帝国憲法四方山話⑤…副署の大臣たちは、愛しき碌でもない奴ら

 2018-04-20
帝国憲法四方山話⑤ 

…副署の大臣たちは、愛しき碌でもない奴ら



大日本帝国憲法は、明治22年(1889年)2月11日に公布された。
明治天皇の御名御璽の後に、輔弼を意味する国務大臣の副署が行われた。

内閣総理大臣 黒田清隆(薩摩)
枢密院議長  伊藤博文(長州)
外務大臣   大隈重信(佐賀)
海軍大臣   西郷従道(薩摩)
農商務大臣  井上 馨(長州)
司法大臣   山田顕義(長州)
大蔵大臣
兼内務大臣  松方正義(薩摩)
陸軍大臣   大山 巌(薩摩)
文部大臣   森 有礼(薩摩)
逓信大臣   榎本武揚(旧幕臣)

副署の大臣10人中、薩摩閥が5人、長州閥が2人、土佐閥、佐賀閥、旧幕臣
各1人であった。

副署を行なったのは、長州の吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、
吉田稔麿でもなければ、薩摩の西郷隆盛、大久保利通でもない。
近代憲法制定は、立憲君主国家樹立という歴史を画する大偉業であったが、
その憲法に副署を行なった大臣たちの顔触れを見ると、随分と碌でもない奴ら
のオンパレードで、突っ込みどころ満載の場違いな印象を受ける。


大臣の副署


薩摩の黒田了介は、戊辰戦争で見事な戦い振りを見せた好漢であったが、
大の酒乱で、妻清の斬殺を疑われるわ、小樽沖で軍艦の大砲を撃っ放し、
高嶋村の娘を一人死なせるわと、とんでもない薩摩っぽであった。

長州の伊藤俊輔は、欧州での憲法調査でウィーン大学のローレンツ・フォン・
シュタイン博士から、日本の歴史、文化、伝統に基づいた立憲体制を作るべき
ことを学んで来たところは立派であったが、閣議の席にも芸妓を侍らせたと
いう逸話を残すほど、女に汚く、そこら中に子種を撒き散らしたという女狂い
の碌でもない奴であった。

いつでも何処でも、スタンドプレーがお得意だった佐賀の大隈八太郎。

薩摩の大西郷の七光りで立身出世した、弟の西郷信吾、従兄弟の大山弥助。

鹿鳴館建設で有名であるが、金と女、両方に汚かった、長州の井上聞多。

戊辰戦争では見事に奮戦し、「日本の小ナポレオン」と讃えられたほどの軍人で、
日本大学の前身である日本法律学校や国学院大学の前身である國學院を創設
したのは立派であったが、幕末の京都市中、新撰組の巡察隊を見掛けると、
怖くて、怖くて、とりわけ、土方歳三が恐ろしくて、仲間と共に蜘蛛の子を
散らしたかのように、慌てて路地に逃げ込んでいたという若造であった長州の
山田市之允。

島津久光の側近だったお陰で立身出世した、薩摩の松方助左衛門。

慶応元年(1865年)に英米に留学し、明治維新後に帰国と、戊辰戦争を経験
せずに美味しいところだけ頂戴して、立身出世した薩摩の森金之丞。

幕府にオランダ留学させて貰い、戊辰戦争では箱館の五稜郭で、蝦夷共和国を
樹立、総裁の地位に就いたが降伏後、薩長閥に仕え、福澤諭吉に「瘠我慢の説」
で批判された旧幕臣の榎本釜次郎。


明治憲法発布13


大日本帝国憲法は、明治23年(1890年)11月29日に施行された。
その翌年の明治24(1891)年、ロシア皇帝アレクサンドル3世の長子で
あった皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後のニコライ2世
=最後のロシア皇帝)がロシア海軍艦隊を率い、 シベリア鉄道建設委員長として、
ウラジオストックでの 極東地区起工式典に向かう途中、日本を訪問した。
そのロシア皇太子ニコライが、京都から琵琶湖への日帰り観光を楽しみ、
宿舎の京都・常磐ホテルへの帰り道、琵琶湖湖畔の大津で、警備(護衛)の
一巡査津田三蔵に人力車越しに頭部を切り付けられ、軽傷を負う事件が起きた。
世に言う「大津事件」である。

