華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 占いの歴史

占いの歴史夜話⑳…源平合戦、何れに味方すべきかを占った闘鶏

占いの歴史夜話⑳ 

…源平合戦、何れに味方すべきかを占った闘鶏




古代の人々は、人知では計り知れない未来に起こる出来事の吉凶や、天候など
の自然現象に左右される農作物の豊作凶作を、様々な形態の占いを行なうこと
に依って、予測したいと切実に願ったことであろう。
そして、その占いの結果は神々の意志の表現であるとして、素直に捉えたに
違いない。
占いは例えば、「こうなったら、豊作や豊漁を意味する」とか、「こうなったら、
こちらを選択した方が良い結果を得られることを意味する」とか、予め定めた
方法に従がって行ない、神々の真意を教えて頂こうとするものであるが、戦い
や競争の勝ち負けさえも、その勝敗は運命的に定められた将来の成り行きを
教示する神々からのサインとして、厳粛に受け止めたようである。

全国各地の由緒有る神社には、相撲、綱引き、舟競争、競馬などの神事が
大切に伝承されているが、今となってはスポーツとして愛好されている
それらの競技は元々、集落などの集団が将来の一年を占う「年占(としうら)」
の一種として、神前で行なわれた神慮を占う行事であったに違いない。


第20記事6
洛中洛外図屏風より、拝借。



「平家物語」巻第十一 「鶏合(とりあわせ)壇浦合戦」

「熊野別当湛増は、平家重恩の身なりしが、忽に其恩を忘れて
『平家へや参るべき。源氏へや参るべき』とて、田邊の新熊野にて
御神楽奏して、権現に祈誓し奏る。『唯白旗につけ』と御託宣有けるを、
猶疑をなして白い鶏七、赤い鶏七、是を以て権現の御前にて勝負をせさす。
赤き鶏一つも勝たず皆負けてけり。さてこそ源氏へ参らんと思定めけれ。
一門の者共相催し、都合其勢二千余人、二百余艘の船に乗り連て、……」

【現代語訳】
「熊野の別当、湛増(たんぞう)は、平家恩顧の身であったが、
忽ちの内にそのご恩を忘れ、平家に付くべきか、源氏に付くべきかと
言って、田辺の新熊野(いまくまの)で御神楽を奏して、権現に祈誓し
申し上げる。
『白旗に付け(源氏に味方せよの意)』との権現の仰せを、なお疑って、
白い鶏7羽と赤い鶏7羽を、権現の御前で勝負させる。
赤い鶏は一つも勝たずに、みな負けて逃げてしまった。
それでは、源氏に加勢しようと思い定めた。 
一門の者を呼び寄せ、都合その軍勢2000余人、200余艘の舟に
乗り連れて…」(文責在詠山史純)


第20記事4
壇ノ浦合戦の図


湛増(1130年-1198年)は、平安時代後期から鎌倉時代初期に掛けての僧侶。
熊野三山の社僧で、第21代熊野別当(熊野三山の統括者)。
平治の乱(1159年)の折りに、平清盛に与力した第18代別当湛快(たんかい)の次男。
湛増の妻は、源為義の娘で源行家の姉である鶴田原(たつたはら)の娘で、
湛増には、源行家は叔父に当たり、源頼朝や源義経、木曾義仲とは従兄弟の
関係にあった。
また、湛増の妹は平清盛の異母弟、平忠度に嫁していた。
伝承では、湛増は義経の従者武蔵坊弁慶の父であるという。

紀伊国(和歌山)田辺を本拠地として、熊野水軍を統率していたと考えられる。
「平家物語」に依れば、湛増は源頼政、以仁王(もちひとおう)挙兵(1180年)
に際しては、平氏方に以仁王謀反を通報し、平清盛に付いて勢力を拡大した。
1180年には、源頼政、以仁王の挙兵に続き、源頼朝が挙兵。
1181年に、平清盛が没し、1185年の壇浦合戦で平氏が滅亡。
(1180年の以仁王・源頼政の挙兵から、1185年の平氏滅亡までの一連の争乱を
治承・寿永の乱と言う)


第20記事5
東京国立博物館様 画像検索「鶏合」より、拝借。


平氏方としてはそれまでの経緯から当然、友好関係にあった湛増が熊野水軍を
率い、源氏との合戦に加勢してくれるものと期待していたに違いない。
ところが湛増は、どちらに味方するかが一族の命運を左右してしまう源平合戦
の戦況の推移を冷徹に見守っていたのであろう。
平氏が京の都を追われ、福原の戦いにも破れ、四国に敗走、屋島、壇ノ浦に陣
を構えた段階で、栄耀栄華を極めた平氏も最早これまでと見限ったに違いない。
但し、湛増は1180年、源頼朝の挙兵を知った後には既に、源氏方へ寝返る動き
を見せていたようであるが、源氏の屋島攻略まで源義経の参陣の呼び掛けには
明確に応じることなく、その去就には迷いがあったようである。
陸戦では優勢な源氏であったが、水軍が無かったことから苦戦を強いられ、
熊野水軍の参陣以前の段階では、海戦では平氏が遥かに優位に立っていた。
その為、源氏にとっては水軍の調達が焦眉の急であったのだ。

