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信仰者の視野狭窄に就いて…「世界最高唯一絶対無二の正しい宗教」とやら

 2018-04-21

信仰者の視野狭窄に就いて

…「世界最高唯一絶対無二の正しい宗教」とやら



私の所感を記述する、このブログ「華やぐ日々よ」では、「宗教関連」のカテゴリーを
設け、時折、思うところを認めている。
その為、外来の創唱宗教である仏教の徒、就中、日蓮系カルト教団信者から
無礼千万で、幼稚極まりない誹謗中傷コメントが書き込まれることがある。

彼らは、日蓮本仏論を振り翳す日興門流(富士門流)系の在家教団信者で、
インターネット上でも、行き成り喧嘩腰で突っ掛かって来ては罵詈雑言を吐くのを
常としているが、その理論展開から言葉遣いに至るまでが、恰も示し合わせたかのように、
皆一様に同じなのである。
礼儀も弁えず、ただ只管、非論理的な悪態を吐き続ける、その言葉までが
同様であるという金太郎飴化の現象は、彼らが如何にその思想を咀嚼し、
己の血肉と化していないかということの証である。
人格を崩すという悪現象は、悪信仰の証以外の何物でもない。

私は彼らを「宗教ヤクザ」、「クッキーカッターズ」と呼ぶ。
如何にも日蓮の末流らしく、四箇格言(しかかくげん)風の脅し文句の積もり
らしいが、「地獄に堕ちる」「一闡提(いっせんだい)」等という言葉を投げ掛けて来る。


神宮12

神宮1


原始仏教経典を紐解けば、容易に解るが、「地獄」という概念は、仏教の開祖、
ゴータマ・ブッダの思想ではない。
広義の「地獄」という概念は、何れの宗教に於いても共通して、見受けられ、
人が死後、その罪業に依って行かされると信じられている地下の冥界を指す。
仏教の「地獄」の概念は、ゾロアスター教の善悪二元論に由来するものである。

「地獄」とは、サンスクリット語(梵語)で「naraku」、漢語の「奈落」は、
その音写である。
仏教徒の抱く「地獄」の概念とは、仏教徒に限らず、古代インド人が輪廻の思想と
関連付け、一般的に共有された観念である。
仏教では、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の序列で、「地獄」は
「六道」の最下位に設定されている。
罪業の程度に応じ、その責苦にも軽重があり、古代インドの代表的法典である
マヌ法典では21種の地獄、仏教では8種の地獄が設定されている。
一般にも語られる「阿鼻叫喚」の「阿鼻地獄」「無間地獄」は、八地獄の最下位に在る。
「阿鼻」とは、サンスクリット語(梵語)「Avīci」の音写である「阿鼻旨」の略、
「間断無く、責苦を受ける地獄」という意味で、「無間(むげん)」と訳す。
日蓮が「諌暁八幡抄」等で述べた「四箇格言(しかかくげん)」の内、浄土教を
批判した「念仏無間」の「無間」とは、この「阿鼻地獄」「無間地獄」を指す。

「一闡提(いっせんだい)」とは、サンスクリット語(梵語)でIcchantika
(イッチャンティカ)の音写である。
大乗仏教徒がその教義の批判者に対して、名付けた言葉で「断善根」、「信不具足」、
「極欲」等とも訳し、要するに「成仏」とやらの可能性を持たない者を指す。
行も言葉も、何事も省略して、お茶を濁す発想が定着している仏教界では、
「一闡提」を略して、「闡提」ともいう。


禅1


私は仏教徒ではない。
仏教思想を縁(よすが)に生活している訳ではない私が、仏教徒から
「日蓮を信奉しないお前は、地獄に堕ちる」だの、「お前は、成仏の可能性を
もたない一闡提」だのと罵られても、何ら痛痒を感じない。

当然ではないか。
「イエスをキリストと信じる者は、罪の赦しを得て永遠の生命に入る」という
信仰を根幹に抱いているキリスト教徒が、仏教でいうところの「成仏」を願うか?

マホメットの教説と行為を規範とし、至上神アラーを信奉するイスラム教徒が、
仏教でいうところの「仏」の救済を望むか?

己の御霊(ミタマ)は、カミ様から戴いた「分け御霊」であると、その霊性を自覚し、
「一霊四魂」の霊魂観を胸に抱く日本神道の神徒が、仏教でいうところの
「仏性」の存在の有無に悩むか?

仏教界に於いても、浄土宗や浄土真宗の信者からすれば、日蓮信者は
阿弥陀如来の西方浄土に極楽往生することは出来ないことになるが、
そのことに日蓮信者は恐れを感じるか?

仏教徒ではない私が、仏教徒から「地獄に堕ちる」、「仏性を持たない一闡提」
と中傷されても、屁とも思わないのは、要するに、そういうことである。
省察不足、咀嚼力不足で「井の中の蛙」と成り果て、幾ら視野狭窄に陥っている
妄信の徒であっても、この程度の論理は分かるのではないのか?


