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甲子園に咲いた華 …花巻東・佐藤涼平君の自殺を悼む

 2011-07-22
甲子園に咲いた華 

…花巻東・佐藤涼平君の自殺を悼む


日本体育大学野球部2年生の佐藤涼平君(20歳)が、自ら命を絶った。
7月5日午前11時頃、日体大の学生寮「健志台合宿寮」(横浜市青葉区
鴨志田町)の裏手にある電柱に野球用のベルトを掛け、首を吊っている
のを、通行した女性に発見されたという。
将来を悲観した内容のメモが見付かったそうで、神奈川県警青葉署では
自殺と断定した。

野球部関係者に依ると、佐藤君は4日午後2時15分から午後8時まで
行われた練習に、普段通り参加した後で帰寮。
寮で同室の学生が、前日の4日午後10時頃、言葉を交わした際には、
特に悩んでいる様子は見えなかったという。
日体大広報課は「虐めのようなものはなかった」と、野球部内での
トラブルを否定する声明を行なった。
しかし、大学体育会特有の虐め体質に起因するものではなかったか
との憶測は根強く流れている。



佐藤涼平君は、岩手県の花巻東高校…通称「花東(はなとう)」
野球部で2009年の甲子園、春の選抜大会準優勝、夏の全国選手権大会
ベスト4入りに多大な貢献をした2番打者、中堅手であった。
高校野球ファンなら誰でも鮮明に記憶しているであろう、身長155cmで
「小さな英雄」と謳われた、如何にも少年らしく爽やかで、快活で、
笑顔の愛らしい名選手であった。

7月11日、岩手県宮古市内で、中学時代のチームメイト、西武ライオンズの
菊池雄星投手ら同期の野球部員や佐々木洋監督、日体大野球部・古城隆利
監督など、約200人がお別れ会に参列し、早過ぎる佐藤君の死を悼んだという。



今となっては、何を語っても詮無いことであるが、彼の名相に表われていた
運気の流れとして、「盛運の高みから一気に衰運の低きに転落し易い」傾向が
幾重にも読み取れ、その耐え難い落差の逆境を強靭に乗り切りさえすれば、
優れた資質を開花させて、成功を掴み、幸せな人生を歩むことも出来るだけの
吉祥運を具えていたはずなのだ。

名相に依る分析では、彼の基礎的な運気であると共に、彼の天性の気性等を
表わす運数として、「17」が読み取れる。
強固な意志力を持つ、人一倍の努力家であり、自らが定めた目標の実現の
為には、例え周囲からの反対を浴びようが、揺るがぬ信念で我が道を突き進む、
頑固一徹で妥協を許さない、思い込みの激しいところがあったはずである。


彼は巧みな2番打者であり、強肩で守備範囲の広い中堅手であった。
3年時、甲子園に春夏連続出場し、10試合で30打数8安打、
打率2割6分7厘をマーク。8四死球に3盗塁、7得点を挙げた。
テレビ観戦していた当時の楽天・野村克也監督が「どんなボールも
ファウルにして、四球で出塁する」と絶賛したほどの打者であった。

「カット打法」は、彼の代名詞であった。
ファウルで粘って、四死球で出塁する為の技である。
選手は誰でも、ヒットを打つ為の練習をするものだが、彼は自分の個性を
活かして、自己犠牲的にチームに必要な理想的な打者となる為に、
一人だけ別に、ファウルを打つ為の特訓を積み重ねたのだという。
チームメイトであった菊池雄星君は7月15日、自身のブログで「仲間」
と題した佐藤君への追悼文の中で、「どんなに速い球でもファウルを打つ為に、
毎日遅くまで160kmのマシンを打ち込んでいた鍛練」と表現している。

佐々木監督から「狙って、ファウルを打てるようになれ」と言われた時、
その意図を説明されたという。

「監督さんの考え方は、ヒットはヒットなんですけど、フォアボール、
デッドボールもヒットなんです。盗塁したら2ベースなんです。
という考えで自分に説明してくれました。
『あ、そういうことか』と。ヒットを打っても評価されないんですよ、自分。
フォアボールで出たら褒められるんですよ。違った褒め方だったんですね、
監督さん。自分とか山田(隼弥)は。山田も同じ役割だったので。
ヒットよりもフォアボールで出ると褒められて、それで初球、パーンと
走ったらもう二重丸って感じです。それが結局、チームの得点率が上がる
ものでもあったので。
理想は1番が出て、2番がつないで、3番、4番が返すっていうのが。
どこのチームもそうだと思うんですけど、それが一番難しいことだと
思うんですよね。一番、注意しなきゃいけないっていう上位打線。
その中で点数取るためにどうしなきゃいけないか考えたときに1番、
2番の出塁率、それから機動力、進塁打とか。
監督さんはタイムリーで得点取りたくないんですよ。
極端な話、ノーヒットで1点を取りたいんです」と、彼は後に語っている。