この大津事件に当たり、大審院長児島惟謙 (こじま これかた)は、皇室罪を
適用し、死刑に処すべしとの強大な政治介入を排除し、津田三蔵に謀殺未遂罪
に依る無期徒刑を宣告させ、司法権の独立を守り通した。
児島は「三権分立の理念」を説き、明治政府側の非立憲的発想に依る皇室罪の
適用は、大日本帝国憲法を損ない、裁判史に汚点を残すと考えたのであった。
このことに依り、児島は、「護法の神様」「護法の巨人」と称えられ、我が国の
司法史上に燦然と不滅の光を放ち、また海外でも大きく報じられ、国際的に
日本の司法権に対する信頼を高めたと評価されている。


明治憲法発布11


大日本帝国憲法では、第5章司法で「司法権の独立」が保障してあり、第2章
臣民権利義務で、臣民の権利を保障して、第23条「日本臣民ハ法律ニ依ルニ
非ズシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」 と規定してあった。
また刑法第2条には、「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ
得ズ」との明文があったのである。

それにも拘わらず、憲法に副署した大臣たちの大津事件への対応が余りにも
酷過ぎた。
「恐露病」と揶揄(やゆ)されたほどの松方正義首相、山田顕義法務大臣、
西郷従道内務大臣らは、ロシア公使シェービッチに「如何なる事態になるか
判らない」と恫喝され、津田三蔵への死刑適用に奔走した。
伊藤博文に至っては、津田三蔵死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を
敷いてでも、断行すべきであると主張した。
こんな碌でもない連中がどの面下げて、大日本帝国憲法に副署したのやら。
0050 (2)

幕末に活躍した勤皇の志士の内、一流の人物達は幕末の動乱、萩の乱や
西南戦争など明治初期の段階でこの世を去り、生き残った二流三流の人物たち
が明治政府の顕官として、栄耀栄華に浴したのであるからして、このような
体たらくであった訳である。
麗しき我が国は、こうした愛しき碌でもない奴らが作り上げて来たのである。
回るカエルちゃん


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帝国憲法四方山話④…大日本帝国憲法 上諭

 2018-04-20
帝国憲法四方山話④ 

…大日本帝国憲法 上諭



大日本帝国憲法 上諭(じょうゆ) 明治22年(1889年)2月11日
(カタカナをひらがなに変換&ふりがな表記) 文責在詠山史純 


朕(ちん)、祖宗(そそう)の遺烈(いれつ)を承(う)け、万世一系の帝位を
践(ふ)み、朕か親愛する所の臣民は、即ち、朕か祖宗の恵撫慈養(けいぶじよう)し
たまひし所の臣民なるを念(おも)ひ、其の康福(こうふく)を増進し、
其の懿徳良能(いとくりょうのう)を発達せしめむことを願ひ、又、其の翼賛
(よくさん)に依り、与(とも)に倶(とも)に国家の進運を扶持(ふぢ)
せむことを望み、乃ち、明治十四年十月十二日の詔命(しょうめい)を履践
(りせん)し、茲(ここ)に大憲を制定し、朕か率由(そつゆう)する所を
示し、朕か後嗣(こうし)及、臣民及臣民の子孫たる者をして、永遠に循行
(じゅんこう)する所を知らしむ。

国家統治の大権は、朕か之を祖宗に承けて、之を子孫に伝ふる所なり。
朕及朕か子孫は、将来、此の憲法の条章に循(したが)ひ、之を行ふことを
愆(あやま)らさるへし。

朕は、我か臣民の権利及財産の安全を貴重し、及、之を保護し此の憲法及法律
の範囲内に於て、其の享有(きょうゆう)を完全ならしむへきことを宣言す。

帝国議会は、明治二十三年を以て、之を召集し、議会開会の時を以て、
此の憲法をして有効ならしむるの期とすへし。

将来、若、此の憲法の或る条章を改定するの必要なる時宜を見るに至らは、
朕及朕か継統の子孫は、発議の権を執り、之を議会に付し、議会は此の憲法に
定めたる要件に依り、之を議決するの外、朕か子孫及臣民は敢て、之か紛更
(ふんこう)を試みることを得さるへし。