バチカン1


信仰というものは、「特定の宗教的概念」に「信」を置いて、その教えを縁(よすが)に
生活する精神活動である。
信仰者は誰しも、己の信仰が間違っているとは考えないものである。
邪教であると認識すれば、棄教する。

「我が教団の宗教は、世界で一番正しい訳ではないが、五番目に正しい」等と
考えている素っ呆けた信者が居る訳もない。
勿論、嘘八百で塗り固めたインチキ宗教でビジネス展開していると重々、
承知している、詐欺師紛いの教団経営者共は論外である。

仏教やキリスト教、イスラム教などの創唱宗教は各々、それなりに教義体系を形成し、
それが「体系」を為している以上、そのお伽噺を展開する同一のグラウンドに立って、
論理展開すれば、一応は辻褄の合う理論のように錯覚を起こすように成っているものである。


メッカ1


このブログに、高慢ちきなコメントを書き込む日蓮系カルト教団信者共は、
私に悪態を吐く前に一度、己の信仰を省察してみると良い。
己の信仰する宗教が、仏教&バラモン教&ヒンドゥー教&ゾロアスター教&
マニ教&ミトラ教,etc.の混淆宗教であることが解るであろうよ。


仏教はそもそも、古代インドで、釈迦族の尊者、ゴータマ・シッダッタ
(Gautama Siddhārtha)に倣い、悟りの境地を得て、ブッダ(buddha)、
「悟った人」になりましょうという形態で始まっている。
しかし、「とてもではないが、ブッダの境地には至れない」。
そこで、「自分がブッダに成れないならば、せめて、悟りを開いたゴータマ・
ブッダを拝みましょう」という「釈迦信仰」の形態に変化した。
ブッダを火葬した後の遺骨、遺灰を神聖なものとして、仏身に擬え、礼拝する
「仏舎利信仰」が生じ、更にブッダの説法の足跡を礼拝する「仏足跡信仰」、
ブッダの遺骨、遺灰(仏舎利)を保存する塔、ストゥーパ(stūpa)を信仰する
「仏塔信仰」等が生じた。
「卒塔婆」は、このストゥーパ(stūpa)の音写である。


インド仏教はバラモン教やヒンドゥー教の神々や天の観念等を取り入れ、
仏教はヒンドゥー化した。
仏教の二大「護法善神」ということになっている帝釈天(たいしゃくてん)と
梵天(ぼんてん)は、バラモン教、ヒンドゥー教の神である。
帝釈天はインド最古の聖典「リグ・ヴェーダ」に於ける最高位の武神で、
バラモン教、ヒンドゥー教の神、天帝「インドラ」であり、ゾロアスター教では
悪神の魔王である。
梵天は、古代インドのバラモン教、ヒンドゥー教では世界創造神「ブラフマー」で、
神々の頂上に立つ最高神である。
ウパニシャッド哲学に説かれる宇宙の根本原理であるブラフマンは抽象概念で、
一般の民衆には理解し難いことから、紀元前15世紀頃から紀元前10世紀頃
の時代、そのブラフマンを人格神として、神格化したのがブラフマーである。


仏教経典に依れば、ブッダは菩提樹の下で覚りを開いたものの、己の覚った
理法は意味が深く、理解し難く、人々に説いても、その覚りの境地は到底、
理解されないだろうと考え、説法を躊躇ったという。
其処に最高神であるブラフマー神が現われ、ブッダに合掌、礼拝すると、
「あなたが覚った真実の教えを、この世の人々に伝えて下さい」と請願したが、
ブッダは断わり、再三の請願の末に、やっとブッダは「耳有る者たちに甘露の
門は開かれた」と言って、伝道を決意したという。

これは梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される伝説であるが、
要するに、インド人が一般に拝んでいた最高神でさえもがブッダを崇拝し、
仏法に帰依し、その他のインド諸神も挙って、それに倣い、その守護神に
なったほど、それ程にブッダは偉大であると仏教指導者は説いたのだ。
仏教指導者が、一介の人間に過ぎないブッダを、最高神までが崇拝する
超人的存在であると宣揚する為に、アーリア人系やドラヴィダ人系の
古代インド人の間で大法螺を吹いた訳であるが、この法螺話が爆発的に
自己肥大を起こし、二千年以上を経ても尚、現代に於ける日本仏教徒の幼稚、
且つ不遜極まりない神祇観、日本神界観にそのまま受け継がれることになる。


隠れ念仏1


このブログに、低俗極まりないコメントを書き込む日蓮系カルト教団信者共は、
己が仏教の開祖釈尊の教説とは何の関わりの無い、 ヒンドゥー教徒や
ゾロアスター教徒もどきの密教の信仰形態を取っていることさえ認識しては
いないのであろう。

密教では曼荼羅に向かい、手に印を結び、口に真言を唱え、
心に「大日如来」を描いて、「入我我入」の境地を目指す。
密教の本尊である「大日如来」を「大宇宙の生命そのもの」と捉え、
その「大日如来という大宇宙の生命」が、「自分の生命」でもあると
するのは、古代インドの宗教体系(古代ヒンドゥ教=バラモン教)の
「梵我一如」、「梵=ブラフマン」と「我=アートマン」との関係性
そのものである。

「大日如来」という仏教の表現を取りながら、「梵我一如」という
古代インドの伝統的な宗教観を内実としているというのが密教である。
密教の行者が手に印を結び、口に真言を唱え、心に「大日如来」を
描くという、身口意(しんくい)による三密を実践し、大宇宙と
一体化して、逆に宇宙の本体を動かして行くことが出来るという
理屈である。

