宮澤賢治の法華信仰…賢治の折伏活動

 2018-04-14
宮澤賢治の法華信仰  

…賢治の折伏活動


「折伏(しゃくぶく)」とは、何と驕り高ぶった高慢ちきな言葉であろうか。
「破折屈伏(はしゃくくっぷく)」の略語であるが、破り折って、屈服させると
いうのであるから、仏教徒、特に法華経信者の布教姿勢は、如何にも傲慢で
高圧的ではないか。
「折伏」の出典は、舎衛国(しゃえいこく)波斯匿(はしのく)王の娘で、
在家の女性信者である勝鬘夫人が説いたものを釈迦が認めたという形式を取る
経典「勝鬘師子吼一乗大方便方広経」略して、「勝鬘経(しょうまんぎょう)」で、
法華経ではない。

勝鬘経中の「十大受(十の大きな誓い)」の一つに、
「世尊よ、今後私は豚肉を売ったり、鳥屋などの罪ある商売で生活し、
如来の説かれた教えや掟を蔑ろにする性質の者たちを見たならば、
決して無関心では過ごしません。
世尊よ、部落でも村でも、町でも田舎でも、また王城の所在地でも、
誰彼を問わず、私の命令の及ぶ限り、懲らしめるべき類いの者たちは
これを「折伏」し、救い取るべき者たちに対しては、これを摂受
(しょうじゅ)します。
これは何故かと言えば、世尊よ、この折伏と摂受とによって、
世の中に真実の教え(正法)を永久に在らしめる為です。
真実の教えがもし永続するならば、神々や人間たちの身に生まれる者は
増大し、(死後)悪道に赴くものたちは減少するでしょう。
世尊よ、これこそは世尊が法輪を転ぜられた(目的)に従がう道であります。
世尊よ、この第九の誓いを、私は菩提の座に到達するまで厳守します」とある。

漢訳の「我得力時。於彼処見此衆生。応折伏者而折伏之。応摂受者而摂受之。
何以故。以折伏摂受故令法久住」が、
「世尊よ、部落でも村でも、町でも田舎でも、また王城の所在地でも、
誰彼を問わず、私の命令の及ぶ限り、懲らしめるべき類いの者たちは
これを「折伏」し、救い取るべき者たちに対しては、これを摂受
(しょうじゅ)します。
これは何故かと言えば、世尊よ、この折伏と摂受とによって、
世の中に真実の教え(正法)を永久に在らしめる為です」に相当する。

「摂引容受(しょういんようじゅ)」略して、「摂受(しょうじゅ)」というのは、
「折伏」の反対語に相当し、「心を寛大にして、相手やその間違いを即座に
否定することなく、反発せずに受け入れ、穏やかに説得すること」である。
摂受と折伏は衆生教化に用いる二種の方法で、衆生を受け入れ、慈悲を以って
正道に導く「摂受門」と、悪を挫き、心服させ、正法に導きいれる「折伏門」
の違いがある。

日蓮はその著作「開目抄」に於いて、
「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、
摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に
充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は
折伏を前とす常不軽品のごとし」

「摂受・折伏と言う法門は、水と火のようである。
火は水を嫌い、水は火を憎む。
摂受を行ずる者は折伏を笑い、折伏を行ずる者は摂受を悲しむ。
無智のもの、悪人が国土に充満している時は摂受を第一とする。
安楽行本に説かれている通りである。
邪知の者、謗法の者が多い時は、折伏を第一とする。
常不軽品に説かれる通りである」と、
末法時代の日本に於いては、摂受よりも折伏の方が適した布教法であると
断定しているのである。

紀元前5世紀頃(463B.C.?-383B.C.?)現在のネパール国境付近
(インド説もある)のカピラワットゥの釈迦族に生を享けたゴータマ・
シッダールタの没後、彼を神格化したことに依って、その教説が宗教化し、
中国仏教として弄繰り回された挙句、日本に伝来した外来宗教を以って、
日蓮を末法世界人類唯一の救世主「閻浮一聖」として崇め、日本中世界中を
折伏して回り、何も世界人類の思想道徳を統一して頂かなくても結構ですと
いうところなのであるが、全国制覇を目論んで縄張りを広げる暴力団のように、
何とも厄介な独善的誇大妄想的宗教であることよ。


法華経55 400


大正9年(1920年)24歳の賢治が国柱会に入会した年の7月頃に、
田中智学氏著「本化摂折論(ほんげしょうしゃくろん)」と日蓮の遺文を
抜粋して書写した「摂折御文僧俗御判(しょうしゃくごもんそうぞくごはん)」
を書いているが、その冒頭に摂受・折伏の出典として、勝鬘経を引用している。

この摂受折伏観に関して、賢治は、
「今の私は、摂受を行ずることは出来ません。
何故なら、自分の内なる心の中に、一切すべての現象を包摂、
包み込んでいることが出来ないからです。
南無妙法蓮華経は空間に充満する白光の星雲です。
その白光の星雲である南無妙法蓮華経を自分自身の心の中に
包むことによって、自分は釈尊のおぼしめしと日蓮聖人の慈悲を
表現していかなければならない」と心境を吐露している。
「白光の星雲に比すべき法華経の世界に同化し切れていない
未熟な自分には、摂受を行ずる資格がない」と言うのである。
賢治のこの、法華経の究極には摂受がある、日蓮の本懐は摂受にあったと
解釈していることを暗示する思想は、折伏を摂受の上位に置く教条主義的な
視野狭窄の日蓮信者には有り得ない豊かな慈悲心からの発想である。

大正3年(1914年)賢治18歳、盛岡中学校卒業後、島地大等編著
「漢和対照 妙法蓮華経」を読んで、「驚喜して身顫ひ戦けり」と激しく感動
したというが、大正9年(1920年)24歳で盛岡高等農林学校研究科を終了する
迄は、妹トシや親友保阪嘉内に法華経を読むことを勧める程度で、父政次郎に
浄土真宗からの改宗を迫るなど、本格的な折伏活動を開始したのは、10月の
国柱会入会以降のことになる。

大正10年(1921年)7月18日、在京中であった賢治は、上野図書館の3階で
保阪嘉内と落ち合い、宗教論を交わしたが、嘉内は賢治の「激しい白びかり」
のような折伏にも応ずることなく、入信を拒絶され、二人は決別に至っている。



後列右側が賢治 後列左側が保阪嘉内氏


花巻農学校で同僚であった堀籠文之進は、盛岡高等農林学校では賢治の3年後輩
であったが、花巻農学校には大正10年4月に就任しているので、教師としては
同年12月就任の賢治には、8ヶ月先輩に当たっていた。
堀籠文之進と賢治は、公私共に親しい間柄であったようだが、賢治の執拗な
折伏に彼は応じなかった。
賢治に「諦めるからあなたの身体を打たせて下さい」と言われ、背中を打たれ、
「ああ、これで私の気持ちが治まりました。痛かったでしょう。許して下さい」
と謝罪されたことがあったという。
「宗教的な道を、一緒に行けないのは、宮澤さんの信仰の深さや気持ちが、
あんまり隔たり過ぎていて、むしろ恐ろしかったのです。
その結果、宮澤さんと気持ちの上でちょっと離れた時もあった」と彼は回想
している。

長篇詩「小岩井農場」の下書稿(パート5)に
「堀籠さんは温和しい人なんだ
 あのまっすぐないゝ魂を
 おれは始終おどしてばかり居る
 烈しい白びかりのやうなものを
 どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」
と、賢治は自分の折伏する激しい様子を描写している。


花巻農学校の同僚は校長の他に、教諭の堀籠文之進氏と白藤慈秀氏、
書記助教心得・舎監心得の奥寺五郎氏が居た。
白藤慈秀氏は賢治より少し年長であったようだが、浄土真宗の僧侶で、後に
賢治に影響を与えた島地大等氏が住職をしていた盛岡北山の願教寺僧侶に
なっているところからすると、お互いに水面下では宗教上の葛藤があった
はずで、微妙な関係性の間柄であったろうと推察される。


