華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 支那関連

「南京事件」とやらに関する文書類の世界記憶遺産登録に就いて

「南京事件」とやらに関する文書類の世界記憶遺産登録に就いて

…宣伝戦は戦争の一形態である。



国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、中華人民共和国政府が申請していた
「南京事件」とやらに関する文書類の世界記憶遺産登録を決定したとのこと。

所謂「南京大虐殺」なるものは、歴史捏造の最たるものである。
そのブラックプロパガンダの論理は、既に破綻している。
朝鮮系日本人、中国系日本人ならば、いざ知らず、大和系日本人であるならば、
偽論である東京裁判史観、自虐史観などに惑わされることなく、イデオロギーを超越して、
正視眼的に日本の近現代の歴史的事実に相対したいものである。
先人への愛念を胸に抱きつつ、真摯に日本国の歴史と伝統に向き合い、
国際政治の謀略戦、宣伝戦の虚構を喝破する洞察力、咀嚼力を研ぎ澄ませたいものである。


"The only thing necessary for the triumph of evil is for good men to do nothing."
Edmund Burke

「悪が勝利するために必要な唯一のことは、善人が何もしないことである」
エドマント・バーク(アイルランドの政治家)

「善人の無作為こそが、悪を栄えさせる」ということである。
「草莽崛起」あるのみ。




東京裁判11
極東国際軍事法廷(東京裁判)


「南京大虐殺」という捏造話は、昭和21年(1946年)から昭和23年
(1948年)に掛け、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のD.マッカーサー
司令官が布告した「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて行われた東京裁判
(極東国際軍事裁判)に於いて、戦勝国アメリカ合衆国の都合で偽作され、
突如として出現した虚構であり、歴史的事実ではないことは明々白々である。
東京裁判にはニュルンベルク裁判のパターンが適用され、ナチスドイツに依る
ホロコーストに相当する事案として、南京大虐殺が捏造されたのである。
「人道に対する罪( Crimes against Humanity)」なるものは、ナチスドイツが
行なったユダヤ人虐殺の非人道的行為を裁く目的で、ニュルンベルク裁判所
条例に創設された罪名である。


東京裁判に於ける東条英機
極東国際軍事法廷(東京裁判)に於ける東条英機被告


「東京裁判」と、「裁判」の名を冠するからには、極東国際軍事法廷では厳正に
国際法に則り、大日本帝国の罪科が審判されたと思われがちであるが、その実、
極東国際軍事裁判所なるものは法律機関としての裁判所ではなく、GHOの意図
として、満州事変以来の大日本帝国が如何に残虐極まりない侵略国家であり、
原子爆弾攻撃を受けたことが自業自得であるような、罪深い国家であったかを
日本国民及び世界にアピールする為の政治機関であったのである。
判事の一人であったラダ・ビノード・パール判事も、同様の所感を述べている。

東京裁判に於ける検察側の立証は、①一般段階(戦争準備段階)」、②満州段階、
③支那段階、④ソ連段階、⑤太平洋段階、⑥残虐事件段階、⑦個人段階の
7段階に亘って行なわれ、所謂「南京大虐殺事件」は日本軍の捕虜虐待等と
共に、6段階目の残虐事件段階で行なわれた。


南京攻略戦31
日本軍戦車隊の南京城内突入


昭和12年(1937年)12月から、昭和13年(1938年)春に掛け、当時、
国民党一党独裁の中華民国の首都であった南京の攻略戦に勝利した6~7万人の
日本軍将兵が、30万人もの南京市民を虐殺したとされている「事件」の事。

司令官から一兵卒に至るまでが6週間に亘って、獣のように嗜虐的に 8万人もの
婦女子を強姦しては惨殺し捲くったということになっている。
日本軍将兵は女性を犯した後、陰部に竹を突き刺しては殺し、妊婦を犯した後は
腹を切り裂いて、胎児を取り出し、その子まで銃剣で刺し殺したという。
娘を親の前で犯し、妻を夫の前で犯し、その後は銃剣で刺し殺し、軍刀で首を刎ね、
乳房は銃剣で切り取ったという。
そのように残虐非道な殺され方をした南京市民の遺体が、道路の両脇に延々と
続いていたと、自分らは現地に居らず、実見してもいない白人記者たち、
ニューヨークタイムズのT・ダーディン、H・アベンド、 シカゴ・デイリーニューズの
A・T・スティールらが記事を世界に配信した。


南京攻略戦35


そもそも、この所謂「南京大虐殺事件」報道は、中国国民党宣伝部とアメリカ、
イギリス、オーストラリアの反日記者達や、反日工作員であったプロテスタント
宣教師達が協同して行なったブラックプロパガンダ(虚偽を広報する宣伝戦)である。

この「南京大虐殺事件」のブラックプロパガンダの背景として、当時の欧米人が
抱いていた人種差別意識を根底にした、日本蔑視の感情を見逃してはならない。
我が国は白人と肩を並べ、列強と称されるようになった、憎き黄色人種の国で
あったのである。

また、党と軍を掌握し、最高職に就いていた蒋介石と、その妻宋美齢、彼女は
聖書を売り捲くって、 財閥にまでのし上がった一族の娘でプロテスタント信者であった。
工作員でもあった当時のプロテスタントの宣教師たちが、異教徒である日本人の
排斥に協力する素地は充分にあったのである。
終戦時には中国全土に3000人程の宣教師が居たそうであるが、敬虔なる人格者の
イメージとは程遠い輩であったようで、その殆どが終戦後に追放されている。

昭和7年(1932年)に起きた上海天長節爆弾事件のテロにも関与したという、
プロテスタントの宣教師ジョン・マギーに至っては、東京裁判に於ける反対尋問で
自分が実際に目撃したのは、たったの一件であると証言している。
しかも、その事例は「大虐殺」とやらとは遥かに程遠いもので、安全区の路上に
於いて、一人の中国人青年が日本軍の歩哨に誰何された。その際、その青年は
逃亡を図り、駆け出した。歩哨の日本軍兵士が制止するも、逃げ続けたので
射殺されたという内容である。
これは歩哨任務に就く兵士の正当な警備行動で、虐殺とは表現されない。