翻って、日蓮の信者は、文字曼荼羅に向かって、合掌し、法華経の
タイトル(題目)と唱え、虚空会の儀式(あるいは久遠の本仏)を
心に描いて、「境智冥合」するという事相に於いて、密教と全く同様 である。

そもそも、「法華経=妙法蓮華経」に帰依する、帰命する(南無する)
という意味の「南無妙法蓮華経」と呪文を唱えること自体が
密教の真言(マントラ)そのものではないか。
そして、その密教であるが、ヒンドゥー教やら、ゾロアスター教と
仏教から影響を受けて融合したような「マニ教」、「ミトラ教」などの
経典と仏教経典との区別が付けられずに、そのまま仏教の一派として
受け入れられ、成立したというのが歴史的事実ではないか。
密教は本来、仏教ではないのである。

法華経の表題を口唱することで神秘的な力が働き、現実の事象に影響を与える
と認識されているということは、その思想の根底に「言霊信仰」があるという
ことになる。
「Open Sesame!」「開け胡麻」と言ったら、扉が開く、「ちちんぷいぷい♪
痛いの痛いの飛んでけぇー!」と怪我をして、痛がっている幼児の患部を
撫でながら、宥め賺す呪いを唱えると痛みが和らぐのと大差は無い。
「専唱題目」とは所詮、その様な信仰形態に過ぎぬものである。
これが「世界最高唯一絶対無二の正しい宗教」とやらなのか?
0050 (2)

何れにせよ、人格を崩すという悪現象は、悪信仰の証である。



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創価学会の史実に反する朝鮮礼讃…政権に巣食う反日教団の偏頗な朝鮮観

 2018-04-21
創価学会の史実に反する朝鮮礼讃 

…政権に巣食う反日教団の偏頗な朝鮮観



平成11年(1999年)、創価学会は「韓日友好の碑」なるものを池田大作氏の
提案で、福岡県糸島市に在る教団施設「福岡研修道場」に建立したという。
「日韓」ではなく、「韓日」表記であることが先ず、大和系日本人の目を引く。
誰に書かせたものやら定かでないが、その碑文たるや、史実に反する朝鮮礼讃の
空虚な美辞麗句の羅列である。


500 韓日の碑


「碑文
安らけき朝の光に 貴国を想う
古の書に「東表日出之国」と謳われ
山高く 水麗しき 風雅の国
東海の小島へ 重畳の波浪超え
あまたの文化 文物をもたらし
尊き仏法を伝え来りし 師恩の国
隣邦を掠略せず 故郷の天地 守り抜く
誉の獅子の勇たぎる 不撓の国

然れども 世紀の災禍いくたびか
小国の倨傲 大恩人の貴国を荒らし
大国の横暴 平和の山河 蹂躙す
アボジ(父)、オモニ(母)の叫喚は
我が魂に響き その傷み須臾も消えず
不思議なるかな今 悲劇の祖国に
巍巍堂堂たる地湧の同胞 湧き出で
韓日新時代へ 敢闘の前進を開始せり

敬愛せる貴国の友人いわく
「心をとざして相対すれば戦いとなり
胸襟を開き相語れば平和となる」と
過去を忘却せず 現当へ誠信尽くし
人道と正義の 大いなる旭日昇る
韓日友好の「新しき千年」築かん
無窮花の如き 馥郁たる幸と平和の楽園

アジアと世界へ永遠に拓かん と誓いつつ

一九九九年五月三日 池田大作」


富士 桜


朝鮮を「『東表日出之国』と謳われ 山高く 水麗しき 風雅の国」
「あまたの文化 文物をもたらし 尊き仏法を伝え来りし 師恩の国 」
「誉の獅子の勇たぎる 不撓の国」「大恩人の貴国」と、読み手の首筋が
こそばゆくなるほど、煽てに煽て上げ、返す刀で我が国日本を誹謗し捲くり、
「東海の小島」「小国の倨傲」「大国の横暴」と腐しに腐している。

朝鮮が「隣邦を掠略せず 故郷の天地 守り抜く」とあるが、近い時代では、
明国の勃興期、清国の勃興期に朝鮮がどのような軍事行動を取ったかさえも、
ご存じないらしい。
そもそも、創価学会の飯の種である宗祖日蓮が生きた鎌倉時代の文永の役、
弘安の役をお忘れではないのか。

「東海の小島」とは、よく言ってくれたものである。
韓国では1992年以降、日本海の呼称を朝鮮から見れば、東の海域であること
から、「東海」の呼称に変更させたいと官民挙げて、国際社会に働き掛けている。
碑文の執筆者は、祖国の「ディスカウント・ジャパン運動」に歩調を合わせた
ということであろう。
「小島」と言えば、日蓮もまたその遺文「種々御振舞御書」で、支那、天竺を
如何なる大国と認識していたものやら、日本を「わづかの小島」と腐している。
日本列島が小さな島々で一体、何処が悪いというのか。 阿呆か。
朝鮮半島やら、支那大陸やらよりも遥かに、遥かに増しではないか。
それにしても、「悲劇の祖国」とは一体、誰の祖国ということなのか。


