信仰者の視野狭窄に就いて…「世界最高唯一絶対無二の正しい宗教」とやら

信仰者の視野狭窄に就いて

     …「世界最高唯一絶対無二の正しい宗教」とやら



私の所感を記述する、このブログ「華やぐ日々よ」では、「仏教批判」
「日本仏教批判」のカテゴリーを設け、時折、思うところを認めている。
その為、外来の創唱宗教である仏教の徒、就中、日蓮系カルト教団信者から
無礼千万で、幼稚極まりない誹謗中傷コメントが書き込まれる。

彼らは、日蓮本仏論を振り翳す日興門流(富士門流)系の在家教団信者で、
インターネット上でも、行き成り喧嘩腰で突っ掛かって来ては罵詈雑言を吐くのを
常としているが、その理論展開から言葉遣いに至るまでが、恰も示し合わせたかのように、
皆一様に同じなのである。
礼儀も弁えず、ただ只管、非論理的な悪態を吐き続ける、その言葉までが
同様であるという金太郎飴化の現象は、彼らが如何にその思想を咀嚼し、
己の血肉と化していないかということの証である。
人格を崩すという悪現象は、悪信仰の証以外の何物でもない。
私は彼らを「宗教ヤクザ」、「クッキーカッターズ」と呼ぶ。
如何にも日蓮の末流らしく、四箇格言(しかかくげん)風の脅し文句の
積もりらしいが、「地獄に堕ちる」「一闡提(いっせんだい)」等という言葉を
投げ掛けて来る。


神宮12

神宮1


原始仏教経典を紐解けば、容易に解るが、「地獄」という概念は、仏教の開祖、
ゴータマ・ブッダの思想ではない。
広義の「地獄」という概念は、何れの宗教に於いても共通して、見受けられ、
人が死後、その罪業に依って行かされると信じられている地下の冥界を指す。
仏教の「地獄」の概念は、ゾロアスター教の善悪二元論に由来するものである。

「地獄」とは、サンスクリット語(梵語)で「naraku」、漢語の「奈落」は、
その音写である。
仏教徒の抱く「地獄」の概念とは、仏教徒に限らず、古代インド人が輪廻の思想と
関連付け、一般的に共有された観念である。
仏教では、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の序列で、「地獄」は
「六道」の最下位に設定されている。
罪業の程度に応じ、その責苦にも軽重があり、古代インドの代表的法典である
マヌ法典では21種の地獄、仏教では8種の地獄が設定されている。
一般にも語られる「阿鼻叫喚」の「阿鼻地獄」「無間地獄」は、八地獄の最下位に在る。
「阿鼻」とは、サンスクリット語(梵語)「Avīci」の音写である「阿鼻旨」の略、
「間断無く、責苦を受ける地獄」という意味で、「無間(むげん)」と訳す。
日蓮が「諌暁八幡抄」等で述べた「四箇格言(しかかくげん)」の内、浄土教を
批判した「念仏無間」の「無間」とは、この「阿鼻地獄」「無間地獄」を指す。

「一闡提(いっせんだい)」とは、サンスクリット語(梵語)でIcchantika
(イッチャンティカ)の音写である。
大乗仏教徒がその教義の批判者に対して、名付けた言葉で「断善根」、「信不具足」、
「極欲」等とも訳し、要するに「成仏」とやらの可能性を持たない者を指す。
行も言葉も、何事も省略して、お茶を濁す発想が定着している仏教界では、
「一闡提」を略して、「闡提」ともいう。


禅1


私は仏教徒ではない。
仏教思想を縁(よすが)に生活している訳ではない私が、仏教徒から
「日蓮を信奉しないお前は、地獄に堕ちる」だの、「お前は、成仏の可能性を
もたない一闡提」だのと罵られても、何ら痛痒を感じない。

当然ではないか。
「イエスをキリストと信じる者は、罪の赦しを得て永遠の生命に入る」という
信仰を根幹に抱いているキリスト教徒が、仏教でいうところの「成仏」を願うか?

マホメットの教説と行為を規範とし、至上神アラーを信奉するイスラム教徒が、
仏教でいうところの「仏」の救済を望むか?

己の御霊(ミタマ)は、カミ様から戴いた「分け御霊」であると、その霊性を自覚し、
「一霊四魂」の霊魂観を胸に抱く日本神道の神徒が、仏教でいうところの
「仏性」の存在の有無に悩むか?

仏教界に於いても、浄土宗や浄土真宗の信者からすれば、日蓮信者は
阿弥陀如来の西方浄土に極楽往生することは出来ないことになるが、
そのことに日蓮信者は恐れを感じるか?

仏教徒ではない私が、仏教徒から「地獄に堕ちる」、「仏性を持たない一闡提」
と中傷されても、屁とも思わないのは、要するに、そういうことである。
省察不足、咀嚼力不足で「井の中の蛙」と成り果て、幾ら視野狭窄に陥っている
妄信の徒であっても、この程度の論理は分かるのではないのか?


