華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 概念の映像…視覚的形象

「光」の解字 …「三光作戦」とやらのこと

「光」の解字 

     …いわゆる「三光作戦」とやらのこと



私はピンチに陥っても決して絶望することなく、たとえ微かであっても、
一条の希望の光だけは見失うまいと、いつも自分の心に言い聞かせながら、
日本の神々に祈りを捧げつつ、何とか生き抜いている。
天空から暗闇に差し込む希望の光。
「光」のイメージは、全てを明らめる輝かしき陽の光、闇夜を照らす穏やかな
月の光、生きとし生けるもの皆全てに、天の恵みを降り注ぐ神々しきものなど、
素晴らしき善きものであろう。
しかし、その「光」の字源、原初の文字の形象は極めておぞましいものである。


光 象形文字


「光」の本字は「灮」であり、「灮」は「火」+「儿=人(跪いた人の足)」で、
「人の頭上に光る火」の形象である。
「人が跪いて、火を掲げている」形象であるという説もあるが、そうではなくて、
「人が頭上に火の光を載せている」形象であろうと推察される。
何故ならば、古代に在っては、「火」は神々に捧げる生贄を焼き尽くす為のもの
であったからである。
「灮」「光」の象形文字で、燃えているのは「人の頭」であり、「人そのもの」
であろう。
古代支那で行なわれた生贄の儀式か、あるいは拷問で、人の頭上や背中で油が
燃え盛る様子を字源としているということになる。


頭が燃えているD


日本語では、「光」とは「光ること」「光るもの」の意味であるが、支那語では、
形容詞で、「少しも残っていない」「(表面に)何も付いていない」、補語に用いて、
「…してすっかり無くなる」「…し果たす」「…し尽くす」「すっかり…する」
という特有の意味がある。
つまり、「~光」で、「~し果たす」「~し尽くす」という意味になる。

昭和15年(1940年)、支那事変に於いて、日本陸軍北支那方面軍が支那華北で、
共産党の八路軍(パーロぐん)など、抗日ゲリラ掃討の為に作戦名「三光作戦」
という殲滅戦を実行したという、悪名高きブラックプロパガンダがある。

この「三光作戦」の「三光」とは、「殺光(さっこう)」「焼光(しょうこう)」
「搶光(そうこう)」or「略光」or「奪光」で、それぞれ、「殺し尽くす」
「焼き尽くす」「奪い尽くす」という意味であるが、これは明らかに支那語で
あって、日本語には無いものである。
日本語に無い発想で、日本人が作戦名を付けるはずも無い。
後述するが、そもそも古来、日本人には総べてを「殺し尽くし、焼き尽くし、
奪い尽くす」という焦土作戦という戦い方の発想も無いのである。
これは、逃げ回るという戦い方をする支那人特有の「退却戦の最後っ屁」
そのものなのである。


頭が燃えているC


私が初めて支那事変の戦記を読んだ小学生の時でさえ、この三光作戦の「殺光
(殺し尽くす)」「焼光(焼き尽くす)」「搶光(奪い尽くす)」を意味する、
日本人の発想には無い「光」の意味を用いた作戦名に違和感を覚えたものである。
この「三光」という支那語は、撫順戦犯管理所等に収容されていた旧日本兵で
組織した中国帰還者連絡会が昭和32年(1957年)に発行した機関紙『三光』
を切っ掛けに広まったとされている。
ソ連に依ってシベリアに抑留されていた日本軍将兵同様に、捕虜収容所時代に
支那共産党から思想教育を施され、洗脳された成果ということなのであろう。
最近では反日工作員にも、日本語の「光」には、「~し尽くす」という意味は
無いという知恵が付いて来たようで、「三光作戦」の解説にわざわざご丁寧にも
「中国側の呼称」と但し書きが付けられるようになっている。
『広辞苑』には、「日中戦争中、日本軍が行った苛烈で非人道的な掃討・粛正
作戦の中国側での呼称」
『大辞林』には、「日中戦争中、日本軍の残虐な戦術に対する中国側の呼称」
『大辞泉』には、「日中戦争下、日本軍が行った残虐で非道な戦術に対する
中国側の呼称」と修正してある。

「三光作戦」では都合が悪くなったことから、最近では日本名は「燼滅作戦
(じんめつさくせん)」、または「燼滅掃討作戦(じんめつそうとうさくせん)」、
支那語では「三光作戦」ということになっているが、そもそも日本軍の作戦名
を支那人が改名してくれなくても結構だという話である。