朕か在廷の大臣は、朕か為に、此の憲法を施行するの責に任すへく、朕か現在、
及、将来の臣民は、此の憲法に対し、永遠に従順の義務を負ふへし。


明治憲法1


※上諭…君主が臣下に告げて、諭す文書。
明治憲法下に於いて、法律、条約などを公布する際、天皇の裁可があったこと
を示す為、冒頭に付した文章。

●祖宗(そそう)
皇祖皇宗(神武天皇および歴代天皇)のご神霊

●遺烈(いれつ)
先人の残した功績。後世に遺る立派な業績、功績。

●万世一系(ばんせいいっけい)
天皇の血統が永遠に一系統で続くことを示す。

●恵撫(けいぶ)
恵み、労わること。

●慈養(じよう)
目下や幼少の者を養い、育てること。慈愛を以って、養育すること。

●臣民(しんみん)
君主国に於いて、君主の支配の対象となる人々。
明治憲法下に於ける、天皇・皇公族以外の国民。

●懿徳(いとく)
立派な徳。

●良能(りょうのう)
生まれながらに備わっている優れた才能。

●翼賛(よくさん)
力を添えて助けること。 天皇の政治を補佐すること。

●扶持(ふぢ、ふち)
援助すること。力を貸すこと。

●詔命(しょうめい、じょうめい)
天皇のご命令。詔(みことのり)。
「明治十四年十月十二日の詔命」とは、
1881年10月12日の「国会開設ノ勅諭」を指す。

●履践(りせん)
実行すること。実践すること。 

●率由(そつゆう)
前例から外れないようにすること。 

●循行(じゅんこう)
順路に従って、巡り歩くこと。命令に服従して、行うこと。

●愆る(あやまる)
過る。罪科を犯す。時期を違える。機を逸する。

●享有(きょうゆう)
権利や能力等を、人が生まれながらにして、身に付けて持っていること。

●紛更(ふんこう)
秩序が無く、無闇に改め変えること。


明治憲法上諭


現代語訳 (文責在詠山史純)

(第1節)
朕(われ)は、我が祖先(神武天皇)、歴代天皇が残された功績を受け、
万世一系の帝位に身を置き、我が親愛なる臣民は、すなわち、我が祖先、
歴代天皇が慈しみ、養い育てたところの臣民であることを思い、その幸福を
増進し、その立派な徳と生まれながらに備わっている優れた才能を発達させる
ことを願い、また、その補佐に依って、共に国家の進歩、発展する機運を助け、
支えてくれることを望む。
つまり、明治十四年十月十二日の「国会開設ノ勅諭」を履行し、ここに憲法を
制定し(天皇の権能を定め)、朕(われ)が前例から外れないようにするところ
を示し、我が跡継ぎ、及び、臣民と、またその子孫が、永遠に憲法に従い、
実行するところを強いて知らせる。

(帝権の由来、憲法制定の理由が示され、天皇と天皇の後嗣は憲法の規定に
従って、国家の統治権を行使すべき立憲君主のお立場が示されている)


(第2節)
国家統治権は、朕(われ)がこれを我が祖先、歴代天皇より受け継ぎ、また、
子孫に伝えて行くものである。
朕(われ)及び、我が子孫は将来、この憲法の規定に従って、国家統治権を
行使することを誤ってはならない。

(国家統治権は皇室の世襲に属すること、国家統治権を行使するには憲法の
規定に従うことを明記)


(第3節)
朕(われ)は、我が臣民の権利、及び財産を安全に貴重保護し、この憲法、
及び法律の範囲内に於いて、その享有を完全に確かなものとして良いと
宣言する。

(臣民の権利財産を安全に貴重保護することを天皇が確約したもの。
また、逆に、国家が制約する場合に於いても、それは必ず憲法及び法律の
範囲内でなければならないことを意味することになる)


(第4節)
帝国議会は明治23年を以って召集され、議会開会の時(明治23年1月29日)
を以って、この憲法が有効となる期日とする。

(憲法の有効化以降、帝国議会の協賛無くして、法律制定出来なくなった)


(第5節)
将来、この憲法のある条文を改正する必要が出た時期に至ったならば、
朕(われ)、及び我が子孫はその改正を発議し、これを議会に提出、議会は
この憲法に定められた要件に従がって、これを議決する以外、我が子孫、及び
(その時代の)臣民は決して、これを乱して、無闇に改め変えようとすること
があってはならない。

(憲法改正の要件を定めたもので、憲法改正案の提出は天皇の権限、
つまり、発議には先ず勅命を必要とした。憲法改正条項は第73条)


(第6節)
朕(われ)の朝廷に仕えている大臣は、朕(われ)の為に、この憲法を
施行する責任を有し、朕(われ)の現在、及び将来の臣民はこの憲法に対し、
永遠に従順の義務を負わなければならない。


明治憲法SS


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帝国憲法四方山話③…憲法発布勅語…歴史的連続性の認識

 2018-04-20
帝国憲法四方山話③ 

…憲法発布勅語…歴史的連続性の認識



「憲法発布勅語」 明治22年(1889年)2月11日

「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権
ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ
無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ
国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ
即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ
相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固
ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ」