彼の人生の主運の暗示としての運数としては、姓名学で頂点を極める、
最大の強運数である「33」が表われている。
天下に名を成す頭領運である。

しかし、この最大強運が却って、彼の悲劇の原因とも成ってしまったのだ。
この運数33は、「易経」で言うところの「乾為天(けんいてん)」の卦に
似ている。
この卦は、「乾(けん)」の純陽の卦と言って、64卦ある中で最も尊いもの
と言われているが、「登り詰めた龍は一旦、降るしかない」という、
極盛の反面には、極衰があるということを表わしている。

盛運の絶頂を極めたとしても、その状態が永続するはずもなく、一旦、
運気は必ず下降線を辿るのがものの道理で、その時を如何に堪えるかが、
大吉運を次に生かせるか、否かの鍵を握っているのだ。
絶頂を極めることが出来る大志大業運だけに、頂点を踏み外すと、一気に
どん底にまで転落してしまうという怖さがある。
順風満帆な大吉運を持っていただけに、人に妬まれ易いという傾向があるので、
自惚れは謹んで、謙虚さを心掛け、人間関係でのトラブルを回避する為に、
細心の注意を払う必要があったはずである。
私の想像する彼のお人柄からして、その点の配慮は充分に為されていたに
違いないと拝察されるのだが。


また、私の鑑るところ、彼の社会運には、波瀾運である運数「40」が
表われていた。
この運数40は、実は私自身の総合運でもあるのだが、知力や胆力、
抜群の行動力を活かして、出世欲旺盛に形振り構わず一途に突き進み、
大発展し、成功を収めるという暗示で、確かに成功運ではある。
しかし、その盛運も不慮の災難などの見舞われて、一気に転落して
しまうような浮き沈みの激しい波瀾運の様相を帯びたものなのだ。
総べてがゼロに引き戻されてしまうという、ゼロ運数の暗示がある。

この運数40の凶暗示として、順境の時に傲慢に成り易く、調子に乗って、
人を見下すような生意気な態度を見せてしまうと、人から嫌われて、
孤立してしまい、一気に転落、大失敗を招くという傾向がある。
強情で融通の利かない面があり、虚栄心が強く発現すると、
どうにも身動きが取れなくなってしまい、自滅を招く危険性が
高くなる傾向性があるのだ。
この「自滅」の暗示が、不幸にも発動してしまったと言える。



更に、運数の配列から五行説で読み取れる基礎的な運気には、
「外見と内実が逆で、一致しない」という傾向があった。

2009年8月21日、準々決勝の対明豊戦、6-6の同点として迎えた
10回表、1番打者の柏葉康貴君が三安で出塁。
佐藤君は1死一塁から一塁前にバントを決め、一塁ベースカバーの
二塁手と激しく交錯。
頭部を強打して転倒、担架で医務室に運ばれ、処置を受けた。
試合は、1死二塁で3番打者、川村悠真君がセンターに勝ち越し打を
放っていた。
10回裏、佐藤君は笑顔でグラウンドに飛び出し、全力疾走でセンター
の守備位置に駆け出し、27000の大観衆が万雷の拍手と歓声で迎えた
感動的なシーンは有名であるが、彼が後に語ったところによれば、
「ボーっとしていました、ずっと。意識、はっきりはしてたんですけど、
何も考えられてない状態でした」
というように、彼は無理をして、笑顔で元気溌剌と試合に戻ったのだった。
「嬉しかったですね、素直に、歓声が。やっぱり、みんなに心配掛けたので、
少しでもその不安を取り除けるように、笑顔で戻ろうと思って」との健気で、
真に見事な周囲への心配り、良い意味での「外見と内実が正反対」を思う。

この「外見と内実が正反対」の凶象意としては、外見は何事も無きように
見えようが、周囲には争いが絶えず、対人関係に悩みを抱え、大きな心労に
苦しむという暗示がある。
多難で前進困難という状況に、心身ともに過労となり、ノイローゼなど
精神的に病み易くなり、逃避願望を抱くいう結果を招く暗示なのだ。



彼は体育教師を目指して、日本体育大学にスポーツ推薦で進学。
1年生の春からリーグ戦、開幕2戦目でスタメン出場するなど、その将来を
嘱望されていたが、今春は右肩を痛めてベンチ入り出来ず、復帰を目指し、
三軍で練習していた矢先のことだったという。

