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関東大震災時の朝鮮人大虐殺とやらのこと。…調子に乗って、大法螺を吹くな!

 2017-09-02
関東大震災時の朝鮮人大虐殺とやらのこと。

…調子に乗って、大法螺を吹くな!



大正12年(1923年)9月1日11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80km
を震源として、最大震度7、マグニチュード7.9の大正関東地震が発生し、
東京府、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、静岡県、山梨県の1府6県に
及ぶ広域に甚大な被害を及ぼした。
この関東大震災で東京、神奈川の京浜地帯は壊滅的な打撃を受けた。

この関東大震災の混乱の中で、「朝鮮人が襲撃して来る」などの情報が
日本人避難住民の間に流れ、自警団を組織した日本人が、罪の無い
朝鮮人の大量虐殺を行ったということになっている。

反日左翼の日教組では、教育研究の会合で、「関東大震災時の朝鮮人虐殺に就いて、
その犠牲者数を6,600人とする授業を行う」という指導方針の周知徹底を図っている。
小学校の教科書では、「罪のない数千人の朝鮮人が殺される事件が起きました」、
中学校教科書では「7,000人」、高校教科書では「6,000人以上」「6,700人」もの
罪の無い朝鮮人が虐殺された等と記述されている有様である。


日教組チョン偏向


しかし、当時の新聞記事に依れば、朝鮮人の暴徒が日本陸軍を襲撃したケースや
婦女暴行、爆弾テロを起こす等、「何の罪も無い朝鮮人」云々等と、悠長なことを
言ってはいられない危機的状況であったことが推察される。

当時の日本政府の発表からすると、殺害された朝鮮人は233人となっている。
中には過剰防衛に相当するようなケースもあったに相違無いが、自警団が
混乱状況の中で、家族や住民を守る為に、襲い来る朝鮮人を殺害したのであれば、
それは止むを得ない正当防衛戦であったと言える。

それにしても、「6,000人」だの、「7,000人」だのという犠牲者数には根拠が無い。
何故ならば、日本政府が掌握していた朝鮮人の人口からして、関東大震災時、
被災地域の居住者は約9,800人で、震災後の9月17日の時点で、警察や軍に依って、
保護、収容された朝鮮人は6,797人という調査結果が残されており、その人数からして、
「朝鮮人を6,000人虐殺した」の、「7,000人虐殺した」のという大量殺害説には数理的に
無理があることに依る。


チョン記事13


チョン記事14


チョン記事15


鮮人1


チョン記事35


チョン記事29


チョン記事30


チョン記事32


チョン記事17


チョン記事18


チョン記事23


チョン記事27


チョン記事7


チョン記事6


チョン記事4


チョン記事3


チョン記事33




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日本語に「汚染」されたという朝鮮語辞典の事。

 2017-03-21
日本語に「汚染」されたという朝鮮語辞典の事。


…朝鮮人は「日帝残滓」とほざくが
一体、どちらが滓か?




韓国で国語研究院が編纂した朝鮮語辞典が日本語で汚染されていると指摘する
「日本語に汚染された標準国語大辞典」なる書物が出版されている。
その著者が、「例えば、『国民儀礼』という用語は日帝の残滓である」等と
述べているが、そもそも気付くのが遅過ぎるではないか。

それにしても、「日帝残滓(にっていざんし)」とは、随分と酷い物言いである。
「日帝」とは、大日本帝国、或いは日本帝国主義の略称であるが、韓国で
使われる場合は、日韓併合時代の35年間を指す「日本統治時代」という意味である。
「残滓」とは、容器などの底に残っている滓(かす)のことではないか。
そもそも、「帝国主義」も「残滓」も、「標準」「国語」「辞典」も、
その日帝残滓の和製漢語なのであるが、如何に。


日帝残滓の滓


朝鮮人は「ハングルは、人類が生み出した最も優秀な文字である」「ハングルの
誕生は奇跡であり、知識の革命である」などと誇大に自画自賛し、「日本は、
その偉大なハングルを朝鮮から奪った」と言うが、それは明らかに歴史的事実に
反する戯言である。
昭和17年(1942年)の朝鮮に於ける日本語普及率は、僅か20%に過ぎなかった
のであるから、朝鮮人の80%は朝鮮語のみを喋り、ハングルを書いていたことになる。

明治43年(1910年)の日韓併合後、我が国は朝鮮の学校教育で、朝鮮語を
必修課目とし、朝鮮語教科書を作成、綴字法を統一、標準語を制定と、極端に
識字率の低かった朝鮮にハングルを普及させたのは、我が国である。
明治44年(1911年)、朝鮮総督府に依って、朝鮮教育令が施行され、初等、中等、
高等学校で、日本人生徒と朝鮮人生徒の区別無く、昭和12年(1937年)まで、
ハングルは必修課目とされていたのである。
我が国は明治初期、江戸山の手言葉を基本として、日本語の標準語を制定した
経験を持つ。
その経験を大いに活かし、朝鮮各地方に点在した方言を、京城(ソウル)方言を
標準語として、各種存在したハングルの綴字法も統一させ、ハングルすら碌に
読み書き出来なかった朝鮮の大衆に統一ハングルを普及させたのは、我が国の
多大な文化貢献であった。


第35記事10日本統治時代の授業

第35記事12


李氏朝鮮時代の終焉まで、ハングルはオンムンと呼ばれていたそうであるが、
1443年、李朝第4代世宗王の時代に考案されたという文字であるハングルが
その後、李朝を通じ、正統な国字としての地位を占めることは無かった。
中華思想に凝り固まった朝鮮社会のエリート、両班は慕華の念が強烈な余り、
自民族の文化を蔑視し、漢文しか使わず、民族独自の文字を制定することは、
支那(明国)からの独立の意思表示と受け取られ兼ねない、支那に対する反逆とも
捉えられ兼ねないことを恐れる余り、李朝第11代中宗時代の1506年には
正音庁(諺文庁)を廃止してしまったという。
その結果、ハングルは辛うじて命脈は保ちながらも、女子供の文字として、
日韓併合の時代に至るまで、蔑まれ続けていたのではないのか。