そんな輩が、幾万もの南京市民が日本軍に虐殺されたと世界に発信したと
いうのが、このブラックプロパガンダの舞台裏の現実なのである。


国民政府庁舎
日章旗の翻る南京政府庁舎


1938年当時、中国国民党が国際連盟に提訴して却下された時点での犠牲者数は、
戦死した中国国民党軍兵士と南京陥落直前に軍服を脱ぎ捨て、平服を身に纏った
便衣兵(ゲリラ戦兵士)など2万人であった。

誇張した犠牲者数で2万人であったにも拘わらず、8年後の東京裁判に於ける
検察側の立証で取り上げられた段階では、その犠牲者数は何と10倍の20万人に
膨れ上がっていたのである。
端から盛った話で2万人、それが東京裁判では20万人に大膨張。
但し、当然の事ながら、南京市民からの聞き取り調査で、虐殺事件なるものの
証言は一件も得られていない。
東京裁判開廷当時の犠牲者数で言えば、20万人もの南京市民が虐殺された
という、僅か8年前の大事件であったはずであるにも拘わらず、たった一件の
目撃証言さえ得られていないのである。
目撃証言どころか、実は遺体が無い。一人の被害者名簿も無い。遺族も居ない。


蒋介石と毛沢東
蒋介石と毛沢東


特に留意すべきは、この所謂「南京大虐殺事件」に就いて、当時から何百回にも
及ぶ欧米報道機関を対象とした記者会見を行なっていた国民党の蒋介石でさえ
語っていないことである。
共産党の毛沢東も周恩来も、「南京大虐殺事件」に就いて言及していない。
でっち上げであることを充分に承知していた彼らが、沈黙していたのは当然である。
「南京大虐殺事件」なるものが事実であったとするならば、抗日戦を遂行していた
彼らにとって、日本を窮地に追い込むような国際世論向け宣伝戦の恰好の材料で
あったはずである。

ところが、1980代以降の中国では江沢民主導の下、この「南京大虐殺事件」を
史実として歴史教育が為された。
その犠牲者の数は30万人、現在では40万人とも50万人とも言われる様になり、
更に中国全土では数百万人が日本軍に虐殺されたと、国民党軍や八路軍に依る
自国民大虐殺までがカウントされている始末である。

その証拠写真とやらも、昭和12年(1937年)7月29日、北平(現在の北京市)の
東約12kmに在った通県(現在の北京市通州区北部)には「冀東(きとう)
防共自治政府」が置かれていたが、その中国人の保安隊約3000人に依って、
日本軍部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名が襲撃され、
約260名が虐殺された「通州(つうしゅう)事件」に於ける、日本人の遺体
写真であったり、満州馬賊の遺体写真であったりと、インチキな代物である
ことが暴かれている。


南京攻略戦32


連合軍占領下で、日本国政府を超越し、君臨した連合国最高司令官総司令部
GHQの意図を反映し、この「南京大虐殺」なるものの報道は、日本の報道機関
でも為されたが、それは東京裁判の行なわれていた期間中の昭和21~23年
(1946年~1948年)に限定される。
昭和12年(1937年)の南京攻略戦に、日本軍に従軍していた報道関係者は、
朝日新聞が約90人、毎日(東京日日、大阪日日)新聞が約80人、 共同通信社
数十人……合計数百人が現地取材で南京入りしたのであるから、彼らは南京の
真実を知っていたはずである。
彼らは、無かったことを有ったとは書かなかった。

しかし、その後、昭和46年(1971年)、中国で毛沢東派の紅衛兵が文化大革命を
繰り広げていた時代に、朝日新聞の本多勝一(崔泰英)記者が突如として、
「南京大虐殺」キャンペーンを始め、「中国の旅」という反日捏造記事を書いた。

当時の読売新聞社や毎日新聞社の編集責任者には、まだ南京攻略戦に同行取材し、
南京の状況を実見した記者が残っていたとのことであるが、それに比して、
朝日新聞社の場合は、編集責任者も本多勝一(崔泰英)記者も当時の南京を
知らぬ者たちで、無慙にも中国国民党のブラックプロパガンダの通りを記事に
したのである。
繰り返すが、東京裁判の審議に伴い、南京市民からの聞き取り調査が行なわれた結果、
大虐殺があったことの証言などは一件たりとも得られていないのである。


南京攻略戦33


中国人は「大虐殺」を「大屠殺」と表現するそうであるが、南京郊外の江東門近くに
「南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)」がある。
「旧日本軍の蛮行を、子々孫々にまで伝える」為の記念館であるという。
実は、この記念館の建設を執拗に中国共産党に持ち掛けたのは、日本人である。 
建設資金から建物の設計に至るまで、日本人が遣ったのである。

おまけに30万人虐殺説捏造まで提供している。 
この30万人を「政治的数字」と、当の中国共産党が認めている始末であるから、
実に何をか況やである。
犯人の反日日本人は、日本社会党で委員長にも就いた田辺誠氏(2015年7月
2日死去)であり、総評が3000万円を中国共産党に資金提供したという。
記念館の建設費用は870万円で事足りて、残金は中国共産党幹部連中で山分け
したという、実に薄汚いオチまで付いている。
日本人の敵は獅子身中の虫、日本人の中に居た反日左翼の日本人、反日朝鮮系
日本人であった訳である。

私は若い頃、東京都千代田区永田町に在る国立国会図書館に通っては、様々な
歴史的資料を閲覧したものである。
現在ではインターネット上でも有る程度は閲覧出来るので、探究心の有る方は
利用されると良い。
「南京大虐殺事件」なるものに関しては、極東国際軍事裁判記録(東京裁判記録)や
日本陸軍支那派遣軍関係の文書を閲覧されると良い。


南京攻略戦34


幾度でも、幾度でも繰り返す。
日本軍が30万人もの南京市民を虐殺したと言うが、その遺体が無い。
当然のことながら、一人の被害者名簿さえ無い。遺族も居ない。目撃者も居ない。
日本を貶めようと連合国の検察側が頑張った東京裁判でも、南京市民からの
聞き取り調査を実施したものの、大虐殺とやらの目撃証言を一件も得ていない。

「南京大虐殺」とは、馬鹿馬鹿しいにも程が有る大法螺話である。
南京攻略戦当時の南京城内の人口は20万人であるから、皆殺しにしても
20万人ということになるが、残りの10万人は幽霊でも殺したと言うのか?
日本軍の南京入城後、中国人が流入したことで、2ヶ月後には人口が5万人増え、
25万人になっているが、常識的に考えても、大虐殺が行われているという
地獄絵図の様な屠殺場と化した南京城内にのこのこと戻って来るものか?
むしろ、暴虐を尽くした国民党軍が南京城から撤退し、南京市民が安心して、
城内に流入したいうのが事の真相ではなかったか。