バチカン1


信仰というものは、「特定の宗教的概念」に「信」を置いて、その教えを縁(よすが)に
生活する精神活動である。
信仰者は誰しも、己の信仰が間違っているとは考えないものである。
邪教であると認識すれば、棄教する。

「我が教団の宗教は、世界で一番正しい訳ではないが、五番目に正しい」等と
考えている素っ呆けた信者が居る訳もない。
勿論、嘘八百で塗り固めたインチキ宗教でビジネス展開していると重々、
承知している、詐欺師紛いの教団経営者共は論外である。

仏教やキリスト教、イスラム教などの創唱宗教は各々、それなりに教義体系を形成し、
それが「体系」を為している以上、そのお伽噺を展開する同一のグラウンドに立って、
論理展開すれば、一応は辻褄の合う理論のように錯覚を起こすように成っているものである。


メッカ1


このブログに、高慢ちきなコメントを書き込む日蓮系カルト教団信者共は、
私に悪態を吐く前に一度、己の信仰を省察してみると良い。
己の信仰する宗教が、仏教&バラモン教&ヒンドゥー教&ゾロアスター教&
マニ教&ミトラ教,etc.の混淆宗教であることが解るであろうよ。


仏教はそもそも、古代インドで、釈迦族の尊者、ゴータマ・シッダッタ
(Gautama Siddhārtha)に倣い、悟りの境地を得て、ブッダ(buddha)、
「悟った人」になりましょうという形態で始まっている。
しかし、「とてもではないが、ブッダの境地には至れない」。
そこで、「自分がブッダに成れないならば、せめて、悟りを開いたゴータマ・
ブッダを拝みましょう」という「釈迦信仰」の形態に変化した。
ブッダを火葬した後の遺骨、遺灰を神聖なものとして、仏身に擬え、礼拝する
「仏舎利信仰」が生じ、更にブッダの説法の足跡を礼拝する「仏足跡信仰」、
ブッダの遺骨、遺灰(仏舎利)を保存する塔、ストゥーパ(stūpa)を信仰する
「仏塔信仰」等が生じた。
「卒塔婆」は、このストゥーパ(stūpa)の音写である。


インド仏教はバラモン教やヒンドゥー教の神々や天の観念等を取り入れ、
仏教はヒンドゥー化した。
仏教の二大「護法善神」ということになっている帝釈天(たいしゃくてん)と
梵天(ぼんてん)は、バラモン教、ヒンドゥー教の神である。
帝釈天はインド最古の聖典「リグ・ヴェーダ」に於ける最高位の武神で、
バラモン教、ヒンドゥー教の神、天帝「インドラ」であり、ゾロアスター教では
悪神の魔王である。
梵天は、古代インドのバラモン教、ヒンドゥー教では世界創造神「ブラフマー」で、
神々の頂上に立つ最高神である。
ウパニシャッド哲学に説かれる宇宙の根本原理であるブラフマンは抽象概念で、
一般の民衆には理解し難いことから、紀元前15世紀頃から紀元前10世紀頃
の時代、そのブラフマンを人格神として、神格化したのがブラフマーである。


仏教経典に依れば、ブッダは菩提樹の下で覚りを開いたものの、己の覚った
理法は意味が深く、理解し難く、人々に説いても、その覚りの境地は到底、
理解されないだろうと考え、説法を躊躇ったという。
其処に最高神であるブラフマー神が現われ、ブッダに合掌、礼拝すると、
「あなたが覚った真実の教えを、この世の人々に伝えて下さい」と請願したが、
ブッダは断わり、再三の請願の末に、やっとブッダは「耳有る者たちに甘露の
門は開かれた」と言って、伝道を決意したという。

これは梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される伝説であるが、
要するに、インド人が一般に拝んでいた最高神でさえもがブッダを崇拝し、
仏法に帰依し、その他のインド諸神も挙って、それに倣い、その守護神に
なったほど、それ程にブッダは偉大であると仏教指導者は説いたのだ。
仏教指導者が、一介の人間に過ぎないブッダを、最高神までが崇拝する
超人的存在であると宣揚する為に、アーリア人系やドラヴィダ人系の
古代インド人の間で大法螺を吹いた訳であるが、この法螺話が爆発的に
自己肥大を起こし、二千年以上を経ても尚、現代に於ける日本仏教徒の幼稚、
且つ不遜極まりない神祇観、日本神界観にそのまま受け継がれることになる。


隠れ念仏1


このブログに、低俗極まりないコメントを書き込む日蓮系カルト教団信者共は、
己が仏教の開祖釈尊の教説とは何の関わりの無い、 ヒンドゥー教徒や
ゾロアスター教徒もどきの密教の信仰形態を取っていることさえ認識しては
いないのであろう。

密教では曼荼羅に向かい、手に印を結び、口に真言を唱え、
心に「大日如来」を描いて、「入我我入」の境地を目指す。
密教の本尊である「大日如来」を「大宇宙の生命そのもの」と捉え、
その「大日如来という大宇宙の生命」が、「自分の生命」でもあると
するのは、古代インドの宗教体系(古代ヒンドゥ教=バラモン教)の
「梵我一如」、「梵=ブラフマン」と「我=アートマン」との関係性
そのものである。

