華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 2012年12月

小沢一郎氏を熱烈支持する岩手の県南 …偉人達を育んだ水沢の気風

小沢一郎氏を熱烈支持する岩手の県南 

…偉人達を育んだ水沢の気風



私は、どこからどう見ても相当なワルとしか見えない政治家小沢一郎氏が、
実はそんなに嫌いではない。
2012年12月1日、千代田区の麹町セントラルビルに於いて、「日本未来の党」
党首の嘉田由紀子滋賀県知事と小沢一郎氏との間で「未来を語る」をテーマに
した公開対談が行なわれた。
その冒頭、二人は子供時代の思い出を楽しげに語り合っていた。


公開対談450


【嘉田由紀子氏】
子供時代のことで、自然の野山とか暮らしで印象的なこと、どういうことを
憶えていらっしゃいますか?
【小沢一郎氏】
僕らの子供の時はね、何も特別に遊ぶ物は無かったので、自分たちで冬は
ソリに乗ったり、スケートと言っても長靴に竹を付けたスケートとか、
竹のスケートとか、下駄のスケートとか、そういうもので遊んで、
夏は夏で野山を駆け回って。
今と違いまして、子供達がみんな、テレビもゲームも無いですから、学校が
終わるとすぐ集まってワイワイ、そういう時代というか、状況でしたね。
とても楽しかったです。
【嘉田由紀子氏】
冬のスキーというのは、竹を火で焙って曲げて作る技術ですね。
私は戦後の昭和25年生まれで、8歳年下ですが、多分時代は変わらないですね。
【小沢一郎氏】
大体同じ世代ですね。
夏は、僕の所には北上川という大きな川がありますが、小さな沢みたいなのが
いっぱいありまして、沢を止めて、ドジョウを獲ったり、フナと獲ったり、
ナマズとかね、カニとか、いっぱいいましたからね。
【嘉田由紀子氏】
沢と止めるというのは、流れを堰き止めて、水を掻いて、そして、そこに有る
のを一網打尽。
【小沢一郎氏】
怒られるんですよ、これが。
【嘉田由紀子氏】
農家にしたら、用水路ですから、子供がそんなことしたら大目玉なんですけど、
子供にとってはとても面白い。
【小沢一郎氏】
後は獲ったら、ちゃんと土を片付けて、綺麗に流れるようにするということ
でしたけど。
秋なんか、柿とか栗とか、いっぱい生ってますからね。
山の柿や栗だけじゃなくて、屋敷栗とかって、屋敷に植えられてある栗とか、
獲っちゃ怒られてね。
【嘉田由紀子氏】
台風が来ると楽しいですね。台風が来て、大風の後、落ちますよね。
真っ先に拾って。
【小沢一郎氏】
何か、何か、朝から晩まで遊んでました。


水沢区立町450
水沢区立町の街並み

水沢の田んぼアート450
水沢区の田んぼアート


小沢一郎氏は昭和17年(1942年)、岩手県人で当時、東京府会議員であった
小沢佐重喜氏(1898年-1968年)の長男として、現在の東京都台東区の地で
生を享けたという。
因みに、小沢佐重喜氏は後に衆議院議員となり、10期の当選を重ねた。
昭和19年(1944年)、小沢家は東京大空襲から逃れる為、父佐重喜氏の生まれ
故郷である岩手県の水沢に疎開し、小沢一郎氏は中学校2年生修了後に上京
するまで、子供時代を水沢の地で過ごしたとのことである。
嘉田由紀子氏との対談中、田舎の少年小沢一郎氏の微笑ましいエピソードは
この時代のことである。


私は小沢一郎氏のマインドは、大和系日本人のものではないと感じている。
ご両親共に朝鮮人であるとの説からすれば、彼は朝鮮系日本人ということに
なるが、情緒や思想、行動、骨相に至るまで確かに納得させられるものがある。

平成21年(2009年)12月10日、民主党の幹事長だった小沢一郎氏は、
民主党議員143人、一般参加者など483人、総勢600人を超える訪中団を率い、
「北京詣で」を行なった。
胡錦濤国家主席との会談で、「人民解放軍で言えば、野戦の軍司令官として、
頑張っていると伝えた」と、小沢一郎氏は語ったが、この発言は中国では
「日本が中華人民共和国の実効的軍事支配下に入ったことを容認した」と
受け止められ、日本の国益を大いに毀損した。