文治元年(1185年)の正月、源氏と平氏双方から参陣を要請され、その去就に
迷っていた湛増は熊野権現の神託を得ようと、配下と共に新熊野権現田辺の宮
(いまくまのごんげん たなべのみや)に参詣し、巫女の取次ぎで源氏に味方
するようにとの神示を下された。
それから数日後、湛増は新熊野権現田辺の宮に武装させた配下を集めた上で、
境内に於いて、紅白7羽ずつの鶏を戦わせ、紅が勝てば平氏、白が勝てば源氏
に味方をすることと決め、鶏合わせ(闘鶏)を行ない、神慮を占った。
その結果、白鶏が圧倒的な勝ちを収めた為、源氏に加勢することを決断し、
熊野水軍は屋島攻略に参戦、壇ノ浦の海戦には兵船200艘を揃え、活躍した。
おそらく、この鶏合せは湛増が配下の者共に、源氏に味方し、それまで親交
のあった平氏と戦うことを納得させる為のパフォーマンスであったと思われる。
熊野権現の神託が下されたとなれば、それが源氏に味方する立派な大義名分と
なるからである。


第20記事2
年中行事絵巻 鶏合の図


闘鶏は「鶏合せ(とりあわせ)」と呼ばれ、平安時代の頃から朝廷や神社で神事
や占いとして行われ、後に庶民の間にも広まったという。
唐の玄宗皇帝が乙酉生まれで闘鶏を好み、清明の節(三月節、旧暦2月後半~
3月前半)に催した故事に因んで、朝廷では宮中清涼殿南庭で旧暦3月3日の
節句の景物として行われた。
平安時代後期の「年中行事絵巻」には、「鶏合せ」の様子が描かれている。


第20記事7
「GATAG」様のフリー画像・写真素材集1.0より、フリー画像を拝借。


戦わせるか、或いは競わせるかして、その勝敗を賭博の対象とするならば、
その競技者は昆虫であろうが、爬虫類であろうが、何でも良いのであるが、
神事として、神慮を占う競技となれば、その競技者にも霊性を求めたい。

「古事記」に記されている「天の岩屋戸(あまのいわやと)の祭祀」には、
「常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かしめて」
(『いつまでも長く鳴き続けて止まないニワトリを集めて、鳴かせ』)とある。

「常世」とは、海の彼方にあるとされた永遠の世界を意味する。
「長鳴鳥」とは声を引いて長く鳴く鶏のことで、野鶏の鳴き声は2秒程度で
あるが、長鳴鶏は15秒も鳴き続ける長鳴性があるという。
天の岩屋戸に隠れた天照大御神(あまてらすおおみかみ)を引き出す為に、
長鳴鶏を集めて一斉に鳴かせたという訳である。
鶏は定刻に鳴く。
古代から日本人は暁に鳴く鶏を一番鳥、日の出と共に鳴く鶏を二番鳥と呼んで、
暁を告げ、闇を払う鶏の鳴き声を一日の生活の始まりと考えて来た。
つまり、鶏は太陽神である天照大御神を再び、この世に呼び戻す役割を果たす
「神使」と考えられたのだ。
「神使」は「神の使わしめ」と呼ばれ、神の眷属(けんぞく)であり、
神の御先、御前(みさき)であって、神の先駆け、神の代弁者として、
現実の人間界で神の意志を知らしめる徴を示す役割を果たすと考えられた。
鶏の鳴き声に、邪気を祓い、太陽を招く霊的な力を感じていたのであろう。
神使と考えられた霊鳥である鶏こそが、神慮を占う鶏合せに相応しかった。
因みに伊勢神宮では鶏は神使として、尊ばれている。


第20記事3
和歌山県田辺市 田辺観光協会様HP「田辺探訪」より、画像を拝借。
昭和62年5月、闘鶏神社境内に武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣800年祭を記念して、湛増・弁慶の父子像が建立された。


新熊野権現田辺の宮は社伝に依ると、19代允恭(いんぎょう)天皇の御世、
5世紀初頭(423年)の創建と伝えられる古社であるが、この湛増が行なった
鶏合わせに因んで、新熊野鶏合権現(いまくまのとりあわせごんげん)、
新熊野闘鶏権現社(いまくまのとうけいごんげんしゃ)、鶏合わせの宮、
闘鶏権現などと称されていたという。