非常識なまでに熱狂的に折伏に奔走するのは、法華初信者の常であるが、
誰も居ない教室で、法華経の読誦、唱題する賢治の姿は目撃されてはいても、
教育現場で教え子を巻き込んでまでは、法華経への入信を勧めてはいなかった
様である。


教壇に立つ宮澤賢治大正14年
岩手県立花巻農学校の教壇に立つ宮澤賢治 大正14年(1925年)


内村鑑三氏の愛弟子で、熱烈なクリスチャンであった斎藤宗次郎氏は、
賢治より18歳年長であったが、大正10年(1921年)から15年(1926年)
までの4年間、賢治と親しく交流を持っていたという。
「求康堂」という新聞取次店を営んでいた斎藤宗次郎氏は新聞配達をしていて、
花巻農学校に集金に行った折り、「宮澤賢治先生がいた」職員室の中で話をし、
一緒に音楽を聴いたりしたという。
斎藤宗次郎氏は、「宮澤先生はたくさんレコードを持っていて、ベートーベン
とかモーツァルトとかドヴォルザークとか聴かせて貰った」と21歳から91歳
までの70年間に膨大な日記に基いた自叙伝「二荊自叙伝(にけいじじょでん)」
に書いている。
賢治と二人でストーブを囲んでいる様子のスケッチも、日記に描いている。
熱烈な信仰心を燃え滾らせた法華信者とキリスト者、異教の二人が相見えた訳
であるが意外にも、斎藤宗次郎氏は、「僕は宮澤賢治と宗教の事で話をした事は
ない」と回想している。
精神的巨人とも言える二人の人格者が、高い境地からお互いの存在を認め合い、
独善的、排他的宗教感情に抑制を利かせ、宗教論争で強烈に自己主張すること
もなく、謗り合い、侮り合うこともなく、二つの魂を触れ合わせた高貴な匂い
の漂うエピソードである。
日蓮の崇拝者には独特の臭味があり、それが人格を崩し、相や行為行動に
悪現象として顕在化するものであるが、賢治にはその醜い傾向性は希薄で
あったに違いない。
それは一義的に、彼は法華経信者であって、日蓮信者ではなかったからである。


第188記事宗次郎氏
斎藤宗次郎氏


「宗教の事で話をした事はない」という賢治と斎藤宗次郎氏の交情を、私は
麗しき関係性と感じるが、日蓮系の信者は賢治の「謗法(ほうぼう)」と見る。
「謗法」とは、「誹謗正法(ひぼうしょうぼう)」の略で、仏法を謗り、真理を
蔑ろにすることである。

「妙法蓮華経譬喩品第三」には
「若し人信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)する時は
すなわち一切 世間の仏種を断ぜん。
或いはまた、顰蹙(ひんしゅく)して しかも疑惑を抱かば
汝は、当に この人罪報を説くを聴くべし。
若しくは仏の在世に 若しくは滅度の後に
それ、かくの如き経典を 誹謗(ひぼう)するもの有りて
経を読誦し書し 持つ者有るを見て
軽賤(きょうせん)し憎嫉(ぞうしつ)して 結恨(うらみ)を懐かば
この人の罪報を 汝、今、また聴け。
その人、命、終われば 阿鼻獄に入らん」

サンスクリット原典からの翻訳
「余の巧妙な手段は常にこの世に確立されている仏の指導方法である。
それを捨てて、渋面をして乗り物を捨て去った人の、
この世に於ける悲惨な報いを汝は聴け。
余の在世中であれ、あるいは入滅した後であれ、このような経典を捨て去って、
あるいは僧たちに過酷な態度をした人々の受ける報いを汝は聴け。
愚かな輩は人間界で死んだのち堕ちて、幾劫かを満了するあいだ
阿鼻地獄に住む人となり、
その後さらに幾小劫のあいだ、かれらはそこで堕落を続けるのだ」

法華経を信受しない者は地獄に堕ちるというのであるが、法華経の信者で
あっても「謗法与同罪」というものがあるので、油断は出来ないのだ。
日蓮の弟子、日興は「日興遺誡置文(にっこう ゆいかいおきもん)」に、
「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」と書いている。
「謗法与同罪」とは…
日蓮59歳、その生涯を終える2年前、弘安3年(1280年)「秋元御書」に、
「常に仏禁(いまし)めて言はく、何なる持戒智慧高く御坐(おわ)して、
一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵(かたき)を見て、
責(せ)め罵(の)り国主にも申さず、人を恐れて黙止(もだ)するならば、
必ず無間大城に堕(お)つべし。
譬(たと)へば我は謀叛(むほん)を発(お)こさねども、謀叛の者を知りて
国主にも申さねば、与同罪(よどうざい)は彼の謀叛の者の如し。
南岳大師(なんがくだいし)の云はく『法華経の讐(あだ)を見て
呵責(かしゃく)せざる者は謗法の者なり、無間地獄の上に堕ちん』と。
見て申さぬ大智者は、無間の底に堕(お)ちて彼の地獄の有らん限りは
出づるべからず」と書いている。

つまり、法華経を信じないどころか、法華経の仇であるキリスト者(外道)、
斎藤宗次郎氏を呵責することなく、仲良く音楽鑑賞に浸っていた法華経の信者、
賢治は謗法与同の罪に因り、無間地獄に堕ちるということである。

法華経33 400

また、建治2年(1276年)日蓮55歳時の遺文、
曽谷殿御返事(別名 成仏用心抄)には、
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、
師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。(中略)
謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、
水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」

「法華経の敵を見ても、そのまま放置して折伏しなければ、
僧侶も信徒も共に無間地獄に堕ちる事は疑いない事である。
謗法を責めないで成仏のみを願うならば、火の中に水を求め、
水の中に火を尋ねるようなものである。願いもはかなく消えてしまう」
とある。

日蓮は続けて、
「法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし
うるし千ばいに蟹(かに)の足一つ入れたらんが如し
毒気深入・失本心故は是なり」と、
蟹の足を謗法に譬え、法華経を信じても謗法が少しでもあれば、
功徳が無いばかりでなく、逆に必ず地獄に堕ちる。
謗法を受け入れて行く内に、謗法の毒が深く入り込み、
本心を失えば、必ず地獄に堕ちるというのである。

法華経の信者として、折伏活動が一向に進展しなかった賢治は、このように
「堕地獄」「堕地獄」と脅され続ける精神世界の中で、宗教的強迫観念に
苛まれたこともあったはずである。

法華経の信者どもの思い上がりは甚だしいもので、法華経に敵対する者、
謗法者を殺すのは、法華経主義からすれば、大功徳になるとまで言い放つ。
先に引用した、弘安3年(1280年)「秋元御書」には、
「涅槃経」の見解を引用して、
「不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり。(中略)
法華経の敵になれば、此れを害するは第一の功徳と説き給うなり
況や供養を展ぶべきをや」と書いている。
「殺生戒は仏誡の第一であるが、謗法の悪人を懲罰するのは、法華経行者の
義務であり、如何に折伏してもこれに応じない者は、殺すことも止むを得ず、
却って真の慈悲である。謗法者を殺すのは、法華経主義の見地からは、不道徳
でなく、却って大道徳、大功徳になる。
このように謗法の悪人は殺しても良いほどであるから、謗法者に供養を
施すべきでないのは当然のことである」ということである。

この様な教説であるから、法華経が最勝の経典だの、大慈悲だの、一生成仏
だのと気取ってみても、日蓮信者の行体は所詮、宗教ヤクザになるの他は無い。


宮澤政次郎 賢治の父君
賢治の父君 政次郎氏


宮澤家は旧家で、代々熱心な浄土真宗の信徒であったというが、
大正9年(1920年)盛岡高等農林学校研究生を終え、家に戻って来た
24歳の賢治は、父政次郎氏に改宗を申し入れ、連日連夜の激しい宗教論争で、
家中の雰囲気が暗澹たるものになったというが、一々経典を根拠に挙げて、
論じ合っていたということからすると、感情的な親子喧嘩というよりも、
理知的な法論らしき争論が繰り広げられていたのではないかと想像される。
父政次郎氏は母イチさんに
「聞いていて、ひどかったろう(辛かったろうの意)。だが、大事なことを
言い合ったので、喧嘩ではないのだからな」と涙を流したことがあるという。
翌年の大正10年(1921年)に、賢治は家出し、東京の国柱会本部での奉仕
活動などをしながらも、猛然と童話を多作する訳だが、父政次郎氏は4月に
上京し、賢治を帯同して、6日間の関西旅行に出掛け、比叡山延暦寺に参詣
させたという。
叡山は天台宗の総本山であるが、鎌倉時代に法然、栄西、道元、親鸞、日蓮
と、各宗の開祖を輩出した鎌倉仏教の源泉となる一大拠点であった訳で、
そこを訪れることに依って、冷静に日本仏教史を辿り、法華経オンリーの
偏狭な仏教観を打破して貰いたいという願いがあったのではないかと推察
される。