第35記事11・1914~1943年の培材学堂1


内鮮一体化を唱え、日本語の奨励策を執った南次郎第8代朝鮮総督でさえ、
朝鮮人の玄永燮氏や朴煕道が朝鮮語使用の全廃を献策したのに対し、
「朝鮮語を廃止するのは良くない。可及的に国語を普及するのは良いのだが、
この普及運動も、朝鮮語廃止運動と誤解されることがしばしばあるくらいで
あるから、それは出来ない相談である」と却下したのが歴史的事実である。

漢字ハングル混淆文(混交文とも言う)にしても、漢字と仮名文字の混淆文である、
和漢二重複線言語の日本語を真似て、漢字ハングル混淆文を日本人が考案したのである。
1886年、朝鮮で初の漢字ハングル混淆文の新聞「週報漢城」が発刊されたのも、
日本人である福沢諭吉と井上角五郎の尽力の賜物ではないか。


第35記事1

第35記事2


そもそも、朝鮮の初の国語辞典でさえ、朝鮮総督府の朝鮮語整備の結果として、
日本人に依って刊行された、大正9年(1920年)の朝鮮総督府編「朝鮮語辞典」である。
朝鮮初の国語辞典が朝鮮総督府編纂の「朝鮮語辞典」では、日本の功績という
明らかな歴史的事実を認めることになり、都合の悪いことから、朝鮮人が
「朝鮮最古の国語辞典」と自慢する1930年刊行の「普通学校朝鮮語辞典」がある。
しかし、その「普通学校朝鮮語辞典」でさえもが、日韓併合時代の学校教育に
於ける、朝鮮語教育用に京城師範学校が編纂し、日本の出版社「以文堂」から
刊行された国語辞典なのであるから、何をか況やである。
その朝鮮人が「朝鮮最古」の国語辞典であると自慢する朝鮮語辞典の存在
それ自体が、「日本が朝鮮から偉大なハングルを奪った」という大嘘の明確な
反証ではないか。

朝鮮語語彙の80%が漢字語で、その漢字を朝鮮語で読み、それを、音を表わす
要素を組み合わせて作られた、音節文字であるハングルでローマ字式に書き
表わしているに過ぎず、そして、その漢字語の大半が日本語に由来しているので
あるから、日本語起源の語彙を全て、日帝残滓として排除するのは、不可能なことである。
日本語起源の語彙を全て、日帝時代以前の朝鮮語に置き換えることが出来るほど、
朝鮮民族は豊穣な言語文化を築き上げて来てはいないのである。


第35記事3


日本語は、漢字という中国文化を借りながらも、その漢語を中国語の音読みと、
日本語の訓読みに読み分け、漢字と仮名文字を混交させ、表現能力豊かな、
極めて優れた言語で、10世紀頃には既に完成期を迎えている。
我が国は江戸時代に築き上げた豊穣な文化を背景に、幕末から明治に掛けて、
西洋から移入した新しい事柄、新しい概念など、従来日本には無かったものを、
漢語を駆使しては、ひたすら日本語に翻訳したのである。
日本語は非常に高い造語能力を持った言語である。
西洋起源の近代的な新しい概念は、それに対応する新語を創出しなければ、
表現することは不可能であった。
基本的に漢字一文字で事柄や概念を表現する中国語に対して、日本語は
二文字以上を組み合わせ、新語である和製漢語を澎湃と生み出したのである。
特に、高度な概念用語である学術用語の創出には目を見張るものがある。


第35記事7

第35記事8


また、私が特に感心するのは、「性」や「的」「化」などの接尾辞を付ける
ことに依る造語能力の無限拡大である。
必然性などの「~性」、科学的などの「~的」、一般化などの「~化」、
日本式などの「~式」、関節炎などの「~炎」、想像力などの「~力」、
学術界などの「~界」、大型などの「~型」、優越感などの「~感」、
要点などの「~点」、主観や世界観などの「~観」、生命線などの「~線」、
効率や使用率などの「~率」、方法や表現法などの「~法」、速度や震度、強度
などの「~度」、作品や芸術品などの「~品」、著者や労働者などの「~者」、
副作用や同化作用などの「~作用」、社会問題や国際問題などの「~問題」、
新時代、縄文時代などの「~時代」、日本社会や資本主義社会などの「~社会」、
現実主義や帝国主義などの「~主義」、上流階級や無産階級などの「~階級」
など、和製接尾辞を用いることに依る日本式造語能力は、東亜漢字文化圏に
計り知れないほどに多大な貢献を果たしているのである。
この厳然たる歴史的現実を、中国人や韓国人は認識してはいない。

これらの和製漢語は中国に文化輸出され、中国に於けるその使用頻度の高さから、
現代中国語は既に日本起源の和製漢語を用いずには成立しないのである。
中国人(王彬彬氏)執筆の論文には「中国語の中で、日本語から来た外来語の
数は、驚くほどの数字で、現在我々が使用している社会とか人文・科学方面の
名詞、術語の70%は日本から輸入したものである。これらの言葉は西洋の言葉
を日本人が翻訳して、その後中国に入って、中国語の中に根付いたものである」
「最後に私は言いたい。我々が使っている西洋の概念は、基本的に日本人が
我々に代わって翻訳してくれたものだ。中国と西洋の間は、永遠に日本が
横たわっているのだ」と述べているほどである。
当に、現代中国語も現代韓国語も、日本起源の和製漢語無くしては絶対に
成立し得ないのである。


第35記事4

第35記事5

第35記事6


「日本語に汚染された標準国語大辞典」の著者たちは、国語研究院が編纂した
朝鮮語辞典の中で、日帝残滓である言葉の語源や由来が書かれていないことが
問題であるとしているようであるが、むしろ、李氏朝鮮時代に存在した語彙は
日帝残滓である語彙よりも遥かに少ないことから、そちらの方に印を付ける
編纂方法を採った方が断然、効率が良いではないか。

日本由来の語であることを明記せよなどと、中途半端なことを言わずに、
いっそのこと、日帝残滓とやらを全て除去した朝鮮語辞典を作ってみれば
良いのである。
そうすれば、「標準国語大辞典」自体が「日帝残滓」であることが嫌でも判明する。

朝鮮人が現在、使用しているハングルにしても、我が国が整備したものなので
あるから、統一ハングル自体が「日帝残滓」である。
李氏朝鮮時代に遡って、朝鮮人自身が新たに整備し直せば良い。
漢字を抜きにしては、造語能力がゼロにも等しい朝鮮語に未来は無い。
それこそ、朝鮮人お得意の「歴史を忘れた民族に未来は無い」のである。
因みに、「歴史」も「民族」も「未来」も和製漢語であるから、「日帝残滓」である。