YAHOO知恵袋に於ける「旧日本軍は本当に中国で 三光作戦を実行したので
しょうか?」との問いに対して、「儘滅作戦と言う名称で実際に実行してます。
中国側はこれを「三光作戦」と呼びました。
なので『三光、というのは中国語だから、中国の捏造』と騒ぐバカがいますが、
『ピカドンは日本語だから、原爆投下は捏造」とアメリカ人が言うような
もんです』と、的を外した譬え話を用いて、回答している馬鹿がいる。


機関紙三光


平成7年(1995年)に発行された、日本社会党のパンフレット「国会決議実現
にむけて」には、「日本軍は中国全域で三光(奪い、殺し、焼きつくす)作戦を
展開し大きな被害を与えるとともに強制連行、強制労働などによっても膨大な
犠牲者を出しています」と、大嘘が書かれている。
何時の間にやら、三光作戦の対象地域が「中国全域」ということになっている。
さすがは、「南京大屠殺記念館」の建設を再三、執拗に中国共産党に持ち掛け、
総評に3000万円の資金提供をさせた上、ご丁寧にも建築設計までしてやった
という反日工作一直線の売国政党、栄えある日本社会党だけのことはある。
尤も、建設費用は870万円で事足りて、残りは中国共産党幹部連中で山分け
したという後日譚付きの豪華さである。


支那の焦土政策 記事B


昭和15年(1940年)8月、華北の八路軍が作戦名「百団大戦」の攻勢に転じ、
日本軍の軍事拠点が攻撃を受け、鉄道や通信施設などに大きな被害を被った
ことから、北支那方面軍第一軍参謀長田中隆吉少将が「敵根拠地ヲ燼滅掃蕩シ
敵ヲシテ将来生存スル能ハザルニ至ラシム」と命じた攻撃作戦が三光作戦の
端緒とされている。
「燼滅目標及方法」として、1.敵及土民ヲ仮装スル敵 
2.適性アリト認ムル住民中16才以上60才迄ノ男子(殺戮)
3.敵ノ秘匿シアル武器弾薬器具爆弾等 4.敵ノ集積セリト認ムル糧秣
5.敵ノ使用セル文書(押収携行止ムヲ得ザル時ハ焼却)
6.適性部落(焼却)と下命したとされている。

対ゲリラ戦に於いて、根拠地となっている村落の兵站施設を攻撃、破壊し、
便衣兵(ゲリラ兵)及び、敵性男子を殺害するという選択は軍事行動として
正当であり、残虐無比な間違った作戦ではない。
ブラックプロパガンダに踊らされている日本人は、当時の支那の状況を自国と
同様に想像し、単純に支那には支那人がいて、それを守る正義の味方・支那軍
がいて、平和に豊かに暮らしていた地域を旧日本軍が侵略し、暴虐の限りを
尽くしたとでも考えているのではなかろうか。
当時の国民党軍にせよ、共産党の八路軍にせよ、自国民を殺し捲くっている。
国民党軍に、農家の藁切り機を使ったギロチンで首を落とされた支那人だけ
でも45万人いたという凄まじさである。
私の祖母の兄は、八路軍に依って、大勢の住民が家屋に押し込められ、銃撃を
受けて集団処刑された渦中にいたが、周囲の人々が銃弾の盾となったことから、
九死に一生を得たという実体験を持っている。

日本人と支那人やモンゴル人、ロシア人などの大陸人とでは、人の殺し方も
戦争観も違うのである。
「三光作戦」なるもので行われたという残虐行為は、中国の伝統的な略奪、
暴行のお家芸そのものである。
敵地で抗日ゲリラを攻撃する旧日本軍が住民を殺戮し捲くり、全てを破壊し、
焦土化して廃墟と化するということは、支那大陸での日本の権益を守るという
目的に反するのである。
焦土作戦を実行するのは、その地域の支配権を失うことになる敗走軍側が撤退
するに際し、何も残さず、攻撃軍の兵站線に打撃を与えることを意味している。
そして、その自作自演の焦土作戦を日本軍の仕業であると内外に喧伝するのは、
支那人の伝統的な手法なのである。