賢治は法華経を出版して、知己に配布して欲しいと法華経に対する熱誠を
込めた遺言を、父政次郎氏に遺したが、父は立派であると賢治を褒め、
賢治は喜んで、「初めて父さんに褒められた」と弟清六氏に語ったという。
親子の信仰上の対立は、賢治の死まで続いたが、昭和26年(1951年)、
賢治の折伏が成就したと言うべきか、父政次郎氏は日蓮宗に改宗した。
その父政次郎氏の胸中は計り難いが、賢治への愛念が伝わって来るかの
ようで、その智を超えた情を思うと、胸に迫り来るものがある。


詩「病相」
「われのみみちにたゞしきと
 ちちのいかりをあざわらひ
 ははのなげきをさげずみて
 さこそは得つるやまひゆゑ
 こゑはむなしく息あへぎ
 春は来れども日に三たび
 あせうちながしのたうてば
 すがたばかりは録されし
 下品ざんげのさまなせり」

賢治はこの詩の中で、自分だけが正しいと思い込み、父を嘲笑ったり、
母を蔑んだりして来たことを「下品懺悔の様」と、深く慙愧している。
「さこそは得つる病故」と、それもこれも「病相」の現れだったと弁明し、
反省しているところが痛々しくも、親子の情愛が溢れているかの様である。




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宮澤賢治は日蓮主義者であったのか?②…上行菩薩再誕論の呪縛

 2018-04-14
宮澤賢治は日蓮主義者であったのか?②  

…上行菩薩再誕論の呪縛



賢治が法華経に帰依する機縁となったのが、日蓮宗の僧侶や信者からの折伏に
依るものではなく、盛岡北山の浄土真宗本願寺派寺院、願教寺(がんきょうじ)
の住職で仏教学者の島地大等(しまじ だいとう)氏の謦咳に接したこと、また
島地氏の編著書「漢和対照 妙法蓮華経」を読んだことに依るものであったこと
は、不幸中の幸いであったと言える。

出家在家を問わず、我が国の法華経系教団信者で、「法華経」という経典を
繙くことに依って随喜渇仰し、心服随従の信仰生活に入る人は極々稀で、
大方は「日蓮」だの、「題目」だの、「ご本尊」だのが先行して、「法華経」は、
「日蓮教」としての「一応の」依経として、捉えているに過ぎないものなのだ。
賢治が初めに触れた「法華経」は、中国で翻訳のみならず、創作を重ねられた
中国仏教の「法華経」、日蓮宗系の信者の受容する「法華経」は、その中国仏教
の「法華経」を、己への「予言書」と宗教的自覚を持った日蓮が信解知解した
ところの「法華経」であり、釈迦仏法と日蓮仏法との相違を生み、その様相は
大きく隔絶するものである。





極端な例を挙げると、日蓮系の、特に在家カルト教団の信者などは、虚構の
時代観である末法思想に依り、インド応誕の釈尊は無縁のものとして、屁とも
思っていないどころか、釈迦像を拝んだら、却って罰が当たると信じている。
一般には信じ難いことと思うが、彼らは「日蓮遺文集」を読むことはあっても、
法華経を繙くことなどは先ず無いものである。
朝夕の勤行で方便品第二と如来寿量品第十六の一部分を読誦するが、音読に
気を取られて、意味など吟味していない。
法華経二十八品全部を一度でも読んだことのある人などは、極々稀なのである。
「資本論」を読んだことのない共産主義者の存在よりも、奇妙な現象と言える。

賢治作品の読者なら、「雨ニモマケズ」の「デクノボー」で、誰に対しても
礼拝し、敬意を表して、どんな仕打ちにも礼拝を止めなかった常不軽という
修行者は実は自分であったと語った釈尊の「不軽菩薩」を連想する人は多いが、
日蓮を信仰する彼らの殆どは「常不軽菩薩品第二十」を読んだこともないし、
そもそもそんな精神は毛筋ほども持ち合わせていないので、非仏教徒よりも
「雨ニモマケズ」への共感、共鳴は遥かに薄いものとなる。
賢治の場合は、「法華経」→「日蓮」→「国柱会」であって、「日蓮教団」→
「日蓮」→「法華経」の経路でなくて、良かったのである。
後者の場合は、今も昔も「法華経の精神」とやらは何処吹く風で、何故か
老いも若きも、見苦しい俗物親分に忠誠を尽くす狂信的な「宗教ヤクザ」に
堕する「思考停止」の烏合の衆が圧倒的に多いのである。


身延山久遠寺400
日蓮宗総本山身延山久遠寺


国柱会は「祖廟中心・宗門統一」をスローガンに、日蓮の祖廟(身延山久遠寺)を
中心とした全日蓮門下の各教団の統一への活動を自会の存在意義の一つに
挙げていて、出家との対立関係は無く、身延山久遠寺への参詣を行なう。
山梨県南巨摩郡身延町に在る身延山久遠寺は、日蓮が晩年に過ごした地であり、
祖山(そざん)と呼ばれ、日蓮宗の総本山として崇敬されている。

日蓮宗で本尊とするのは、「久遠実成の本師釈迦牟尼仏」(くおんじつじょう
の ほんし しゃかむにぶつ)、つまり「釈尊」「お釈迦様」であるが、
この「釈尊」は約2500年前にインドに誕生し、80歳で亡くなった歴史上の
人物としての「釈尊」、ゴータマ・シッダールタではなく、過去・現在・未来の
三世に存在するという、永遠の存在としての「釈尊」を意味する。

日蓮宗の教義は、 釈尊が説いた(仏説)とする経典の中で、その真髄は法華経
であり、その法華経の一切は「南無妙法蓮華経」の「題目」に集約されるとし、
その法華経と題目を一天四海(天下、全世界)に広めること(広宣流布)に
依って、命のある一切(衆生)の救済するというものである。
身延山久遠寺を頂点とする日蓮宗の日蓮(日蓮聖人)の捉え方は、「人本尊」
とせず、日蓮は飽くまでも「永遠の存在としての釈尊」の教えである法華経を
仏の使い(仏使)として、伝えた(若しくは、伝えてくれている)という見地である。



鶯谷の国柱会館


賢治が終生、そのメンバーであった国柱会の日蓮観は、
「法華経には末法の人々を救う為に、本仏の本弟子である『本化の菩薩』を
派遣すると『予言』されていて、日蓮が受けた数々の法難迫害は、この
『法華経』の『予言』と符合する。
このことから、日蓮こそ、絶対平和世界を実現する為に、『法華経』に出現を
『予言』された『本化上行菩薩』である。
従がって、日蓮を一宗一派の祖師としてでなく、『世界人類の唯一の救世主』
『閻浮一聖』として崇める」という大仰なもので、「日蓮本仏論」に限り無く
近いものがある。

仏教経典は、それが虚構であっても、釈尊の教え(仏説)であるという一点に
於いて権威付けられているにも関わらず、一方で歴史上の釈尊を否定しながら、
他方では、その釈尊が説いたとする経典に書いてあるから真理であるとして、
「予言なるもの」の価値を絶対視し、それを根拠に論を進めるという大矛盾が
存在する。

そもそも、宗教経典に於ける「教え」というものは、その時代に生きる人々の
救済の為に書かれたものであって、何も1222年に生まれる日蓮の為に、仏滅後
400年から600年の紀元前後に法華経が編纂されたという訳ではないのである
から、法華経を「予言の書」と捉えるのは誤りである。