そもそも、朝鮮語は語彙に乏しく、日韓併合に至るまでは近代的な概念を
表現することすら、出来なかったのである。
否、日本語が概念を移入する以前には、その概念すら存在しなかったのである。
「日帝残滓」である和製漢語を排除したならば、特に自然科学用語や人文科学用語、
社会科学用語の学術用語も法律用語も全滅となるが、それでも良いのか。

時間も空間も、反響、反射、反応、肯定、否定、直接、間接、概念、概略、
主観、客観、原理、原則、帰納、演繹、具体、抽象、理念、理想、原子、元素、
物質、本質、要素、密度、悲劇、喜劇、学生、学校、論文、教科書、講師、
講演、講義、講座、衛生、医学、宗教、哲学、文学、科学、美術、芸術も…

領土も領空も領海、政治、政府、議会、議院、議員、法律、政策、施行、方針、
軍国主義、共和主義、共産主義、社会主義、封建主義、社会、資本、公民、
国際、協定、政党、選挙、宣伝、動員、組織、代表、総理、領事、幹部、覇権、
独裁、特権、侵略、解放、警察、憲兵、検察官、新聞、記者も…

企業も株式も会社、市場、景気、債権、債務、資本家、労働者、労働組合、
投資、動産、不動産、現金、代価、物価、指数、通貨収縮、通貨膨張、国債、
譲渡、申請、手続、取消、取締、引渡、解決、実業、経済、広告、経済恐慌も…

「日本語残滓を無くそう」という「ハングル愛運動」というのがあるという。
その言語的民族主義を徹底的に先鋭化させて、朝鮮語の中から日本語由来の
汚染語、「日帝残滓」とやらを徹底排除してみるが良い。
そうすれば、日本語と朝鮮語、そのどちらが「滓(かす)」と呼ばれるに
相応しい言語であるか、明瞭と相成る。


第35記事14

第35記事13培材学堂


「歴史を忘れた民族に未来は無い」
…by民族規模で精神分裂病を患い、自己愛性人格障害、虚偽性障害等々を
激烈に発症し続ける、法螺吹きミュンヒハウゼン糞莫迦朝鮮民族。



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偽りの「カイロ宣言」…史実に反する「朝鮮人の奴隷状態」とは虚言の極み!

 2017-03-19
偽りの「カイロ宣言」
…史実に反する「朝鮮人の奴隷状態」とは虚言の極み!


…朝鮮人は、千年万年感謝せよ!



朝鮮民族は、実に愚かな民族である。
朝鮮人には今も昔も、「大清属国」李氏朝鮮がお似合いである。

「日本が歴史を正しく直視し、責任を取る姿勢を持たねばならない」「加害者と
被害者の立場は千年経っても変わらない」とは、2013年3月1日、高木正雄
(朴正煕)氏の娘、朴槿恵前韓国大統領の三・一独立運動記念式典演説に
於ける発言の一部である。


第34記事8
若き日の朴槿恵前韓国大統領

朴前韓国大統領



千年恨…歴史的事実に鑑みれば、本来、千年感謝し続けて余り有る程の大恩を
受けたにも拘わらず、朝鮮人は我が国を1000年恨み続けるとのこと。
情に篤いワンコは三日の恩を三年忘れず、薄情なニャンコは三年の恩を三日で
忘れる。
而して、朝鮮人は三年の恩さえ、三秒で忘れる。
三年の恩を三日は覚えているという、ニャンコにも劣る忘恩の莫迦民族である。

日本人は概して、歴史的事実を実証的、且つ客観的に評価する。
朝鮮人の作為的事実誤認は史観以前の問題であり、甚だ病的である。
朝鮮人は民族規模で精神分裂病を患い、自己愛性人格障害、虚偽性障害等々を
激しく発症し続ける、ドイツ貴族ミュンヒハウゼン男爵ならぬ、「法螺吹き民族」である。


第34記事4


朝鮮半島の日本統治は、明治43年(1910年)8月29日、帝国に依る韓国併合から、
昭和20年(1945年)9月9日、朝鮮総督府の降伏に至る迄、35年間続いた。

現代の朝鮮人は、合邦のお蔭で朝鮮民族が如何に救われたか、その真実を
知ってか、知らずか、日本統治を悪逆非道な植民地支配であったと、史実に
反する虚偽の悪宣伝を増幅させながら、捏造し続け、恰も狂人であるかの如く、
倦むことなく、欧米にブラックプロパガンダを発信し続けている。
しかし、朝鮮総督府は、殆どの国民が奴隷身分で文盲であった救い難き後進国、
退廃的な李氏朝鮮に対し、史上、類い稀なる開放的な善政を敷き、質実共に
見事に発展させたのは、誰人も否定出来ぬ歴史的事実である。

我が国の韓国併合とは、例えば、イギリスのインド植民地化「colonization」の
如きものではなく、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国に於ける、
イングランドとウェールズ、スコットランド、北アイルランドとの関係
「annexation」に比すべき形態であったのが歴史的事実である。
韓国併合に、侵略、征服、略奪のニュアンスは無い。


第34記事1
カイロ会談 昭和18年(1943年)11月


しかし、朝鮮民族は歴史上の得意技、掌返しを発揮し、日本統治時代、
奴隷の如くに扱われたと大法螺を吹き捲くる。
この自己愛性人格障害、虚偽性障害を激しく発症し続ける、法螺吹き
「ミュンヒハウゼン民族」にお墨付きを与えたのは、昭和18年(1943年)
12月1日付の「カイロ宣言」である。

The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of
the people of Korea, are determined that in due course Korea shall
become free and independent.
「前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立の
ものにする決意を有する」

昭和18年(1943年)11月、エジプトのカイロで開催された米英中三ヶ国の
首脳、フランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル
英首相、蒋介石中国国民政府主席に依るカイロ会談経て示された宣言が、
カイロ宣言である。

このカイロ宣言の虚偽の文言「朝鮮の人民の奴隷状態」と、アメリカ合衆国
政府が李承晩に反共政策と共に強いた反日政策に依って、智慧足らずの
糞莫迦民族が「日本統治時代、朝鮮人は奴隷扱いされていた」と、その気に
させられたという、実にお粗末な顛末である。
アメリカ合衆国政府には、大日本帝国圏を完全に解体し、朝鮮、台湾を
我が国から離間させる必要性が有ったのである。