30万人が殺されたならば、30万体の遺体があったはずである。
野球場の観客数の10倍、広島で原爆が炸裂したあの日の犠牲者の2倍以上もの
遺体数である。
平均体重を50kgとしても、30万人なら15,000,000kg、15,000tにもなる。
その15,000tもの肉と骨は一体全体、何処に行ったというのであろうか?
焼却した形跡も無く、埋葬された痕跡も無い。
15,000tもの遺体の山を一体全体、どの様な方法で無と化したのか。
15,000tもの肉と骨を全部、長江の流れに放り投げたとでも大法螺を吹くか?
ナチスドイツのユダヤ人虐殺の事例で解るように、遺体の処理というものは
大層難儀なものなのである。
要するに、早い話が嘘なのである。


南京攻略戦36



皇軍である帝国陸軍の軍紀は厳格なものであった。
中国兵如きとは違い、皇軍将兵に限っては、一般市民の大虐殺など有り得ない
ことなのである。

前述した「便衣兵(平服のゲリラ兵)狩り」は国際法上、合法な戦闘行為である。
中国兵は卑怯にも平服に着替え、非戦闘員が居住する安全区に逃げ込み、
日本軍将兵を襲撃もした。
ハーグ陸戦規定で、便衣兵の即時処刑を合法化しているのは、非戦闘員を戦禍
から守る為である。
処刑が殺人である以上、刺殺や銃殺など残酷な行為であるのは当然で、それは
何も日本軍に限ったことではない。
これら便衣兵の処刑を東京裁判では、民間人の虐殺と摩り替えられたのである。
しかも、中国兵は軍服を脱ぎ捨て、平服に着替えてゲリラ化した訳であるが、
その着替えた平服一式は衣料品店で正規に購入したという代物ではない。
中国兵は路上で同胞を殺害し、衣類を奪ったなどという中国人の証言がある。
そのような被害者さえも、日本軍に殺されたことになっているのである。

日本軍が南京城を攻略した段階で、国民党の幹部や南京防衛軍司令官唐生智ら、
軍の上層部は、兵士を置き去りにして、既に逃走していたという。
国民党軍には「督戦隊(とくせんたい)」という部隊があって、退却や逃走する
中国兵を射殺したり、トーチカの守備兵に至っては、足枷でトーチカに繋ぎ、
更には逃亡出来ない様にトーチカの出入り口を鎖で塞ぐ等、一体どちらが敵か
判らない程に、同胞を残虐非道に扱ったという、著しくモラルの低い軍隊組織
であったのである。
そもそも、南京城内に置き去りにされた中国兵たちは、南京周辺で3度に亘り、
少年に至るまで強制的に徴兵された人々が殆どで、日本軍の進攻に恐怖し、
軍服を脱ぎ捨てて、一般市民の中に逃げ込んだケースが多かったという。

この国際法上、禁止されていた国民党軍の「便衣隊」に依るゲリラ戦に対し、
日本軍が南京城内の敗残兵掃蕩戦で、それら平服の中国兵たちを民間人の中から
探索し、ハーグ陸戦規定で当然の合法行為である便衣兵の即時処が、第三者の目には、
非戦闘員を殺害したと映るのは至極、当然のことである。


日本軍に依る処刑 詳細不明


村山富市元首相は、平成25年(2013年)5月19日付日本経済新聞インタビューで、
安倍晋三首相の「侵略の定義は定まっていない」との発言を批判し、「武力で
敵国に乗り込めば、それが侵略」と述べたが、大日本帝国が遂行した戦争が
自衛戦争であったことは、歴史的事実である。

対中国に関し、日本軍が中国大陸に駐留していた事実を以って、即座に侵略と
する論を為す人々が居るが、日本軍は明治34年(1901年)9月7日調印の
「義和団事変ニ関スル最終議定書(北京議定書)」に基づいて、合法的に「北京・
山海関間の鉄道の保全、並びにこの間に居住する居留民の保護の為に駐兵及び
演習する」ことになったのである。

義和団事変とは、1890年代末から山東省で大刀会などの武術組織を中心とした、
大規模な反キリスト教の立場に立った武装排外運動で、1900年には天津や北京
を占拠、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃し、外国人を大虐殺した。
清朝政府は当初、義和団鎮圧に当たっていたが、1900年6月、「扶清滅洋
(清を助けて、西洋を滅ぼす)」を掲げるこの大規模な武装排外運動を支持し、
義和団と共に外国勢力を排除することに方向転換、列国に宣戦布告をした。
これを受けて、日本、ロシア、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、
イタリア、オーストリアの8ヶ国の連合軍2万人が出兵し、これを鎮圧、8月
には清朝政府が降伏し、翌1901年の「義和団事変ニ関スル最終議定書(北京
議定書)」で、北京への外国軍の駐屯を認めた。


義和団事件1
義和団事変の図


また、1946年までの中国には、「租界(そかい)」があった。
租界というのは、清国とイギリスで戦われた阿片戦争後の不平等条約に依り、
中国大陸各地の条約港に設けられた、行政自治権や治外法権を持つ外国人
居留地のことで、20世紀の近代中国に於ける列強の権益の拠点であった。
中国に租界を有していた列強は、イギリスを始めとして、日本、アメリカ、
フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどで、
それぞれの国が自国の居留民保護の為に、軍隊を駐留させていた。

この外国人居留地は、列強が外交上の交渉で清国から得た権益で、後に
中華民国に継承された訳であるが、この治外法権を持つ居留地を、中国の
官憲には保護する義務があったにも拘わらず、彼らは軍隊組織、警察組織と
しての体を為しておらず、彼ら自身が昭和2年(1927年)、日本人が虐殺された
「もう一つの南京事件」や昭和12年(1937年)の通州事件等、凄惨極まりない
日本人惨殺事件を引き起こしていたのである。

義和団事件2
「義和団事変ニ関スル最終議定書(北京 議定書)」に基づき、自国の居留民保護の為、日本、イギリス、
アメリカ、 フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリア各国が軍隊を駐留させていた。


我が国にも嘗て、横浜や神戸に外国人居留地が存在した。
安政年間(1858年)に、江戸幕府の日米修好通商条約を始めとして、
イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。
この「安政の五ヶ国条約」に依り、東京と大阪、箱館、神奈川、長崎、
兵庫、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。