「権現」とは明治以前の神仏混淆時代の「本地垂迹説」に基づいた名称で、
平安時代に神と仏は一体であるという「神仏習合思想」が説かれ、仏菩薩が
日本の神々の真の姿(本地)で、八百万の神々は仏菩薩が仮の姿(垂迹)と
して、日本の地に現われたもので、その仮の姿としての神を権現と呼んだ。
明治新政府が樹立され、慶応4年(1868年)に、奈良時代から続いて来た
神仏習合思想を禁止する「神仏分離令」が発布された際に、新熊野鶏合権現
(和歌山県田辺市湊)は「闘鶏神社」を正式社名としたという。
(正しくは「闘鶏」を「鬪雞」と旧字体で表記する)


第20記事1
和歌山県神社庁HPより、画像を拝借。
因みに、鬪雞神社は2016年10月、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録されたとのこと。




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2016/11/29 03:28 | 占いの歴史COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

占いの歴史夜話⑲…我が国で創始された姓名判断


占いの歴史夜話⑲ 

…我が国で創始された姓名判断



世界中には約300種類もの占術があると言われるが、運命や運勢の暗示を
解読し、将来を推理する根拠が如何なるものであるかという占い方法に依る
分類法では、命術(めいじゅつ)、相術(そうじゅつ)、卜術(ぼくじゅつ)」
の三種類に大別することが出来る。

霊感占いに関しては、先天的に特殊な内的直感力、霊的能力に恵まれた
サイキックとも呼ぶべき占い鑑定士が、生年月日や名前、手相、人相など、
対象者からの情報提示を受けなくとも、その優れたインスピレーションで
情報を受信することに依って占うので、この類型の範疇ではない。
但し、日本でもアメリカでも、霊感占い鑑定士(アメリカではサイキック)は、
集中力や精度を更に高める為に、観相やタロットカード占い、水晶占いなどの
占術も併用することが多いようである。


「命術」は生年月日や時間など、出生した時点で先天的に定められている
必然的な要素を用いて、先天的な運命(宿命)を推理する占術で、四柱推命や
西洋占星術、九星気学、算命学などがこれに相当する。

「相術」は、形のある対象の「様相」、手相や人相、名相などの「相」を
過去の統計的(厳密な意味での統計学ではない)な経験データに基づいて、
その意味するところを解読する占術で、手相術、人相術、姓名判断(名相術)
などがこれに相当する。
命術が先天運を対象とするのに対して、相術は主に後天的な運命や運勢を
解読する占術である。

「卜術」は、自然現象の変化や、何らかの偶然的な事象など、例えば、引いた
カードの絵柄が何であるか、投げたコインの裏表や、振ったサイコロの目など、
偶然に出た結果を、信頼すべき必然的なサインとして捉えて、判断、推理する
占術で、タロット占いやトランプ占い、周易、御神籤などがこれに相当する。
特に、易を立てて占うことを「卜占(ぼくせん)」とも、「占卜(せんぼく)」
とも言う。


第19記事10
「いつもNAVI」様より、北上展勝地の画像を拝借。


姓名判断は、名前に表われている相(名相)から、その人の資質や性格、
運勢など、後天運を診断する占術で、相術の範疇に分類される。
厳密に言えば、後天運は更に「先天的な後天運」と、「後天的な後天運」に
分けられる。
「先天的な後天運」は、持って生まれた運命的な傾向性を意味し、「後天的な
後天運」とは、自らが抱く運命的な傾向性を、克己心を奮い起こし、自助努力
することに依って、方向転換させた後天的な運勢を意味する。

先天運(宿命)と後天運(運命)の違いは、クルマの走行に譬えると解り易い。
先天運というクルマが走行すると譬えた場合、その「運転状態・運転環境」の
在り様が後天運であると考えることが出来る。
どんな状態の道を走行するのか?
平坦でハイウェイのように整備された快適な道を行くのか?
それとも、原野のような悪路を進まねばならないのか?

どんな天候状態なのか?
春の日の柔らかい日差しを浴びて行くのか?
それとも、風雪厳しき荒天の中を進まねばならぬのか?

そして、その時、ドライバーがどんな「思いを味わう」のか?
心の底から湧き上がるかのような心地良い歓喜に浸るのか?
それとも、身も凍り付くかのような孤独感に苛まれねばならぬのか?