第34記事2


「カイロ宣言」(外務省の日本語訳)

『ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、
各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的
声明ヲ発セラレタリ 各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。

三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ
加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツ
アルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス
又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス

右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ
日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト
並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ
中華民国ニ返還スルコトニ在リ

日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐
セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノ
タラシムルノ決意ヲ有ス

右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ
日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ』


第34記事6

第34記事7


Cairo Conference
Released December 1, 1943

The several military missions have agreed upon future military operations
against Japan.
The Three Great Allies expressed their resolve to bring unrelenting pressure
against their brutal enemies by sea, land, and air.
This pressure is already mounting.
The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the
aggression of Japan.
They covet no gain for themselves and have no thought of territorial
expansion.
It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the
Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the First
World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the
Chinese, such as Manchuria, Formosa, and the Pescadores, shall be restored
to the Republic of China.
Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by
violence and greed.
The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of
Korea, are determined that in due course Korea shall become free and
independent.
With these objects in view the three Allies, in harmony with those of the
United Nations at war with Japan, will continue to persevere in the serious
and prolonged operations necessary to procure the unconditional surrender
of Japan.


第34記事5

朝鮮ホテルのサンルーム1940
朝鮮ホテルのサンルーム 昭和15年(1940年)


日韓合邦という究極的愚策を選択した、第二次桂太郎内閣は、我が国百年の
大計を誤った国賊である。
帝国に朝鮮民族を編入し、大和民族に禍を齎した、その大罪たるや未来永劫に
亘り、実に万死に値する。
本来、我が国の東北地方のインフラ整備や地域発展の為に投入すべきであった
巨額の血税を、溝に捨てるが如き、全く以って、無駄な政策を遂行したものである。
「韓国併合ニ関スル条約」締結を推進した政治家や官僚共は、無間地獄で未来永劫、
皇祖皇宗、ご歴代天皇のご神霊、ご歴代天皇の下で臣民として生きたご先祖代々の
ご神霊、現代及び将来生まれ来る大和民族の子孫に対し奉り、血涙を流し、
慟哭しつつ、深く深く伏して詫び続けるが良い。


「朝鮮が日本の心臓に向けられた短刀」などという、固定観念化した地政学的な
認識を改め、我が国の防衛ラインを日本海上に設定すれば良いのである。
発想を逆転させれば、朝鮮半島が近接地であればこそ、我が軍にとって、
敵地攻撃に有利と言えるのである。

何れにせよ、疫病神の如く、奪命魔の如く、我が国に災厄を撒き散らし、
禍を齎す朝鮮民族とは極力、関わらないことが肝要である。




昭和6年(1931年)当時の京城(ソウル)の映像



昭和初年(1930年代)当時の朝鮮の映像



記録映像「朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所」
昭和15年(1940年)志願者総数84,443名
入所者数3,000名 競争倍率35.5倍



朝鮮映画「志願兵」 昭和16年(1941年)



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創氏・改名の歴史的実相…朝鮮人の作為的事実誤認

 2017-03-10
創氏・改名の歴史的実相
…朝鮮人の作為的事実誤認


「氏の創設」は強制であり、
「日本人式名称の氏の設定」は強制ではなかった




大日本帝国が大韓帝国を併合したのは、明治43年(1910年)のことである。
朝鮮総督府が、本籍地を朝鮮に有する朝鮮人に対し、新たな「氏」の創設と
改名を許可した「創氏改名」の政策は、昭和14年(1939年)に実施された。
この創氏改名に就いて、朝鮮人は元より、多くの日本人もまた、「朝鮮総督府の
戸籍整備は、朝鮮民族の精神とアイデンティティを抹殺する為の皇民化政策の
一環として、朝鮮人に日本式の苗字と名前を付けることを強要した」という
ニュアンスの認識を持っているのではなかろうか。
しかし、それは全くの僻見というものである。

我が国では明治新政府が明治3年(1870年)、「平民苗字許可令」を布告し、
既に苗字を名乗っていた武士や名主など以外の国民全てにも苗字を名乗る
ことを認めたが、それが普及しなかったことから、明治8年(1875年)に
改めて、「平民苗字必称義務令」を布告し、全ての国民に苗字を名乗ることを
義務付けた。 


第33記事7


李氏朝鮮は身分制度の厳しい奴隷社会で、良民と言われる両班(貴族及び
科挙官僚を輩出する階層)、中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)、
常人(一般の農民)、賤民(奴婢、…、白丁《ペクチョンorペッチョン》)の
身分差別があった。
特に、朝鮮で最下層に位置する白丁は家畜同様の扱いで、白丁を殺害しても、
殺害犯が罰を受けることはなかったという。
朝鮮人を指すチョンという言葉は、どうやら、この白丁に由来するものらしい。

日韓併合の明治43年(1910年)の時点で、朝鮮人の30%から40%が奴隷身分
であったという。
生殺与奪さえ、主人に握られていた奴隷が苗字を名乗っているはずも無かった。
しかし、出身地の「本貫」は名乗っていた様である。
日韓併合で、これらの身分制度は廃止され、奴婢や白丁などは奴隷身分から
解放されたのである。
我が国に渡って来た朝鮮人の殆どが、半島及び済州島の白丁であったという。

韓国では表向き、日本在住の朝鮮人は日本に強制連行されたと大法螺を吹いて
いるが、実際には日本在住の朝鮮人が、移民した白丁であることは韓国社会の
常識であるという。
故に、祖国に帰ったとしても、厳しい差別を受けることは明白であることから、
彼らは半島や済州島に戻る訳にはいかないのである。
現在、在日韓国人、在日朝鮮人は約50万人いるが、強制連行は史実ではない。
奴隷身分であった朝鮮人は、朝鮮政府ではなく、日本政府に依って初めて、
人間らしい扱いを受ける恩恵に与ったと言える。