上行菩薩像
上行菩薩


日蓮の信奉者が主張する、法華経に於ける「予言」とは、
「釈尊の出世の本懐は、法華経を説くことであり、釈尊在世と滅後二千年間の
衆生救済の為と、滅後二千年後以降の末法の衆生を済度する『上行菩薩出現の
予証の為』であった」とする。

仏滅後500年前後に原型が編纂された法華経は、釈尊の教説ではない。
「釈尊の出世の本懐は、法華経を説くことであった」というのは、中国僧
天台大師智(ちぎ)(538-597)の「教相判釈」という、膨大な仏教経典の
整理方法の仮説に依る虚構である。

上行菩薩出現の大前提である「末法」という時代観であるが、
「正法・像法・末法」の「三時説」は法華経には説かれていないのである。
この「三時説」は、「法華経」よりも後代に成立した「大方等大集月蔵経」に
説かれたものであって、「法華経」にある2ヶ所の「末法」と訳されている
サンスクリット語の言葉は単に「仏滅後」という意味に過ぎないのである。

「釈尊は、法華経如来神力品第二十一に於いて、法華経の肝要を上行菩薩に
付嘱して、滅後末法の弘教を託した」という。
その上行菩薩に付いて、釈尊は「日や月の光明がよく諸の薄暗いところを除く
ように、この人は世間においてよく人々の闇を滅し」とあり、「この人」は
「凡夫の姿をした法華経の行者」つまり、1222年の鎌倉時代、日本に生まれた
日蓮その人であるというのである。

「法華経法師品第十や、勧持品第十三、安楽行品第十四の経文にあるように、
釈尊滅後の末法の時代に凡夫として出現し、法華経を弘めることで数々の
難に遭ったのは、古今東西に於いて、鎌倉時代の日本に出現した日蓮しか
いない。中国の天台大師智も比叡山の伝教大師最澄も法華経を弘教した
ことに依って、世間から迫害を受けてはいない。
だから、日蓮こそが、従地涌出品第十五に説かれるところの上行菩薩の再誕
なのだ」という論法である。
尤も、再誕も何も、上行菩薩は架空の存在に過ぎない訳であるが。


花巻農業高校敷地内「賢治先生の家」400
岩手県立花巻農業高校敷地内「賢治先生の家」


「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の一文で
有名な「農民芸術概論綱要」は、昭和元年(1926年)に賢治が花巻農学校教諭
を依願退職し、設立した羅須地人協会の趣意書のような理論書と言える。
これは、当時疲弊していた農村に対して、増産の為の肥料設計を指導すると
共に、農民芸術を提唱して、農村の生活向上を図ろうとしたものであるが、
賢治の理想とするところの世界では、宗教と科学、芸術は統合されるべきで
あると考えられていた。

賢治の宗教観には、彼自身が大自然の森羅万象の根底に在る真理に感応して、
魂の奥底に「心象」を感じ取ったかのような、宗教的な神秘体験を背景にした
「法悦」とも言える深淵な悟達の境地があったようにさえ感じられる。
だからこそ、母イチさんに「この童話は、有り難い仏さんの教えを、
一生懸命に書いたものだんすじゃ。だからいつかは、きっと、みんなで
喜んで読むようになるんすじゃ」と語ったように、彼の文筆活動は彼自身の
目的意識としては「法華文学ノ創作」であったにしても、仏教教理をそのまま
表現した単なる宗教文学にはせずに、「心象」を「スケッチ」することに依って、
珠玉の如き詩や童話を描くことが出来たのではなかろうか。
国柱会の教義を教条主義的に唯一絶対的な真理として捉え、賽主の田中智学氏
を盲目的に崇拝するような愚劣なことは、彼には無縁で、仏教思想が彼の胸中
で昇華されたかのようなその作品群に匂い立つ宗教心はむしろ、キリスト教
神秘主義的でさえある。


宮澤賢治童話村400
               宮澤賢治童話村


有名な「雨ニモマケズ」手帳の裏表紙の鉛筆挿しの中に、
「塵点の劫をし過ぎていましこの 妙(たえ)のみ法(のり)にあひまつりしを」
という短歌が書かれた紙片が入っていたという。

「塵点の劫」とは仏教用語「塵点劫(じんでんごう)」で、計測することの
出来ないような、極めて長い時間を表現している。
法華経寿量品第十六に於いて、釈迦はインドに生まれて、18歳で出家、
修行に依って、30歳で始めて正覚を得たという立場(始成正覚)を否定して、
真実はそうではなく、自分は「五百塵点劫」という久遠の昔に成道して以来、
ずっと説法教化して来たという立場「久遠実成」を表明した。
「妙(たえ)のみ法(のり)」は「妙の御法」で、「妙法」「妙法蓮華経(法華経)」
のこと。
巡り会い難き法華経を、今世で受持出来た法悦を詠ったものであろう。
昭和36年(1961年)に宮沢賢治研究会が、身延山久遠寺にこの歌碑を
建立している。


久遠寺の歌碑400
身延山久遠寺に建立された賢治の歌碑


賢治の遺言は、
「国訳の法華経を千部印刷して知己友人にわけて下さい。
 校正は北向さんにお願いして下さい。本の表紙は朱色に。
 『私の一生の仕事は、このお経をあなたのお手元にお届けすることでした。
 あなたが仏様の心に触れて、一番良い、正しい道に入られますように』
 ということを書いて下さい」というもので、父政次郎氏が印刷する法華経の
範囲を確認すべく、「法華経は自我偈だけか、または全品か」と問うたところ、
「どうぞ法華経全品をお願いします」と答えたという。
「自我偈」とは、法華経二十八品(章)の内、如来寿量品第十六の一部分、
勤行で読誦される「自我得仏来……速成就仏身」の範囲をいう。
この遺言の数時間後に、賢治は逝った。


昭和9年6月5日、
「合掌、私の全生涯の仕事は此経をあなたのお手許に届け、
 そしてその中にある佛意に触れて、
 あなたが無上道に入られんことをお願ひする外ありません。
 昭和八年九月二十一日 臨終の日に於て 宮澤賢治」
と後書きの付された法華経が弟清六氏に依って発行され、遺言通り、
友人知己に配られたという。


賢治遺言の法華経400
賢治の遺言に沿って作られた法華経


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宮澤賢治は日蓮主義者であったのか?①

 2018-04-14
宮澤賢治は日蓮主義者であったのか? ①



賢治の父、政次郎氏(明治7年・1874年-昭和32年・1957年)は
古着質商を家業とする有力な商家であり、篤信の門徒(浄土真宗の信者)
であったという。花巻仏教会や四恩会を組織しては、幹事として世話をする
一方、講師を招聘しての仏教講座の夏期講習会を毎年開き、更に国訳の経文
を刊行して、人々に施本するなど、弘教活動に尽力している。

賢治は、大正3年(1914年)盛岡中学を卒業した18歳の秋、島地大等
(しまじ だいとう)編著「漢和対照妙法蓮華経」(法華経)を読んで
「只驚喜し身顫い戦けり」と激しく感動し、大正9年(1920年)、
24歳の時には、父政次郎の反対を押し切り、純正日蓮主義を奉じる、
国家主義的な日蓮宗系在家仏教団体「国柱会」の信行部に入会したが、
そもそも、その法華経との出会いの切っ掛けを作ったのは皮肉な事に、
他ならぬ父政次郎自身であったとも言える。


漢和対照妙法蓮華経
「漢和対照妙法蓮華経」通称「赤本法華経」


明治44年(1911年)8月、盛岡中学3年生、15歳であった賢治は、
父政次郎が主導的に企画した花巻温泉郷大沢温泉に於ける「夏季仏教講習会」
で、「漢和対照 妙法蓮華経」の編著者、島地大等の講話を聞いている。
更に大正2年(1913年)10月、盛岡中学5年生、17歳の時には、願教寺での
「報恩講」に出席、大正4年(1915年)8月、盛岡高等農林学校1年生、19歳
の時には、願教寺「夏期仏教講習会」に一週間に亘って参加し、「歎異鈔法話」
を聴聞し、島地大等氏の謦咳に接している。
島地大等氏は浄土真宗本願寺派願教寺住職で、仏教学者でもあり、
インドや中国の仏教史蹟調査、比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺で
古文書研究などの励まれ、東京帝国大学や東洋大学などで教鞭を執った。
「歎異抄講本」「天台教学史」「日本仏教教学史」などの著作も多い。
明治8年(1875年)-昭和2年(1927年)