譬えて言うならば、これらの「運転状態・運転環境」が如何なるものであるか
を読み解き、占いの依頼者にお伝えすることが、姓名判断に依る運勢鑑定と
言えるであろう。
同姓同名の場合、クルマの「運転状態・運転環境」は同様の傾向性であるが、
そもそも、そのクルマがバイクなのか、ジープなのか、ベンツ車なのかという
宿命的な相違があるということになる訳である。


第19記事7
「GATAG」様のフリー画像・写真素材集1.0より、フリー画像を拝借。


姓名判断は明治時代中期、支那の陰陽五行思想や易学を基盤とした上で、
数霊の理論を導入し、日本で体系化された比較的新しい占い方法である。
昭和4年(1929年)、運命鑑定所「五聖閣」の設立者である熊崎健一郎氏は、
自らが考案した「熊崎式姓名学」という判断法を月刊誌「主婦之友」誌上で
発表、その著書「姓名の神秘」が出版され、日本姓名学中興の祖と呼ばれる
ほどに、現代の姓名判断の基礎理論構築、普及に多大な貢献をされた。
詳細は不明であるが、「熊崎式姓名学」は、易学者の林文嶺氏と言語学者の
永社鷹一氏が体系化した「林永流運命学」を基盤としているという説もある。
「熊崎式」は「五聖閣流」とも言い、1~81までの運数の暗示するところの
象意、「数の持つ運気」に基づいて、運勢鑑定をする占術である。
因みに、ご本名は「熊崎健一郎」氏であったが、還暦を期に戸籍上でも名の
変更をされ、「熊崎健翁(くまざき けんおう)」氏と改名されたという。
※熊崎氏の「崎」の字は、正しくは「大+可」ではなく、「立+可-一」である。


第19記事1
「PAKUTASO」様のフリー画像を拝借。


姓名判断の起源を、支那唐代に流行したという「測字(そくじ)占法」に
求める向きがある。
「測字」は「析字(せきじ)」「破字(はじ)」とも呼び、占いの依頼者が占い
たいことを意識して、頭に思い浮かべた漢字を一文字書き、その漢字を様々に
分解、分析し、そこから占断に必要な解釈を読み取る占い方法であるという。
しかし、確かに姓名判断は陰陽五行説や易学など、古代支那で誕生した運命学
を基礎理論として構築されているものの、主に姓名に用いられている文字の
画数から種々、占断に必要な数値を算定して解読という、数霊重視の現在の
運勢診断方法は日本独自の発想であり、体系化である。
古神道には、文字に秘められた数霊の象意を読み取り、その人の運勢を診る
名霊法(なのたまほう)という占法があった。
日本には古来、数は神秘なるもの、数は神なるものという数霊(かずたま)
への信仰があったと推察される。

姓名判断では、数霊とは別のニュアンスで、音霊(おとだま)の象意に依る
診断も加味する。
一例を挙げれば、インドのサンスクリット音韻学を基礎に、五十音の一音一音
にも、それぞれ異なる音意、音霊があるとして、名の初音重視で、性格や運勢
の暗示を読み取る。
古神道にも言霊(ことだま)に依る占い方法があり、例えば、「『あ』は全ての
ものの形が現われる兆しであり、物事の成立する兆しである」など、言霊は
50音それぞれに玄妙な意味が付されている。


第19記事9
「PAKUTASO」様のフリー画像を拝借。


実は、私も姓名学の研究を始めるまでは数霊の世界には疎く、名前の画数から
人の運勢を探るなど何と陳腐でふざけた占いであろうかと、小馬鹿にしていた
ものである。
「名詮自性(みょうせんじしょう)」、すなわち「名は自らの性を詮じ表わす」
という意味の仏教語がある。「詮」は備える意。「自性」は自らの性質の意。
「名というものは、そのもの自体の本質、本性を表わすものであるということ」
「名というものが、自らの性質を備えているということ」「名実相応」「名実一体」
平たく言えば、「名は体を表わす」ということであるが、それとこれとは全く
別で、人の名前から運勢解読が出来るという根拠が、随分と無理のある理屈に
思えたものである。
しかし、現実には姓名学は優れた占術であると同時に、実践的開運学でもある。
姓名判断で、自分自身の気性や性格的な傾向性、運命的な傾向性を再認識し、
実生活の上で生起する現象面との因果関係を推察し、そのことに依って、
自分自身の選択力を改善する努力の仕方や、方向性を見出し、自力即他力、
他力即自力の実相を踏まえた上で、人生を良き方向へと転換して行こうと
いうものである。
自助努力のみならず、吉祥名を撰名して、数霊誘導という手段に依る運気自体
の補強改善を図るという、吉改名に依る開運法もある。


第19記事4
「PAKUTASO」様のフリー画像を拝借。


姓名判断の流派は文字の画数の数え方の違いで、二派に大別することが出来る。
支那の漢字字典「康煕字典(こうきじてん)」に基づいた旧字体の画数で算定
する「正字主義」と、実際に書く場合の、省略された新字体の画数で算定する
「筆勢主義」である。
「正字主義」の場合、略字を「便宜上の記号」と捉え、文字の霊意というもの
を重んじることから、飽くまでも旧字体の画数を以って算定する。
例えば、「氵」(サンズイ)は、実際に書く場合は3画であるが、本来「水」が
偏になった時の形なので、文字の霊意を重んじて、4画と数える。
また、クサカンムリは3画ではなく、竹の草の篆書体「艸」で6画と数える。
「郞」などの「阝」(右側・オオザトヘン)は本来、「邑」の意味であること
から、3画ではなく、7画として数え、「陽」などの「阝」(左側・コザトヘン)
は「阜」が字源なので、8画と数えるといった具合である。