明治憲法B


(ふりがな表記)

「朕(ちん)国家ノ隆昌(りゅうしょう)ト臣民(しんみん)ノ
慶福(けいふく)トヲ以テ(もって)中心ノ欣栄(きんえい)トシ
朕カ祖宗(そそう)ニ承(う)クルノ大権ニ依(よ)リ現在及将来ノ臣民ニ
対シ此ノ不磨(ふま)ノ大典(たいてん)ヲ宣布ス
 惟(おも)フニ我カ祖(そ)我カ宗(そう)ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼
(ほよく)ニ倚(よ)リ我カ帝国ヲ肇造(ちょうぞう)シ以テ(もって)
無窮(むきゅう)ニ垂(た)レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳(いとく)ト
並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉(したが)ヒ以テ(もって)
此ノ光輝(こうき)アル国史ノ成跡(せいせき)ヲ貽(のこ)シタルナリ
朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ
奉体(ほうたい)シ朕カ事ヲ奨順(しょうじゅん)シ相与(あいとも)ニ
和衷(わちゅう)協同シ益々(ますます)我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ
宣揚(せんよう)シ祖宗ノ遺業(いぎょう)ヲ永久ニ鞏固(きょうこ)
ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分(わか)ツニ堪フルコトヲ
疑ハサルナリ」


明治憲法C


●欣栄(きんえい)
喜びと光栄。 喜ばしい光栄。

●不磨(ふま)
磨り減らないこと。 長く価値を保つこと。 不朽。
「不磨の大典」
①.長い間改定されていない、重要な法律や規則。
②大日本帝国憲法の美称
「現在及将来の臣民に対し、此の『不磨の大典』を宣布す」との文言があった
ことから、第73条に憲法改正の規定は存在したが、大東亜戦争敗戦後、占領軍
の圧力で新憲法が起草されるまで、改正発議は一度も無かった。

●輔翼(ほよく)
政務を助けること。 君主を補佐すること。

●肇造(ちょうぞう)
(国などを)初めて造ること。 創造。

●無窮(むきゅう)
果てしないこと。 また、その様。 無限。 永遠。

●奉体(ほうたい)
受け賜って、よく心に留めること。 また、それを実行すること。

● 奨順(しょうじゅん)
助け従うこと。 勧奨し順行すること。 また、奨め導くこと。

●和衷協同(わちゅうきょうどう)
心を合わせ、互いに協力して事を為すこと。 和協。

●鞏固(きょうこ)
強くしっかりして、揺るがない様。 強固。


後醍醐天皇と楠正成
笠置城(京都府相楽郡笠置町笠置)にて、後醍醐天皇に拝謁する楠木正成公


現代語訳 (文責在詠山史純)

朕(われ)は、国家の隆盛と臣民の幸福とを以って、一番の喜びと光栄とし、
朕(われ)が歴代天皇から受け継いだ大権に依って、現在及び将来の臣民に対し、
この不朽の大いなる法典を宣布する。
考えてみるに、我が祖先(神武天皇)、歴代天皇は、我が臣民の祖先たちの協力、
補佐に依り、我が帝国を創造し、それを後世に永久の模範として示された。
このことは、我が神聖なる歴代天皇の威徳と、並びに臣民の忠実勇武にして、
国を愛し、殉国を厭わない行為に依って、この光輝ある日本の歴史に足跡を
残して来た。
朕(われ)は、我が臣民が、すなわち歴代天皇の忠実で善良なる臣民の子孫で
あることを思い起こし、我が帝国の光栄を国の内外に広く知らしめ、歴代天皇
の偉業を永久に強固たるものにするという希望を同じくし、その任の分担に
耐え得ることを疑わないものである。


後醍醐天皇と名和長年
隠岐島から脱出された後醍醐天皇を船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に迎える名和長年公


「我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ」
(我が祖先(神武天皇)、歴代天皇は、我が臣民の祖先たちの協力、補佐に依り、
我が帝国を創造し《意訳》)という文言が好い。
神代以来の万世一系の天皇と臣民という関係の連続性を自覚させられる。
何時の時代の日本人も、皇統を縦糸に織り成す歴史的な連続体の中に生きたと
いう日本的事実の中に在る。
日本全国が江戸幕藩体制に在って、征夷大将軍に委任統治され、民衆に天皇の
存在が殆ど忘れ去られていたような時代、明治期に於いて、「天皇陛下のお召し
に依って、徴兵される」と言われても、「そんなオッサン、わしゃ、知らんぞ」
と返答したような時代であっても、伝統的な天皇の価値観は変わらなかった。
近代日本国家のスタートに当たり、王政復古を必要としたこと、神代以来の
天皇の宗教性、カリスマ性を必要としたことは、如何にも日本的である。
日本人の誰しもが、親の親の親…と何代も何十代も遡って行けば、何処かで
歴代天皇との血の繋がりがあるかも知れないと感じさせるような大家族国家
を自覚させられるものがある。