島地大等氏は浄土真宗の僧侶であったが、日蓮への尊崇の念を抱いていたのか、
彼の著書や講話が日蓮への言及が機縁となり、賢治に法華経及び日蓮への関心
を抱かしめたのではないかと推察される。



島地大等氏


大正7年(1918年)2月、22歳の時、日本女子大の学生であった妹トシの看病の為に、
母イチと共に上京し、翌8年(1919年)2月まで滞京していたようが、
その間に国柱会の創立者田中智学氏の講演を鶯谷の本部国柱会館で聴聞した
ことがある旨、友人保坂嘉内氏への手紙に記されている。
大正8年(1919年)か、大正9年(1920)頃と推定されるが、賢治は
田中智学氏著の「本化攝折論」や「日蓮上人御遺文集」の抜書き「攝折御文、
僧俗御判」を編集し、大正9年10月、24歳で国柱会に入会、「南妙法蓮華経!
南妙法蓮華経!……」とお題目を唱えながら、花巻の町を歩いたという程の
熱狂振りを見せていたようである。
大正10年1月、父母の改宗を熱望して容れられず、突如無断で上京して、
国柱会本部を訪れ、同会幹部講師の高知尾智耀(たかち おちよう)氏から
「法華文学ノ創作」を勧められたという。
本郷菊坂町に間借りし、赤門前の文信社で筆耕校正の仕事で自活しながら、
午後には街頭布教活動や国柱会本部での奉仕活動に励み、8月の帰郷時には
大トランク一杯の原稿が有ったという程、童話の創作に熱中したようである。


国柱会館400
鶯谷の本部 国柱会館


大正から昭和に掛けての時代は、宗教的軍事主義、皇道ファシズムを標榜する
狂信的な日蓮主義者が跳梁跋扈した時代でもあった。
戦争を「正法流布の手段」と捉え、「世界最終戦論」を唱えた軍事思想家で、
昭和6年(1931年)関東軍作戦参謀として、満州事変の発端となる柳条湖の
鉄道爆破事件を起した石原莞爾は熱烈な日蓮主義者で、国柱会の会員であった。

昭和7年、テロに依る破壊が建設を生むとして、「順逆不二の法門」を唱え、
「一人一殺主義」で指導者層を暗殺することに依る国家改造を企図し、
濱口雄幸内閣で蔵相を務めた井上準之助、三井財閥の総帥・団琢磨を暗殺した
右翼テロリスト秘密結社「血盟団(けつめいだん)」の指導者井上日召も
団員たちも激烈な日蓮主義者であり、昭和7年、上海事変勃発の経緯の中で、
日本人青年同志会に依る、抗日組織の拠点であったタオル工場・三友実業公司
襲撃を指導した重藤憲文憲兵大尉も、五・一五事件の青年将校山岸宏海軍中尉
も、立正安国論を愛誦し、「順逆不二之法門」という小冊子を著した二・二六
事件の西田税(みつぎ)元陸軍少尉もまた熱烈な日蓮主義者であった。

「日本改造法案大綱」を著した右翼の理論的最高指導者で、黒幕的な存在と
して、昭和6年(1931年)の十月事件、昭和7年(1932年)の五・一五事件、
昭和11年(1936年)の二・二六事件のクーデター未遂事件などに関与した
北一輝も日夜、法華経二十八品を読誦し、受け取る霊告を「神仏言集」として、
7年間に亘り、「南無妙法蓮華経」と大書したノートに書付ていたような、
矯激極まる日蓮主義者であった。

日蓮門下の釈尊を中心とした信仰への統合や社会運動、政治運動など、日蓮
主義伝道活動を広く展開した顕本法華宗の開祖、本多日生の影響下にあった
江川桜堂が創始した日蓮系新宗教「日蓮会」の青年部「日蓮会殉教衆青年党」
(通称「死のう団」)は、昭和8年(1933年)、集団で「死のう」と叫びながら
行進して逮捕された事件、昭和12年(1937年)、国会議事堂など5ヶ所で割腹を
図る事件など、「死のう団事件」と呼ばれる一連の騒擾事件を起こしている。

こうした日蓮主義台頭の風潮を背景として、1922年(大正11年)、日蓮門下
は合同で大正天皇に宗祖日蓮の大師号降賜の請願をし、「立正」大師号追謚を
実現させているが、戦前戦中に於ける日蓮主義の歴史的汚点を慮ってか、
立正大師号の通用は弘法大師や伝教大師のように一般化していない。

賢治は「日蓮主義者」に付いて、友人保阪嘉内氏宛てに、
「日蓮主義者。この語をあなたは好むまい。私も曾ては勿体なくも烈しく
嫌ひました。但しそれは本当の日蓮主義者を見なかった為です。
東京鴬谷国柱会館及『日蓮聖人の教義』『妙宗式目講義録』等は必ずあなたを
感泣させるに相違ありません」と入会当初の心酔振りを熱烈に書き送ったり、
「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば、
私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります」とまでの熱狂的傾倒を露わ
にしていたようであるが、詩「国柱会」「心相」「カーバイト倉庫」などからは、
後日の国柱会への失望の暗喩が読み取れる。


2.26 戦車400
二・二六事件 叛乱軍の鎮圧に向かう戦車隊


日蓮は、法華経「以外」の経典を、法華経「以前」に説かれた経典と捉え、
法華経以外の経典総べては「真実を説く為の『仮の方便のお経』」、すなわち
「権教(ごんきょう)」であり、「法華経こそが最高の経典」と位置付け、
他の仏教諸宗派を睥睨し、邪教扱いで誹謗中傷する虚妄の大義「法華経正意論」
を論拠として、宗教理論を構築した。
その釈尊に仮託された思想文学作品に過ぎない「法華経」を、末法の時代に
釈尊の使者として、地涌(じゆ)の上首(じょうしゅ)上行菩薩
(じょうぎょうぼさつ)が出現し、「法華経」を広めて、民衆を救済すると
いう予言書と捉え、その上行菩薩の再誕は当に自分であるとの宗教的自覚
を抱いた日蓮が構築した理論が、現代に至るまで踏襲されているのである。

歴史的事実としての大乗仏教経典群の成立事情に鑑みて、日蓮教義は論理破綻
を起こしており、通用しないお伽話なのであるが、日蓮が活躍した鎌倉時代
以降、我が国の法華経受容の仕方は、大方の場合、日蓮というフィルターを
通した上での法華経理解となっている。
その日蓮の法華経理解もまた、中国仏教、天台学というフィルターと通した上
での法華経である訳なのである。
そういう背景を持つ、日本に於ける法華経という経典であるからこそ、過去も
現在も、法華経!法華経!と騒ぐ輩こそが、仏教の心、法華経の精神とやらを
体現することもなく、むしろ独善的、偽善的、偏執的、排他的、戦闘的、独裁
を好む愚民的視野狭搾な「宗教ヤクザ」に堕して行くという奇妙な現実がある
が、悪現象は悪信仰の証に他ならないのである。



田中智学氏


日蓮宗僧侶であった田中智学氏が、明治13年(1880年)に「蓮華会」を設立、
明治17年(1884年)に「立正安国会」と改称した組織をルーツとして、
大正3年(1914年)に、「純正日蓮主義」を信奉する在家仏教団体「国柱会」
を設立し、在家主義の立場から、仏教の近代化を目指した。
名称の由縁は、日蓮の遺文「開目抄」中「われ日本の柱とならん」の語に依る。
宗派としての名称は「本化妙宗」で、釈尊を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、本尊は
日蓮の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。