開港場としては、横浜と神戸のみであったが、居留地は長崎や築地など
にも在り、外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、或いは
住宅倉庫商館を建てることが認められ、治外法権とされていた。
我が国の場合は条約改正の外交努力に依り、1899年には総べて回収した
訳であるが。

日中全面戦争への道程として、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、
首都南京攻略という経緯は、中国を侵略するという目的ではなくて、
発端は飽くまでも、日本人居留民保護の為に止むを得ず、日本政府が
軍隊を増派したということなのである。

譬えて言えば、幕末、居留地を守るべき幕府の軍隊が治外法権を持つ
横浜の居留地に侵入し、小規模のイギリス軍を撃破、略奪の上、外国人に
陵辱を加え、虐殺したとする。
更に、居留地は幕府の大部隊に包囲された状態が続く。
当然、イギリス本国政府は自国民保護の為に、艦隊を派遣し、陸兵も増派する。
増強されたイギリス軍と幕府軍との交戦があり、幕府軍は江戸に潰走した。
そこで、イギリス軍は禍根を断つ為に、江戸府内にまで追撃し、幕府軍を江戸
から駆逐したとしよう。

要するに、日中の武力衝突が泥沼の戦争状態にまで発展した構図というのは、
正にこういうことであった訳なのである。
この譬え話の江戸が、実際の日中戦争に於いては、南京であった訳である。


上海租界地51
上海の租界地


南京大虐殺「否定」論者と南京大虐殺「肯定」論者などと併記すれば、双方に
相応の理が有るかのように見受けられようが、事実でないことは何処までも
事実ではないとして、歴史的事実を正当に認識する常識人か、無意識的にか、
否か、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)に
依る東京裁判史観の呪縛にその身を委ね続ける被洗脳者か、ということである。

要するに、南京大虐殺なるものが、事実でないことを事実のようにでっち上げ
られた大嘘と見抜いている常識人と、それを見抜けぬ莫迦者と、情報戦に於ける
ブラックプロパガンダのメインテーマとして、南京大虐殺の虚構を大いに活用
する反日左翼の扇動者の3タイプの日本人が存在しているということである。(了)




南京入城時7
12月13日、南京入城時


12月13日 入城に拍手1
12月13日の南京入城時、市民が拍手


12月15日安全区にて
12月15日、安全区にて


安全区内3
安全区にて


12月22日 お菓子を配る日本兵
12月22日 お菓子を配る日本軍兵士



日本軍の南京市民への布告を掲示






国民党軍中国兵捕虜


支那兵捕虜の護送 僅かな日本兵
便衣兵捕虜移送時の日本軍兵士の少なさは注目に値する。小銃を構えてもいない。


良民証交付1
良民証交付


12月20日 支那兵を治療する看護兵
12月20日、国民党軍中国兵捕虜を治療する日本軍看護兵


12月20日か23日 日本軍衛生隊
12月20日or23日 日本軍衛生隊



12月20日or23日 日本軍衛生隊

安全区で南京市民に食糧を配布
安全区で南京市民に食糧を配布


12月30日婦人にミルクを上げる
12月30日、婦人にミルクを渡す日本軍兵士





12月20日 子供と遊ぶ
12月20日、子供と遊ぶ日本軍兵士



子供と一緒に写真撮影


赤星昴少尉と支那人の少年
赤星昴少尉と中国人少年


子供たちと
子供たちとの交流






露天商との交流


食事する日本兵
露天で食事する日本軍兵士


12月27日 k


露天商との交流
露天商との交流


露天商
中国人露天商



中国人露天商


南京市民の親子
南京市民の親子


12月25日 壊れた馬車で遊ぶ子供たち
12月25日、壊れた馬車で遊ぶ子供たち


12月15日 支那人家族
12月15日、中国人家族











スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2015/10/19 11:25 | 支那関連COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

日本人260人が惨殺された通州事件 …支那人の猟奇的殺害嗜好

日本人260人が惨殺された通州事件 

                      …支那人の猟奇的殺害嗜好


…目撃者の極東国際軍事裁判に於ける宣誓口供書


東京裁判11


今から76年前の昭和12年(1937年)7月29日、北平(現在の北京市)の
東約12kmに在った通県(現在の北京市通州区北部)には「冀東(きとう)
防共自治政府」が置かれていたが、その支那人の保安隊約3000人に依って、
日本軍部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名が襲撃され、
約260名が虐殺されたのが、世に言う「通州(つうしゅう)事件」である。

この通州事件が起こる3週間前の7月7日、北平(現在の北京市)西南方向の
盧溝橋で、北京議定書に基づき、駐留していた日本軍と、蒋介石率いる中国国民党の
軍隊である国民革命軍第29軍との間で、盧溝橋(ろこうきょう)事件と呼ばれる
軍事衝突が起きていた。
通州の冀東防共自治政府自体は親日的な政権であったというが、その政権の
軍隊である保安隊は、国民革命軍第29軍の軍長、宋哲元と内通していた模様で、
「盧溝橋で日本軍が国民革命軍第29軍に惨敗した」とのデマに扇動され、
日本人を襲撃したと言われている。

そして、この年の12月、日本軍は南京攻略戦を戦い、国民党一党独裁である
中華民国の首都南京を陥落させた。
所謂南京大虐殺という虚構は、昭和12年(1937年)冬から13年(1938年)
春に掛けての、この南京陥落時の捏造話である。
南京を陥落させた6~7万人の日本軍兵士が人口20万人の南京で、30万人もの
南京市民を虐殺したとされている大法螺話である。
日本軍が南京を陥落させた後に、 南京城内の人口が5万人増えているが、
30万人を殺戮したとするならば、そんな地獄の都市に30万人+5万人で、
35万人もの支那人がわざわざ南京に流入して来たということになる。
司令官から一兵卒に至るまでが6週間に亘って、獣のように嗜虐的に
8万人の婦女子を強姦しては惨殺し捲くったということにもなっている。