京都御所


この憲法発布勅語の「此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」という文言に依って、
残念ながら、明治憲法が「不磨の大典」「不朽の大典」とされ、条文の改正が
事実上、不可能に近かったことが、昭和の悲劇を導いてしまったとも言える。
内閣制度を憲法に明記し、政府の権限を明確に規定しておけば、第11条
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との条文はそのままであっても、政府が皇軍を
統制することは可能であったはずである。

第7章補則、第73条「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ
勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スベシ」と改正条項が明記されていたにも
拘わらず、改正に必要な天皇の勅命の奉戴工作を企図する者さえいなかった。
憲法外機関の元老たちが、政府の最高首脳として充分に機能していたことで、
明治憲法の欠陥が露呈することなく、制御されていた時代はまだ良かった。
本来ならば、元老の時代の終焉と共に、状況の変化に相応した憲法改正を
すべきであった。

「GHQ民生局の軍人、軍属25人&コミンテルンのスパイ&日本人売国奴
共同制作の即席翻訳占領憲法」である現行のお馬鹿憲法も「不磨の大典」と
化していることは、再び日本に悲劇を招く恐れがあるということである。


第219記事1
昭和天皇は、新憲法典「日本国憲法」に裁可のご署名をされている場面の写真に、
「裕仁」とサインを認められ、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に贈られた。





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帝国憲法四方山話②…日本には欽定憲法こそが相応しい

 2018-04-20
帝国憲法四方山話② 

…日本には欽定憲法こそが相応しい



大日本帝国は明治18年(1885年)、太政官制を廃止して、内閣制度を導入し、
伊藤博文(長州)が初代内閣総理大臣となった。
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法が発布され、第1回帝国議会が開会
された翌明治23年(1890年)に施行された。
また、憲法発布と同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。

それに先立つ明治15年(1882年)、参議伊藤博文や井上毅らが渡欧し、
ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・
フォン・シュタインの両憲法学者から、ドイツ系立憲主義の理論を学んだ。
ドイツ帝国は小国家を統一した連合国家で、その憲法は単一民族国家である
日本には適さず、むしろドイツ帝国の中核、旧プロセイン王国の憲法体制が
最も適すると判断され、明治16年(1883年)、憲法取調局(制度取調局)は
プロセインタイプをベースに、憲法草案の起草を開始した。

日本の法体系の根幹となるべき憲法であれば、単なる立憲君主国の制度を
外国に倣って導入すれば良いというものではなく、それは日本の歴史、伝統、
文化に立脚した、日本の国柄を十全に反映したものでなければならない。


憲法発布A


大日本帝国憲法は、明治天皇が内閣総理大臣黒田清隆(薩摩)に手渡すという
「欽定(きんてい)憲法」の形態で発布された。
欽定憲法とは、「君主の意思に依って制定され,国民に与えられた憲法」と
定義され、ヨーロッパでは王権と民権との対立構造の中で、強い権力を有する
君主が民権の伸張を抑圧する為、一方的に国民に押し付けるのを常とする。
しかし、憲法の立案に関わった伊藤博文が、「そもそも憲法を設ける趣旨は、
第一に君権(公権力)を制限し、第二に臣民(国民)の権利を保全すること
である」と述べているように、大日本帝国憲法は欽定憲法でありながら、
恰も民定憲法であるかのように、王権と民権の均衡が図られていた。

それは偏に、万世一系の天皇が皇祖の神勅を奉じて統治する一大家族国家と
という、日本の国体に起因する。
天皇は皇祖皇宗、ご歴代天皇の神霊を祀り、その大御心を奉戴して国を統治し、
国民はそのご歴代天皇の下で臣民として生きたご先祖代々を敬い、君臣共に
生者のみの概念でものを考えないのである。