また、漢数字の画数の数え方は、「正字主義」では文字の霊意を重視し、本来の
画数ではなく、数字そのものを画数として、「四」は4画、「五」は5画、「六」
は6画、「七」は7画という具合に数える。
一方、「筆勢主義」では、実際に書く文字の画数で数えるので、「四」は5画、「五」
は4画、「六」は4画、「七」は2画という具合に数えることになる。

漢字一文字の画数の数え方で1画違っただけでも、算定する数値に相違が生じ、
当然のことながら、そのデータを根拠にした解読には大きな隔たりが生じる。
「正字主義」と「筆勢主義」とで、画数の数え方の違う漢字数は全体の約2割
程度であろうか。
私は飽くまでも「正字主義」を採っているが、現代では「筆勢主義」が主流と
なっているようである。



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2016/11/27 22:06 | 占いの歴史COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

占いの歴史夜話⑱…公的に認知された観相家

占いの歴史夜話⑱ 

…公的に認知された観相家
海軍省嘱託、司法省嘱託の水野義人氏




人相とは本来、骨相、体相、顔相、手相などを含む総称であるが、
現在では、殆どが顔相のことを指す。
占術としての「人相学」は、性格や適性だけではなく、運命的な未来予知など
をも読み取るツールであり、別名観相学とも呼ばれる。

昭和11年(1936年)頃のこと、日本海軍航空本部の求めに応じ、水野義人氏
という観相に長けた25歳の青年が海軍省嘱託として、霞ヶ浦航空隊に於いて、
練習生、予備学生の採用選考時の評価に人相鑑定担当で、関わっていたことは
有名である。
昭和17年(1942年)には「奏任官」(昭和20年までの官吏の身分上の等級、
高等官3~9等)待遇となり、昭和20年(1945年)の終戦時には「海軍教授」
に任ぜられていたという。
終戦後、日本を占領していた連合国最高司令官総司令部GHQの指令で、
公職追放されるまでは、復員局で若い復員者の進路相談や「司法省嘱託」と
して、調布刑務所で犯罪人の人相の研究をされるなど、活躍された。


第18記事1
霞ヶ浦海軍航空隊は大正11年(1922年)に開隊された、航空機搭乗員を養成する
教育機関であった。


昭和20年の春、横山一郎海軍少将が水野氏に、手相の勉強をしたいと望み、
教科書を貸して欲しいと頼んだところ、後日、英語の本を二冊渡されたそうで
横山少将は「手相は中国で発達したものだと思っていたので、大変に意外に
思った」と語られている。
確かに観相学と言えば、東洋文化のイメージが強いので、手相や顔相の研究が
ヨーロッパでも歴史が古く、盛んであったことは、一般には意外に感じられる
のかも知れない。

ヨーロッパでは古くから、手相学と共に人相学の研究は盛んに行なわれていた
ようで古代ギリシャでもヒポクラテスやプラトン、アリストテレスの著作など
が有名である。
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画でも、人相学に基づいて、各人物の性格を
表現するように描かれていると言われている。


第18記事2
プラトン&アリストテレス


容貌から、その人の気質や性格、才能や適性を判定し得るものとして
18世紀、スイスの人相学者ラファターが過去の研究文献を集大成した
「人相学断章」は、その後に多大な影響を与えたようである。
哲学者のイマヌエル・カントや文豪ゲーテさえもが、人相学に興味を持って
いたことは広く知られている。

また、大脳を心の器官と捉えて、その心的特性、心的能力はその領域に存在
するものとして、オーストリアの解剖学者フランツ・ジョセフ・ガルが頭骨の
大きさや形状から推定出来るという学説、骨相学を提唱して、19世紀に隆盛を
誇ったそうであるが、如何にも当時のヨーロッパのアカデミックな雰囲気が
伝わって来るかのような考え方である。

これらの学説は当然、アメリカにも影響を与え、1930年代には大学でも人相学
講座が設けられたほどに流行したそうである。
特に、企業が社員採用に際して参考にするなど、ビジネスマンの間で実践的に
珍重されたという。


第18記事3
レオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」 1495年-1498年制作


手相術や人相術などの占術に長けた水野義人氏が、海軍省嘱託の奏任官待遇で
大日本帝国海軍航空隊で活躍された昭和10年代は、欧米でも観相学が科学的
学問として盛んに研究され、それを受け入れる時代の思潮があったのである。