平成21年(2009年)12月12日、民主党の幹事長だった小沢一郎氏は、
韓国ソウル市の私立国民大学で、日本学研究所の学生ら約300人に対し、
2時間に亘り、「韓国人が日本に移り住み、初代天皇になった」
「仁徳天皇陵を発掘したら、はっきりするはずである」
「これ以上言うと日本に帰れなくなるが、歴史的事実であろう」
「天皇陛下も、桓武天皇の生母は百済の王女だったと認めている」
「日本人は自分で考え、自分で決め、自分で責任を取ることが出来ない
最も自立心に乏しい国民だ」 
「日本人は元々民度が劣るから、君たち韓国人のような優秀な民族の血を
日本人に入れない限り、他人やアジアに寄生して生きる害虫日本人が増える
だけだ」などと、「騎馬民族征服説」に基づいて、日本人のルーツを歪曲して
伝え、朝鮮民族を褒め称えるという国辱的な内容の講演を行なった。

また、平成21年(2009年)12月14日、天皇陛下と習近平中国国家副主席
(現国家主席)との会見スケジュール問題で、一ヶ月ルールを破ってまで
強引に会見を実現させた小沢一郎氏からは反日的な、不遜な天皇観が窺い
知れたものである。
自由民主党の総裁である安倍晋三氏は、血統としては朝鮮系日本人であるとの
ことであるが、日本人としての魂を胸に抱いているように見受けられる。
小沢一郎氏の場合は、明らかに日本人の心魂を持っていない。


岩手県地方行政区分400
            岩手県地方行政区分

旧水沢市
          旧水沢市

昭和44年(1969年)、小沢一郎氏は父小沢佐重喜氏の後継として、27歳で
衆院選に初当選し、自由民主党では田中派、竹下派(経世会)に力を背景に、
大いに権勢を振るった。
竹下派分裂、党内権力闘争に敗れ、自由民主党離党後、小沢一郎氏が新生党、
新進党、自由党、民主党、「国民の生活が第一」、日本未来の会と率いる政党は
千変万化しようが、旧岩手県第2区(中選挙区)、岩手県第4区(小選挙区)の
有権者は常に変わらぬ圧倒的な小沢支持を続け、4区のみならず、1区から3区
までもが小沢系議員で占められ、岩手県全体が小沢王国とも称されて来た。

平成5年(1993年)の第40回衆議院議員総選挙まで、小沢一郎氏の選挙区は
岩手県第2区(中選挙区)であった。
花巻市、北上市、水沢市、一関市、大船渡市、陸前高田市、江刺市、稗貫郡、
和賀郡、胆沢郡、西磐井郡、東磐井郡、気仙郡

現在の岩手県第4区(小選挙区)の区域は、
花巻市、北上市、奥州市(合併以前の江刺市、水沢市、胆沢郡胆沢町、前沢町、
衣川村)、和賀郡西和賀町、胆沢郡金ヶ崎町

西松建設の献金問題に端を発する陸山会政治資金規制法違反事件の立件など、
小沢一郎氏の失脚を意図する東京地検特捜部との熾烈な戦いや、彼を極悪非道
な政治家であるかのように印象操作し続けるマスメディアの如何に関わらず、
「小沢一郎は信義に厚い好い男だ」と熱誠を以って支援し続ける県南地域の
気風にこそ、私の興味がある。