第33記事13


朝鮮の姓の種類は、朝鮮総統府の調査で256姓、韓国の調査では、
約300姓(249姓+百戸以下の79姓)である。
「金」「李」「朴」の三姓が全体の人口の半数以上を占め、「崔」「鄭」を
合わせて、この五姓が圧倒的に多い。
韓国の姓の数が少ない理由としては、祖先から受け継いだ姓を尊んで、
改姓を嫌う傾向があることに依る。
また、我が国の様に、在所の地名を姓にする風習がなかったことも、
大いに関係していると思われる。
因みに、支那は約700姓、ヨーロッパ全体で約6万姓とのデータがある。
我が国の苗字の正確な数は把握し得ないが、確認出来ている数は12万姓とも、
13万5千姓とも言われており、また27万姓とする文献もある。


第33記事1


一般に、苗字、名字と言うが、その歴史は複雑である。
そもそも、我が国に於ける「姓氏」とは、姓(かばね)は古代豪族が政治的、
社会的地位を示す為に世襲した「称号」で、氏(うじ)は血縁関係にある
家族群で構成された集団を指す。
称号としての苗字は、職業や地名、官職、出身国に由来するものが多かった様である。

朝鮮の姓は、「父系血統の親族集団」を表わすものである。
我が国の苗字は「氏」で、「家」「家族」の名称である。
日本(氏名)  「氏」+「名」 …「山田+太郎」
朝鮮(姓名)  「姓」+「名」 …「金+勲」


第33記事2


明治42年(1909年)、日本の保護下に在った大韓帝国は日本の指導に基づいて、
「民籍法」を制定し、近代的戸籍の整備を開始した。
この「民籍法」の施行に依って初めて、全ての朝鮮人が苗字を持てるように
なったのである。
それ以前、低い階層の人々は、出身地を表わす本貫しか持っていなかった。
朝鮮史上初の近代戸籍である「隆熙戸籍」の整備が終了したのは明治43年
(1910年)4月で、同年8月の日韓併合後も民籍法は維持され、日本の戸籍法
と共に朝鮮人に適用されている。
当初、朝鮮総督府は総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」に
に依って、戸籍や出生で「内地人ニ紛ハシキ姓名」の届出に厳しい制限を
付けていた。
大正12年(1923年)、朝鮮総督府令第154号「朝鮮戸籍令」が公布され、
戸籍法規が統一された。


第33記事8


「創氏改名」と一括りで表現するが、「創氏」と「改名」は別事項である。
「創氏」は、昭和14年、朝鮮総督府が公布した「制令19号」、「改名」は
「制令20号」に基づくものである。

当時の朝鮮に於ける状況を、仮に「金」さんという男性の一家に例えてみる。
朝鮮の姓は、「父系血統の親族集団」を表わすものであったことから、父親や
祖父、兄弟は当然「金」姓であるが、妻は「李」姓、母は「朴」姓、祖母は「崔」姓、
兄弟の嫁は「鄭」姓といった具合に、一家でも姓が皆、違っていた訳である。

家族制度の日本化として、「氏」を決めて、届け出るように指示したのが、
「創氏」ということである。
そして、「金」さん一家が「金」という姓をそのまま氏として届け出るか、
二文字からなる日本風の氏「金田」姓でも、「池田」姓でも、「大川」姓でも、
選択は自由であった訳である。

そこで、「金」さんが一家の苗字を「金田」と決めて、届け出たとするならば、
それまで「李」さん、「朴」さん、「崔」さん、「鄭」さんと、家族内でも違った
名乗りをしていた人々も皆、同じ「金田」姓になったという訳である。
これを「設定創氏」という。
但し、この場合、「姓+姓」の氏、例えば、「金李」や「崔鄭」などは禁止、
「本貫+姓」も禁止、ご歴代天皇の諱は禁止、などの制約は有った。
そして、単に日本にある苗字に倣うのではなく、姓や地名、本貫などから
付けることが奨励されたという。
この辺りに、朝鮮に於ける家族制度の日本化を図るものの、日本本国と朝鮮との
差異化への朝鮮総督府の配慮が窺える。

また、「金」さんが創氏の届出をしなかった場合、家長の姓である先祖伝来の「金」が、
「金」さん一家全員の氏となったのである。
これを「法定創氏」という。


第33記事4

第33記事5


例えば、李明博(月山明博)さんの家族は、「月山」を一家の氏にすると申告し、
朴正煕さんの家族は、「高木」を一家の氏にすると申告し、その際に「正煕」と
いう朝鮮名を、日本式の「正雄」に改名したということになる訳である。
強烈な反日家である朴槿惠氏は、「高木さんのお嬢さん」である。


日本(氏名)  「氏」+「名」 …「山田+太郎」

朝鮮(姓名)  「姓」+「名」 …「金+勲」

       ↓
朝鮮(氏名) 『氏』  +「名」 …「金+勲」「金本+勲」「富岡+康夫」…


創氏を届け出たのは322万戸で、創氏率は約80%であったという。
創氏は法律に定めた義務であり、強制であったが、先祖伝来の姓を抹殺した訳では
ないのである。
創氏は、新たに「家」「家族」の氏を設けたことであり、先祖伝来の姓に変更を
強要された訳ではない。
朝鮮戸籍には届け出た創氏が書き加えられ、姓は抹消されることなく、本貫欄
に出身地である本貫と共に、姓が記載されることになったのである。

「改名」自体には力点が置かれた訳ではなかった。
創氏した氏に似合うように、改名しても良いという趣旨であり、期間限定ではなく、
許可制で、手数料も必要であった。
改名率は10%と低かった。


第33記事6


「創氏改名は朝鮮総督府の強制であった」とする説と、
「創氏改名は日本国内外に於ける内地人との差別を回避する為に、
朝鮮人が望んだもので、自発的に受容した」とする説の両極に分かれる。

「創氏改名」の「改名」の部分には、何ら問題は無い。
重要なのは「創氏」の定義である。
この「創氏」の意味するところを曖昧にしたままの議論が、多々見受けられる。
「創氏」を「氏の創設」と定義しているケースと、「日本人式名称の氏の設定」と
定義しているケースに分かれる。
要するに、「氏の創設」は義務であり、強制であった訳である。
しかし、「日本人式名称の氏の設定」は強制ではなく、嘗ては総督府令第124号
「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」に明らかであったような日本人と朝鮮人との
差別化を緩め、希望者には日本人風の苗字の名乗りを許可するということである。


第33記事12


平成15年5月31日、当時は自由民主党の政調会長であった麻生太郎氏
(現:副総理兼財務大臣)が東京大学の五月祭に於ける講演会の質疑応答で、
「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と述べたことで、批難を浴びたことがあった。