南京全市焼却説 新聞記事


三光作戦の根拠とされる歩兵第224連隊の「冬季山西粛正作戦戦闘詳報」は、
平成16年(2004年)に戦時資料として、旧防衛庁(現防衛省)が公開している。





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2013/06/25 11:53 | 概念の映像…視覚的形象COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

「信」の解字 … まことの心と信じる心

「信」の解字 

…まことの心と信じる心





「信」は、
「人」+(「口」+「辛」)と、象形文字の組み合わせで成り立ち、
いずれの文字からも意義を取って構成される会意文字
(かいいもじ)である。

但し、学説に依っては、「辛」は「しん」の音符であるから、
「信」を形声文字(意味を表わす部分と音を表わす部分が
合わさって出来た漢字)としている。


「口」は、「誓いの文書」を表わす。
「辛」は、入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨に依る刑罰を示す。

辛

(「口」+「辛」)=「言」で、
神に誓い、祈ることに、「もし虚偽不純があるならば、
私は神の刑罰としての入れ墨の刑を受けるであろう」と
その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様
(自己詛盟)から、「謹んで言う」「はっきり言う」と
いう意味になる。

70言

※因みに「辛」は「植物の種子」の象形であり、人の「口」から
 発せられた音を「植物の実」に譬えて、「言」という文字が
 出来たとする説もある。

「人」は金八先生の授業のように、二人の人が支え合っている姿
ではなくて、一人の人が立っている形である。

人70

であるからして、「信」は本来、
「一度言明したことや約束したことをどこまでも押し通す」
人間の行為、「途中で屈することなく、真っ直ぐ伸び進む」
人間の行為を表わし、「まこと」「真実」「誠実」の意味を表わす。

「信」の字で最も強くイメージする「信じる」という意味は、
その派生義ということになる。
だから、「不信」の第一義は、
「前言を翻したり、途中で屈したりすること」で、
「疑いを抱く」という意味は第二義である。

私が思うに、「まこと」という意味での「信」には、
それ自体で意義はあるが、「信じる」という意味での
「信」の場合は、その「信じる」対象如何で価値が変わる。

私の嫌いな言葉の一つに「信心」という仏教用語がある。
私はごく当たり前に日本の神々に祈りを捧げる神徒であるから、
「信仰」には大らかであるが、「信心」と聞くと、親が信者で
あった関係で、子供の頃に関わることになった、甚だアクの強い
インチキ教団を連想してしまうので、生理的に毛嫌いする仕儀に
相成ったという次第である。

仏教一般では「信」は、心を清浄にする精神の作用を意味する。
仏道を修める第一歩にこの「信」を置き、心を清浄にして、
仏の教えを疑わず、その教えを行じることが求められる。
どんな宗派でも、この「信」を絶対的に価値有るものとして、
信者に疑いを持たぬこと、すなわち無疑心を求めるものだ。
しかし、そもそも「無疑」を前提とした「信」など有り得ない
のではないのか。
「信じる」という行為は、疑念があるからこそ成り立つことで、
疑念のないことに対しては「信じる」必要もないのだ。
100%疑いの無いことを対象にするのなら、それは「信」では
なくて、「知」である。

親鸞上人の「信心」の意義付けには、その宗教的境地から来る
独特な理論があるように感じられるが、一般に言われる「信心」の
「信」は、この仏様に祈れば、この教団の指導通りに信仰活動をすれば、
きっと自分の願いが叶うのだろう、きっと諸天善神のご加護を戴けて、
悲運を免れて、幸せな境涯に到れるのだろう、尊敬する宗教指導者が
そう言うのだから、きっと、そうに違いないと信じる「信」である。
だから、教団の指導者がどんな馬鹿げたことをやらかしても、それが
宗教的に正しいことで、自分たちのご利益に結び付くということに
疑いや批判の念を抱いてはいけない。疑いを抱いて教団を離れたら、
地獄に堕ちてしまうと考えるような、そういう類いの「信」である。
「鰯の頭も信心から」の「信」に過ぎない。

「鰯(いわし)の頭も信心から」とは、
鰯の頭のように、一般の人には値打ちのないと思うものでも、
信仰心のある人にとって、信仰の対象となれば、尊く有り難い
ものになるという意味である。




平安時代の節分の風習で、注連縄(しめなわ)に鯔(ぼら、なよし)
を柊(ひいらぎ)を飾っていたものが近世以降、鰯の頭を柊の小枝に
刺して、戸口に飾るように変わり、鬼が嫌うとされた柊の棘(トゲ)
と、鰯の臭気で鬼を退散させようとしたものだそうな。