岩手県と言えば、私はどうしても南部盛岡をイメージしてしまうのだが、
江戸幕藩体制下、現在の北上市以南の県南部は仙台伊達藩領であった。
また、県北と県央、県南では歴史的背景のみならず、それぞれ自然、風土が
異なることから、その気風も一様ではない。
小沢一郎氏が子供時代を過ごした水沢は、嘗ては伊達家の一門、留守氏の所領
で、一万六千石の肥沃な穀倉地帯であった。
平家を滅ぼした源頼朝は鎌倉に幕府を開き、平泉の藤原泰衡を討って、奥州を
平定した後、奥州統治の為に総奉行職と留守職(るすしき)を創設した。
この時、伊沢家景が留守職に任命され、多賀城に常駐したが、幕府の実権が
北条得宗家に握られると留守職は有名無実となり、その子孫は「留守氏」と
改称し、有力な一地頭として、鎌倉に出仕していた。
戦国時代に至り、留守氏は伊達氏から三代に亘って、養子を迎え入れ、事実上、
伊達一門(水沢伊達氏)として併合されることになった。
伊達氏はこの様に養子を送り込むことで、名族の数々を家臣筋として併合し、
伊達62万石の下で、36家の伊達一門、伊達一家、伊達一族を形成した。
藩内に36もの多くの支藩を抱えていたことは、仙台藩の際立つ特色であった。

一万六千石の大身であった留守氏であったが、米作以外にも家内工業や商業の
発展に力を入れたことで、「水沢商人」の言葉が生まれたように、「進取」の
気風が形成され、伊達一門の共通性として、子弟教育にも熱心であったという。
下級武士の子弟であっても、学問を修めれば、医師になるという立身出世への
道が開けていたことになる。


高野長英
高野長英肖像画

そうした土壌の有ってのことか、水沢は偉人を生んだ町である。
高野長英、後藤新平、斎藤 実は、特に「水沢の三偉人」と呼ばれる。

高野長英は水沢留守藩(水沢伊達氏)家臣の子として生まれた幕末の蘭学者。
西洋の医学書や兵学書、天文学書など、多くの書物の翻訳作業を行ない、
西洋思想の紹介に努めた。
江戸幕府の異国船打払令を批判し、開国論を唱えたことに依って、「蛮社の獄」
で捕らえられ、永牢(終身刑)の判決を受けるも5年後に脱獄、6年に亘る長い
潜伏生活を経た後、捕吏に襲われ、自刃。享年47歳。

後藤新平は水沢留守藩、藩医の子として生まれた気宇壮大な明治、大正期の
大政治家。
優れた先見性で、数十年先を見据えた壮大な構想を描いたものの、常人には
到底理解されず、「後藤の大風呂敷」と揶揄され、斥けられた。
台湾総督、満鉄初代総裁、逓信大臣、外務大臣、東京市長、関東大震災復興院
総裁などを歴任。

斉藤実は水沢留守藩家臣の子として生まれた、第30代内閣総理大臣で、
岩手県が生んだ原敬に次ぐ二人目の宰相。
海軍大臣、朝鮮総督、外務大臣、文部大臣、内大臣などを歴任。
昭和11年(1936年)、陸軍皇道派青年将校のクーデター二・二六事件で殺害
される。
体内から48発の弾丸を摘出したものの、なお摘出出来ない弾丸が多く残ったと
いうほどに激しい銃撃を受けて暗殺された。享年77歳。


水沢は「三偉人」に限らず、多くの有為な人材を輩出している。

箕作省吾は、水沢留守藩家臣の子として生まれた江戸時代後期の地理学者。
蘭学者箕作阮甫(みつくり げんぽ)の弟子であり、四女と結婚した箕作家の
婿養子。
弘化2年(1845年)、日本最初の世界地図である銅版着色の「新製輿地全図
(しんせいよちぜんず)」と、その解説書として、日本最初の西洋地理書である
「坤輿図識(こんよずしき)」5巻、その補充書4巻を訳述した。
これらの西洋地理書は、吉田松陰が松下村塾で用い、幕府大老井伊直弼も愛読
するなど、幕末の内治外交上、多大な影響を与え、更に明治期の学校教科書の
原本になったという。 享年26歳

山崎為徳(やまざき ためのり)は、水沢留守藩家臣の子として生まれた
明治初期の宗教家、神学者。
藩校の立生館に学び、後藤新平、斎藤実と共に「水沢の三秀才」と謳われ、
「秀才中の秀才」とも称えられた。
立生館、熊本洋学校で修学した後、東京大学の前身、開成学校に入学するも、
新島襄が京都に設立した同志社英学校に転校、開校以来の俊才と謳われ、
在学中から後進の教育に携わり、卒業後は教授兼幹事に就任、新島校長の片腕
となって活躍し、同志社の基礎を作った。享年24歳。
新島襄は「山崎ほどの俊才は今後二度と現われないだろう」と悲しんだという。