学生の質問
「 中国や韓国と外交をする上で、歴史問題をどうすればいいと思うか?」

麻生太郎氏の回答
「 歴史認識を一緒にしようと言っても、隣の国と一緒になる訳が無い。
例えば、朝鮮人の創氏改名の話。
日本が満州国をやる前に、創氏改名の話が出たことは一回も無い。
しかし、当時、朝鮮の人たちが日本のパスポートを貰うと名前のところに
『キン』とか『アン』とか書いてあり、「朝鮮人だな」と言われた。
仕事がし難かった。
だから名字をくれ、と言ったのがそもそもの始まりだ。
これを韓国でやりあったら、灰皿が飛んで来た。
その時に「若い者じゃ話にならない、年寄りを呼んで来い」と言ったら、
おじいさんが現われて『あなたのおっしゃる通りです』と。
序でに、「ハングル文字は日本人が教えた。うちは平仮名を開発したが、
お宅らにそういう言葉は無いのか、と言ってハングル文字が出て来た」と
言ったら、もっと凄い騒ぎになった。
その時もそのおじいさんが『よく勉強しておられる。あなたの仰る通りです』
と言って、その場は収まった。
やっぱり、きちんと正しいことは歴史的事実として述べた方が良い」

この麻生太郎氏が語られたところの「創氏改名」は、「日本人式名称の氏の設定」
という意味である。


第33記事11


当時の朝鮮総督の発言や新聞記事に於ける「創氏」の語が、「氏の創設」の
意味であったり、「日本人式名称の氏の設定」の意味であったりと、明確ではない
ところが見受けられるのは奇妙なものである。

昭和14年(1939年)11月、
朝鮮民事令改正公布時の南次郎朝鮮総督の談話
「本令(朝鮮民事令)の改正は、申す迄もなく、半島民衆に内地人式の
「氏」の設定を強要する性質のものではなくして、内地人式の「氏」を
定め得る途を拓いたのであるが、半島人が内地人式の「氏」を称ふることは
何も事新しい問題ではない」
此処では、「創氏」は「日本人式名称の氏の設定」の意味である。


朝鮮総督府局長会議に於ける南次郎総督の発言
「創氏改名に就いて、一部には未だ誤解している向きがあり、
特にこの制度を強制しているといふことは絶対に無く、
創氏せよというのは強制するという主旨では絶対にない」
此処での「創氏」の語自体は「日本人式名称の氏の設定」の意味であるが、
「この制度を強制しているといふことは絶対に無く」という発言は明らかに
おかしいのである。
「氏の創設」自体は強制である。
強制でなければ、「法定創氏」は有り得ない。
南次郎総督は陸軍大将(予備役)で、軍人であったからか、その発言は
厳密さに欠けていた。


宮本元朝鮮総督府法務局長の談話
「半島人の極少部分で、『氏』制度が創設されたのは、必ず内地人式の『氏』を
設定しなければならぬ法意だとか、内地人式の氏を設定しなければ、内鮮一体
の統治方針に反対するのだとか、解釈している向きがあるとのことだが、
それは誤解である。
今迄、朝鮮半島に於いては、家の称号が無かったので此の度、家の称号である
『氏』を定めることになったのであるが、好むと好まざるとに拘らず、一律に
内地人式氏を設けねばならぬ性質のものではない」

東京帝国大学法理研究会に於ける宮本元朝鮮総督府法務局長の講演 
昭和15年(1940年)
「氏制度の設定に依り、半島人は氏の設定を義務附けられた次第でありますが、
内地人式氏の設定に就いては法令上、何等義務附けられたるものに非ざるは
固より、法令の運用上に於いても、聊かたりとも強制的又は勧奨的意図を
有せざる所であります。
換言すれば、半島人に内地人式氏を称し得る途を拓いたに過ぎないのであります」

流石に法務局長だけあって、「氏の設定」は義務付けられたものであり、
「内地人式氏の設定」は義務付けられたものではなく、強制ではないと
明確に立て分けている。
要するに、こういうことであった訳である。

但し、実務を遂行する朝鮮人地方官僚に於いては、内地朝鮮一体に拘り過ぎ、
高い創氏率を挙げようと功を焦る余りに、望まぬ一家にも日本風の氏を強要
したような例もあったであろうことは想像に難くない。


第33記事9


日韓併合は、明治43年(1910年)のことであり、創氏改名は、昭和14年(1939年)
である。
29年間も、明治43年(1910年)の「隆熙戸籍」、大正12年(1923年)の
「朝鮮戸籍令」で統一された戸籍法が適用されていた程であることから、
大日本帝国朝鮮総督府にとって、創氏改名という政策がそれほど必要性の高い
重要課題であったとはとても思えない。
韓国併合も、そもそも会員100万人を呼号した一進会の日韓合邦の請願などが
発端となり、創氏改名も「朝鮮名のままでは、商売が遣り難いから、日本名を
名乗りたい」という朝鮮人の訴えが発端となっている。
超疫病神的国家とは合邦せず、日清戦争で独立させてやった後は保護国のまま、
西洋列強の宗主国のように冷淡に扱っておけば、良かったのである。

日本人は概して、歴史的事実を実証的、且つ客観的に評価する。朝鮮人の作為的
事実誤認は史観以前の問題であり、その認知障害的思考は甚だ病的である。
史実という概念を持たぬ、実に愚かな民族である。


第33記事3
演劇「族譜」



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朝鮮人強制収容所は、釜山の何処に在ったのか…朝鮮人の事実誤認は甚だ病的である。

 2017-02-16
朝鮮人強制収容所は、釜山の何処に在ったのか。

…朝鮮人の事実誤認は甚だ病的である。



昭和13年(1938年)、第1次近衛文麿内閣は第73回帝国議会に於いて、
総力戦遂行の為、国家の総べての人的、物的資源を政府に依る統制、
運用を可能とする国家総動員法を制定させた。

国家総動員法第四条
「政府は戦時に際し、国家総動員上必要ある時は、勅令の定むる所により、
帝国臣民を徴用して、総動員業務に従事しむることを得る。
但し兵役法の適用を妨げず」
この国家総動員法に基づき、昭和14年(1939年)7月、国民徴用令
(勅令第451号)が発せられた。