歴史的経緯からすると結局、盧溝橋事件、通州事件は、支那事変(日中戦争)
の直接の導火線となる、決定的な重大事件であったことになる。


上海租界


支那事変を単に日本が支那領土に侵攻したものと認識している日本人も多い
ようであるが、歴史的事実は決して、そうではなかった。
1946年(昭和21年)までの支那には、「租界(そかい)」というものがあった。
租界というのは、清国とイギリスで戦われた阿片戦争後の不平等条約に依って、
支那大陸各地の条約港に設けられた、行政自治権や治外法権を持つ外国人居留地
のことで、20世紀の近代支那に於ける列強の半植民地支配の拠点であった。
支那に租界を有していた列強は、イギリスを始めとして、日本、アメリカ、
フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどで、
それぞれの国が自国の居留民保護の為に、軍隊を駐留させていた。

この外国人居留地は、列強が外交上の交渉で清国から得た権益で、
後に中華民国に継承された訳であるが、この治外法権を持つ居留地を、
支那の官憲には保護する義務があったにも拘わらず、彼らは軍隊組織、
警察組織としての体を為しておらず、彼ら自身が昭和2年(1927年)
日本人が虐殺された「もう一つの南京事件」や昭和12年(1937年)の
「通州事件」など、凄惨極まりない日本人惨殺事件を引き起こしていた。


通州2


我が国にも嘗て、横浜や神戸に外国人居留地が存在した。
安政年間(1858年)に、江戸幕府の日米修好通商条約を始めとして、
イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。
この「安政の五カ国条約」に依り、東京と大阪、箱館、神奈川、長崎、
兵庫、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。

開港場としては、横浜と神戸のみであったが、居留地は長崎や築地などにも在り、
外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、或いは住宅倉庫商館を
建てることが認められ、治外法権とされていた。
日本の場合は条約改正の外交努力に依り、1899年には見事に全て回収した。


日支全面戦争への道程として、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、
首都南京攻略という経緯は、支那を侵略するという目的ではなく、発端は
飽くまでも、日本人居留民保護の為に止むを得ず、我が国政府が軍隊を
増派したということなのである。

譬えて言えば、幕末、居留地を守るべき幕府の軍隊が治外法権を持つ横浜の
居留地に侵入し、小規模のイギリス軍を撃破、略奪の上、外国人に陵辱を加え、
虐殺したとする。
更に、居留地は幕府の大部隊に包囲された状態が続くとする。
当然、イギリス本国政府は自国民保護の為に、艦隊を派遣し、陸兵も増派する。
増強されたイギリス軍と幕府軍との交戦があり、幕府軍は江戸に潰走した。
そこで、イギリス軍は禍根を断つ為に、江戸府内にまで追撃し、幕府軍を江戸から
駆逐したとしよう。

要するに、日支の武力衝突が泥沼の戦争状態にまで発展した構図というのは、
正にこういうことであった訳なのである。
この譬え話の江戸が、実際の日支戦争に於いては南京であった。


通州 地図1


昭和12年(1937年)12月に日本軍が陥落させた南京で大虐殺が
行われたという「南京事件」は日支両国で語られることはあっても、
昭和2年(1927年)3月に、蒋介石の北伐軍が南京に攻め込んだ時に、
日本人が虐殺された「もう一つの南京事件」も「済南事件」も語られる
ことは皆無に等しい。
また、大正9年(1920年)には、日華共同軍事協定を結んでいたにも
拘わらず、尼港に停泊中の四隻の支那艦隊は日本軍の兵舎領事館を砲撃、
更に、1000人の中国人と500人の朝鮮人に依って、尼港在住の日本人
約800人が陵辱の上、虐殺された「尼港事件」も殆ど世に知られてはいない。
日本の外務省、教育界やマスメディアが如何に、反日左翼の北京派売国奴に
占拠されているかの証である。


話題を昭和12年(1937年)7月29日の「通州事件」に戻す。
東京裁判(極東国際軍事裁判)で、裁判長ウェッブは所謂「南京事件」なるものの
中国側の公式資料は証拠として採用したにも拘わらず、日本国の弁護側が
「通州事件」に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウェッブに
却下されている。
東京裁判に於いて、中国の残虐な犯罪が明らかになることは、正義を装う
連合国側には不利益であったからという訳なのである。

しかし、その際に、通州事件の虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は
受理され、記録は残っている。


通州3


●天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、事件の翌日30日
 通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人の供述。

「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、
裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を
銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体は
殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、
言語に絶したものだった。」


●特に悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について
 通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述。

「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙が
掛けてあった。
本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も
下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。
陰部は刃物で抉られたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。
折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或いは打つ伏し或いは上向いて死んでおり、
闘った跡は明瞭で、男は目玉を刳り貫かれ、上半身は蜂の巣のようだった。
女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。
その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。
子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、
胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」


通州記事2


●支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、
 連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄証人の供述。

「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、
一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に
調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、
腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱の中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。
婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。
旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を
押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、
見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、
一家6人数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。
池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」


●事件現場に立ち会った佐々木到一氏の手記。
「邦人に対して残虐の手を加え、その老荘男女16人が惨死体となってあらわれたのである。
予は病院において偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻の極みだった。
手足を縛り、手斧様のもので頭部、面部に斬撃を加え、或いは滅多切りと為し、
婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることが判ったような始末である」


通州事件 東京日日


●救援に駆け付けた第二連隊が見た惨状

浜田巡査宅では長女が手榴弾で吹き飛び、長男は銃剣で刺され、
夫人は凌辱された後、女子師範学校まで引き立てられたが、途中で逃げ出した。
付近の日本食堂では男の子が壁に打ち付けられて頭蓋骨陥没の即死、5人の女店員は
射殺されていた。
食堂・旭軒の女店員八人も強姦の後、裸体にされ、陰部には銃剣が差し込まれていた。
他の場所には女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉られ、
或いは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま
死体を放置してあった。
或る店では女店員全員が強姦され、陰部に箸が突っ込まれていたり、
口の中に砂を入れられたりして殺されていた。
中には死体から内臓がはみ出し、蝿が集った現場もあった。
通州の高級割烹旅館だった「近水楼」では女中4人が射殺後に凌辱され、
天井裏に隠れていた宿泊客11人は北門付近まで数珠繋ぎにされて、
連行されたあと虐殺された。
ことき同盟通信の安東利男記者が城外に転がり落ちて一命を取りとめ、
北京まで這云の体で逃げた。
こうして保安隊は事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と襲撃し、
財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮し、凌辱を重ねた。
逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、引き摺られ、
二ヶ所に集められた上で射殺された。
日本軍守備隊に運良く逃げ込むことが出来た120人だけが助かった。


