華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 岩手県賛歌

岩手県盛岡のチャグチャグ馬コ(まっこ)…農耕馬を家族同然に慈しむ心の昇華

岩手県盛岡のチャグチャグ馬コ(まっこ)

…農耕馬を家族同然に慈しむ心の昇華



岩手県盛岡の初夏の風物詩「チャグチャグ馬コ」が本日、開催された。
この「チャグチャグ馬コ」は例年、晴天に恵まれることが多いのであるが、
今日は雨に降られ、途中までは雨中の練り歩きと相成ったとのことである。


第73記事1岩手県庁
※画像は、岩手県庁様のHP依り、拝借。


「チャグチャグ馬コ」は、農作業で農民と苦労を共にする農耕馬たちの勤労に
感謝し、慰労するという岩手県旧南部領地方ならではの愛馬精神に満ち溢れた
微笑ましい伝統行事である。
毎年6月の第2土曜日、馬主に艶やかな晴れ着で豪華に飾って貰い、沢山の
お飾りや鈴を付けて貰った100頭近くの馬が、滝沢村鵜飼の鬼越蒼前神社迄、
(おにこしそうぜんじんじゃ)に詣でて、無病息災を祈願した後、盛岡八幡宮
約15kmの道程を、歩くたびにチャグチャグと鳴る鈴の音を響かせながら、
約4時間半掛けて練り歩くという盛岡の初夏を代表するお祭りである。
華やかな馬のお飾りは、大名行列に使われた「小荷駄装束」に由来すると言われ、
馬主の愛念が籠められた、それはそれは煌びやかなものである。
元来は旧暦の5月5日に開催されていたこの行事は、昭和33年から6月15日
となり、平成13年からは6月第2土曜日に行われるようになったという。

因みに、「チャグチャグ馬コ」の「馬コ」に「うまっこ」とルビが振ってある
のをよく見掛けるが、実際には「まっこ」と発音する。


第73記事3イーハトーブログ
※画像は、岩手県が楽天市場「まち楽」内に開設されている
ブログ「イーハトーブログ」様の公式ツイッター依り、拝借。


昭和53年(1978年)には、国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗
文化財」に選定され、平成8年(1996年)には、「チャグチャグ馬コの鈴の音」が、
が環境庁(現環境省)の「残したい日本の音風景100選」に認定された。
それにしても、馬が歩くたびに鳴る鈴の音が「チャグチャグ」と聴こえた、
鈴の音を「チャグチャグ」と表現した南部の人々の感性の何と豊かなことか。


第73記事5
出発点の滝沢市鵜飼の鬼越蒼前神社(おにこしそうぜんじんじゃ)


この「チャグチャグ馬コ」の由来であるが、慶長2年(1597年)のこと、
関が原の合戦の3年前に当たるが、沢内村の馬が野良仕事の最中に暴れ出して
しまい、滝沢村まで駆けて、そこで死んでしまったという。
滝沢村の村人達はこの馬を憐れに思い、手厚く葬り、祠を建立して上げたのが、
鬼越蒼前神社の起源と言われている。
以来、「蒼前様(そうぜんさま)」と呼ばれる鬼越蒼前神社には、近在近郊の
農家の人々が5月5日の端午の節句には野良仕事を休み、愛馬に飾りを付けて、
参拝するようになったという。


第73記事7
※画像は、盛岡市の公式ツイッター様依り、拝借。


岩手県は源平の昔から、日本馬の中で最良の馬と評された南部駒の大産地と
して知られているが、残念ながら、昭和初期には南部駒を絶滅させてしまった。
一関市千厩(せんまや)町の名の由来は、平泉の藤原氏がこの地に厩舎を建て、
数多くの名馬を輩出したことから、「千馬屋」と呼ばれたことに依るという。

治承4年(1180年)、源義経が兄頼朝の伊豆での挙兵を知り、兄に加勢すべく、
平泉から鎌倉へと出陣する際、藤原秀衡が餞に贈った秀衡自身の秘蔵の愛馬
「薄墨」、後に「太夫黒(たゆうぐろ)」と呼ばれた駿馬は千厩産の南部駒で
あったと言われている。
「一の谷の戦い」で名高い「鵯(ひよどり)越えの逆落とし」の働きを見せた
義経の愛馬「太夫黒」は、「「天下の名馬、みちのく産に過ぎるものは無し。
みちのくの良馬、この馬に及ぶものは無し」と評されたほどの名馬で、千厩町
千厩地内には「太夫黒」の顕彰碑がある。
頼朝の挙兵以前、義経が平泉に在って、愛用した「小黒」もまた、遠野産の
南部駒で名馬であったと言われ、「名馬小黒之碑」が建立されている。