第32記事1朝鮮総督府庁舎
               朝鮮総督府庁舎


朝鮮人が「強制連行」と称するブラックプロパガンダは、自由意志に依る
大量の移住者、自由意志で政府の「募集」「斡旋」に応じ、渡航して来た労務者、
及び国民徴用令に基づく「徴用」の戦時動員全体を対象としている。
戦後の造語である「強制連行」とは、この動員を指す。

但し、昭和19年(1944年)8月に至る迄、朝鮮人には国民徴用令の適用が
免除されていた。
朝鮮人の日本本土への徴用が開始されたのは、昭和19年(1944年)9月で、
下関-釜山間を運航していた関釜連絡船が米軍潜水艦の脅威に依り、航路の
安全を確保出来なくなった、昭和20年(1945年)3月迄の僅か7か月間で
朝鮮人労務者移入の実施は終了している。
しかも、朝鮮半島に於いては、国民徴用令は婦女子には適用されていない。
朝鮮人は「強制徴兵」と称するが、徴兵でさえ、朝鮮半島で実施されたのは
終戦の前年、昭和19年(1944年)9月である。

朝鮮人は政府の「徴用」を殊更に「強制徴用」と称するのを好む様であるが、
法令に基づく「徴用」は当然のことながら、「徴用拒否は一年以下の懲役に処す」
との強制力を持った戦時動員であったことから、「強制」の語は余計である。
「ご都合が宜しければ、是非お越し下さいませ」などという悠長な「徴用」は
天上天下、何処を探してもあろうはずはないのである。


半島人労務者移入に関する件


因みに、私の両親は昭和19年(1944年)に公布された学徒勤労令、及び
女子挺身勤労令に従がい、皇国の臣民として、勤労奉仕の義務を果たしている。
父は鉄道省の省線(省営鉄道、後の国鉄、JR)で働き、鉄橋上を走行中に
グラマンの機銃掃射を受けたものの、機敏に遮蔽物に身を隠し、九死に一生を
得たという体験も語っていた。
(当時の民間人は、米軍戦闘機なら何でも「グラマン」と呼んでしまう)
私が子供の頃、父は「戦後も鉄道に残った動員仲間で、幾人かが国鉄の駅長に
成っている。自分も残っていた方が良かったかも」と笑っていた。
自分も早く御国の為に戦いたいと望んでいたという、その父が赤紙(召集令状)を
受け取ったのは、何と終戦日の昭和20年8月15日であったという冗談の様な逸話もある。

母は海軍基地であった横須賀鎮守府で事務員として働き、終戦後には鎌倉の寺院に
設けられた終戦連絡事務所にも勤務したとのこと。
海軍士官にはハンサムでダンディーな人が多かったと褒め千切っていた母には、
さぞかし乙女心を煌めかせた覚えがあったのであろう。
海軍の将兵は挺身隊の少女達をとても可愛がってくれただけに、終戦の日には、
国家の敗戦以上に、職場の上司や仲間との別れが悲しくて泣いたと語っていた。
横須賀鎮守府からの転勤で、前線に出征した顔見知りの士官の戦死を名簿に
記すのはとても辛かったとも述懐していた。
戦時下、十代の少年少女であった我が両親は、その貴重な青春時代を御国の為にと、
御奉公に捧げた訳であるが、二人は戦中戦後の苦労話は語ったものの、生涯、
国家への恨み言は一言たりとも吐かなかった。


敗戦の哀しみ
          敗戦の哀しみ 乙女の涙


国家総動員法の緩やかな適用に依る、「募集」「斡旋」「徴用」で、朝鮮半島から
内地に渡航した人数は、旧厚生省の統計で66万7684人、旧内務省の統計では
63万5000余人とされている。
明治43年(1910年)の日韓併合時、朝鮮半島の人口は約1千3百万人。
昭和20年(1945年)の終戦時の朝鮮人人口は、朝鮮半島約2千5百万人、
日本内地約2百万人、満州、華北約2百万人であった。
終戦時、内地で動員されていた朝鮮人は、労務者、軍人、軍属全体で約43万
5千人、朝鮮人人口の22%に過ぎない。
残りの78%、156万5千人の内地在住朝鮮人は戦時動員ではないのである。


第32記事8加州アルカディアに到着サンタアニタセンター
日系アメリカ人強制収容 カリフォルニア州サンタアニタ収容所に到着の風景

第32記事10日系人強制収容2
          日系アメリカ人強制収容所のフェンス


北朝鮮は600万人強制連行説の法螺を吹いていたが、平成15年(2003年)に
至り、朝鮮労働党機関紙労働新聞の記事では840万人に膨張させている。
昭和17年(1942年)当時の統計では、朝鮮半島の人口は約2500万人であるからして、
朝鮮人の3人に1人が朝鮮半島から日本本土に強制連行されたと奇妙奇天烈な
主張をしているのであるが、昭和20年(1945年)の終戦時の朝鮮半島の朝鮮人
人口は約2500万人と、昭和17年(1942年)当時の人口と変化は無い。

韓国国定教科書では、日本政府は650万人もの朝鮮人を強制連行し、その中の
朝鮮人女性数十万人を強制的に慰安婦にし、無報酬の性的奴隷として、日本軍
将兵が日常的にレイプし捲くり、挙句の果ては「皆殺し」にしたとしている。
数十万人と言えば、常識的に40~50万人を意味するが、最近では何故か、
人数をダウンさせて、20万人説を定着させている。
慰安婦として働いた女性たちは、日本人、台湾人、朝鮮人、インドネシア人、
フィリピン人、ベトナム人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人、中国人、
オランダ人などで、日本人女性が7割、朝鮮人女性が2割を占めていたという。
全体の2割で20万人であるとすれば、慰安婦総数は100万人になる。
終戦時に於ける日本陸海軍の残存兵力は内地に約173万人、外地に約330万人
との統計がある。
支那事変から大東亜戦争(1937年~1945年)での軍人、軍属の戦没者数は
約230万人(政府の公式見解)である。
700万人規模の軍隊に、100万人の慰安婦が充てがわれたなどとの捏造話には
無理がある。
しかも、朝鮮人慰安婦は毎日毎日、40人から50人の日本軍将兵にレイプされ
捲ったというのであるから、尚の事、数が合わない。