国柱会では、日蓮を「閻浮(えんぶ=世界)一聖」、つまり法華経の予言通り、
人類の救済を任務として、末法時代の日本に出現した上行菩薩と仰ぎ見て、
日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合論(法国冥合論)を標榜している。
大正12年(1923年)には、天皇の法華経帰依に依る広宣流布、国立戒壇建立、
宗教革命を目指して、議会政治に参画すべく政治結社「立憲養正会」を結成
したが、帝国議会の議席獲得には至らなかった。

田中智学氏は、現代では国家主義的右派指導者のイメージが強いが、明治から
大正に掛けては相当に魅力的なカリスマ的存在であったようで、政界、財界、
軍人、文壇、演劇界等々、文人北原白秋からファシスト北一輝まで、多方面で
多種多様な交流があったという。
大東亜共栄圏建設のスローガンとなった「八紘一宇」も「日蓮主義」も、
彼の造語であった。
国柱会の思想「在家主義」や「日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合論」
「国立戒壇論」など、現代の日蓮系他教団にも大きな影響を及ぼし続けている。


最勝閣400
三保最勝閣


賢治に関わる国柱会の活動分野としては、大正11年(1922年)に、「国性芸術」
と呼んだ芸術を通しての教化活動を推進する「国性文芸会」という国柱会の
付属機関が組織されているが、賢治の演劇活動や「法華文学ノ創作」活動は、
この趣旨に沿うことになる。

田中智学氏は多芸多才で、国柱会の建築物、三保の最勝閣(大正11年11月
に亡くなった妹トシの遺骨を、賢治は三保最勝閣に持参した)や鶯谷の本部、
国柱会館の設計も手掛けたというが、都市計画にも一家言あったようで、
大正9年には「東京新都市論」を、明治20年には農工一体のコミューン
「本時郷団」(法華村、日蓮村、日本村とも言う)の建設を提唱していた。
賢治の「羅須地人協会」の発想は、この「本時郷団」のユートピア構想と
その軌を一にしているようである。





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宮澤賢治の「雨ニモマケズ」②…文字曼荼羅は不可分か?

 2018-04-14
宮澤賢治の「雨ニモマケズ」②
 
…文字曼荼羅は不可分か?



「雨ニモマケズ」は「雨ニモマケズ手帳」の51ページから59ページに
記され、次の60ページ目、見開きの左側に略式文字曼荼羅の模式図が
書かれていることは良く知られている。



「雨ニモマケズ手帳」(複製)59ページと60ページ


「法華経」は第一に大乗仏教経典「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」
漢訳の「総称」であり、第二に鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」の略称でもあって、
正式な経典名ではない。
法華経完訳は6種類あったというが、現存するのは3種類のみで、三存三欠
(六訳三存)と言われる。
それぞれの経典名は、
●「法華三昧経」(欠)六巻 正無畏訳 ●「薩芸芬陀利経」(欠)六巻 法護訳
●「正法華経」十巻 法護訳      ●「方等法華経」(欠)五巻 支道林訳
●「妙法蓮華経」八巻 鳩摩羅什訳   ●「添品法華経」七巻 闍那崛多・
達磨笈多共訳 で、
賢治の読んだ法華経は、鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」である。


経巻B400

法華経巻物A400


日蓮系諸教団が礼拝の対象とする文字曼荼羅は、密教の密具「胎蔵界曼荼羅」
を模したものである。
「法華経=妙法蓮華経」に帰依する、帰命する(南無する)という意味の
「南無妙法蓮華経」と呪文を唱えること自体が密教の真言(マントラ)
そのものである。

密教では曼荼羅に向かい、手に印を結び、口に真言を唱え、心に「大日如来」
を描いて、「入我我入」の境地を目指す。
密教の本尊である「大日如来」を「大宇宙の生命そのもの」と捉え、
その「大日如来という大宇宙の生命」が、「自分の生命」でもあるとするのは、
古代インドの宗教体系(古代ヒンドゥ教=バラモン教)の「梵我一如」、
「梵=ブラフマン」と「我=アートマン」との関係性そのものである。
「大日如来」という仏教の表現を取りながら、「梵我一如」という古代インドの
伝統的な宗教観を内実としているというのが密教なのである。
密教の行者が手に印を結び、口に真言を唱え、心に「大日如来」を描くという、
身口意(しんくい)による三密を実践し、大宇宙と一体化して、逆に宇宙の
本体を動かして行くことが出来るという理屈である。
翻って、日蓮の信者は、文字曼荼羅に向かって、合掌し、法華経のタイトル
(首題、題目)を唱え、虚空会の儀式(あるいは久遠の本仏)を心に描いて、
「境智冥合」するという事相に於いて、密教と全く同様であり、法華経こそが
釈尊一代に亘る最勝の教えであるどころか、内実は仏教とさえ言い難い。


密教曼荼羅400
密教曼荼羅


そもそも、「雨ニモマケズ」は、賢治が読み手を意識して書いた「詩」である
のか、否かさえ断定し難いものがある。
日蓮が信解、知解したところの法華経、その信行者としての信仰告白や祈りの
表白のようなものであったかも知れないし、信仰以前の本然的な心情の迸りで
あったかも知れない。
何れにせよ、天才詩人の性として、賢治は詩という形式に整えずにはいられ
なかったに違いない。

そういうことから、この「雨ニモマケズ」は、昭和19年9月、東京女子大学で
「今日の心構え」というテーマの講演を行なった、法政大学文学部哲学科教授
谷川徹三氏(詩人谷川俊太郎氏の父君)のように、
「この詩を私は、明治以後の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩である
と思っています。もっと美しい詩、或はもっと深い詩といふものはあるかも
知れない。しかし、その精神の高さに於いて、これに比べ得る詩を、私は知らない
のであります」と絶賛する人もあれば、その一方、詩人中村稔氏のように、
文芸的価値としては、「ふと書き落とした過失のように思われる」駄作であると
評する向きもあり、その評価は両極に分かれるところであるが、圧倒的大多数の
読者達に、老若男女を問わず、深い感動を与え続けている現実がある。



大正9年、賢治が国柱会に入会した際に授与された、
田中智学氏書写の文字曼荼羅の相貌



通常、略式文字曼荼羅の模式図の部分、
「  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多宝如来
南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼佛
  南無浄行菩薩
   南無安立行菩薩 」は、
詩「雨ニモマケズ」の一部として、扱われてはいないが、賢治の法華経信仰を
重視する向きは、「雨ニモマケズ」の「ミンナニデクノボートヨバレ」の
「デクノボー」は、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる「常不軽菩薩」を
意味することからも、「法華経を理解しない限り、この詩の意味は解らない」
「『雨ニモマケズ』は文字曼荼羅の解釈であり、眼目である」という見地から、
文字曼荼羅を欠いた「雨ニモマケズ」は意味を成さず、文字曼荼羅まで読む
必要があるという説を為す。

尤も、文字曼荼羅と言っても、略式も良いところで、中央に首題、その脇士に
釈迦牟尼仏、多宝如来と四菩薩を配しただけのものである。
賢治はこの「雨ニモマケズ」に続く60ページの文字曼荼羅以外にも、4ページ、
149・150ページ、153・154ページ、155・156ページの4ヶ所に、座配や
勧請内容が違い、相貌(そうみょう)の異なる図を描いている。

賢治は、その内実はともかくとしても終生、国柱会の会員であり続けた
訳であるが、一般的な日蓮宗系信者は自ら、信仰の対境である本尊と尊敬
(そんぎょう)する文字曼荼羅の書写やその真似事は、ご本尊様に対する
ご不敬に当たる、畏れ多いという心情から、先ずは行なわないものである。
首題と釈迦多宝、四菩薩、大毘沙門天王、大持国天王に限られるとは言え、
何を思って書写していたのか、その宗教的境地は測り難い。
首題を中央に配していない図や釈迦牟尼仏、多宝如来を勧請していない図、
安立行菩薩を二重に勧請している図など、法華曼荼羅の模式図としては、
日蓮教学上の錯誤が見て取れる。
日蓮宗系在家教団である国柱会の創設者田中智学氏は元日蓮宗僧侶とは言え、
19歳で還俗していた在家の身で、日蓮の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」を模写し、
本尊として下付していた教団の信仰環境から、賢治の曼荼羅模写に関する
感覚が、出家在家の領分を弁える、宗門の檀信徒とは大きな相違があったの
かも知れない。