岩手県は近代に於いても名高い馬産地であっただけに、日露戦争後の明治42年
(1909年)、盛岡に騎兵第3旅団司令部が設置され、第23騎兵連隊と第24
騎兵連隊が駐屯し、部隊編成は東北健児と東北地方の産馬を以って成された。


第73記事2
積雪時等の訓練の為の「覆馬場」


岩手県旧南部領地方、特に馬産地であった岩手郡、紫波郡、稗貫郡、上閉伊郡、
下閉伊郡、九戸郡には、母屋と厩(うまや)をL字型に一体化させた「曲り家
(まがりや)」という独特な農家の建築様式があった。
人と共に働く農耕馬は農家の貴重な宝であり、家族の一員として遇し、人と馬
が一つ屋根の下で暮らせるようにとの慈しみの発想から、曲り家の特異な造形
が生み出されたのであろう。
一般的な方位としては、東側に台所があり、南側の母屋の下手に突き出した
部分が厩に当たり、竃や炉の暖気が厩の屋根裏を通って流れ込み、馬の背を
暖める仕組みに成っていたという。
また、母屋と厩を一体化させていても、L字型ではない建築様式は、「直家(すごや)」
と称する。


第73記事8
母屋と厩(うまや)をL字型に一体化させた、独特な農家の建築様式である
「曲り家(まがりや)」


第73記事4



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2017/06/10 22:38 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

糠部駿馬の歴史薫る地名一戸、二戸、三戸… …九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)

糠部駿馬の歴史薫る地名一戸、二戸、三戸…

…九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)



半世紀も昔のことになる。
私が通っていた東京の小学校の同級に、青森県八戸市から男の子が
転校して来たのを記憶している。
組が違ったこともあり、言葉を交わしたのは数回程しか無かった。
まだ7、8歳であった私は、「はちのへ」という地名の音韻に、つい「屁」を
連想してしまい、田舎っぽさと可笑しみを感じたものであった。
同じ組に剽軽者の男の子が居て、彼はその転校生の前で「は・ち・の・へ!」
と一音一音、間を空けて発音し、最後の「へ!」を言い終えると同時に、
屁っ放り腰になり、「プッ!」とオナラをして、からかったことがあった。
今思えば、その八戸からの転校生は幼いながらもなかなかに度量の有った子で、
「そんなこと、するもんでねぇだ」と首を振りながら、笑っていた。
彼は数ヶ月しか居なかった気がする。いつの間にか、居なくなっていた。


一戸二戸三戸


現在の岩手県北部から下北半島、津軽の平内地方をも含めた青森県東部に及ぶ
広大な地域は嘗て、陸奥国糠部郡(ぬかのぶぐん)と呼ばれていた。

治承4年(1180年)から文永3年(1266年)迄の鎌倉幕府の事績を記す鎌倉時代研究の
基本史料である東鑑(吾妻鏡)文治5年(1189年)9月3日条に、
「文治五年九月小三日庚申。
泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴『糠部郡』」
とある。
「文治五年九月小三日庚申。
泰衡數千の軍兵に圍被、一旦の命害を遁れん爲、鼠の如く隱れ。退くこと鶃に似たり。
夷狄嶋を差し『糠部郡』へ赴く」(読み下し文)

※原文には「『糟』部郡」と書かれている様であるが、筆者が「糠」を「糟」と
書き損じたものと推察される。


また、同じく東鑑(吾妻鏡)文治五年(1189年)9月17日条に、
「文治五年九月小十七日甲戌。
一 毛越寺事
 堂塔四十余宇。禪坊五百余宇也。
…………………………………………………………………
此本尊造立間。基衡乞支度於佛師雲慶。々々注出上中下之三品。基衡令領状中品。
運功物於佛師。所謂圓金百兩。鷲羽百尻。七間々中徑ノ水豹皮六十余枚。安達絹千疋。
希婦細布二千端。『糠部駿馬』五十疋。……………」とある。

毛越寺(もうつうじ)建立に際し、藤原基衡は本尊造立を仏師雲慶に依頼した。
制作する本尊を上中下の三等級の何れにするかとの運慶の問いに対し、
基衡は中と答え、その謝礼として、金100両、鷲羽根100尻、水豹(アザラシ)の皮60数枚、
安達(あだち)絹1000疋、希婦細布(けふのせばぬの)2000端、
糠部の駿馬50頭等々を与えたとの記事に、「糠部駿馬」と記されている。
糠部郡に相当する地域は駿馬の一大産地であった。