下関市公安局HP
下関市公安局様HP依り、
関釜連絡船の航路図を拝借。


我が国の教科書に於いても、
「朝鮮の人々のうち、約7万人が朝鮮総督府の行政機関や警察の圧迫などによって
日本本土に強制連行され、過酷な条件で危険な作業に従事させられた。
戦争末期には徴兵制もしかれ、また、多くの女性が挺身隊に集められた」
(東京書籍 日本史A 「大東亜共栄圏」)

「また、数十万人の朝鮮人や、占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、
鉱山や土木工事現場などで労働させた」
(山川出版 日本史A 「国民生活の崩壊」)

「国内でも労働力不足の深刻な鉱山や土木建築業では、多数の朝鮮人にくわえ、
占領地域の中国人も強制連行し、酷使した」
(清水書院 日本史B 「戦時下の国民生活や社会のようすは」)
等々の記述がある。


第32記事4釜山駅舎
               釜山駅舎


「強制連行」に関する朝鮮人の証言集なる出版物は多く、我が国の教科書にも、
その一部がそのまま掲載されている有様である。

「夜、突然、村のえらいさんがやって来て連行された。論山から釜山まで
貨車で、釜山から船で下関に着いた。トラックで運ばれた後、貨車列車に乗り、
着いた所が柳本(奈良県天理市)だった。昼間は飛行場の建設、夜はトンネルを
掘った」
(宋将用氏の証言)

「朝鮮人女性の連行を計画したのは、桜井町(当時)の特高警察で慶尚南道
普州郡、東普州郡から『家事の手伝いの仕事』と偽って、女子挺身隊の名で
連行し、柳本飛行場(奈良県天理市)の慰安所で売春を強要した。
女性たちは17歳から26歳までの20人で、昼は豆、夜は乾パンだった」
(姜正市氏の証言)

「寝ているところを、警察と役場の職員に徴用令状を突き付けられ、手錠を
掛けられたまま連行された」
(教育出版)

「町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手当たり次第、
役に立ちそうな人は片っ端から、そのままトラックに乗せて船まで送り、
日本に連れて来た。徴用というが、人さらいですよ」
(大阪書籍)


第32記事2釜山港1
               釜山港1

第32記事3釜山港2
               釜山港2


昆虫採集の折には、虫籠が必携であり、魚釣りの折には、魚籠が必携である。
同様に、朝鮮半島から日本本土への強制連行なるものが歴史的事実であると
するならば、その移送経路には朝鮮人強制収容所が存在していたはずである。

ナチス党政権下のドイツに於いて、1933年~1945年に行われたユダヤ人等の
強制収容所への移送、収監風景、昭和17年(1942年)~昭和21年(1946年)の期間、
ルーズベルト政権下のアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、
ペルー、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン等々、連合国側諸国に依って
行われた日系人、日本人移民の強制収容所への移送、収監風景をイメージ
されるが良い。

朝鮮総督府が統治した朝鮮半島の行政区画は、13道(一級行政区画)、
21府(内地の「市」に相当)、218郡、2島、122邑(内地の「町」に相当)、
2202面(内地の「村」に相当)であった。(昭和19年‐1944年当時)

朝鮮十三道制
Wikipedia様「十三道制」依り、画像を拝借。


我が国の官憲が、朝鮮半島全域から何十万、何百万もの朝鮮人を日本本土に
強制連行したとするならば、先ずは122邑(内地の「町」に相当)や
2202面(内地の「村」に相当)にはそれぞれ留置場が必要であったはずである。
更に、13道(一級行政区画)、21府(内地の「市」に相当)、218郡に於ける
交通の要衝にはそれぞれ、中規模な強制収容所が必要であったはずである。
また、朝鮮半島から日本本土への渡航手段には、下関‐釜山間(航路距離 
240km)を運航していた関釜(かんふ)連絡船(1905年~1945年)を
用いていたのであるから、釜山港と下関港の近郊には大規模な強制収容所が
必要であったはずである。
特に釜山の地には、連絡船出航までの待機所であるにせよ、巨大な収容所は
必要不可欠であったはずである。
中近世の大西洋黒人奴隷貿易の交易地ギニア湾の拠点であったエルミナ城や
サン・ジョルジェ・ダ・ミナ城をイメージされるが良い。


第32記事5景福丸1922年就航
          関釜連絡船 景福丸(1922年就航)

第32記事6金剛丸1936年就航
          関釜連絡船 金剛丸(1936年就航)


これら朝鮮人強制収容所の遺構は一体、半島の何処に在るのか。
巨大な朝鮮人強制収容所の遺構は一体、釜山の何処にあるのか。

而して、移送先の日本本土側の収監状態は如何に。
下関は疎か、日本全国、何処にも朝鮮人強制収容所の如きは存在していなかった。

強制連行の場合には、移送に用いる列車の車両の問題もある。
ナチスドイツの様に貨車を用いるか、車窓に鉄格子を設けた特別仕様車両を
用いるか、普通列車で朝鮮人を乗せた車両を一般車両から隔離するか等々。
特別ダイヤでの運行も必要であったはずである。
関釜連絡船内でも、強制連行する朝鮮人は一般客から隔離する必要があった
はずである。
何よりも先ず第一に、軍、及び警察に於いて、護送を任務とする部隊編成が
必要不可欠であったはずである。
しかし、それら諸々の強制連行とやらの記録や痕跡など、我が国には存在していない。

韓国では、釜山の日本総領事館前に慰安婦像とやらを設置しているが、
強制連行が歴史的事実であるとするならば、存在するはずの朝鮮人強制収容所の
跡地こそ、慰安婦像設置に相応しいではないか。
ニューヨーク港の自由の女神像の如き、巨大な像を建立するが良い。
然もなくば、五百羅漢や千体仏の様に、何百、何千と作るが良い。
近い将来、必ずや朝鮮半島全域で慰安婦像の破壊運動が勃発する。
「ハルモニに騙されたぁ!」と叫びながら、打ち壊す狂態が目に浮かぶ様
ではないか。
実に愚かな民族である。


第32記事7大正時代の下関駅前
          大正時代の下関駅前風景


日本人は概して、歴史的事実を実証的、且つ客観的に評価する。
朝鮮人の作為的事実誤認は史観以前の問題であり、甚だ病的である。


昭和34年7月付朝日新聞記事
外務省発表 「大半、自由意思で居住」 戦時徴用は245人
昭和34年(1959年)7月13日付朝日新聞記事





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