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日本人260人が惨殺された通州事件 …支那人の猟奇的殺害嗜好

 2013-07-31
日本人260人が惨殺された通州事件 

                      …支那人の猟奇的殺害嗜好


…目撃者の極東国際軍事裁判に於ける宣誓口供書


東京裁判11


今から76年前の昭和12年(1937年)7月29日、北平(現在の北京市)の
東約12kmに在った通県(現在の北京市通州区北部)には「冀東(きとう)
防共自治政府」が置かれていたが、その支那人の保安隊約3000人に依って、
日本軍部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名が襲撃され、
約260名が虐殺されたのが、世に言う「通州(つうしゅう)事件」である。

この通州事件が起こる3週間前の7月7日、北平(現在の北京市)西南方向の
盧溝橋で、北京議定書に基づき、駐留していた日本軍と、蒋介石率いる中国国民党の
軍隊である国民革命軍第29軍との間で、盧溝橋(ろこうきょう)事件と呼ばれる
軍事衝突が起きていた。
通州の冀東防共自治政府自体は親日的な政権であったというが、その政権の
軍隊である保安隊は、国民革命軍第29軍の軍長、宋哲元と内通していた模様で、
「盧溝橋で日本軍が国民革命軍第29軍に惨敗した」とのデマに扇動され、
日本人を襲撃したと言われている。

そして、この年の12月、日本軍は南京攻略戦を戦い、国民党一党独裁である
中華民国の首都南京を陥落させた。
所謂南京大虐殺という虚構は、昭和12年(1937年)冬から13年(1938年)
春に掛けての、この南京陥落時の捏造話である。
南京を陥落させた6~7万人の日本軍兵士が人口20万人の南京で、30万人もの
南京市民を虐殺したとされている大法螺話である。
日本軍が南京を陥落させた後に、 南京城内の人口が5万人増えているが、
30万人を殺戮したとするならば、そんな地獄の都市に30万人+5万人で、
35万人もの支那人がわざわざ南京に流入して来たということになる。
司令官から一兵卒に至るまでが6週間に亘って、獣のように嗜虐的に
8万人の婦女子を強姦しては惨殺し捲くったということにもなっている。

歴史的経緯からすると結局、盧溝橋事件、通州事件は、支那事変(日中戦争)
の直接の導火線となる、決定的な重大事件であったことになる。


上海租界


支那事変を単に日本が支那領土に侵攻したものと認識している日本人も多い
ようであるが、歴史的事実は決して、そうではなかった。
1946年(昭和21年)までの支那には、「租界(そかい)」というものがあった。
租界というのは、清国とイギリスで戦われた阿片戦争後の不平等条約に依って、
支那大陸各地の条約港に設けられた、行政自治権や治外法権を持つ外国人居留地
のことで、20世紀の近代支那に於ける列強の半植民地支配の拠点であった。
支那に租界を有していた列強は、イギリスを始めとして、日本、アメリカ、
フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどで、
それぞれの国が自国の居留民保護の為に、軍隊を駐留させていた。

この外国人居留地は、列強が外交上の交渉で清国から得た権益で、
後に中華民国に継承された訳であるが、この治外法権を持つ居留地を、
支那の官憲には保護する義務があったにも拘わらず、彼らは軍隊組織、
警察組織としての体を為しておらず、彼ら自身が昭和2年(1927年)
日本人が虐殺された「もう一つの南京事件」や昭和12年(1937年)の
「通州事件」など、凄惨極まりない日本人惨殺事件を引き起こしていた。


通州2


我が国にも嘗て、横浜や神戸に外国人居留地が存在した。
安政年間(1858年)に、江戸幕府の日米修好通商条約を始めとして、
イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。
この「安政の五カ国条約」に依り、東京と大阪、箱館、神奈川、長崎、
兵庫、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。

開港場としては、横浜と神戸のみであったが、居留地は長崎や築地などにも在り、
外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、或いは住宅倉庫商館を
建てることが認められ、治外法権とされていた。
日本の場合は条約改正の外交努力に依り、1899年には見事に全て回収した。


日支全面戦争への道程として、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、
首都南京攻略という経緯は、支那を侵略するという目的ではなく、発端は
飽くまでも、日本人居留民保護の為に止むを得ず、我が国政府が軍隊を
増派したということなのである。