糠部郡建郡に関する史料が見当たらず、詳細は不明であるが、東鑑(吾妻鏡)の記述からして、
平安時代末期には、糠部郡が成立していたと推察される。


南部鉄器南部駒


糠部郡には、「九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)」の制が敷かれていた。
郡域は、一戸から九戸までの9つの「戸(へ)」、東西南北の4つの「門(かど)」
から成り、馬牧が行なわれたという。
「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる。
「戸」の起源としては、鎌倉時代に糠部郡は「牧場政策の立場から九ヵの部に分けられ、
それを一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸とし、一ヵの部に一牧場を設定し、
それに牧土を配し、牧士に牧土田を支給した」(森嘉兵衛氏著「津軽南部の抗争」〉との説が
定説とされている。

更に、貢馬置牧説に立った上で、「戸」は郷村名ではなく、これらを包括した
「広域地名」であること。
「戸」を総合して「糠部郡」を建てたのではなく、糠部郡を先ず建て、
それが余りの大郡であった為、9つの「戸」に分けたものであること、
糠部地方の行政区画である「戸」制は、「門」制に先行するとの見解を、
昭和58年5月の『田子町誌』で小井田幸哉氏が述べられている。

一戸ごとに7ヵ村を所属させ、その9の戸を東西南北の4つの門に分属、
糠部郡内の主な地域を一戸~九戸に分画し、余った四方の辺地を東門、西門、
南門、北門と呼んだとされるが、異なる見解としては、南門は一戸と二戸、
西門は三戸と四戸、五戸、北門は六戸と七戸、東門は八戸と九戸を指す
とする説もある。


東鑑(吾妻鏡)文治六年(1190年)3月14日条に、
「文治六年三月小十四日戊辰。
右兵衛督書状到來。所被付廣元之使者也。
………………………………………………………………………………
一 御馬廿疋被進事
近年不及此程員數。所感思食也。毎事復舊歟。赤鹿毛馬事。只事次所被仰也。
強不能尋求。『戸立』なと出來之躰。必可歴御覽歟。
 右。條々御氣色如此。仍上啓如件」

 「一 御馬廿疋進ぜ被る事
 近年此程の員數に不及、感じ思し食す所也。事毎に舊に復する歟。
赤鹿毛の馬の事、只事の次に仰せ被る所也。強に尋ね求むるに不能。
 『戸立』なと出來之躰は、必ず御覽を歴る可き歟。
 右の條々、御氣色此の如し。仍て上啓件の如し」

源頼朝が奥州藤原氏の陸奥貢馬(むつくめ)に倣い、後白河院に「戸立」を
20頭献上したとある。
「戸立(へだち)」とは、一戸から九戸産の糠部駿馬を指す言葉で、
「一戸立」は一戸産の糠部駿馬、「二戸立」は二戸産の糠部駿馬を意味する
という風に甚く珍重され、武士は挙ってこれを求めたという。

東鑑に「戸立」の言葉が記されていることから、「戸」制は鎌倉時代の初頭、
既に成立していたと推察される。

現在、岩手県内には一戸町、二戸市、九戸村、青森県内には三戸町、五戸町、
六戸町、七戸町、八戸市の地名がある。
「四」の音韻を忌避したのであろうと思われるが、四戸の地名は残っていない。


宇治川の先陣争い1
宇治川の先陣争い


寿永3年(1184年)の宇治川の戦いに於ける先陣争いで有名な佐々木高綱は
七戸立の「生唼(いけずき)」、梶原景季は三戸立の「磨墨(するすみ)」に
乗馬していたという。
また、一ノ谷の戦いで、平家の若武者平敦盛を討ち取った熊谷直実の愛馬、
「権太栗毛(ごんたくりげ)」は一戸立、替え馬の「西楼」は三戸立であったという。
熊谷直実が一戸の牧まで郎従を遣わし、名馬権太栗毛を上品絹200疋の値で
求めさせたという逸話は有名である。


南部氏の史料に依れば、文治5年(1189年)、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を
征伐した戦いに於ける論功行賞で、南部光行が糠部五郡を拝領したとされる。

「聞老遺事」
「陸奥国阿津加志山国見沢にて戦功ある輩三十六人、公(光行)其一員なり。
頼朝公賞之、奥州を裁て三十六人に賜ふ。糠部以北公領之玉ふ」
「奥南旧指録」
「同月十九日頼朝公奥州に泰衡を御退治として、東国に発向し玉ふ。
此時光行公御先陳に有て阿津樫山国見峠所々に戦功を立玉ふに依て、
頼朝公御感浅からず、糠部郡を光行公に給る」