茶畑


実際の執筆者が誰であれ、池田大作氏名義で発表された朝鮮に関する記述には、
史実に反する大仰な朝鮮礼讃の美辞麗句が空しく踊っている。


「気品ある『青き瓦』に『白き棟』。なだらかな勾配を描く屋根。
私は、韓国の山河にまで染みとおっている、何とも言えぬ『優しさ』に
出あった気がした。
宿舎の窓から見えた伝統様式の建物の名は「迎賓館」。
その名の通り、かつて国家の賓客を迎えた。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文化の大恩の国への、ささやかな報恩として『西洋絵画名品展』を開催する
ためである。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
李朝500年の王京・ソウルに、会釈しただけで、帰国しなければならなかった。
私は再訪を誓った。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ソウルの街に、5月の風が香しかった。
韓国の心は美しい。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
建国の神話にも好戦的なものはない。
他国を侵略したこともなく、残虐な復讐の物語も、ほとんどない。
開国を求めて侵入してきた西洋列強の船にさえ、抗議しつつも、『万里の風波
に揉まれて、さぞかし、ひもじい思いをしているであろう』と、食糧を贈って
あげたお国柄である。
韓国の『情』は厚く、深い。5千年の間、苦難の歴史を耐えて乗りこえ、しかも
情け深さをなくさなかった人達である。
憎しみを人に向けるよりも、悲しみを雪のように胸の奥に積もらせながら、
明日を信じて微笑んできた人々である。
愛の国、美の国、文の国。
その平和の人々が、「何十世代の後までも忘れぬ」と、怒りを骨に刻んだ相手が、
日本の残虐な国家主義者であった。
行く先々での略奪。暴行。殺戮。
『禽獣にも劣る』、文化なき『悪鬼』と呼ばれた。
文化。それは『目に見えないもの』を見る力。
見えない『心』を感じとる心の力だ。
それが何と近代の日本に欠けていることか!
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その母(オモニ)の強さ、優しさ。
それこそ、この建物にも込められた『東方礼儀の国』の心ではないかと思った。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この美しき国を踏みにじった日本の傲慢への憤怒が、また、胸に突き上げてきた。

1998年 聖教新聞「池田名誉会長の写真紀行」
「地球は美しい 第13回ソウルの『迎賓館』」

春日大社


「韓国は日本にとって、『文化大恩』の『兄の国』である。
『師匠の国』なのである。
その大恩を踏みにじり、貴国を侵略したのが日本であった。
ゆえに、私は永遠に貴国に罪滅ぼしをしてゆく決心である」
2000年5月22日

朝鮮を「兄の国」とすると、支那は「父の国」ということにでもなるのか。
日本には「記紀」以前の時代にも、秘められた輝かしき独自の文明のあった
ことは更々ご存知ないようである。

これほどまでに歪曲された歴史観は一体、如何なる根拠に基づくものなのか。
日本が朝鮮から受けた「大恩」とは、「日本書紀」に在る飛鳥時代552年
(欽明天皇13年)、百済の聖明王から、仏像と経論類が献上されたことを
指すのか。
ブッダ・ゴータマ・シッダールタの死後、900年以上を経て、歴史上のゴータマ・
シッダールタが説いた教説とは似ても似つかぬ支那仏教が、仏像という神像を
伴って、日本に齎されたことがそれほどまでに有り難いことか。
日本の仏教は1400年もの長きに亘って、政治的には神道を下風に置き、日本の
宗教界を牛耳ったが、それは単に形式的な葬式宗教として生き長らえただけの
ことであって、日本人の魂に三宝印とやらを根付かせたことは無かった。
現に創価学会は、ゴータマ・シッダールタが捨てたもの、色欲、物欲、名誉欲、
権力欲、その他諸々の欲望剥き出しに、気でも狂れたかのように狂態を演じ
捲くり続けているではないか。
余程、朝鮮民族の精神構造と相性が良いのであろう。ヨイショ!ヨイショ!


富士 雪景色


池田名誉会長の写真紀行第20回 虹にかかる済州(チェジュ)島
仏教伝来の大恩・百済の故地 韓国全羅北道の教育庁がSGI(創価学会
インターナショナル)に感謝牌 図書贈呈 
1999.5.30


詩情の韓国・済州島 麗しき同志の前進に栄光燦たれ!
1999.5.24


韓国の名門・国立済州大学から池田SGI会長に名誉文学博士号 
外国人で初の栄誉『人類文化史に大きな足跡』『正義と勇気の桂冠詩人』
韓国の偉大な文化人が済州島に駆けつけて「祝辞」を
池田会長の謝辞『東洋の宝の島』を21世紀の楽園に 
韓国に学べば日本は正道に 傲慢・忘恩が衰退をもたらす 
江戸時代の「文治主義」にも韓国の影響
韓国・日本・中国北東アジアを結ぶ『平和の大拠点』
『民衆と民衆の結合の絵巻』を 人間教育で永遠に連帯 
日本との交流と戦争の傷跡 在日韓国人の2割が済州島の出身
1999.5.20


『文化大恩の国』と新しき『友情の千年』を『韓日友好の碑』を除幕
韓日往来の玄関・糸島の福岡研修道場に韓国の全同志の氏名九州の全地区の
署名を埋納 将来九州で「韓日友好展」を
1999.5.16