このことわざは一般に、妙ちきりんな宗教を頑迷に信仰している
人や教団を揶揄する場合などに皮肉を込めて語られるが、信仰心の
不思議さを、感嘆の念を込めて譬えた褒め言葉であるのかも知れない。


本尊がどうであれ、教祖がどうであれ、教理がどうであれ、
只ひたすら熱心に信じることに徹して、上意下達の方針を
そのまま行じてさえいれば、ご利益があるという妄信、
狂信の信仰態度は、総べて一切を自己正当化するものだ。
自分達の宗教が世界最高で唯一絶対無二の正しい宗教で、
この信心をしない人は愚かで間違っている、救って上げなきゃ、
成仏出来ない、地獄に堕ちると、他の宗教を邪教呼ばわりして、
激しく薄汚い言葉を吐いては執拗に批難し続ける。
これでは、個人的には「信心過ぎて、極楽を通り越す」
「信心も度が過ぎると却って、邪道に陥って害を及ぼすように
なってしまうから、信心は程々にしなさいよ」という譬えを
実証してしまうことになる。
尤も、「うちの宗教は一番ではなく、何番目かに正しい」と
思っている信者が居る訳もないのだが。



金を儲けるの「儲」という漢字は、宗教団体が集金マシーンと
化して大繁盛している現代では、なかなか面白味がある。
「信+者」=「儲」で、教団本部にお布施がいっぱい!とか、
「人」の「言」うことを「信」じる「者」と書いて「儲」でしょ。
だからね、「信ずる者は儲ける」の。
お金儲けをしたかったら、教祖様の言うことを堅く信じて、
その通りに信心しなさいよとか、現代の日本社会に於いては
ユーモラスに真理を突いてはいると思う。

残念ながら、「儲」の構造は「信+者」ではなく、
「人+諸」である。
「ショ」の音符「諸」は「貯」に通じ、「たくわえておく」の
意味を表わし、転じて「儲ける」の意味が生まれたようだ。
「儲」は、人を貯えておくという意味で、跡継ぎとして
備えておく人、太子の意味を表わす。
「儲位」は皇太子の位を意味し、「儲君」は世継ぎの君、
皇太子を表わす。

これでは面白味の無い解字なので、
「信者」を「沢山抱えている人」は「儲かる」ものだと、
俗説をアピールしておくとしようかな。




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2011/04/12 06:03 | 概念の映像…視覚的形象COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

「愛」の解字 …慈しむ心の形

「愛」の解字 

…慈しむ心の形






「愛」は象形文字を「(旡+心)+夂」と組み合わせた
「会意文字」兼「形声文字」の漢字。

※会意文字(かいいもじ)は既成の「象形文字」を
 組み合わせて、作られた漢字。
※形声文字は、「意味」をあらわす部分と「音」を示す部分を
 組み合わせて作られた漢字。

「旡」の部分は、「アイ」という発音を示す文字でもある。


この、それぞれの象形文字をどう解釈するかに由って、
古代支那人が「愛」の文字を、如何様に考えて作ったものなのか、
文字自体に込めた意味合いの判断に大きな違いが出て来る。


愛の上部の「ノ+ツ」は、「旡」の変形で、立ち姿にしたもの。

「旡」の意味の解釈には……

「旡」は、思いを巡らせ、後ろ髪を曳かれるように振り返る人の象形。
「旡」は、腹一杯食べ、食に飽いてウーンと後ろを向いた人の象形。
「旡」は、胸を詰まらせ、苦しくて仰け反る人の象形。



「夂」は、足の象形で、慈しむ心が赴き及ぶの意味を表わす。
「夂」は、引き摺っている足の象形。


「愛」全体の解釈として……

「愛」は、振り向き見る心の様から、慈しむ人の姿。
「愛」は、後ろ髪を曳かれながら、立ち去ろうとする人の姿。
「愛」は、心残りに後ろを振り向いて嘆く人の姿。
「愛」は、心が切なく詰まって、足が前に進まない人の姿。

子育て400

「愛」には「愛悋(惜しむ)」の意味もあり、「おしむ」とも訓じ、
転じて、「けちけちする」「心残りである」「残念」の意味をも表わす。
「斉国は偏小なりといえども、吾なんぞ一牛を愛(お)しまんや」(孟子)