南部氏は甲斐源氏の一族で、その遠祖を八幡太郎義家の弟新羅三郎義光とする。
治承4年(1180年)、源光行は源頼朝に従がい、石橋山の合戦で戦功を挙げ、
甲斐国(現在の山梨県)南巨摩郡南部郷(現在の南部町)に地頭領を与えられ、
鎌倉に出仕した。
南部姓を名乗ったのは、源義光から5代目のこの光行からで、光行が南部氏の
始祖となる。
光行の三男実長は波木井郷(現在の身延町)を与えられて分家し、波木井南部
と呼ばれた。
文治5年(1189年)、南部光行は実長を波木井郷に残して、源頼朝の奥州平泉
討伐に従軍し、その奥州合戦での戦功で陸奥国糠部郡を与えられ、奥州(三戸)
南部氏の始祖となる。
糠部五郡は現在の岩手県北部から青森県の下北地方までの陸奥北部一帯の広域
であった為、一族を要所に配置して分割統治を行なった。
光行の6人の息子が後にそれぞれ、長男行朝は一戸氏の祖、次男実光は三戸に
本拠を置く南部氏宗家を継ぎ、三男実長は八戸氏の祖、四男朝清は七戸氏の祖、
五男宗清は四戸氏の祖、六男行連は九戸氏の祖となり、南部一族はそれぞれの
領地名を姓に名乗ることとなった。

甲斐(山梨県)と言えば、甲斐駒で有名な一大馬産地であった。
馬の生産育成に経験豊富であった南部氏が、糠部駿馬の伝統を引き継ぎ、
更に優秀な「南部駒」の馬産を発展させたことは天の配剤であったと思える。
盛岡藩、岩手県は日本馬の中で最良の馬と評された南部駒の大産地であったが、
残念ながら、昭和初期には南部駒を絶滅させてしまった。


江戸名所図会馬市
江戸名所図会 馬市


最後の南部駒 盛号
最後の南部駒 盛号





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2015/07/28 00:29 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

岩手県の民謡 外山節が好い♪ …外山御料牧場の馬方作業唄

岩手県の民謡 外山節が好い♪

   …外山御料牧場の馬方作業唄



岩手県旧南部領地方は源平の昔から、日本馬の中で最良の馬と評された
南部駒の大産地として知られている。
近代に於いても、岩手県は名高い馬産地で、日露戦争後の明治42年(1909年)、
盛岡に騎兵第3旅団司令部が設置され、第23騎兵連隊と第24騎兵連隊が
駐屯し、部隊編成は東北健児と東北地方の産馬を以って成された。

時代を遡るが、外山(そとやま)御料牧場の記録に依れば、明治9年(1876年)、
豊後大分府内藩出身の島 惟精(しま いせい)が初代岩手県令を務めていた時期、
洋種牡馬に依る産馬改良の為、岩手郡薮川村外山(現在の盛岡市玉山区薮川
外山)の官民有地1,414haを外山牧場とした。
明治14年(1881年)には県産馬会社に経営委譲するも、経営難に陥り、
明治24年(1891年)、前年の日本鉄道奥州線(現在の東北本線)盛岡駅開通を
切っ掛けに、外山牧場と周辺山林が御料地(皇室御領)として接収され、
宮内省御料牧場が創設された。
外山牧場では毎年、優秀な仔馬5頭を宮内省に上納、10数頭は繁殖馬として
飼育し、他の30~40頭の2才駒を盛岡馬市で売却していたという。
大正11年(1922年)、第一次世界大戦後の不況下、緊縮財政の煽りを受け、
宮内省御料牧場は廃止となり、県に移管されたとのこと。


外山牧場A


昭和61年(1986年)の玉山村教育委員会の解説に依れば、岩手県の民謡
外山節は、「明治22年から昭和12年まで宮内省御料牧場の支場となった
外山牧場の作業唄として発生した。
外山牧場には200人から300人の作業員が従事し、草刈りや運搬などの
作業唄としてよく歌われた。
御料牧場開場当初の作業員、上野キツ(安政6年生)橋本 フユ(明治10年生)が
中心となり、作業唄として歌い出し、外山節の元となり、完成したと
伝えられている。(正調外山節)
現在の外山節は昭和13年に、大西正子の三味線、武田忠一郎の編曲により、
キングレコードからレコード化され、戦後,民謡ブームに乗り、のど自慢
大会等で広く歌われて一般に普及し、岩手県の代表的民謡となっている」
とのこと。