日本が「文化大恩の国」「師匠の国」であり、「兄の国」である朝鮮と「友情」を
結び、朝鮮に「学べば」、日本は「正道」に就けるそうな。
阿呆か! 日本男児も大和撫子も、そげな愚行は真っ平御免で御座候。


京都 秋景色


創価学会は身内に大勢の在日韓国人、在日朝鮮人、朝鮮系帰化人、朝鮮半島
には韓国創価学会を抱えているとは言え、歴史的事実は直視すべきであろう。

因みに、各政党の外国人地方参政権付与法案の国会提出回数であるが、
自民党0回、民主党15回、共産党11回に対し、公明党は実に29回の多きに上る。
創価学会・公明党の必死さ加減が伝わって来るかのような数字であるが、
私は外国人に参政権を付与することには断固、反対である。
外国人参政権付与を、憲法第三章15条を根拠として、憲法違反とする見解と、
第八章93条を根拠として、合憲とする見解とがあるが、平成7年(1995年)
最高裁第三小法廷判決の解釈では、「憲法の国民主権の原理における国民とは、
日本国民すなわちわが国の国籍を有するものを意味する事は明らかである。
そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法15条1項の規定は、
権利の性質上日本国民のみをその対象とし、権利の保障は、わが国に在留する
外国人には及ばないものと解するのが相当である。

憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する
日本国民を意味するものと解するのが相当であり、わが国に在留する外国人に
対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したもの
とはいうことはできない」とある。


第250記事1



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大法螺を吹く仏教徒たち…幾重にも嘘で塗り固めたダルマ・シャンカ

 2018-04-21
大法螺を吹く仏教徒たち 

…幾重にも嘘で塗り固めたダルマ・シャンカ




「嘘を吐く」「大言を吐く」「勝手なことを言い立てる」という意味の
「法螺を吹く」という表現があるが、これは仏教用語に起源を持つ。
「法螺」は「ほうら」と読み、サンスクリット語の「ダルマ・シャンカ」
の訳語である。
「ダルマ」はブッダの説法を、「シャンカ」は螺貝(つぶがい)を意味する。
螺貝で作った楽器の音色がよく響くことから、ブッダの説法を「法螺を吹く」
と譬えて、表現したという。
この「法螺を吹く」という表現は、古代から徹頭徹尾、虚言を吐き捲くっては、
営々と虚構の体系を拵えて来た仏教徒たち、インド・アーリア人のみならず、
シナ人、日本人仏教徒たちの実相を言い当てていて、真に妙である。


法螺貝500


「嘘吐きは泥棒の始まり」と言うが、「仏教徒は嘘吐きの始まり」と言える。

ゴータマ・ブッダが生まれながらにして、三十二相八十種好(しゅごう)の
超人間的な相貌を具えていたということも嘘。

ゴータマ・ブッダが生まれると直ぐに7歩歩き、右手を上げて、天を指し、
左手で地を指しながら、「天上天下唯我独尊」と、この世に於いて、自分が
唯一最も尊い存在であると宣言したというのも嘘。

覚りを開いたゴータマ・ブッダに、バラモン教の最高神ブラフマー神(梵天)
が「あなたの覚った真実の教えを、この世の人々に伝えて下さい」と三度に亘り、
懇願したというのも嘘。

バラモン教の神々、バラモン教と土俗信仰が混じり合ったヒンドゥー教の神々が、
仏教徒を守るという護法善神の思想も嘘。

上座部仏教に対抗し、自らの正当性を主張する為の必要性から、ゴータマ・ブッダ
が説いたと偽り、「如是我聞(わたしはこのように聞いた)」という定型フレーズで
書き出された「8万4千の法」と言われる大乗仏教経典は全部が全部、1400年間
に亘り、営々と創作された嘘八百の偽書、偽説。

「ゴータマ・ブッダは前世で計り知れない功徳を積んだので、現世で覚りを開く
ことが出来た」として、創作されたブッダの前世物語「ジャータカ(本生譚)」
(ほんじょうたん)も嘘。

過去七仏の説、未来仏の説も嘘。

三世十方諸仏の説も仏の三身説、法身仏(ほっしんぶつ)、報身仏(ほうじんぶつ)、
応身仏(おうじんぶつ)の思想も嘘。


嘘A


正法、像法、末法の三時は、「大方等大集経(だいほうどうだいじっきょう)」に
書かれた偽説であって、ゴータマ・ブッダの予言であるというのも嘘。

ブッダの50年間の説法を法華経を中心として、漢訳の仏典を分類した天台大師
智顗(ちぎ)の教相判釈である五時八教説も嘘。

ゴータマ・ブッダの出世の本懐が、法華経を説くことにあったというのも嘘。

日本神界の神々が、虚空会の儀式で法華経の信者を守護すると誓約したというのも嘘。

ゾロアスター教(拝火教)とヒンドゥー教、インド土着の民俗信仰を仏教に取り込み、
7世紀に成立した大日経を依経とする密教が仏教であるというのも嘘。

マンダラに向かって、マントラ(真言)を唱え、手で印契を結び、心に大日如来
を念ずることで即身成仏するというのも嘘。


阿弥陀仏に帰依しますと念仏を唱えれば、極楽浄土に往生するという浄土信仰も、
偽経である法華経に帰依しますと、経典のタイトルを唱えれば、即身成仏するという
日蓮の法華信仰も嘘。