「大日如来」という仏教の表現を取りながら、「梵我一如」という
古代インドの伝統的な宗教観を内実としているというのが密教である。
密教の行者が手に印を結び、口に真言を唱え、心に「大日如来」を
描くという、身口意(しんくい)による三密を実践し、大宇宙と
一体化して、逆に宇宙の本体を動かして行くことが出来るという
理屈である。

翻って、日蓮の信者は、文字曼荼羅に向かって、合掌し、法華経の
タイトル(題目)と唱え、虚空会の儀式(あるいは久遠の本仏)を
心に描いて、「境智冥合」するという事相に於いて、密教と全く同様 である。

そもそも、「法華経=妙法蓮華経」に帰依する、帰命する(南無する)
という意味の「南無妙法蓮華経」と呪文を唱えること自体が
密教の真言(マントラ)そのものではないか。
そして、その密教であるが、ヒンドゥー教やら、ゾロアスター教と
仏教から影響を受けて融合したような「マニ教」、「ミトラ教」などの
経典と仏教経典との区別が付けられずに、そのまま仏教の一派として
受け入れられ、成立したというのが歴史的事実ではないか。
密教は本来、仏教ではないのである。

法華経の表題を口唱することで神秘的な力が働き、現実の事象に影響を与える
と認識されているということは、その思想の根底に「言霊信仰」があるという
ことになる。
「Open Sesame!」「開け胡麻」と言ったら、扉が開く、「ちちんぷいぷい♪
痛いの痛いの飛んでけぇー!」と怪我をして、痛がっている幼児の患部を
撫でながら、宥め賺す呪いを唱えると痛みが和らぐのと大差は無い。
「専唱題目」とは所詮、その様な信仰形態に過ぎぬものである。
これが「世界最高唯一絶対無二の正しい宗教」とやらなのか?
 ┐('~`;)┌ やれやれ

何れにせよ、人格を崩すという悪現象は、悪信仰の証である。










スポンサーサイト

巫(かんなぎ)の解字……ご神霊を畏敬する心の形

巫(かんなぎ)の解字

               ……ご神霊を畏敬する心の形



法務省は本年1月7日付で、戸籍法施行規則を改正し、
漢字「巫」を人名用漢字に追加した。
その経緯に就いては稿を改めて、詳述したいと考えている。





「巫」は「ふ」、「きね」、「かんなぎ」と読む。
「巫」を「かんなぎ」と読む場合は、日本の巫を指す。
巫(かんなぎ)の音は、神を祀り、神に仕え、神降ろしをして、ご神意を伺い、
世俗の人々ご神託を告げることから、「神招ぎ(かむまねぎ)」に由来すると
考えられる一方、神楽を奏し、舞を舞い、ご神意を慰め、神降ろしをして、
ご神意を伺ったことから、「神和ぎ(かむなぎ)」に由来するとも考えられる。


巫女さん1


「巫」は、「巫女(みこ、ふじょ)」を指す場合が多いが、神が懸かり、
ご神託を取り次ぎ出来る能力者の霊威への畏敬の念を表わす「御子(みこ)」や、
「神子(みこ)」に由来するとも考えられる。

男性の場合は、「覡」(みこ)と称される。
ご神意を伺い見ることから、「巫」+「見」で「覡」と考えられる。
「覡」は、漢音では「けき」、呉音では「ぎゃく」で、慣用的には「げき」と読む。


漢字 巫


「巫」の字源の解釈としては、甲骨文字の形象から、神を祭る帳の中で、
人が両手で祭具を捧げる形を象っていると捉える見解や、篆(てん)文字の
形象から、巫女が舞う両袖の形を象っていると捉える見解等がある。
但し、時代の先後の関係からして、篆(てん)文字の形象は、甲骨文字の字形が
変化した可能性の有ることも念頭に置いておく必要があると思われる。


浦安ノ舞(鈴)
                          浦安ノ舞(鈴)


「巫」の形象を、「人」+「T」+「人」と捉える場合には、
二人の人が、「T」の字をした棒状の神具を用いて、フーチー(扶箕)占いを
行なっている情景も想像出来る。
フーチーは、原理的には「コックリさん」や「振り子占い」と似ている。


フーチー1

フーチー2


「巫」の形象を、「手」+「工」+「手」と捉える場合には、
人が両手で祭具(工)を捧げる形を象っていると解釈出来る。
両手が使えれば、大切な物は両手で持つ。


両手で持つ2

両手で持つ3


「右」と「左」の甲骨文字の形象から、「右」は、右手で神器「口」を持つ形を
象っていて、「左」は、左手で神具「工」を持つ形を象っているとも推察出来る。


左右1


視覚的形象からして、「巫」二つの「人」は、「人」ではなく、
左右の「手」の形を象っていると、私は捉えている。




GO TOP