通州記事5


この様な「頭部切り落とし」「眼球抉り取り」「胸腹部断ち割り」「内臓引き出し」
「陰部突き刺し」「陰部に異物挿入」「屍姦」などは、支那兵特有の酷たらしく淫虐で、
猟奇的な虐殺方法なのだ。

この様な猟奇的な殺害方法、処刑方法に聞き覚えはないだろうか。
昭和12年(1937年)12月の南京陥落当時も、その後も日本軍が民間人を
何十万人も虐殺したなどという証言も報道も為されなかったにも拘らず、
昭和21年(1946年)から始まった東京裁判に於いて、突如として、
ナチス・ドイツに依るホロコースト、ユダヤ人大虐殺に類似した事例は
無いものかと、針小棒大に作り上げられた、
所謂「南京事件」に於ける被害者の殺され方そのものではないか。

その南京事件に於ける虐殺現場の証拠写真とやらに、何とこの通州事件に於ける
日本人被害者の惨状写真までもが用いられているのである。
或いは、南京とは無関係であったり、加害者が日本軍でないことが判明している
写真なども増えている昨今である。

はっきり言うが、あの淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、支那人の人の殺し方
なのである。
支那人お得意の惨殺パターンなのである。

支那の官憲こそが、20世紀半ばの動乱の時代、内戦で数千万人もの同胞を
殺したのだということは判明している。
自国民の犯した罪を、日本人に負わせるな!と怒鳴り付けたいものである。
序でに、同じことを歴史に疎いのか、国籍だけが日本国で支那人の血が流れている
のか知らぬが、反日左翼の日本人にも言いたいところである。


通州事件 讀賣


歴史や風土の異なる民族は、それぞれに大きく異なったメンタリティを持つ。
人の殺し方一つにも、その民族性が表われるのだ。
日本人の一般的なメンタリティからすれば、武家社会での「生殺しはいかん」
(生殺し:殺す寸前まで痛めつけること)という考え方があり、切腹の際ですら
「介錯」という介添えがあり、腹切りは型通りの作法として、刃を腹に突き立てた
真似事だけでも、即座に首を討って、苦しむことの少ない死をと手助けをする
というのが、日本人の培って来た精神性である。
従がって、日本軍の処刑方法は射殺、或いは槍刀に依る一刀、一突きで
命を奪う傾向があったのだ。


通州5


それに引き替え、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を
与えた上で死に至らすという、残酷極まりない凌遅刑(りょうちけい)が
清朝の時代まで行われていたお国柄の支那である。
しかも、凌遅刑で削ぎ落とした肉は、食ってしまうのだから始末が悪い。
その民族のメンタリティは推して知るべし、である。

そもそも、支那はカニバリズム(人肉嗜食)の伝統を持つような国で、
飢饉などの非常時に緊急避難的に行われたという記録は世界中にあるが、
彼らの場合はそうではない。 支那人は好き好んで食ったのである。
文化大革命時代の1966年から1970年の間に、「反革命主義者」という
レッテルを貼られて殺された6万人の知識人や文化人の中にも、死後の肉を
食われた人が居て、白昼堂々と人肉食いが行われたという広西での報告などがある。
胎児を食べる文化が現存し、胎児を食材として使う料理があり、
現在では、堕胎後の胎児が闇ルートで売買されているという。
拝金主義者の支那人が、金になる胎児を手厚く葬るはずもない。

日本人と支那人では、死生観が大きく異なるのだ。
日本人は古来、死を以って、その人の罪は清算されるものと考えるが、
儒教という処世術は持つものの、形而上学を持たない支那人は死者をも
鞭打つように、御魂への畏敬の念に欠けるのだ。

14億5千万人の支那人が如何様に法螺を吹き捲ろうが、
虐殺された人々の御魂は、ご自分たちが誰に殺されたのか、
その真実をご存知なのだと思えば、それだけが救いとも思える。


通州記事4







テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2013/07/31 02:51 | 支那関連COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

支那の「靖国便所」画像集 …品性下劣な靖国神社侮辱の仕様

支那の「靖国便所」画像集 

…品性下劣な靖国神社侮辱の仕様



俺は…



福沢諭吉の執筆とされる、明治18年(1885年)3月16日付「時事新報」紙上
に掲載された社説は「脱亜論」と呼ばれている。

「……
日本は、国土はアジアに在りながら、国民精神に於いては西洋の近代文明を
受け入れた。
ところが日本の不幸として在るのは、近隣国である。
その一つは支那であり、もう一つは朝鮮である。
この二国の人々も日本人と同じく、漢字文化圏に属し、同じ古典を共有して
いるが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、
支那、朝鮮二国と日本との精神的隔たりは余りにも大きい。
情報がこれほど速く行き来する時代に在って、近代文明や国際法について
知りながら、それでも過去に拘り続ける支那、朝鮮の精神は千年前と違わない。
……
例えば、国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って、
恥じることもない。
……
最早、この二国が国際的な常識を身に付けることを期待してはならない。
東アジア共同体の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は
捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで、特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちに於いては、東アジアの悪友と絶交するものである」(趣意)



靖国便所D500


靖国便所A


靖国便所G


靖国便所C500


靖国便所B


靖国便所G500


靖国便所D50


靖国便所F50


支那、朝鮮などという馬鹿で厄介な連中には、関わらぬに越したことは無い。


テーマ : 最近の気になるニュース - ジャンル : 学問・文化・芸術

2013/06/02 04:36 | 支那関連COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

「シナ」は差別語ではない …「中国」は日本人にとっての被差別語

「シナ」は差別語ではない 

…「中国」は日本人にとっての被差別語



2012年9月21日、石原慎太郎東京都知事定例記者会見の席上、
フリーの記者が、「知事はしきりに支那、支那と言われますが、
相手国が嫌がることを言うべきではないと…。 挑発と取られても、
仕方が無いのでは…」と批判的に食って掛かっていた映像を観たが、
彼は「支那」「中国」という呼称の意味を、その歴史的経緯をも含め、
それらを承知の上で、敢えて語っているのであろうかと甚だ疑問に
思った次第である。

「日本」、「支那」と呼び合うのであれば、「私」と「あなた」という
対等の関係性を意味するが、「日本」と「中国」と呼び合う場合には、
「私」と「ご主人様」と呼び合う主従の関係性を意味することになる。
日本人が意識しようが、しまいが、日本人がかの国を「中国」と呼ぶ
ことは、同時に、「私たち日本人は野卑な東夷です」と自ら卑下している
ことを意味するのである。