総在寺詩碑400
静岡県裾野市深良の法華宗本門流総在寺境内に在る「雨ニモマケズ」詩碑


神奈川県鎌倉市長谷の日蓮宗古刹光則寺境内、静岡県裾野市深良の法華宗
本門流総在寺境内などにある「雨ニモマケズ」詩碑には、文字曼荼羅も一緒に
刻まれているが、法華経系寺院としては当然の判断であろう。
しかし、文字曼荼羅を「雨ニモマケズ」の一部として読むべしと主張する人は、
文字曼荼羅をどう読んでいるのか、どの順番で読んでいるのか甚だ疑問である。
まさか、賢治が手帳に書いた順番に右から「南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、
南無多宝如来…」と読むなどとは言うまい。
文字曼荼羅の部分は、同時同一的に全てが存在するものとして、密教曼荼羅の
ように、絵画的な図として捉えるべきなのである。
目で追うだけなら、どうぞお好きな順番にというところであるが、朗読すると
なると、日蓮教学的には首題である「南無妙法蓮華経」を最初に読む以外に
選択の余地はないのだ。
次は教義的にも、左右優劣を考慮に入れても、「南無釈迦牟尼仏」のはずで、
次は首題の左側、向かって右側に行って「南無多宝如来」、次は信仰心情から
して「南無上行菩薩」と行きたいところであるが、首題の右側、向かって左側
の「南無浄行菩薩」に行かないと理屈に合わないことになる。

つまり、賢治はこの文字曼荼羅を「雨ニモマケズ」の一部として、読む為、
読ませる為に記したものではないということである。
そうでなければ、あの「雨ニモマケズ手帳」の60ページには、右から順に
「南無妙法蓮華経」「南無釈迦牟尼仏」「南無多宝如来」……と書いて
いなければ、おかしいのである。

その傍証として、賢治は「雨ニモマケズ手帳」の155・156ページに、
「南無妙法蓮華経」
「南無上行菩薩」
「南無浄行菩薩」
「南無無辺行菩薩」
「南無安立行菩薩」
  「安立行」
と記している。
首題である「南無妙法蓮華経」を中央に配していない文字曼荼羅の相貌は
有り得ず、「南無釈迦牟尼仏」も「南無多宝如来」も勧請していないのは
妙なもので、これは曼荼羅の模式図として描いたものではなくて、読むべき
順序を考慮に入れて、右から左へと記されたものであるに違いない。
手帳60ページに、仏菩薩がこのような序列で書かれていたならば、
一体不可分のものとして、読むべきであるかも知れないが、実際には
そうなってはいないのだ。

結論として、手帳60ページに記された文字曼荼羅の模式図は、賢治が
「雨ニモマケズ」の一部として書いたものではなくて、別物の「図」として
捉えるべきもので、読むものではなく、同時同一的な存在として「観る」べき
ものということである。


ゴータマ・ブッダ説法図400


因みに、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)の死後100年程で、インド仏教は
教義論争の為に分裂が起こり、教団は20部に分派した。
更にゴータマ・シッダールタの死後500~600年程の紀元後1世紀後半~2世紀
に大乗運動がインドで展開され、「般若経」「華厳経」「維摩経」「法華経」
「大無量寿経」「浄土経」などの基本的大乗経典が創作されたのである。
これらの大乗経典は文献学的には明らかに、歴史上のゴータマ・シッダールタ
が説いたものではない。
ブッダ・ゴータマ・シッダールタに仮託された思想文学であり、悪意を込めて
言えば、経典が捏造されたのであり、大乗仏典は総べて偽経なのである。
西洋哲学史に譬えるならば、アリストテレスの哲学もカントの哲学、ヘーゲル
哲学、西田哲学に至るまでも総べてをプラトン哲学と称するようなものである。

中国に仏教が伝わったのは、2B.C.(元寿1年)頃ともA.C.67年(永年10)
とも言われているが、その最盛期は8世紀頃で、インドで創作された仏典、
ヒンドゥー教やゾロアスター教など異教の教典類までをも混じえながら、
中国で翻訳、編纂されたのである。
このように、大乗仏教経典群は何百年もの歳月を掛けて、創作に創作を重ね、
異部加上に加上を重ねて、成立している訳である。
天台宗も日蓮宗も、法華経こそが釈尊(ゴータマ・シッダールタ)一代に
亘る最勝の教えであると、自宗の優越性を主張する訳であるが、それは
「虚構の大義」であって、決して歴史的事実ではないのである。

大乗仏教経典群は総べて、釈尊の直説ではなく、釈尊入滅後、500年程もの
長い長い歳月を経た段階で創作された、釈尊に仮託された文学作品であるから、
空想の物語であり、偽経であり、「法華経」の中の「久遠本仏」「観音菩薩」等々、
「華厳経」の「盧遮那仏」、「大日経」の「大日如来」、浄土経典の「阿弥陀如来」等、
総べては「架空」の存在である。
「観念」世界での物語であって、歴史的事実でもなく、その実体も有りは
しないのである。







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宮澤賢治の「雨ニモマケズ」①…「ヒドリ」は書き損じなのか?

 2018-04-14
宮澤賢治の「雨ニモマケズ」① 

…「ヒドリ」は書き損じなのか?



宮澤賢治の「雨ニモマケズ」で「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の
「ヒデリ」は「雨ニモマケズ手帳」の原文には「ヒドリ」と書いてあるが、
没後最初の公表時から編集者が誤記と見做し、「ヒデリ」と校訂されて、
今日に至っていることは良く知られている。
この「ヒデリ」を、旱魃の「旱」(長い間、雨が降らずに水が涸れること)と
捉えるか、単に「日照り」(日が照ること)と捉えるかで、何故「涙を流し」
なのか、ニュアンスが違って来るが、定説である「ヒデリの誤記」説では、
この「ヒデリ」を「過酷な日照り」「旱魃」と見做していることになる。


この「ヒデリの誤記」説は、詩「毘沙門天の宝庫」の草稿に「旱魃」の語のルビ
を先ず「ひど」と書いた上で、「ど」を「で」に書き直し、「り」を書き加えて
「ひでり」としている箇所があることから、賢治には「ヒデリ」を「ヒドリ」
と書き誤りがちな書き癖があった可能性が高いと全集編集者に指摘されている
だけに、実証的な説得力がある。


賢治1


この「ヒデリの誤記」説には異論もある。
賢治の「雨ニモマケズ」が、岩手日報に初めて公表されてから55年を経た
1989年10月9日付讀賣新聞紙上で当時の財団法人宮沢賢治記念会理事長が、
「『ヒドリ』とは、岩手の方言で『小作人の日雇い給金』の意味で、『ヒデリ』
は原文のままに『ヒドリ』とすべきである」とする解釈を発表し、論議を呼んだ。
花巻南部では、小作人の日雇い仕事での稼ぎを「ヒドリ」と呼んでいたという。
「ヒドリ」は「旱魃の日照り」ではなく、日雇い仕事の「日取り」であり、
「日雇い稼ぎに出ざるを得ないような厳しい暮らし向きの時」と読むべきで
あるというものである。

しかし、この「雨ニモマケズ」では、全体に対偶的な修辞法が用いられており、
「雨」と「風」、「雪」と「夏の暑さ」、東西南北と対句で綴られているので、
気候と関連した「寒さの夏」の対句として、「日雇い仕事の日取り」では均衡
を崩すことになる。
また、「日取り」の場合、「涙を流す」のが賢治であるとすれば、「日取り」を
するのが賢治でなく、農民であるとすると、主語と述語の関係がおかしいこと
になる。