旧馬検場落成式A

     明治37年(1904年)から明治45年(1912)年まで、盛岡市馬町(現清水町)に
     あった旧馬検場(馬のせり市場)の落成式の様子

盛岡市公式HPに依れば、「明治3年(1870年),民部省養馬懸出張所が
設置されたが、産馬事業の民有移管により、同14年(1881年)、岩手県産馬
事務所が創立された。
同事務所が明治23年(1890年)に改組して、盛岡産馬畜産組合が誕生する。
馬町馬検場を中心とする馬市は、同45年(1912年)まで行われ、その後、
馬検場は新馬町(現松尾町)に移った」とのこと。



武田忠一郎氏(1892年―1970年)は遠野出身の音楽家、音楽教育者、
民謡研究家で、東北民謡を五線譜に記録した最初の人であるという。
東北各地を訪ね、採譜した曲は3000曲余りに上り、「東北民謡の父」と
謳われている。
「東北民謡の父 武田忠一郎伝」黒沢勉著(信山社出版 1996年)に拠れば、
昭和7年(1932年)、「武田忠一郎は星川万多蔵と2人で外山へ出掛け、
作業員の唄を聞き、横笛を合わせて、これを採譜した」とのこと。
因みに、武田忠一郎氏はヴァイオリンの名手でもあったとのことで、
昭和5年(1930年)、岩手県で初のヴァイオリン教室を盛岡に開設。



臼澤みさきちゃん 外山節ライブ1



外山節 歌詞

可愛い音頭取り

♪わたしゃ外山の 日陰の蕨(わらび)
(ハイハイ)
誰も折らぬで ほだとなる
(コラサーノサンーサ コラサーノサンーサ)

※「ほだ」とは榾で、炉や竈(かまど)で焚く小枝や木切れ等の薪のことか?


♪わたしゃ外山の 野に咲く桔梗(ききょう)
(ハイハイ)
折らば折らんせ 今のうち
(コラサーノサンーサ コラサーノサンーサ)


♪南部外山 山中なれど
(ハイハイ)
馬コ買うなら 外山に
(コラサーノサンーサ コラサーノサンーサ)


♪外山街道に 笠松名所
(ハイハイ)
名所越えれば 行在所(あんざいしょ)
(コラサーノサンーサ コラサーノサンーサ)

※ 「行在所」とは、天皇陛下の行幸の折、旅先に設けた仮の御所、仮宮のこと。
行宮(あんぐう)、御座所(ござしょ)に同じ。


歌詞は他にも、色々とある。
また、お囃子も「ヤンコラサンーサ」という場合もある。

♪あんこ行かねか あの山越えて
わしと二人で蕨採り

♪わしと行かねか あの山陰さ
駒コ育てる 萩刈りに

♪外山育ちでも 駒コに劣る
駒コ千両で 買われ行く

♪日の戸越えれば 唐草松よ
外山牧場の お関所よ

♪蕨折り折り 貯めたる銭コ
駒コ買うとて 皆遣った





臼澤みさきちゃんの歌唱





福田廣平さんの歌唱


毎年7月下旬、外山節のその全国大会が発祥の地である盛岡市玉山区で
開催されている。
盛岡観光情報サイトには、「岩手を代表する民謡である外山節。
その全国大会を、発祥の地で開催します。
唄、踊り、少年・少女の部の各部門に全国の民謡愛好家が集結、
日頃の練習成果を競います」とある。

外山節全国大会A

                     
盛岡市公式HPより、拝借。



岩手日報20150322


                    
岩手日報 2015年3月22日付記事







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2015/04/24 00:05 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

機能を追及したフォルムは美しい⑤…岩手県が誇る伝統工芸品・南部鉄器の鉄瓶

機能を追及したフォルムは美しい⑤ 

…岩手県が誇る伝統工芸品・南部鉄器の鉄瓶




南部鉄器とは、旧南部藩主の城下町盛岡市を中心とした地域で生産される
鋳造の鉄器を指す。
盛岡周辺地域は、古くから砂鉄、川砂、粘土、漆、木炭の豊富な材料資源と、
北上川の水運の便に恵まれ、鋳物生産に最適な条件の揃った土地柄であった。
鋳造とは、鋳型に溶解した鉄を流し込んで作る製法で、釜や鉄瓶、花器は主に
伝統工芸品に指定されている焼型法で、また鍋や風鈴など大量生産するものは、
主に生型法で生産される。

明治時代以降、海外の万国博覧会などでも高い評価を受けた、岩手県が世界に
誇る伝統工芸品の南部鉄器には、江戸時代に南部盛岡藩の保護育成の下で、
茶の湯釜、鉄瓶を中心に盛岡で発達した系統と、伊達仙台藩領であった水沢で、
日用品の鋳物を中心として発達した系統との2系統で形成されている。