譬えて言えば、幕末、居留地を守るべき幕府の軍隊が治外法権を持つ横浜の
居留地に侵入し、小規模のイギリス軍を撃破、略奪の上、外国人に陵辱を加え、
虐殺したとする。
更に、居留地は幕府の大部隊に包囲された状態が続くとする。
当然、イギリス本国政府は自国民保護の為に、艦隊を派遣し、陸兵も増派する。
増強されたイギリス軍と幕府軍との交戦があり、幕府軍は江戸に潰走した。
そこで、イギリス軍は禍根を断つ為に、江戸府内にまで追撃し、幕府軍を江戸から
駆逐したとしよう。

要するに、日支の武力衝突が泥沼の戦争状態にまで発展した構図というのは、
正にこういうことであった訳なのである。
この譬え話の江戸が、実際の日支戦争に於いては南京であった。


通州 地図1


昭和12年(1937年)12月に日本軍が陥落させた南京で大虐殺が
行われたという「南京事件」は日支両国で語られることはあっても、
昭和2年(1927年)3月に、蒋介石の北伐軍が南京に攻め込んだ時に、
日本人が虐殺された「もう一つの南京事件」も「済南事件」も語られる
ことは皆無に等しい。
また、大正9年(1920年)には、日華共同軍事協定を結んでいたにも
拘わらず、尼港に停泊中の四隻の支那艦隊は日本軍の兵舎領事館を砲撃、
更に、1000人の中国人と500人の朝鮮人に依って、尼港在住の日本人
約800人が陵辱の上、虐殺された「尼港事件」も殆ど世に知られてはいない。
日本の外務省、教育界やマスメディアが如何に、反日左翼の北京派売国奴に
占拠されているかの証である。


話題を昭和12年(1937年)7月29日の「通州事件」に戻す。
東京裁判(極東国際軍事裁判)で、裁判長ウェッブは所謂「南京事件」なるものの
中国側の公式資料は証拠として採用したにも拘わらず、日本国の弁護側が
「通州事件」に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウェッブに
却下されている。
東京裁判に於いて、中国の残虐な犯罪が明らかになることは、正義を装う
連合国側には不利益であったからという訳なのである。

しかし、その際に、通州事件の虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は
受理され、記録は残っている。


通州3


●天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、事件の翌日30日
 通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人の供述。

「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、
裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を
銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体は
殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、
言語に絶したものだった。」


●特に悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について
 通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述。

「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙が
掛けてあった。
本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も
下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。
陰部は刃物で抉られたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。
折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或いは打つ伏し或いは上向いて死んでおり、
闘った跡は明瞭で、男は目玉を刳り貫かれ、上半身は蜂の巣のようだった。
女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。
その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。
子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、
胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」


通州記事2


●支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、
 連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄証人の供述。

「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、
一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に
調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、
腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱の中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。
婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。
旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を
押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、
見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、
一家6人数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。
池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」


●事件現場に立ち会った佐々木到一氏の手記。
「邦人に対して残虐の手を加え、その老荘男女16人が惨死体となってあらわれたのである。
予は病院において偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻の極みだった。
手足を縛り、手斧様のもので頭部、面部に斬撃を加え、或いは滅多切りと為し、
婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることが判ったような始末である」


通州事件 東京日日


●救援に駆け付けた第二連隊が見た惨状

浜田巡査宅では長女が手榴弾で吹き飛び、長男は銃剣で刺され、
夫人は凌辱された後、女子師範学校まで引き立てられたが、途中で逃げ出した。
付近の日本食堂では男の子が壁に打ち付けられて頭蓋骨陥没の即死、5人の女店員は
射殺されていた。
食堂・旭軒の女店員八人も強姦の後、裸体にされ、陰部には銃剣が差し込まれていた。
他の場所には女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉られ、
或いは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま
死体を放置してあった。
或る店では女店員全員が強姦され、陰部に箸が突っ込まれていたり、
口の中に砂を入れられたりして殺されていた。
中には死体から内臓がはみ出し、蝿が集った現場もあった。
通州の高級割烹旅館だった「近水楼」では女中4人が射殺後に凌辱され、
天井裏に隠れていた宿泊客11人は北門付近まで数珠繋ぎにされて、
連行されたあと虐殺された。
ことき同盟通信の安東利男記者が城外に転がり落ちて一命を取りとめ、
北京まで這云の体で逃げた。
こうして保安隊は事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と襲撃し、
財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮し、凌辱を重ねた。
逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、引き摺られ、
二ヶ所に集められた上で射殺された。
日本軍守備隊に運良く逃げ込むことが出来た120人だけが助かった。