当時の科学技術の最先端を行く海軍航空隊が、「占い師」を雇っていたと言えば、
甚だ奇妙に聞こえる話であるが、その背景には航空界の草創期に於いて、訓練
中の海軍機事故が頻発し、大勢の練習生が殉職されたという異常事態があった。
海軍霞ヶ浦航空隊基地跡に、旧海軍が航空技術の訓練を始めた大正5年以降、
昭和20年の終戦まで、全国で訓練中の事故などで殉職された海軍航空隊員の
御霊5573柱が祭られている慰霊碑がある。
戦闘中の戦死ではなく、事故に依る犠牲者が5573名も居られたということである。

因みに、殉職者の数は
   ……………
昭和 8年31名
昭和 9年32名
昭和10年43名
昭和11年98名
昭和12年58名
昭和13年77名
昭和14年73名
昭和15年93名
   ……………
海軍航空本部では、死亡事故多発の状況下、事故防止対策の手掛かりとして、
機体自体の性能向上や操縦技術の修練は元より、パイロットに向いた適性と
しての性格や、搭乗時の心理状態に至るまでも、研究していたという。


第18記事4


昭和11年(1936年)頃のこと、後世「特攻作戦の生みの親」(異説有り)と
称されることになる、大西瀧治郎教育部長から桑原虎雄航空本部副長に、
自分の妻の父親が順天堂中学の校長をしていて、その卒業生の中に、骨相術、
手相術を良く遣うと評判の水野義人という青年がいるので、会ってみてくれ
ないかとの申し出が有ったという。

そういう経緯で桑原副長が会ってみると、この25歳の水野青年は航空事故が
続発するのは、パイロット選考方法が間違っているからであって、パイロット
としての資質、適性は骨相や手相に表われているはずだと主張した。
そこで、桑原副長は能力テストとして、120名ほどの教官や教員の適性を評価
させてみたところ、水野青年は一人当たり5、6秒、彼らの顔を凝視しては適性
を甲乙丙の三段階に評価してメモを取り、それと航空隊の評価表と比較して
みたところ、80数パーセントの的中率を得た。

その好結果に驚き、水野青年に傾倒するようになった桑原副長と大西教育部長
は早速、海軍省人事局や軍務局に、水野青年の採用を陳情するも当然のこと、
「海軍に人相見とはねぇ!」と取り合っては貰えず、当初は拒絶されたという。
そこで二人は山本五十六航空本部長に相談したところ、山本本部長は水野青年
と面談し、骨相、手相についての基本的な説明を聞いた後、その場に集めた
海軍士官たちの適性や経歴を鑑定させてみると、目を瞠るばかりの的中率で
あったことから、山本本部長は感嘆し、直ちに水野青年を海軍省嘱託として、
霞ヶ浦航空隊で練習生、予備学生の採用試験に立ち会わせることにしたという。
水野義人氏はそれ以来、終戦までの間に総計23万人の鑑定をし、適性を判定
されたという。


第18記事6


水野氏には、如何にも占い師らしい逸話が残されている。
日米開戦前に水野氏が、「あと1年もすると、戦争が始まりますよ」と言うので、
その理由を聞くと「最近、街を歩いている女性の顔を見ると、どうも未亡人の
相が出ています」と答えたとか。

また、昭和20年7月頃、桑原氏が「戦争はこれからどうなると思うかね?」と
聞くと、水野氏は「来月中には終わりますよ」と答え、その理由を聞くと
「最近、特攻基地を回ってみましたが、特攻隊の人たちの顔からどんどん死相
が消えています。これは戦争が終わる兆候です」と答えたという。
(「太平洋海藻碌」岩崎剛二氏著 光人社刊 参照)」


第18記事5
九三式中間練習機


現代からすると、公的機関である海軍省が観相家を顧問としていたことは、
甚だ奇異なことと捉えられるが、第二次世界大戦下に於いて、ドイツでは、
スイス生まれの占星術師カール・エルンスト・クラフト(Carl Ernst Kraft,
1900-1945)が宣伝省の職員として、また、イギリスではハンガリー人の
占星術師ルイ・ド・ウォール(Louis de Wohl ,1903-1961)が軍の特殊作戦
執行部(SOE)の職員として、水面下で「占星術戦争」を展開していたという
歴史的事実がある。




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2016/11/26 21:12 | 占いの歴史COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

占いの歴史夜話⑰…ドイツ・イギリス占星術戦争

占いの歴史夜話⑰ 

…ドイツ・イギリス占星術戦争



2008年(平成20年)、イギリス公文書館が公開した第2次世界大戦中の機密文書で、
イギリス軍のスパイ部隊を指揮した特殊作戦執行部(SOE)が第2次世界大戦中に
ハンガリー人の占星術師ルイ・ド・ウォール(Louis de Wohl ,1903-1961)を
雇っていたことが明らかになり、日本でも報道された。