南部鉄瓶9


戦乱の世が治まり、天下泰平の世となった江戸時代、茶道に造詣の深かった
28代南部藩主重直は、盛岡近辺は北上川流域を中心に室町時代以来、製鉄が
盛んに行われ、良質の鉄等の原材料を産出することから、茶の湯釜の製作を
思い立ち、藩内の鋳物師とは別に、万治2年(1659年)京都出身の釜師、
初代小泉仁左衛門(小泉五郎七清行)を召し抱え、茶の湯釜を作らせたのが
南部釜の起源であると言われる。
延宝年間(1673~81)の頃、初代小泉仁左衛門は盛岡に移り住み、黒木山の鉄、
北上川の砂鉄を原材料として、鋳造を始めた。
その後、3代目仁左衛門が1750年頃、茶の湯釜を小振りにして改良した鉄瓶を
創作したのを初めとして、種々の南部鉄器が制作されるようになり、庶民にも
広く普及した。
初代小泉仁左衛門は南部藩の御用釜師で、茶の湯釜の製作が本業であったが、
現存する延宝7年(1679年)の時鐘を始めとして、種々の製作を行なった。
また、前述の通り、3代目仁左衛門は茶釜を改良した南部鉄瓶の創始者であり、
4代目仁左衛門は、大砲の鋳造技術を江戸で学んだ。
5代目小泉仁左衛門の時代、高橋家の祖である初代高橋萬治が独立を許され、
店を構えた。


盛岡城下鳥瞰絵図

盛岡31


盛岡の鋳物は、慶長年間(1596年-1615年)、盛岡藩主南部氏が盛岡城を築城
した頃に始まったと言われている。
以後、歴代藩主の庇護の下、藩の鋳物の受注は小泉家、有坂家、鈴木家、藤田家
の四家が担い、南部鉄器の伝統技術を継承し、大いなる発展に貢献した。
有坂家は京都の出で、7代目の時代に甲州(山梨)に移住、13代目の時代、
盛岡に移住した。
鈴木家は甲州の出で、寛永18年(1641年)に、南部藩に召し抱えられた
鈴木縫殿家綱を祖とし、特に梵鐘や燈籠などの大作を得意とした。
正保3年(1646年)には、盛岡城の時鐘を製造し、幕末には大砲も製造した。
藤田家は甲州の出で、2代目が盛岡に移住し、後に南部藩に召し抱えられた。
特に鍋類を得意とし、その品質の良さから「鍋善」と呼ばれたという。


南部鉄瓶11


大正3年(1914年)第43代当主南部利淳が南部鉄器の品質向上を目的として、
旧藩邸内の盛岡市愛宕山南麓に南部鋳金研究所を設立した。
明治32年(1899年)に東京美術学校(現東京芸術大学)鋳金科を卒業し、
東京で活躍していた旧家老職家出身の松橋宗明が帰郷後、南部鋳金研究所所長
に招かれ、所員には高橋家の高橋萬治など、優秀な技術者たちが集められた。
高橋萬治は、南部鉄器の技法伝承者であると共に、卓越したセンスに恵まれた
デザイナーでもあり、その素晴らしい作品群から、「理論」の松橋宗明に対し、
「実践」の高橋萬治と賞賛される。
南部鋳金研究所では鉄器の品質に関する規定を定め、高橋萬治ら所員の品質
審査に合格した作品にのみ、登録商標の貼付を許可したことから、良質の南部
鉄器が市場に出回るようになった。

因みに、高松池畔に設置された約3.3mの横川省三銅像は、高橋萬治の鋳金に
依る作品である。


盛栄堂1

盛栄堂2

盛栄堂6


明治時代には、旧南部藩領の盛岡と旧伊達藩領の水沢の鋳造業者間で技術交流
が進み、昭和30年代に至って、南部、水沢の両地で作られた鋳物を総称して、
南部鉄器と呼ぶようになった。
両者の良好な関係から、昭和24年(1949年)設立の南部鉄器協同組合と、
昭和29年(1954年)設立の水沢鋳物工業協同組合は、昭和34年(1959年)に
連合して、岩手県南部鉄器協同組合連合会を設立し、共同の利益の保護と増進、
南部鉄器鋳造業界の振興と発展を図っている。
昭和50年(1975年)、南部鉄器は伝統工芸品として、栄えある全国第1号の
指定を受けている。