明治元年(1868年)3月14日、16歳の明治天皇が紫宸殿に公卿諸侯を
集め、天神地祇を祀り、神々に誓約するという形で新しい国家の方針を
表明された「御誓文(五箇条のご誓文)」同様に、大日本帝国憲法もまた
明治天皇が「76箇条のご誓文」を「天神地祇のご神前で神々(皇祖皇宗)に
お誓い申し上げた」ということである。
従がって、「欽」の語は「天子に関する物事に冠して、敬意を示す」語であるが、
明治22年発布の欽定憲法の「欽(つつ)しんで、定める」という敬意の対象は、
明治天皇ではなく、神々(皇祖皇宗)である。
近代日本の国是からして、天皇と国民という生者間の王権と民権のせめぎ合い
の中で、天皇が国民に下されたという意味の欽定憲法ではないのである。
それは、大日本帝国憲法発布に於ける「告文(つげぶみorこうもんorこうぶん)」
「憲法発布勅語」及び「大日本帝国憲法上諭(前文)」に明示されている。


御誓文500


大日本帝国憲法「告文」

明治22年2月11日公布
明治23年11月29日施行
昭和22年5月3日失効


皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神靈ニ誥ケ白サク皇朕レ天壤無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ寶祚ヲ承繼シ
舊圖ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ發達ニ
隨ヒ宣ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ
外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメ益國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲
民生ノ慶福ヲ增進スヘシニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ
逮テ時ト倶ニ擧行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威靈ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ神祐ヲリセテ朕カ現在及將來ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ
愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
神靈此レヲ鑒ミタマヘ


※上奏文等に於いて、高貴な人に関する語を記述する際、最高の敬意を示す為 
 に改行し、他よりも高く書く「擡頭(たいとう)」という文書上の作法がある。
 (縦書き)
「皇」の文字を各行の先頭に記述するのはその為で、この「告文」の場合、
敬意の対象は皇祖皇宗である。


明治憲法告文


(ふりがな表記)

皇朕(わ)レ謹(つつし)ミ畏(かしこ)ミ
皇祖(こうそ)
皇宗(こうそう)ノ神霊(しんれい)ニ誥(つ)ケ白(まう)サク
皇朕(わ)レ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ宏謨(こうぼ)ニ
循(したが)ヒ惟神(ただかみ)ノ宝祚(ほうそ)ヲ承継(しょうけい)シ
旧図(きょうと)ヲ保持(ほじ)シテ敢(あへ)テ失墜(しっつい)スルコト
無(な)シ
顧(かへり)ミルニ世局(せいきょく)ノ進運(しんうん)ニ膺(あた)リ
人文(じんもん)ノ発達ニ随(したが)ヒ宜(よろし)ク
皇祖
皇宗ノ遺訓(いくん)ヲ明徴(めいちょう)ニシ典憲(てんけん)ヲ成立シ
条章(じょうしょう)ヲ昭示(しょうじ)シ内(うち)ハ以(もち)テ
子孫(しそん)ノ率由(そつゆう)スル所(ところ)ト為(な)シ
外(そと)ハ以(もち)テ臣民(しんみん)翼賛(よくさん)ノ道(みち)ヲ
広(ひろ)メ永遠(えいえん)ニ遵行(じゅうんこう)セシメ益々(ますます)
国家ノ丕基(ひき=統治の基礎)ヲ鞏固(きょうこ)ニシ八洲(やしま=日本
の美称〉民生(みんせい=臣民の生活)ノ慶福(けいふく)ヲ増進(ぞうしん)
スヘシ
茲(ここ)ニ皇室典範(こうしつてんぱん)及憲法ヲ制定ス
惟(おも)フニ此(こ)レ皆(みな)
皇祖
皇宗ノ後裔(こうえい)ニ貽(のこ)シタマヘル統治(とうち)ノ洪範(こうはん)ヲ
紹述(しょうじゅつ)スルニ外(ほか)ナラス
而(しか)シテ朕(ちん)カ躬(み)ニ逮(および)テ時(とき)ト倶(とも)
ニ挙行(きょこう)スルコトヲ得(う)ルハ洵(まことに)ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威霊(いれい)ニ倚藉(いしゃ)スルニ由(よ)ラサルハ無(な)シ
皇朕(わ)レ仰(あおぎて)テ
皇祖
皇宗及
皇考(こうこう)ノ神祐(しんゆう)ヲ祷(いの)リ併(あわ)セテ
朕カ現在及将来ニ臣民(しんみん)ニ率先(そっせん)シ此ノ憲章(けんしょう)ヲ
履行(りこう)シテ愆(あやま)ラサラムコトヲ誓(ちか)フ庶幾(ねがわ)クハ
神霊(しんれい)此(こ)レヲ鑒(かんがみ)ミタマヘ


