1952年)12月の国会決議
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-363.html

戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議
…昭和28年(1953年)の国会決議
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-364.html


戦犯釈放


更に、昭和31年(1956年)にはサンフランシスコ講和条約第11条
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争
犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの
法廷が課した刑を執行するものとする。
これらの拘禁されている物を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、
各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く
場合の外、行使することができない。
極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に
代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、
行使することができない」に基づき、関係各国11カ国の同意を得て、
A級戦犯は赦免された。
この時点に於いて、国際的にも総べての戦犯が赦免されているのである。


日本人ならば、「戦犯」と呼ぶ勿れ。
戦勝国側の呼称「戦犯」という汚名は、60年前に抹消されているのである。

安倍晋三総理が「いわゆるA級戦犯」と、「A級戦犯」の語に必ず「いわゆる」
の語を付すのは、以上のことを踏まえてのことであるに相違ない。



陸軍特攻誠第119飛行隊
陸軍特攻 誠第119飛行隊の遺影。 台湾桃園航空基地にて。 
昭和20年4月22日午前8時半頃、出撃1時間半前の写真。
少年飛行兵出身14名の搭乗員達。
特攻散華を目前にしていながら、護国の覚悟に輝くばかりの笑顔を見せる、
18歳から19歳の天晴れな日本男児達。 泣きまくり


(西村真悟衆議院議員のHP依り、拝借)


岩手県北上市展勝地
岩手県北上市展勝地の見事な桜並木 愛おしいなぁ


少なくとも江戸時代からの日本人の子孫である大和系日本人であるならば、
偽論である東京裁判史観、自虐史観に惑わされることなく、先祖への尊崇の念と
祖国への愛念を胸に抱きつつ、真摯に正視眼的に祖国の近現代の歴史的事実に
向き合うべきではないのか。





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