郷古潔(ごうこ きよし)は、水沢留守藩、藩医の家系であった商家に生まれた
財界のご意見番。
三菱合資会社、三菱造船、神戸造船、三菱重工、日本航空会社など、三菱財閥
各社で勤務の後、昭和16年(1941年)に三菱重工社長に就任。
昭和18年(1943年)東條内閣の顧問となる。
日本経済連盟会理事、科学技術審査会委員、大政翼賛会総務、大日本飛行協会
理事、大蔵省理財局参与などの役職を兼務。
昭和20年(1945年)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)にA級戦犯として
逮捕され、公職追放、巣鴨刑務所に収監される。
昭和26年(1951年)、公職追放解除後は財界に復帰、日本工業クラブ専務理事、
財団法人航空協会会長、貿易外輸出会議委員、交通審議会委員、日本原子力
産業会議顧問、国鉄諮問委員、日本外政学会評議員、日本生産性本部顧問、
日本国際連合協会評議員、航空審議会委員などを歴任、財界の大立者として、
日本の産業経済振興に心血を注いだ。
因みに、石川啄木は盛岡中学の一年後輩に当たり、啄木に「今、一銭も無い」
と無心され、金を貸した一人でもある。


水沢競馬場450
水沢競馬場

こうして、水沢が生んだ進取果敢な気質に富む先人達の事績を辿ってみると、
何がどうであれ、小沢一郎氏を愚直なまでに支持し続ける水沢の気風が不可解
に思える。

俗に「水沢商人(伊達衆)の歩いた跡には、ペンペン草も生えない」などと、
近江商人同様に評されるようであるが、水沢に限らず、岩手内陸南部には
進取の気性に富んだ人々が多く、臨機応変で行動力もあると評されるが、
水沢の先取の気質は、子弟教育に熱心であったという伊達一門水沢留守氏の
所領であったことに依って育まれた、進取の精神が息衝いているということ
なのかも知れない。

延暦8年(789年)に著わされた「続日本紀」には、県南部の胆沢の地は
「水陸万頃(すいりくばんけい)」と記されている。
「水陸万頃」とは水と土地(陸)が豊かな様(万頃)を意味する。
北上川流域に広がる豊かな穀倉地帯は、県北、沿岸部が凶作の年にも平年作で
あったというほどに豊かであった。
そこで暮らした農民は進取の気性に乏しかったと、武家の伊達衆とは正反対の
評がある。
しかし、温厚で率直、朴訥で情に厚いという気質が顕著であったという。
小沢一郎氏への一途な支持行動は、こういう豊かな穀倉地帯の農民が培った、
信義に厚い素朴な県南気質が背景にあるような気がする。


小沢一郎事務所280
     小沢一郎氏の実家兼事務所

手紙450


小沢一郎氏の夫人和子氏(67歳)が昨年の11月、岩手県の複数の支援者に、
離婚したとの内容を綴った便箋11枚の長い手紙を送っていたことが報道された。
和子夫人は、その手紙の中で、昨年3月に起きた東日本大震災後の小沢一郎氏
の言動に付いて、「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に
立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒
に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて
逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり、離婚
いたしました」
「国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるという
のです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです」
「かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々の
ご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政
を動かそうとする、こんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じて
います」と綴ってあったとのこと。

本来であれば、翌日にでも駈け付けねばならないにも拘わらず、小沢一郎氏は
震災後10ヶ月以上も、地元の被災地入りをしなかった。
和子夫人が取り仕切っていた後援会の婦人部「水和会(みずわかい)」の関係者
は、「何で来ないんだべな?」と語っていたとのこと。
小沢一郎氏は信義に厚い県南の支持者達を裏切ったことになるが、12月16日
に投開票日を迎える第46回衆議院議員総選挙では、その小沢一郎氏に対し、
岩手県第4区の有権者がどの様な投票行動を取るのか、興味深いところである。




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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2012/12/07 15:46 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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