賢治3
※画像は、無料写真素材「写真AC」様のHP依り、拝借。


更なる異論として、「雨ニモマケズ手帳」の研究家には「『ヒドリ』は
『ヒトリ』の書き間違いで、「一人の時は涙を流し」と解釈すべきとの説を
為す方もいらっしゃるが、この場合も対偶的な修辞法からして、「寒さの夏」
の対照として「一人」もしくは「独り」はそぐわないと思われる。

また、夏ならば、日照りは豊作の予兆であるから、「日照りの時は涙を流し」
というのはおかしいのではないか、という指摘も地元の農民から出ているが、
賢治自身が複数の作品の中で、過剰な日照りに依る旱魃への恐れを取り上げて
いる事実がある。
大正15年(1929年)、30歳の賢治も情報を知り得たであろう、花巻に隣接
する紫波(しわ)郡で、旱魃被害が凄まじい惨状を呈したという記録もある。
年譜に依ると、昭和3年の7月から8月に掛けて、賢治は過剰な日照りに依る
稲熱(いもち)病や旱魃対策に奔走しているという行動面での例もあること
から、この農家にとって、日照は重要で歓迎すべきことであるから…という
理由は、「日照り」説を退ける根拠としては弱いであろう。


私が小学生の頃であったか、中学生になってからであったか、
この「雨ニモマケズ」を最初に読んだ時、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の
表現の第一印象では生意気にも、大袈裟で偽善的だと感じたものであった。
当時の私の解釈では、「旱魃」で水が干上がってしまったことを嘆き悲しんで
涙を流し、その涙で田畑を潤して上げたい」という表現と捉えた。
私が「偽善的」と感じてしまったのは小学生当時、親が「猛々しい偽善者の
製造工場」のような巨大な日蓮系カルト教団に入会し、私も否応無しに巻き
込まれ、愚かしい宗教教育を受けていたことと関わりがあったのだろうと
思われる。


賢治4
※画像は、無料写真素材「写真AC」様のHP依り、拝借。


2004年9月14日付盛岡タイムスの記事
「盛岡弁に隠された先人の英知に迫る」に、
「方言『ヒドリ』は、……、盛岡から南方面、矢巾、日詰、石鳥谷、大迫、
花巻の似内(にたない)で昔使われた方言で、カンカン照りの猛暑が10日も
続き、空気が極端に乾燥状態になり、戸板などが反り返ったり、日中数時間も
戸外におれば、汗が目に入って目がすごく痛くなり、目が真っ赤に充血する
一種の日射病に近い目の炎症になり、涙がボロボロと流れて苦しくなると話し、
このような炎症になることを別に『ヒドリマゲ』とも言い、今でも「カンカン
虫(電気溶接者)」は、電気溶接のとき保護メガネ無しで強烈なスパークを裸眼
で何度も見れば5~10時間後に目が真っ赤に充血して痛くなり涙がボロボロと
出る炎症になるから、今も使うよ」とあり、それを聞いた賢治の弟清六氏と、
清六氏と共に長らく賢治全集の編集に深く携わった森佐一(森荘已池)氏
の両氏が、「『ヒドリ』の意味が不明で、長年疑問視していた。……
そうかこれで疑問が一気に氷解した」と喜ばれたとある。

この「ヒドリマゲ」は「日照り負け」ということであろうか。
これが事実であるとするならば、方言「ヒドリ」はそのままで標準語「ヒデリ」
と同意ということになる。
賢治は、詩「毘沙門天の宝庫」の草稿などの「旱魃」のルビを「ヒドリ」と
書き損じたものを「ヒデリ」と書き直していたのではなくて、方言で書いて
しまったものを標準語に直していたということなのではないだろうか。

岩手の方言は山越えると変わるので、言葉が通じないと言われたほど、
複雑で、盛岡弁、花巻弁、遠野弁、閉伊弁、二戸弁、久慈弁、伊達弁、
西和賀弁、気仙弁…と細分化した分類が必要とも言われている。
但し、賢治の生活圏であった盛岡から花巻に掛けての一帯は、東北で一番
訛りが薄いとも言われているようである。
賢治の弟清六氏は「兄は盛岡弁も花巻弁も方言の良い面を選択して、
ピチッと使い分けており、凄いな」と語ったという。


宮澤清六氏
晩年の宮澤清六氏
※画像は、龍谷大学 人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター様の
HP依り、拝借。


「旱魃で、水が干上がってしまったことを嘆き悲しんで涙を流す」のと、
「酷暑が続き、目が日照り負け(ヒドリマゲ)して、涙を流す」のとでは
「涙を流す」理由が違って来る。
少年時代、最初に読んだ時の第一印象で、この部分の表現が大袈裟で偽善的
と感じた私としては、「ヒドリマゲ(日照り負け)」の「ヒドリ」で涙を流すと
いう方が、シックリ来る気がする。

「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と対照を為す次の行
「サムサノナツハオロオロアルキ」は賢治が農業指導者として、冷害を心配し、
農家を一軒一軒、訪問指導している様子を表現しているのだろう。
昭和6年(1931年)、賢治35歳の年、岩手県は冷害豪雨の為、凶作であった
という。


賢治5
※画像は、無料写真素材「写真AC」様のHP依り、拝借。


前記の盛岡タイムスの記事には、
「……宮澤賢治先生の『雨ニモマケズ』でがんす。
賢治先生の作品は盛岡弁と花巻弁、仏教語から派生した盛岡弁も巧みに
使い分げでいるがら、賢治作品の心を解読するには、盛岡弁と花巻弁の
微妙な違いを理解していないと不可能でがんす。
県外の賢治研究者は、方言を蔑視、軽蔑して深く追究しないで
共通語的に解釈するから、ときには方向違いの解釈を犯してやんす。

……賢治研究者は「ヒデリ(日照り)」と解釈し、賢治の誤記でミスだと
断言している。
教科書にも「雨ニモマケズ」は「ヒデリ(日照り)」と校正追加文で
書かれている。
……方言の解釈は、その土地の風習風土から生まれた言葉(方言)や、
通称の土地名など熟知しないと正しい意味がくみ取れないもの。
他県の賢治研究者は方言の発音語呂を共通語に結び付けて意味を重ね合わせて、
自己流に解釈された見本だと、両氏がはっきりと言っていやんした。

賢治研究者が「ヒドリ」を「ヒデリ(日照り)」と解釈し、賢治の誤記で
ミスだと断言して追加訂正までしている。
教科書にも「雨ニモマケズ」は「ヒデリ(日照り)」と書かれているが、
原書原文のまま「ヒドリ」に復権させて、正しい語句と意味の賢治作品を
受け継がせたいと提唱しやんす」とある。

しかし、そもそも「雨ニモマケズ」は賢治自身が標準語で書いている。
その中に、ポツンと花巻南部で使われていたという方言「ヒドリ」が
記されていることの方が異様であり、意図的にこの箇所にだけ敢えて方言
「ヒドリ」を用いねばならなかったという必然性は考え難い。
此処はやはり定説通り、方言「ヒドリ」を標準語「ヒデリ(日照り)」に
校訂して、賢治の愛念溢れる優しき心、清らかで気高い魂を、後世の生徒
である私たちが素直に受け取るということで良いのではないかと思われる。
但し、賢治が「ヒデリ」を「ヒドリ」と書き損じたということではなくて、
単に、方言の「ヒドリ(日照り)」を標準語の「ヒデリ(日照り)」に直し
忘れたという風に解釈した方が良いのではないだろうか。


賢治7愛隣館
花巻市桜町4丁目 雨ニモマケズ詩碑
※画像は、花巻温泉郷 愛隣館様のHP依り、拝借。


因みに、賢治ファンにとっては聖地とも言える、花巻市桜町4丁目
羅須地人協会跡地に昭和11年に建立された「賢治詩碑」には、
「雨ニモマケズ」の後半部分が高村光太郎の揮毫で刻んであるが、
「ヒデリ」と校訂されたものが記されている。

一方、2002年、岩手県気仙郡住田町世田米の瀬音橋畔に建立された
「雨ニモマケズ」の詩碑には、「ヒドリ」を「ヒデリ」に校訂せず、
賢治が「雨ニモマケズ手帳」に記した通り、「ヒドリ」と刻んであるという。
それもまた善き哉!善き哉!






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