朝鮮系日本人の孫正義氏が創業したソフトバンクのCMで、白戸家の家族
構成は「父親が犬」「長男は黒人」という家族構成になっているが、この設定
は孫氏の日本人への侮蔑の念を具現化したものであろうとの憶測がある。
朝鮮語では、ケッセキ(犬の子)というのは蔑称であると聞く。
日本人が気の付かないところで、日本人が大いに侮辱されていることになる。
日本人がかの国を「中国」と呼ばされることの背後には、ソフトバンクのCM
の「日本人は犬の子」という暗示と同様の意味合いが隠されているのである。
「シナ」と呼ばぬならば、「中国」ではなく、「チャイナ」と世界標準で呼ぶ
方が良い。


中華思想


「支那」という呼称の由来は諸説ある。
大陸中原を初めて政治的に統一した王朝「秦(シン)」
(サンスクリット語で「Thin」「Chin」、ラテン語「Sinae」)に
由来するとされ、この「秦」の呼称が周辺諸国に伝わり、現在の
インドで訛って「シナ」になったというのが通説のようである。

インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にあるサンスクリット語
「チーナ・スターナ(China staana)」を当時の訳経僧が「支那」
「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等と漢字で音写した
中から、支那人自身が特に「支那」を選択したということである。





そうした経緯からして、「支」も「那」も「シナ」の音を当て嵌めた
だけのことで、特に意味を持っている訳ではないのである。
また、この「チーナ」の発音が西洋に伝わり、英語の「China」
フランス語の「Chine」などの語源ともなったと言われている。
つまり、西洋人が「支那」と同源の「China」の呼称に、
何ら侮蔑的意味を込めていないのと同様、「支那」という呼称は
単なる客観的名称であって、何ら他意が含まれてはいないのである。

にも拘わらず、自国人が「Sina」で「シナ」、欧米人が「China」で
「チャイナ」と呼ぶのはOKで、日本人が「シナ」と呼ぶことだけは
断固、許せないというのでは全く理屈が通らないではないか。

石原慎太郎東京都知事に中国政府関係者が語ったという屁理屈では、
「シナ」は良いが、「支那」は駄目であるという。
「日本」が「本」で、「支那」が「支」ということになるからであるそうだ。
「日本と支那」間に、「本支」の関係性を連想させるそうな。
文字の上でも、日本の風下に立ちたくないという訳なのである。

そもそも、現代の中華人民共和国で最も権威ある国語辞典
「漢語大詞典」に、「『支那』は、『秦』の音の訛りであり、古代インド・
ギリシャ・ローマ・日本などが我が国を呼ぶ名である」と書いてあり、
蔑称であるとは記されていないのである。
更に、この辞典に引用されている参考文献には「単なる名称であって、
別段の意義はない」と明記されているのであるから、中国国内には
「支那」を差別的呼称とする一般的な通念は存在しないはずなのである。

平成11年(1999年)4.11に東京都知事選挙があり、石原慎太郎氏が
都知事に就任したが、この年の5.7付け「人民日報」で「支那」の
呼称を用いる石原都知事を「誠実さに欠ける人」と批判している。
この「『支那』の語源についての考察」と題した記事に於いて、
「支那」が蔑称であると論証したつもりらしいのだが、その論法が、
実に珍妙なのである。





19世紀末まで、中国大陸は清朝(満州族)の統治下にあって、
この国は清国と称し、その国民は清国人と呼ばれていた。
清朝末期に革命の機運が高まり、漢族の間で、「清国」「清国人」
という呼称は「満清の臣下」を意味するという理解から、「清」
に代わって、「支那」の呼称が広く使われていたという。
こうして、孫文や魯迅も「支那」を自称していた歴史的事実の
言い訳として、人民日報では、

『中日甲午戦争(日本では「日清戦争」と言われている)以前、
日本で1888年に印刷された日本軍必読の「宇内混同秘策」
という本では、「支那」の呼称で中国を指し、しかも軽蔑的な態度で
中国人のことを取り上げていたが、「支那」という言葉は中国に対する
差別とはまだ直接繋がっていなかった。

日本の社会が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意味を込めて
称し始めたのは、中日甲午戦争で清が敗れた時からである。
1895年、清政府は余儀なく日本政府を相手に、主権を喪失し国が
恥辱を被る馬関条約(日本では下関条約と言われている)を締結して、
近代中国の被った恥辱は極点に達した。
昔から中国のことを「上国」として尊敬して来た日本人は最初は驚き、
続いて勝った後の陶酔に走り、街に出てデモ行進を行い、
「日本は勝った。『支那』は負けた」と狂気のように叫んだ。

そのときから、「支那」という言葉は日本では戦敗者に対する戦勝者の
軽蔑的感情と心理を帯びたものになり、中性的な言葉から蔑む意味合い
の言葉に逐次変わっていった』

この記事を書いた人民日報の記者も、掲載を諒とした編集長も余程、
頭の回転が鈍いと見える。
この程度の論理思考能力で、天下の人民日報社に就職出来て、
収入を得られるとは、実に羨ましい限りである。

この記事の論理は、実に奇妙奇天烈なのである。
譬えて言えば…
私に、「池田」さんという知り合いが居たとする。
交際当初、私はその「池田」さんを立派な人だと尊敬していた。
しかし、ある時点で、この「池田」さんがとんでもないまやかし者で、
稀代のペテン師、悪党であることに気が付き、唾棄すべき人物として、
この上なく軽蔑するようになったとする。
人民日報の論法からすると、この「池田」という名称は、軽蔑するように
なった時点までは、単なる客観的な名称であったが、それ以後はこの同じ
「池田」という名称は、蔑称に一変したという訳なのである。

そういう論理であるならば、現在の「中国」「中国人」も多くの日本人から
心底軽蔑されているので、「中国」「中国人」という名称は既に折り紙付きの
蔑称に成り果てていることになる。

昭和5年(1930年)中華民国政府外交部は大日本帝国に対して、
「支那」という呼称を止めて、「中国」と呼ぶように要求して来たが、
今度は中華人民共和国政府外交部が、「中国」と呼ぶな!とでも要求して
来るのであろうか。
実に、自己中心的で独善的でご都合主義で責任転嫁が得意で…な、
下劣極まりない国民性であることよ。