そもそも彼は、生後3ヶ月で喘息、7ヶ月で心臓疾患の一種、川崎病を
発症しているように病弱な体質で、強靭な体力の持ち主ではなかった。
菊池雄星君はブログで、「入学してからも、身体が余り強いほうではなく、
風邪で寝込む事もありました。
でも、彼は絶対に弱音を吐くことはありませんでした」と述べている。


日体大への進学に至る経緯を、彼は語っている。
「センバツが終わってから監督さんに『進路どうする?』って言われて、
『大学行きたいんですけど』って言いました。
で、『お前、何になりたいんだ?』って言われて、『自分、体育教師に
なりたいんです』って言ったら『じゃあ、日体大にするか』って。
それで『はい』って。
進路はもう、母親も含めて自分も監督さんが行けって言ったところに
行こうと思っていました。 監督さんが『そこがいいんじゃない』って
言ったら、母も『どうぞ』っていう風な感じだったので」

大学にはそれぞれスクールカラーというものがある。
私が指導者であったならば、佐藤君に日体大野球部は薦めなかったろう。

人と人とのご縁とは、実に不可思議なもので、花巻から宮古の中学校に
出向いてまで、花東野球部に迎え入れて、甲子園のスター選手にまで
育て上げてくれた恩師である、その監督の薦めに依って進学した大学
という環境の中であるが故に、滅びざるを得なかったという現実を
迎える相殺の反作用。

花東への進学には当初、お母様は反対為さっておられたという。
「監督さんから『来てほしい』っていうことを言われて、
自分はもう、私立で野球が強いところに行きたかったので、
出来れば、行きたいなぁと思っていたんですけど、
母からは反対されました。
自分自身も、一人でやっていくっていう自信がなかったので、
最初は不安だったんですけど、そう言いながらも、どうしても
行きたいってことを言っていたんです。
でも、絶対ダメだって、ずーっと言われて、2週間くらいですかね、
口、全然利かないような感じで。そのことには触れずにこう、
日常が流れていったみたいな感じでした。険悪なムードというか」

彼が高校野球であれほどのスター選手になっていなかったら、
20歳で自殺という究極の選択はしなかったように思える。
お母様は本能的に無意識の内に、将来の悲劇を直感されたのかも知れない。

佐々木監督のノック

ピアノの調律師であった彼のお父様は2002年、彼が小学生の時に、
くも膜下出血を患い、42歳の若さで急逝されたという。
彼はサッカー選手に憧れていたそうだが、小学校には野球部と
バスケット部しかなく、プロ野球の巨人ファンだったお父様の
影響もあって3年生の春に野球を始めたそうだ。
お父様もかつて高校球児で、心臓疾患の為に野球を諦めたという。
それだけに、彼が野球を始めたことが嬉しかったに違いない。
入部を決めた約1週間後、仕事から帰られたお父様は、彼に
松坂大輔投手モデルのグラブをプレゼントしてくれたそうだ。
地元の宮古では良いものが見付からず、盛岡の店を探し回って
くれたそうだ。
お父様は「涼平が甲子園に出るところを見られたらいいな」とも
語っておられたとか。
彼は中学校で県の選抜チームにも選ばれる程、巧い選手になった。
花東では2年生の秋の大会には、奇しくも高校時代のお父様と同じ
2番、センターで出場したという。
天国でお父様とキャッチボールしながら、沢山甘えたら好い。


西武ライオンズの菊池雄星投手は、6月12日の1軍初登板翌日には
彼と一緒に食事をし、6月30日のプロ初勝利には、彼から長文の
祝福メールを貰い、亡くなる2週間前に会ったばかりで、
色々な相談にも乗っていたという。
「それだけに、もっと為になる言葉を掛けて上げられればと
 悔しい気持ちもあります」とブログに書き記している。
菊池投手はアメリカのメジャーリーグからも声を掛けられたほどの
豪腕投手なのだから、「風俗店通いに現を抜かし…」などという誹謗中傷を
一蹴するほどに、圧倒的な力量を見せ付けて、彼への手向けの一勝を
挙げて貰いたいものだ。


お別れ会前日、7月10日の守備練習の締め括りに、佐々木監督は
誰もいないセンターへ、ノックを高々と打ち上げたという。
天国の彼へのお別れのノックだったに違いない。
「若き名将」と謳われる監督に相応しい、哀しくも美しい光景だ。

佐々木監督は、「大会は毎年ある。でも、今年は勝ちに拘る」と語り、
卒業時に、彼から練習着を譲り受けた主将の菊池倭(やまと)君は、
「甲子園の一番上を目指す。涼平さんの為にも」と語ったという。
今夏、岩手県では花巻東、盛岡三、盛岡四、盛岡大付が4強に
勝ち進んでいる。
花東の負けられない戦いが続く。













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