500年プラス1222年は2000年未満で、日蓮が末法時代の生まれというのも嘘。


鷽500
可愛い鷽(うそ)


仏教は見事なまでに100%、嘘で塗り固めたインチキ宗教体系である。
神話と歴史、牽強附会した偽説と歴史的事実の特性の相違くらいは弁えた上で、
実相を語るが良い。
日本に於ける大乗仏教は、葬送儀礼に活路を見出し、命脈を長らえたに過ぎない、
有っても無くても、どうでも良いインチキ宗教である。
日本に伝来して1500年を経ても、日本人の精神に根付いていない阿呆陀羅教である。
但し、仏教は集金能力だけには異常なまでに長けている、見事に俗世間に適合した、
いわゆる坊主丸儲けのグッドビジネスではある。


札束500



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護法善神説という妄説…1400年間に亘る仏教勢力の日本神道侵食

 2018-04-21
護法善神説という妄説…仏教は大和民族の宗教ではない

…1400年間に亘る仏教勢力の日本神道侵食



我が国には太古の昔から、素朴な自然崇拝から始まったと考えられる固有の
民族宗教である神道(しんとう)がある。
「神道」という言葉は中国語で「易経」にあり、「霊妙不可思議な自然の法則」
という意味である。
「神道」という言葉は奈良時代、仏教に対抗し、「日本書紀」に初めて
用いられた用語であって、本来は「古道(こどう)」という。
外来宗教である仏教は、飛鳥時代の552年(538年説あり)に伝来したが、
日本人はその「仏」なるものを、日本の神々と同質の存在と認識し、
「蕃神(となりのくにのかみ)」として、受容した。

おそらくは、縄文人の「ミ(神・霊)や、チ(霊)、タマ(魂・魄・霊)、
モノ(物)、ケ(怪)、ヌシ(主)」などへの精霊崇拝、弥生人の「八百万
(やおよろず=数が極めて多いことを意味する)の神々」への崇拝を原初に
持ち、教祖や経典、教義を持たぬ神道は、仏教勢力拡大の格好の餌食として、
いとも容易く取り込まれたであろうことは想像に難くない。
うなずく

古代出雲大社500
古代出雲大社想像図


★神身離脱説 

仏教勢力の神道侵食は先ず、「神身離脱説」という大法螺から始まった。
「日本の神々も人間と同じように、輪廻の中で煩悩に苦しんでいる身であり、
仏法に依って救済される。
日本の神々は、神身を離れて、仏法に帰依し、その迷い、苦しみから逃れる
ことを願っている」というものである。
随分と居丈高な態度に出て来てくれたものだが、神をも救済して下さるという
「仏」の実体とは、一体全体、何者だというのだろうか。
実に馬鹿馬鹿しい妄説なのであるが、神宮寺、神護寺などと称する、
神社に附属した寺院は、このような名目の下に建立されたものであり、
日本の神々の神前で仏教経典の読誦が為されたというのである。


ブラフマー300
          ブラフマー(梵天)


★護法善神説 

次の段階では、日本の神々が仏法を守護するという「護法善神説」が説かれた。
この説の発端は、インドの仏教指導者が、一介の人間に過ぎなかったゴータマ・
ブッダを、超人的存在であると宣揚する為に、アーリア人系やドラヴィダ人系
のインド人が崇拝していた、インド最古の聖典「リグ・ヴェーダ」に於ける
最高位の武神で、バラモン教、ヒンドゥー教の神である帝釈天(インドラ)や、
バラモン教、ヒンドゥー教では世界創造神、神々の頂点に立つ最高神である
梵天(ブラフマー)までもがブッダを崇拝し、仏法に帰依し、その他のインド
諸神も挙って、それに倣い、仏法の守護神になったほど、それ程にまでブッダ
は偉大であると大法螺を吹いたことに起因する。

仏教で言うところの「天」とは、「神」を意味する。
バラモン教、ヒンドゥー教から取り入れた神々の殆どが天部(天界)に存在
するものとして、仏教世界の守護神とされた。
特に、阿修羅と戦う勧善懲悪の神とされる帝釈天は、仏教世界の中心にある
という須弥山(しゅみせん)の頂上に棲み、バラモン教の最高神、梵天は
有頂天に棲み、共に仏教を守るというのである。
しかし、そもそも、この妄説はバラモン教、ヒンドゥー教から取り込んだ神々
の仏教教義体系内部での位置付けの問題であって、本来は日本神界の神々には、
些かも関わり合いの無い大法螺話なのである。

日本の仏教徒が神々に守って欲しいと言うならば、どうぞご勝手にバラモン教や、
ヒンドゥー教の神々に守って貰えば良いではないかという話である。
清涼なる日本神界の神々を、穢れた仏教なんぞに巻き込むなという話である。


インドラ300
          インドラ(帝釈天)