餌遣り400

「愛」の意味は、「慈しむ」「可愛がる」「恋い慕う」という、他者を
自己と同じように労わろうとする感情が第一義となることからして、
私は直感的に「愛」は、「親鳥が雛鳥に餌を与える姿」の象形では
ないかと考えている。




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2011/04/04 05:46 | 概念の映像…視覚的形象COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

名付け人気文字「斗」についての四方山話

名付け人気文字「斗」についての四方山話





平成10年代に入って、赤ちゃんの命名に「斗」の文字を
好んで用いる親御さんが激増したようだ。

「海斗」(かいと)君、「悠斗」(ゆうと)君、「優斗」(ゆうと)君、
「陽斗」(はると)君、「遥斗」(はると)君などのお名前が
名付けランキング上位に目立つ傾向がある。


この「斗」の字を名付けに用いることについて、三年程前に
YAHOO!知恵袋で、こんな遣り取りが交わされたことがあった。

質問
『名前に「斗」を使う理由は何だ?
字の意味を知っていて使っているのか?
いや、知ってたら、普通使わないだろう。
この字を使う親は決まってDQNバカそうな親、
子供は横着なのが多い。
バカの連鎖の象徴の「斗」…』


ベストアンサーに選ばれた回答

『私の友人は「斗」の字を名付けに使おうとしたら、
年配の親戚の方によくない字だと止められたそうです。
その話を聞くまでは、私も男子の名として格好良い字だと
思っていました。
挌闘家・魔裟斗さんや北斗の拳など強く凛々しい印象があります。
北斗七星のような輝きをと願うこともあると思います。

その時、気になり角川書店の漢和辞典で調べたのですが。
「斗」には「少しの量」という意味があり、そこから転じて
「つまらない人物」という意味がありました。
量りきれてしまう程度の人物ということになるのだと思います。
年配の方や国語に強い方だと気になるかもしれません。
この字の名付けに偏見はありません。
でも意味を知って、私はわざわざ自分の子に付けることは
しないと思います』

別の回答
『斗の字自体は、人名に使うだけのさしたる意味はない、つまらない漢字。
それよりも斗は決斗、斗争、全共斗など、闘の当て字として
認識されている文字。 つまり闘うイメージ。
北斗の拳なんていう、くだらないマンガもあったように、
闘う、ケンカ、などのイメージの漢字。
なるほど、そう考えると質問者の記述も納得いくのではなかろうかな。
いずれにしても人の名前に使う字ではないわな』



そもそも、この無礼千万な質問者の投稿意図は何とも解せないが、
こういう無慈悲なことを言ってはいけない。

「斗」の字は、
物の量を計る為の、柄の付いた柄杓(ひしゃく)の象形である。
転じて、柄杓のような形をしたものを「斗」と言うようになり、
天の南北にある星座、北の七星を北斗、南の六星を南斗とした訳だ。

容量の単位としては、1斗は10升で約18リットルを表わす。
また、「闘」の簡体字でもある。

問題は、この「斗」の字には「少ないこと」「小さいこと」の意味があり、
転じて、「つまらない人物」という意味のあるところだろう。
また、「険しい」「角が立つ」「尖(とが)る」など、人柄としては少々、
好ましくない意味もあるのだ。

であるからして、
例えば「優斗」君の場合、読みように依っては、「優しさが足りない」とか
「陽斗」君の場合は「陽の光が少ない」と解釈出来なくもないのだ。
これでは、親御さんが赤ちゃんのお名前に込めた願いと真逆の意味に
なってしまうことになる。



しかし、文字の意味というものは歴史が証明しているように、
長い歳月を掛けて、時代と共に変転、拡大して行くものである。
親御さんのお話を伺うと、「斗」の字は「北斗七星」「天空に輝く星座」を
イメージされて、名付けられた方々が多いのであるから、人名に用いられる
「斗」の字は、星座「北斗七星」や「南斗六星」のことだと世間も認識する
ようになれば良いのである。

或いは、女の子なら、「純子」「由佳」の「子」「佳」の字、男の子なら、
「太郎」「英之」の「郎」「之」の字のように、名前の最後に付ける文字を
「止め字」(添え字)と言うが、「斗」もこの止め字の一つと割り切って
考えてしまえば、それほど文字の原義に深く拘る必要もなくなるのだから、
問題はないのだ。






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2011/03/08 05:29 | 概念の映像…視覚的形象COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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