御告文A


現代語訳 (文責在詠山史純)

告文
皇朕(われ=明治天皇)は謹んで、皇祖皇宗(神武天皇および歴代天皇)のご神霊
にお告げ申し上げます。
皇朕(われ)は、いつまでも続いて行く天地のように、いつまでも続く広大な
計画に従い、ご神霊の皇位を継承し、これまでの国土と伝統文化を維持し続け、
決して失墜することの無きように致します。
歴史を顧みて、世の中の進歩、向上に連れ、人倫の発展を更に進めるに当たり、
皇祖皇宗が残して下さいました訓戒を明らかにした憲法を作ります。
皇室典範と憲法を制定して、その条章を明示し、皇室では子孫がこれらの規則
から外れないようにし、国民には、天皇を補佐する道を広めて、皆が助け合い、
永遠に憲法に従わせるようにして、益々国家統治の基礎を強固にし、国民の
生活の幸福を増進致します。
その為に、ここに皇室典範及び、憲法を制定致します。
深く顧みるに、これはみな皇祖皇宗が子孫に遺し給われた統治の模範に従い、
行動することに他なりません。
そして、皇朕(われ)の代に成って、憲法を制定出来るのは誠に皇祖皇宗及び、
先帝(孝明天皇)の有り難いご神威に依るものです。
皇朕(われ)は仰いで、皇祖皇宗及び、先帝(孝明天皇)のお助けを祈願し、
併せて、皇朕(われ)の現在及び将来に、国民に率先して、この憲法を実行
して、これを誤ることの無いようにすることをお誓い致します。
願わくば、ご神霊よ、この誓いに照らし合わせて、皇朕(われ)を導き給え。


明治憲法発布C


●天壌無窮(てんじょうむきゅう)
天地とともに永遠に続くこと。

●宏謨(こうぼ)
広大な計画。 宏図(こうと)。

●惟神(ただかみorかんながら)=随神
神代のまま。 神の思し召しのまま。
人為の加わらない神代から伝わって来た神の御心のまま。

●宝祚(ほうそ)
天皇の位。 皇位。 宝位。 おおみくらい。

●率由(そつゆう)
前例から外れないようにすること。 

●臣民(しんみん)
君主国に於いて、君主の支配の対象となる人々。
明治憲法下に於ける、天皇・皇公族以外の国民。

●翼賛(よくさん)
力を添えて助けること。 天皇の政治を補佐すること。

●紹述(しょうじゅつ)
先人の業を受け継いで、それに従って行うこと。

●皇考
在位中の天皇が亡くなった先代の天皇を言う語。

●倚藉(いしゃ)
依ること。 頼ること。


明治憲法発布2


大日本帝国憲法は旧プロセイン王国の憲法を参考にしつつも、日本の国柄を
尊重し、日本の伝統と外来の制度を調和させ、明治天皇が皇室典範と共に
完成したことを皇祖神にご報告為され、自らが率先して、憲法を遵守される
ことを誓われた後、時の内閣総理大臣黒田清隆に授けられたのである。

大日本帝国憲法下に於ける天皇は専制君主で、天皇主権であったと一概に
西洋の概念では捉え切れない、日本の歴史が織り成す特殊な君臣の関係性がある。
また、その根底には過去から現在、未来へと、連綿と繋がる万世一系の皇統、
そして、ご歴代天皇と共に日本に生きた我々の祖先たち、その連続体の中に
今を生きる今上天皇も我々国民も在るという時間的観念がある。
宗教的信仰を持つ者が、常に神々や仏のご照覧を感じて、日々暮らしている
のと同様の意識である

従がって、日本国の憲法は、祭祀王としての天皇が国民に示される欽定憲法こそが
相応しいのである。



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帝国憲法四方山話①…占領政策基本法は失効させるべき

 2018-04-20
帝国憲法四方山話① 

…占領政策基本法は失効させるべき



現行の憲法典である「日本国憲法」は一応、民定憲法ということになっている。
昭和20年(1945年)8月15日にポツダム宣言を受諾、日本国政府が降伏し、進駐軍のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)、マッカーサー司令部の強制で、
形式上は大日本帝国憲法73条の憲法改正手続きに従ったものの、日本の伝統、
文化に基づかない、ひたすら日本の国体破壊、日本の弱体化を目的とした
即席翻訳占領憲法を強要され、昭和22年(1946年)に施行された。