この機密文書はイギリスの情報機関であるM16(軍情報部第6課)のもので、
007シリーズのジェームズ・ボンドはM16の諜報部員という設定であることから、
映画ファンにとっては有名な秘密情報部であろう。
イギリス軍が占星術師のアドバイスを受けていたことは以前から語られていた
ことであるが、イギリス政府が公式にその事実を認めたのは初めてであった。


第17記事1
Louis de Wohl(1903-1961)


ド・ウォールは処世術に長けた相当に強かな人物であったらしく、ヒトラーの
ナチスドイツに依るユダヤ人迫害が激しくなる前にイギリスに移住し、自分は
ハンガリー貴族の子孫であり、「現代のノストラダムス」と言われるほどに
有名な占星術師であると自らアピールすることで、上流社会の人々と交流し、
イギリス政府に注目されるようになったと言われている。

「あのような危険なペテン師を雇うとは信じがたい」との政府高官の批判も
一部にはあったものの、SOEはド・ウォールを最高の占星術師であると評価し、
陸軍大尉の階級を与え、その助言を珍重していたということである。
ヒトラーの顧問であった占星術師カール・エルンスト・クラフトがどのような
アドバイスを行なっているか予測出来れば、ドイツの軍事作戦を逆解読出来る
はずということで、実際にクラフトの立てる占星術的な戦略を次々と解読し、
イギリス軍の勝利に貢献したと言われている。

ド・ウォールはドイツ国民の戦意喪失を目的に、ノストラダムスの予言は
「連合国の勝利を予言している」と解釈した宣伝ビラや占星術雑誌、映画など
を作成し、プロパガンダ戦で活躍した。
また、厭戦気分の蔓延していたアメリカに派遣され、「ヒトラーの軍事行動が
予測出来る為に、必ず勝利出来る」と主張し、アメリカ国民にヨーロッパ戦線
への参戦を訴え掛けるなど、活発に活動したとのことである。


第17記事2


1939年(昭和14年)、スイス生まれの占星術師カール・エルンスト・クラフト
(Carl Ernst Kraft,1900-1945)は鑑定依頼された訳ではないにも拘わらず、
余計なお世話でアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)のホロスコープを
作成した結果、11月7日から10日の間に暗殺の危険があると解読、その旨を
国家保安本部(RSHA)に通報した。
ヒトラー暗殺未遂事件は40回以上もあったと言われているが、クラフトの
その予言は見事、11月8日に現実化した。
クラフトの予言が余りにも正確な予知であったことから、実行犯の関係者かと
疑われ、ゲシュタポ(ドイツ国家秘密警察)に逮捕された。

この一件で、クラフトは優秀な占星術師と認められ、ドイツ宣伝省の職員に
採用されることになった。
宣伝省の大臣は、プロパガンダ(政治的意図の下に主義や思想を強調する宣伝)に
天才的な才能を発揮したパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels,
1897-1945)であった。
ノストラダムスに関心を抱いていたゲッペルスは、ノストラダムスの予言で、
「ドイツの勝利が予言されている」と宣伝することを思い付き、その予言解釈を
クラフトに命じた。


第17記事3
Paul Joseph Goebbels(1897-1945)

第17記事6
Adolf Hitler,(1889-1945)&Paul Joseph Goebbels(1897-1945)


そして、クラフトはナチスドイツに都合の良い解釈を行った「如何にして、
ノストラダムスはヨーロッパの未来を予見したか」という本を書いた。
この「ノストラダムスがドイツの勝利を予言している」という内容の本や
宣伝ビラがイギリス、フランス、アメリカと連合国にばら撒かれたことから、
イギリス政府はルイ・ド・ウォールを雇って、対抗したという訳である。


第17記事4
Carl Ernst Kraft(1900-1945)


ドイツ軍の作戦の決行は、クラフトの選んだ吉日に行なわれたとまで言われて
いるほどにクラフトは重用されていたが、当然のことながら、正しく占星術で
占えば、ドイツの敗戦を予知出来ていた訳であるから、クラフトは停戦を
呼び掛けるなど、ドイツ政府の望むような占い結果を出さなくなって行った。
その後は占星術師たちへ大規模な迫害が加えられるようになり、クラフトは
1943年2月、Leherterstrasse刑務所に投獄され、3月に発疹チフスに感染。
その後、Oranienburg強制収容所に移され、1945年1月、栄養失調で死亡とのこと。
クラフトの最後の予言は「ドイツ宣伝省は、その卑しむべき行為の罰として、
連合国の爆撃を受けるだろう」というもので、その予言はベルリン大空襲に
よって的中したことになる。

神なるものからのサインを解読する言語とも言える、神聖な行為であるべき
占術を悪用し、人を欺いてはいけないということである。


第17記事5
ベルリン陥落



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2016/11/26 12:38 | 占いの歴史COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