通州記事5


この様な「頭部切り落とし」「眼球抉り取り」「胸腹部断ち割り」「内臓引き出し」
「陰部突き刺し」「陰部に異物挿入」「屍姦」などは、支那兵特有の酷たらしく淫虐で、
猟奇的な虐殺方法なのだ。

この様な猟奇的な殺害方法、処刑方法に聞き覚えはないだろうか。
昭和12年(1937年)12月の南京陥落当時も、その後も日本軍が民間人を
何十万人も虐殺したなどという証言も報道も為されなかったにも拘らず、
昭和21年(1946年)から始まった東京裁判に於いて、突如として、
ナチス・ドイツに依るホロコースト、ユダヤ人大虐殺に類似した事例は
無いものかと、針小棒大に作り上げられた、
所謂「南京事件」に於ける被害者の殺され方そのものではないか。

その南京事件に於ける虐殺現場の証拠写真とやらに、何とこの通州事件に於ける
日本人被害者の惨状写真までもが用いられているのである。
或いは、南京とは無関係であったり、加害者が日本軍でないことが判明している
写真なども増えている昨今である。

はっきり言うが、あの淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、支那人の人の殺し方
なのである。
支那人お得意の惨殺パターンなのである。

支那の官憲こそが、20世紀半ばの動乱の時代、内戦で数千万人もの同胞を
殺したのだということは判明している。
自国民の犯した罪を、日本人に負わせるな!と怒鳴り付けたいものである。
序でに、同じことを歴史に疎いのか、国籍だけが日本国で支那人の血が流れている
のか知らぬが、反日左翼の日本人にも言いたいところである。


通州事件 讀賣


歴史や風土の異なる民族は、それぞれに大きく異なったメンタリティを持つ。
人の殺し方一つにも、その民族性が表われるのだ。
日本人の一般的なメンタリティからすれば、武家社会での「生殺しはいかん」
(生殺し:殺す寸前まで痛めつけること)という考え方があり、切腹の際ですら
「介錯」という介添えがあり、腹切りは型通りの作法として、刃を腹に突き立てた
真似事だけでも、即座に首を討って、苦しむことの少ない死をと手助けをする
というのが、日本人の培って来た精神性である。
従がって、日本軍の処刑方法は射殺、或いは槍刀に依る一刀、一突きで
命を奪う傾向があったのだ。


通州5


それに引き替え、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を
与えた上で死に至らすという、残酷極まりない凌遅刑(りょうちけい)が
清朝の時代まで行われていたお国柄の支那である。
しかも、凌遅刑で削ぎ落とした肉は、食ってしまうのだから始末が悪い。
その民族のメンタリティは推して知るべし、である。

そもそも、支那はカニバリズム(人肉嗜食)の伝統を持つような国で、
飢饉などの非常時に緊急避難的に行われたという記録は世界中にあるが、
彼らの場合はそうではない。 支那人は好き好んで食ったのである。
文化大革命時代の1966年から1970年の間に、「反革命主義者」という
レッテルを貼られて殺された6万人の知識人や文化人の中にも、死後の肉を
食われた人が居て、白昼堂々と人肉食いが行われたという広西での報告などがある。
胎児を食べる文化が現存し、胎児を食材として使う料理があり、
現在では、堕胎後の胎児が闇ルートで売買されているという。
拝金主義者の支那人が、金になる胎児を手厚く葬るはずもない。

日本人と支那人では、死生観が大きく異なるのだ。
日本人は古来、死を以って、その人の罪は清算されるものと考えるが、
儒教という処世術は持つものの、形而上学を持たない支那人は死者をも
鞭打つように、御魂への畏敬の念に欠けるのだ。

14億5千万人の支那人が如何様に法螺を吹き捲ろうが、
虐殺された人々の御魂は、ご自分たちが誰に殺されたのか、
その真実をご存知なのだと思えば、それだけが救いとも思える。


通州記事4







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