民定憲法とは、「国民が直接、あるいは国民から選ばれた代表者を通じて制定
する憲法」ということであるが、欽定憲法である大日本帝国憲法を第73条の
憲法改正手続きを踏むという形式で改正した結果、民定憲法である日本国憲法
に変貌させた詐術は、実に不条理である。
いっそのこと、GHQが大日本帝国憲法を停止させるなり、廃止させるなり、
詐術を弄さぬ方法で、形式的に継続性を持たぬ占領政策基本法に過ぎない
新憲法の制定を超法規的に強要していたならば、日本国憲法の明確な無効性
から、日本国政府が失効させることも比較的容易で、自主憲法制定への道が
大きく開けていたに違いない。


ポツダム宣言3


そもそも、大日本帝国憲法の改正は、日本人の発議に依るものではない。
GHQがポツダム宣言第10項「……日本政府は、日本の人民の間に民主主義的
風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除する
ものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立する
ものとする」との条文に基づき、国民主権を謳った憲法を占領政策基本法と
して、押し付けたのである。

昭和21年(1946年)6月21日、帝国議会衆議院本会議に於いて、吉田茂総理大臣は、
「ご承知の如く、我が国は目下、洵にに容易ならざる事態に際会致して居ります。
『ポツダム宣言』の趣意に副うて、民主主義的平和国家の建設という大事業を控え
……諸君、今議会の劈頭に於いて、新生日本の建設の基盤たるべき憲法改正案が
勅命に依つて付議せられましたのであります。
幸いにして、今議会は新選挙法に依る総選挙の結果成立したる歴史的民主議会
であります。
政府は此の機会に、諸君と共に国家最高の法典たる憲法改正を議することを
無上の光栄と致します、
而して、政府は速かに民主主義と平和主義とに依る政治の運営、並びに行政と
経済の全般に亙って再檢討を行い、是が改革を実行し、真に平和的国際社会の
一員たるの資格と実質を齎し得んことを期して居るのであります」
と述べている。


進駐軍11


日本国憲法は、占領軍が日本を統治する為に、日本の国体破壊、日本の弱体化
を目的とした占領政策基本法であって、民定憲法とは名ばかりで、国民主権を
謳っているにも拘わらず、日本国憲法は「最終決定権者である国民の総意に
基づいて」いないという、致命的な矛盾を孕んでいる。
連合軍に依る占領下で為された新憲法制定はハーグ陸戦条約違反であり、
その憲法制定自体が国民主権に違反しているという超法規的行為である
ことからして、日本国憲法が無効であることは明白である。


GHQ御仕着せの憲法典「日本国憲法」の前文と第9条第2項は、「国家の主権的
権利としての自衛戦争の放棄」、則ち「国家安全保障の放棄」を意味し、米軍の
駐留とセットに成っている。
憲法典「日本国憲法」では、原文の「War as sovereign right of the nation」を
「国権の発動たる戦争」と翻訳されているが、より正確に「国家の主権的権利と
しての戦争」と訳した方が、この憲法典が如何に独立国たるべき我が国の基本的
国家主権を損じているかを明確にする。
現行の憲法典は、独立国たるべき我が国の基本的国家主権を認めないという、
被占領国(occupied Japan)の憲法典なのである。
第9条第1項は、124ヶ国に及ぶ世界標準の平和主義条項としては許容出来るが、
第2項は、「国家の主権的権利としての自衛戦争の放棄」、則ち「国家安全保障の放棄」を
意味し、「日本国政府は、外国の軍事攻撃から、国民の生命、財産、領土、政治的独立を
軍事的手段では守護しない」との宣言に他ならないのである。
我が国が、この米国の占領政策基本法たる憲法典「日本国憲法」を維持する限り、
我が国は真の独立国家たり得ない。
前文も第9条第2項も、「侵略国の蹂躙するが侭にお任せ致します」「略奪、暴行、
殺戮も属国化も、どうぞ思うが侭、ご自由に為さって下さいませ」「我が国は、
武力に依る抵抗は一切致しません」という、日本国政府の無責任な態度を明記した、
荒唐無稽極まり無き、阿呆陀羅憲法典の駄文なのである。


現行の憲法典は改正するのではなく、失効させる必要がある。
本来であれば、昭和26年(1951年)9月8日調印、昭和27年(1952年)発効の
サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復した時点に於いて、日本国政府は
日本国憲法を廃止し、大日本帝国憲法を改正すべきであったのである。
現行憲法の廃止と修正大日本帝国憲法の発効、もしくは自主憲法制定を
タイムラグ無しで施行すれば良いのである。


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