絵柄 盛栄堂10

絵柄 盛栄堂11


南部鉄器は、岩手県民の気質を反映してか、質実剛健のイメージが強く、
重厚感のある味わいの着色が特徴であるが、その鋳肌は繊細である。
茶の湯釜や鉄瓶のデザインは日本的な伝統美そのもので、また描かれている
様々な絵柄や美しく並んだ粒々が描き出す霰(あられ)の文様が素晴らしく、
温かみと共に、極めて高い芸術性を感じさせる伝統工芸品である。
現在でも昔ながらの伝統的技術を受継ぎ、焼型、乾燥型の鋳型作り、紋様押し、
肌打ち、漆仕上げなどの技法で、一つ一つ手作りで生産しているという。
さすがは、陸奥(みちのく)の小京都と称えられる文化圏、南部盛岡の長い
歴史が育んだ、見事な伝統工芸品である。

お茶好きの私が愛用している急須は、友人から戴いた水沢の盛栄堂さんの製品、
小振りの可愛い南部鉄瓶である。
内側にはホーロー加工が施してあるので、残念ながら、鉄分は溶出しない。


南部鉄瓶10


盛栄堂刻印


可愛い拍手






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2013/10/21 03:21 | 岩手県賛歌COMMENT(1)TRACKBACK(0)  TOP

岩手陸軍飛行場からの特攻出撃…後藤野から出撃した九九式双発軽爆撃機3機

岩手陸軍飛行場からの特攻出撃

…後藤野から出撃した九九式双発軽爆撃機3機




昭和20年(1945年)の7月14日と8月9日、岩手県釜石市は2度に亘り、
アメリカ海軍第34.8.1任務隊所属の戦艦サウスダコタや重巡洋艦シカゴなど、
戦艦3隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻からの艦砲射撃で壊滅的な被害を被った。
長崎に原子爆弾が投下された8月9日の2度目の釜石艦砲射撃に至っては、
7月14日の作戦部隊であった第34.8.1任務隊に加え、イギリス海軍の軽巡洋艦
ニューファンドランド、ニュージーランド海軍の軽巡洋艦ガンビアや駆逐艦
3隻までもが作戦に参加していた。
この2度に亘る艦砲射撃で、アメリカ海軍だけでも16in1605発、8in2120発、
5in1621発、計5346発もの艦砲弾が釜石市内に撃ち込まれ、被災世帯4,543世帯、
被災人員16,992人、750余人もの死者を出すという、壊滅的な被害を被ったのである。






岩手県北上市和賀町後藤(当時は和賀郡藤根村)には嘗て、岩手県民が献納した
「献納飛行場」の「岩手陸軍飛行場」があった。
通称は「後藤野飛行場」で、「岩手愛国飛行場」とも呼ばれたという。

後藤野飛行場史跡整備委員会に依る碑文には、
「1937年(昭和12年)日中戦争が始まった7月、岩手県下の市町村長会議で
愛国機の献納と飛行場設置が決議され、当時の黒沢尻、花巻の二町と藤根、
江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の
11ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し、地権者から僅少価格で
用地を買収して、その実現を図った。
広さ120万坪(396ヘクタール」は、関東の熊谷飛行場(314ヘクタール)を
しのぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校
(現高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された青少年勤労報国団の
勤労奉仕によって、すべて人力によって行われた。
 翌年9月25日、秩父宮を迎えて献納式が行われ、岩手陸軍飛行場と
命名された。
起工式から竣工まで148日、延12万851人、総工費僅か8万7千円であった。
 当初は陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた
複葉練習機が飛び交ったが、1944年(昭和19年)本土が空襲を受けるように
なって俄かに実戦基地化され、『神鷲(かみわし)隊』という特攻隊が移駐し、
短期間の訓練の末、各地に配属されていった」とある。


見渡す限りの広大な原野であった後藤野は、802年の征夷大将軍坂上田村麻呂の
蝦夷征伐、1051年の前九年の役で、歴史的な合戦の舞台となった土地柄である。
17世紀には和賀川から上水し、大規模な開墾事業を行なった肥沃な大地である。
後藤野飛行場はその地形から、強風、積雪が多く、作戦用飛行場には適して
いないことから、当初は教育訓練用の飛行場として使用されていた。

昭和19年(1944年)、戦況が逼迫したことから、陸軍の飛行学校は改編され、
教導飛行師団が新たに編成されると、後藤野飛行場は作戦用飛行場として、
主に帝都防衛隊の特別攻撃隊「神鷲隊」が夜間飛行の訓練を行ない、次々と
前線の特攻出撃基地へと出陣して行った。
特攻隊員たちは北上や花巻に分宿し、出陣の日には地元の人々が鬼剣舞
(おにけんばい)を舞うなどして、心温かく見送って上げたという。