★本地垂迹説 

平安時代に至り、仏教勢力の増長もピークを迎え、遂に「本地垂迹説」なる
戯言が登場した。
仏・菩薩は日本の神々の真の姿(本地《ほんち》)であり、八百万の神々は、
仏・菩薩が衆生を助ける為に仮の姿(垂迹《すいじゃく》)、つまり権現
(ごんげん)となって、日本の地に現われたものであるというのである。
この様に、日本の神々は、仏なるものを優位とした関係性で、仏教に取り
込まれ、「神仏習合」と呼ばれる特異な信仰体系が構築されたのだ。

この神仏習合時代は1868年(慶応4年=明治元年)、明治維新政府が神社神道
を国家の宗祀とする政策として、神仏判然令(神仏分離令)を布告したことに
依って、一応の終焉を迎え、全国規模で展開した廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
という仏教排斥運動を経ても尚、神仏習合の思想自体は、極端には衰えること
なく、現代の日本人の精神構造にも影響を及ぼし続けていると言える。


僧形八幡神像300
          僧形八幡神画像

(八幡大神の本地(真の姿)は阿弥陀如来で、その垂迹(仮の姿)したもの
 とする視座から、八幡大神が僧侶の姿に描かれたという戯けた話である)


★諸天善神説という妄説 

日本神界の神々は、虚空会の儀式なんぞとは100%無縁である!

日本の仏教界に於いては、特に日蓮系法華宗では護法善神を「諸天善神」と
呼ぶが、日蓮の文字曼荼羅に天照大御神と八幡大神のご神名が書かれている
(私は敢えて、「勧請」とは表現しない)ことから、日本神界の神々が法華経に
書かれている虚空会の儀式に参加し、法華経の信者を守るとブッダに誓約した
という真っ赤な大嘘を吐き続けなければ、教義の整合性が保てないという事情
を抱えているだけに、護法善神説という妄説を後生大事に維持しなければなら
ない仕儀と相成る。


日蓮一党は世界中に広まっているとのことであるが、日本人以外の日蓮信者が
礼拝の対象とする文字曼荼羅の座配はどうなっているのか?
まさか、天照大御神と八幡大神のご神名が書かれたままではあるまいな。
ユダヤ教圏、キリスト教圏、イスラム教圏に配布する文字曼荼羅には、
唯一神の「ヤハウェ」と書いてあらねば、理屈に合わないのである。
それとも、世界の果てまで、天照大御神と八幡大神のご足労願う気か?
いい加減、己らの教義体系の不整合に気が付いても良い頃ではないのか?

可愛い音頭取り





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仏(ホトケ)とは一体、何であるのか?…無神論の法(ダルマ)信仰に人格性を帯びた崇拝対象が必要か?

 2018-04-21
仏(ホトケ)とは一体、何であるのか? 

…無神論の法(ダルマ)信仰に人格性を帯びた崇拝対象が必要か?



日本の仏教徒が言うところの「ホトケ」という擬人化された概念とは一体、
如何なるものなのであろうか?
一般に「ホトケ」と聞けば、ビジュアル的に奈良東大寺の毘盧遮那仏(14.85m)
や鎌倉高徳院の阿弥陀如来坐像(11.5m)などの仏像を思い浮かべてしまう人が
多かろう。
「ホトケ」なるものを巡っては、21世紀の現代日本に至っても、釈迦如来は
本仏だ、迹仏だ、いやいや、阿弥陀如来だ、大日如来だ、挙句の果てには鎌倉
時代の日蓮が本仏だなどと、商業仏教徒連中は喧しい。


東大寺大仏


仏教とは本来、法(ダルマ)信仰であって、人格性を帯びた崇拝対象が信者を
救ってくれるの、くれないのというような、人間を超越した人格神の如き存在
が入り込む余地の無い無神論であるはずなのである。

「ブッダ」とは元来、「目覚めた人」という意味の「修行の完成者を指す呼び名」
であって、仏教に限らず、ジャイナ教でも「覚った人」と見做された修行者を
「ブッダ」と呼んでいたという。
その「ブッダ」がシナ人訳経僧に「仏陀」と音写され、日本では「仏」と呼ぶ
ようになったという経緯がある。


鎌倉大仏500


ゴータマ・ブッダの滅後、彼を慕う人々が、彼の説いた教法の記憶の中に
彼の優れた人格を追慕したであろうことは想像に難くない。
ゴータマ・ブッダの説いた教法を不滅の真理として、その永遠性を信仰する中で、
法(ダルマ)を体現化した人格として強調される余りに、教法の永遠性がやがて、
ゴータマ・ブッダの超人性や永遠性へと思想がエスカレート気味に変容し、
彼を人格神化した「法身(ほっしん)思想」が芽生えたということになる。

ゴータマ・ブッダの滅後、更に長い歳月を経る中で、仏教の指導者たちは彼を
礼賛する余りに、古代インドのバラモン教の神であり、ウパニシャッド哲学で
の宇宙の根本原理ブラフマンが人格化されたブラフマー(梵天)、ヒンドゥー教
に於ける世界創造神で、当時の最高神とされていたブラフマー(梵天)でさえ
もが「どうか、世の人々の為に教えを説いて下さい」(梵天の勧請)と崇拝した
ほどに、ゴータマ・ブッダは偉大な存在であったとバラモン教、ヒンドゥー教
の神々までをも節操無く取り込んで、仏教の権威付けを画策し、フィクション
にフィクションを重ね合わせては、大法螺を吹き捲くるようになったという
歴史的経緯がある。
最高神までが崇拝する存在となれば、ゴータマ・ブッダは人格神以外の何物
でもないではないか。