風刺 日清戦争


「支那」という名称は、黄河、長江流域を主な国土として、
実効的に支配して来た漢民族と、その土地、文化などに用いられた
地理的呼称、あるいは王朝や政権の名を超えた通史的な呼称であり、
国号としては、種族や民族を問わず、中華民国という国家と、
その国民に関連する事象に用いられる呼称であったのである。

1911年、辛亥革命で清朝を打倒し、漢人が政権を樹立したが、
漢民族が占有して来た地域(支那)のみならず、東トルキスタン、
モンゴル、チベット、満洲などを含む、清朝の遺領をそのまま
枠組みとする領域を「中国」の領土とした。
つまり、「支那」は地理的名称としては、現在の「中国」の一部
ということになる。
しかし、中華人民共和国政府・中国共産党は、「支那」と
その周辺の諸地域、諸民族が古来、一貫して一体の「中国」を
形成して来たという偽りの歴史認識に基づいて、国内でのチベット人、
ウィグル人など異民族の独立運動への弾圧を正当化している訳である。
ならば、万里の長城で内と外とに分けたのは何故?と意地悪を言って
みたくもなる。

万里の長城450

ところで、片や日本人は余程大らかなのであろうか、鈍感なのか、本来、
差別の意味を含む「中国」という名称を口にすることには、一向に違和感を
覚えないようである。

「中華」の意味とは…
「中国で、漢民族が、周囲の文化的におくれた各民族に対して、自らを
世界の中央に位置する文化国家であるという意識をもって呼んだ自称」
明治22年(1889年)発行の「言海」に依れば、
「四方ノ夷狄ニ對シテ、中央ノ開ケタル國。中夏。中國。」
「支那人ノ自國ヲ自稱スル語。」なのである。

「中華」や「中国」という名称は、中華民国樹立よりも以前から、
中国人が自国を呼ぶ呼称であったのだ。

要するに、我々日本人がかの国を「中国」と呼称する時、
それは同時に、
「私達日本人は、貴国よりも文化的に劣る東夷(とうい)です」
と謙って言っているのと同じことになるという訳だ。

同様に、モンゴル人がかの国を「中国」と言えば、
同時に「私達モンゴル人は、……北狄(ほくてき)です」
ベトナム人がかの国を「中国」と言えば、
同時に「私達ベトナム人は、……南蛮(なんばん)です」
ネパール人がかの国を「中国」と言えば、
同時に「私達ネパール人は、……西戎(せいじゅう)です」
と、臣下の礼を取っているのと同じことになるのである。

どうであろうか。
こうしてみると、「支那」という呼称よりも、「自分の国は世界の中心に在り、
文化水準の低い野蛮な周辺諸国に囲まれながら、一番優れている我が国」
という意味の「中華」「中国」という名称の方が、そして、それを他国に
強要する方が、遥かに差別的と言えるではないか。


テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2013/04/13 02:46 | 支那関連COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

中国共産党の代弁者たち …それ程までに支那の属国化が望ましいか?

中国共産党の代弁者たち 

…それ程までに支那の属国化が望ましいか?



海上自衛隊がロッキードP-3Cオライオンの後継機として、
新型対潜哨戒機P-1を厚木航空基地に配備したことに対し、
反基地市民団体の「厚木基地爆音防止期成同盟(厚木爆同)」など4団体が
厚木基地司令官及び、防衛省南関東防衛局宛てに配備撤回を求める抗議文を
提出したという。
その厚木爆同の藤田栄治委員長の「性能を向上させた機種導入は周辺国を
いたずらに刺激し、緊張を高めるだけだ」との錯誤した論理には全く呆れ果てた。

神奈川県全域・東京都町田市の地域情報紙「タウンニュース」大和版
2007年6月22日号 に藤田栄治氏の紹介記事が掲載されているが、
「横浜市水道局に40年勤め、30年間労働組合に携わった。
安保闘争の動員で各地に足を運んでは、『平和の為に活動して来た』。
そんなバリバリの労組OBは、『昔の組合は生活と平和がセットだった。
最近はよくわからないけどね』と、ぼやく」とある。
案の定、左翼の活動家ということで、然も有りなんと合点が入った次第である。


P1 500


P-1は、防衛省技術研究本部と川崎重工業が2001年度から開発を進め、
川崎重工業が製造する純国産機であるという。
対潜哨戒機ロッキードP-3Cオライオンは、アメリカ合衆国からの政治圧力に
屈した田中内閣の政治判断で、既に複数の試作機まで生産されていたにも
拘わらず、対潜哨戒機の国内開発を断念し、昭和52年(1977年)、ライセンス
生産を余儀なくされたという屈辱的な経緯を持つ。
若き日の私は、軍事的に米軍に従属することを選択した自民党政府に義憤を
覚えたものである。


P-1 500


それにしても、「性能を向上させた機種導入は周辺国をいたずらに刺激し、
緊張を高めるだけだ」という言い草は、完全に「周辺国」の立場に立った上
での科白ではないか。
日本が軍事的優位を保っては困る立場の、ならず者国家群の代弁者である。

一度は政権の座に就いた政党の議員連中やら、中国共産党との盟友関係を
誇らしげにアピールし捲くる、政権政党をも保持する巨大なカルト系教団、
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の土地建物の強制競売で、
北朝鮮の意向に沿って、45億円で取得したという密教教団、NHK、朝日新聞社、
「日本は支那の属国として、生きて行けば良い」と公言している前駐中国大使、
先祖が支那人であることを自慢している沖縄県知事等々、利敵行為に奔走する
反日勢力の活躍が頓に目覚しい昨今である。

彼らの先祖のルーツを辿れば、支那系日本人、朝鮮系日本人ということに
なるのであろうが、しかし、第二次世界大戦に於ける米軍の日系二世部隊、
第100歩兵大隊、第442連隊戦闘団がアメリカ合衆国への忠誠の証として、
ヨーロッパ戦線で死闘を繰り広げたように、他国では帰化した先の国家に
忠誠を尽くすものである。
大和魂を持たぬ日本人には、ご先祖様の眠る支那大陸やら、朝鮮半島に
お引き取り願いたいものであるが、それは見果てぬ夢というものである。
大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)は、幕末の開国を契機に
滅亡してしまったに違いない。


日の丸反対


反日


日の丸 特攻隊500



テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

2013/03/31 05:18 | 支那関連COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

 | BLOG TOP |  NEXT»»