占いの歴史夜話⑯…手相学研究の意外な歴史

占いの歴史夜話⑯ 

…手相学研究の意外な歴史



インドに発祥した手相学は、紀元前にはすでにエジプト、ペルシャからトルコ、
ギリシャに至るまで広まっていて、古くは「キロロジー」と呼ばれていた。
「キロ」というのはギリシャ語で、「手」を意味する。

古代ギリシャの偉大な哲学者たちの中にも、手相学に魅せられ、熱心に研究
したことで有名な人々がいる。
紀元前6百年頃のピタゴラスや、紀元前5百年頃のアナクサゴラスは有名。
その中でも驚くべきは、手相学の普及に大きく貢献した、紀元前4百年頃の
アリストテレスの存在であろう。
アリストテレスは「手相術」という著作で、手の線や紋と運命の関係に就いて、
「手の線は生命の長さを表わす」「自然が人間の手の平に刻み付けた色々な線
や紋に依って、その人の健康状態や性癖、運勢の判断をするのが手相術である。
これらの線や紋は十人十色であって、決して同一のものはない」などと述べ、
手相の判断法を詳細に述べている。
このアリストテレスの著作は、手をテーマにしたテキストでは現存する最古の
ものの一つと言われている。


第16記事1
プラトン&アリストテレス


また、アリストテレスはエジプトを旅した時に見付けたアラビア語で書かれた
手相学の本に感銘を受け、アレキサンダー大王にその本を贈り、「これは有益で
価値ある研究成果であるから、学者という学者はみな、これを学ぶべきです」
と助言したと言われている。
そして、アレキサンダー大王はその価値を大いに認め、早速ラテン語に翻訳
させたことに依って、手相学はヨーロッパの学者たちにも伝わり、研究される
ようになったとのこと。


第16記事2
アレキサンダー&家庭教師アリストテレス


ヨーロッパの手相学研究は4世紀に至って、ローマカトリック教会からの弾圧
を受け、その後1千年もの長い期間、禁止されていた。
手相学はキリスト教ではない異教に起源を持つもので、手相の診断に関わった
者は破門するとの決定がローマカトリック教会で為されたのである。
教会から破門されれば、地獄行きというキリスト教の観念に囚われていた時代
のことであるから、禁忌を破ることは大変に恐ろしいことであったに違いない。
それでも人目を忍んで、密かに手相診断は行なわれ続けていたようである。
この手相学が迫害された時代、手相診断はジプシーの間だけで行なわれていた
という説もある。

14世紀から16世紀に掛けてのルネサンスの時代を迎え、キリスト教会の呪縛
から解き放たれ、古代の文化を復興しようという機運に乗って、手相学への
興味や理解が復活したと言われている。
ドイツの大学では手相学の講座まで開設されるようになった時代に、イギリス
では時代の流れに逆行した形で、手相学を全面的に禁止する法案が議会で可決
されるような事態も起きた。
それでも19世紀末のイギリス、ビクトリア女王の時代には手相診断が大流行
したとの記録がある。


第16記事3
Cheiro (William John Warner)


世界で最も華やかな成功を収めた手相家は、アイルランド生まれのキロ
(1886~1936)と言えるであろう。
ギリシャ語で「手」を意味する「キロ」(Cheiro)を鑑定士名として、
名乗ったのである。
我が国では「キロ」と呼ばれているが、「カイロプラクティック」の「カイロ」
と同様に、本来は「カイロ」と発音するのが正確なようである。


第16記事4
「Cheiro's Language of the Hand」(1892)


キロの本名はウィリアム・ジョン・ワーナー(William John Warner)で、
20歳の時にイギリスに渡り、ロンドンの中心部、ウエストミンスターにある
街路ボンドストリートで街占の占い師として、活動を開始した。
貴族の血統であるという権威付けの演出をしたかったと見えて、当時から
ルイス・ハーマン伯爵と名乗っていたという。
やがて、王族やグラッドストーンなどの政治家、発明家のエジソンや作家の
マーク・トウェインなど、有名人の相談役として、イギリス、アメリカで活躍
したが、キロの著作は現代日本の手相診断法にも大きな影響を残している。
特に、キロの流年法を用いている手相家は現代でも多い。
勿論、独自の流年法を編み出している優れた手相家もいらっしゃる。


第16記事5
マーク・トウェインの手相


手型学と掌線学で構成されるキロの著作「Cheiro's Language of the Hand」
(1892)、「The language of the Hand」(1897)は当時、ベストセラーとなり、
その印税で得たお金を賢く投資に回しては、大いに利益を得たと言われている。
彼の著作の成功は、有名人の手の写真を掲載したことが大きかったという。
有名人の威光を自分に投射させ、自らの名声を高めるというのは、今も昔も
変わらない自己宣揚の演出法と言えるのであろう。



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2016/11/26 03:26 | 占いの歴史COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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