梵天勧請A
                梵天の勧請


「日本書紀」の記述に依れば、日本に仏教が公に伝来したのは飛鳥時代、
欽明天皇の552年(538年説の方が有力)で、ゴータマ・ブッダ滅後、
1000年を経ていたことになる。
(当時の仏教界の認識では、ゴータマ・ブッダ滅後1500年と考えられていた)

「日本書紀」の第19巻、天国排開広庭天皇(欽明天皇)には、欽明天皇13年
(552年)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を遣わし、「釈迦仏の金銅の像を
一体、幡(ばん)と蓋(がい)とを若干、経と論とを若干巻を献した」とある。
更に、「仏教を流布し、礼拝する功徳を讃えた」上表文も献上したとある。

その礼賛内容は、「この法は諸法の中で、最も優れている。理解するのが難しく、
教に入るのも難しい。この法はまことに無量、無辺で、福徳、果報を生じ、
無上の菩提(仏果を得ること)を弁え、成し遂げるに至る。譬えて言うと、
物事が思いのままになる宝を懐(ふところ)にして、用いるところで用いて、
すべて思いのままであるように、この妙法の宝もまたそのようなものです。
思いのままに祈願して、何一つ乏しいところはない。……」

この万能薬の効能書きのような、「祈願して、叶わないことは無い」という
仏教礼拝の功徳とやらは、1500年後の現代日本に於けるインチキ仏教団体でも
同様、全く同じ台詞を吐いて、信者を獲得している有り様である。
しかし、元来、ゴータマ・ブッダの説いたところ(原始仏典に依る)は、
「二度と生き物には生まれて来たくない」という思いを根底にした現実否定の
思想であって、願いを叶えて幸せになるなどという現世利益を宣伝文句にした
現実肯定の思想ではない。
あるがままの現実を肯定し、あるがままの人間を肯定し、欲望を満たして、
幸せを味わいたいならば、仏教など信奉しなければ良いのである。
それが出来ないから、本来の日本人の考え方にそぐわないからと言って、
仏教の根本理念自体を180°変容させてまで、仏教ブランドに拘り、自宗自派
こそが世界最高唯一絶対無二の正しい宗教とほざく連中が現に何百万人も存在
しているのであるから、莫迦莫迦しいにも程がある。


釈迦像500


欽明天皇は、聖明王の使者の口上を聞き終えて、躍り上がって、喜んだという。
「朕は、昔からずっと、このように微妙な法を聞いたことが無い。 
しかし、朕は自分で決めることはしない。
西蕃(百済)の献上した仏の顔は光り輝いている。
まったくこれまでに無かったものだ。礼拝すべきか、どうか?」と、
仏教の信奉の可否に付いて、有力氏族から意見を聴取した。

蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)は「西蕃の諸国は、等しく皆礼拝して
いる。日本だけがどうして従がわずにいられましょうか」として、崇仏派の
立場を取った。
物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)と中臣連鎌子(なかとみの
むらじかまこ、後の中臣鎌足、藤原鎌足)は、「我が国家の、天下に王として
あるのは、常に天地、社稷(しゃしょく)の神々を春夏秋冬、祭り拝するのを
大事にして来たからです。まさに今改めて、蕃神(となりぐにのかみ)を
拝したりするならば、おそらくは国神の怒りを招くでしょう」と仏教信奉に
反対の立場を取った。
仏教の「ホトケ」は「蕃神(となりぐにのかみ)」と表現されたように、
日本の神と同次元の異国の「カミ」と理解されたのである。
更に他の文献でも、隣国の「客神(まろうどがみ)」、「大唐神(だいとうのかみ)」
「仏神(ほとけがみ)」などと、仏教の仏は神と認識され、表現されたのである。


ラホール釈迦像500


「ホトケ」という和語の発音に付いては、ブッダ(Buddha)の漢訳語「浮屠or
浮図(フト)」の訛化(がか)した音であるという説がある。
(因みに、浮屠、浮図は仏陀のみならず、仏塔《ストゥーパ=釈迦の遺骨を
安置した塔。釈迦の墓所》をも指す言葉である)
また、煩悩を解き放たれた者という意味で「解け(ほとけ)」、仏教が伝来した
時期に熱病が流行したことから、「熱気(ほとほりけ)」、霊妙な力のある者と
いう意味で、仏の「ホト」に「怪(ケ)」或いは、「気(ケ)」を添えたなどと
いう
説もある。
古代の骨壷(小さな壷状の土器)を「ホトキ(缶)」と呼んだことから、死者の
霊魂を「ホトケ」と呼ぶようになったという民俗学者の柳田國男博士の説を
仏(ほとけ)の語源とする見解もある。

何れにせよ、仏教とは元来、法(ダルマ)信仰なのである。
人格性を帯びた超人的な「仏」という想像上の崇拝対象が無ければ、
信仰出来ないというならば、仏教を信奉しなければ良いのである。

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