鬼剣舞A


8月9日の釜石攻撃は先ず、11時5分から機動部隊の艦載機に依る偵察飛行と
機銃掃射が開始され、艦砲射撃は12時47分から14時45分までの2時間に
亘って行われた。
この日は、後藤野飛行場もアメリカ海軍の艦載機に依る空襲を受けて、施設が
破壊され、隣接する民家に投下された爆弾で、横川目国民学校4年生(10歳)
の男子児童が犠牲となる悲劇も起きた。

この日の夕刻、神鷲隊255隊の九九式双発軽爆撃機3機が500kg爆弾を装備し、
後藤野飛行場を特攻出撃基地として、三陸沖に遊弋していると推測された
敵空母機動部隊攻撃の為に出撃して行った。
このことから、後藤野飛行場は「日本最北の特攻出撃基地」と言われる。

特攻出撃した九九式双発軽爆撃機は略称、「九九双軽」と呼ばれ、日中戦争から
太平洋戦争全般に亘って、広範囲に活躍した陸軍航空爆撃隊の名機であった。
昭和15年(1940年)に制式採用され、昭和17年(1942年)までに557機、
改良型が昭和19年(1944年)までに1411機、合計1968機が生産された。
開発当初は、戦闘機並みの高速性能と急降下も可能な運動性能を持つ優秀機で、
中国戦線では多大な戦果を挙げたが、太平洋戦争ではアメリカ軍戦闘機の進化
には対応出来ずに旧式化した機体は、機首に触発信管を装備した特攻機として、
多数が体当たり攻撃に投入された。
昭和19年(1944年)10月に、鉾田教導飛行師団で編成された日本陸軍航空隊
初の特別攻撃隊「万朶(ばんだ)隊」の装備機種も九九式双発軽爆撃機であった。

九九式双発軽爆撃機の搭乗員は本来、操縦士、前部爆撃手兼機銃手、後部機銃手、
下部機銃手の4名であるが、万朶隊の場合、3機で1編隊、4編隊で12名の
操縦士、編隊長機にのみ、通信員が搭乗したことからすると、後藤野飛行場
から特攻出撃した神鷲隊255隊の九九式双発軽爆撃機の搭乗員は操縦士だけの
各1名であったと考えられる。
陸地を目視しながらの陸上航法を前提とする陸軍航空隊は、海軍航空隊とは
違い、洋上航法は不得手なはずであったことからすれば、航法士の居ない状態
での夜間飛行では、洋上の空母機動部隊を発見することは、さぞかし至難の業
であったろうと思われる。


99式軽爆3

九九式双発軽爆撃機7

九九式双発軽爆撃機6


8月9日の夕刻、後藤野飛行場から出撃した神鷲隊255隊の特攻隊員は、
吉村公男中尉(22歳)、渡辺秀男少尉(22歳)、石井 博伍長(19歳)と、
3名の名が残されている。
出撃した3機の内、1機はエンジンの不調で進撃を断念、爆弾を北上川の中洲に
投下して、後藤野飛行場に無事帰還したとのこと。
進撃した2機は洋上の敵空母機動部隊を発見出来ずに追跡を断念、帰還途中に
燃料が切れてしまったのであろうか、1機は仙台湾に、もう1機は福島県原町に
墜落して、無念の戦死を遂げたという。
釜石に艦砲射撃を行なった第34.8.1任務隊も、艦載機を発進させた機動部隊も
昼間の攻撃を終えた後には、三陸沖遥か洋上に退避していたのであった。

後藤野飛行場への帰還を目指したものの、仙台湾と福島県原町の方向に針路
を取ってしまったということなのであろうが、未熟なパイロットが灯火管制下
の陸地に向かって、飛べただけでも大した腕前であったと思う。
昭和19年(1944年)の秋に開始された特攻作戦は、昭和20年(1945年)に
入ると、アメリカ艦隊の防禦が厚く、接近することさえ難しくなっていたことから、
夜陰に紛れて、超低空飛行で敵艦の舷側に突っ込む戦法が採られていたのである。
闇夜ではなく、せめて、明るい太陽の下で死なせてやりたかったものである。

神鷲隊の特攻隊員たちは本来であれば、後藤野飛行場から特攻出撃基地に
進出した上で、出撃する予定であったろうに、後藤野飛行場が釜石に近い
ことから、急遽出撃が下令されたものであったに違いない。
6日後に、8月15日の終戦を迎えるこの日に特攻出撃命令が下るとは、
何と無慈悲な定めであったことか。






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2013/09/13 07:36 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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