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糠部駿馬の歴史薫る地名一戸、二戸、三戸… …九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)

 2015-07-28
糠部駿馬の歴史薫る地名一戸、二戸、三戸…

…九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)



半世紀も昔のことになる。
私が通っていた東京の小学校の同級に、青森県八戸市から男の子が
転校して来たのを記憶している。
組が違ったこともあり、言葉を交わしたのは数回程しか無かった。
まだ7、8歳であった私は、「はちのへ」という地名の音韻に、つい「屁」を
連想してしまい、田舎っぽさと可笑しみを感じたものであった。
同じ組に剽軽者の男の子が居て、彼はその転校生の前で「は・ち・の・へ!」
と一音一音、間を空けて発音し、最後の「へ!」を言い終えると同時に、
屁っ放り腰になり、「プッ!」とオナラをして、からかったことがあった。
今思えば、その八戸からの転校生は幼いながらもなかなかに度量の有った子で、
「そんなこと、するもんでねぇだ」と首を振りながら、笑っていた。
彼は数ヶ月しか居なかった気がする。いつの間にか、居なくなっていた。


一戸二戸三戸


現在の岩手県北部から下北半島、津軽の平内地方をも含めた青森県東部に及ぶ
広大な地域は嘗て、陸奥国糠部郡(ぬかのぶぐん)と呼ばれていた。

治承4年(1180年)から文永3年(1266年)迄の鎌倉幕府の事績を記す鎌倉時代研究の
基本史料である東鑑(吾妻鏡)文治5年(1189年)9月3日条に、
「文治五年九月小三日庚申。
泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴『糠部郡』」
とある。
「文治五年九月小三日庚申。
泰衡數千の軍兵に圍被、一旦の命害を遁れん爲、鼠の如く隱れ。退くこと鶃に似たり。
夷狄嶋を差し『糠部郡』へ赴く」(読み下し文)

※原文には「『糟』部郡」と書かれている様であるが、筆者が「糠」を「糟」と
書き損じたものと推察される。


また、同じく東鑑(吾妻鏡)文治五年(1189年)9月17日条に、
「文治五年九月小十七日甲戌。
一 毛越寺事
 堂塔四十余宇。禪坊五百余宇也。
…………………………………………………………………
此本尊造立間。基衡乞支度於佛師雲慶。々々注出上中下之三品。基衡令領状中品。
運功物於佛師。所謂圓金百兩。鷲羽百尻。七間々中徑ノ水豹皮六十余枚。安達絹千疋。
希婦細布二千端。『糠部駿馬』五十疋。……………」とある。

毛越寺(もうつうじ)建立に際し、藤原基衡は本尊造立を仏師雲慶に依頼した。
制作する本尊を上中下の三等級の何れにするかとの運慶の問いに対し、
基衡は中と答え、その謝礼として、金100両、鷲羽根100尻、水豹(アザラシ)の皮60数枚、
安達(あだち)絹1000疋、希婦細布(けふのせばぬの)2000端、
糠部の駿馬50頭等々を与えたとの記事に、「糠部駿馬」と記されている。
糠部郡に相当する地域は駿馬の一大産地であった。

糠部郡建郡に関する史料が見当たらず、詳細は不明であるが、東鑑(吾妻鏡)の記述からして、
平安時代末期には、糠部郡が成立していたと推察される。


南部鉄器南部駒


糠部郡には、「九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)」の制が敷かれていた。
郡域は、一戸から九戸までの9つの「戸(へ)」、東西南北の4つの「門(かど)」
から成り、馬牧が行なわれたという。
「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる。
「戸」の起源としては、鎌倉時代に糠部郡は「牧場政策の立場から九ヵの部に分けられ、
それを一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸とし、一ヵの部に一牧場を設定し、
それに牧土を配し、牧士に牧土田を支給した」(森嘉兵衛氏著「津軽南部の抗争」〉との説が
定説とされている。

更に、貢馬置牧説に立った上で、「戸」は郷村名ではなく、これらを包括した
「広域地名」であること。
「戸」を総合して「糠部郡」を建てたのではなく、糠部郡を先ず建て、
それが余りの大郡であった為、9つの「戸」に分けたものであること、
糠部地方の行政区画である「戸」制は、「門」制に先行するとの見解を、
昭和58年5月の『田子町誌』で小井田幸哉氏が述べられている。

一戸ごとに7ヵ村を所属させ、その9の戸を東西南北の4つの門に分属、
糠部郡内の主な地域を一戸~九戸に分画し、余った四方の辺地を東門、西門、
南門、北門と呼んだとされるが、異なる見解としては、南門は一戸と二戸、
西門は三戸と四戸、五戸、北門は六戸と七戸、東門は八戸と九戸を指す
とする説もある。


東鑑(吾妻鏡)文治六年(1190年)3月14日条に、
「文治六年三月小十四日戊辰。
右兵衛督書状到來。所被付廣元之使者也。
………………………………………………………………………………
一 御馬廿疋被進事
近年不及此程員數。所感思食也。毎事復舊歟。赤鹿毛馬事。只事次所被仰也。
強不能尋求。『戸立』なと出來之躰。必可歴御覽歟。
 右。條々御氣色如此。仍上啓如件」

 「一 御馬廿疋進ぜ被る事
 近年此程の員數に不及、感じ思し食す所也。事毎に舊に復する歟。
赤鹿毛の馬の事、只事の次に仰せ被る所也。強に尋ね求むるに不能。
 『戸立』なと出來之躰は、必ず御覽を歴る可き歟。
 右の條々、御氣色此の如し。仍て上啓件の如し」

源頼朝が奥州藤原氏の陸奥貢馬(むつくめ)に倣い、後白河院に「戸立」を
20頭献上したとある。
「戸立(へだち)」とは、一戸から九戸産の糠部駿馬を指す言葉で、
「一戸立」は一戸産の糠部駿馬、「二戸立」は二戸産の糠部駿馬を意味する
という風に甚く珍重され、武士は挙ってこれを求めたという。

東鑑に「戸立」の言葉が記されていることから、「戸」制は鎌倉時代の初頭、
既に成立していたと推察される。

現在、岩手県内には一戸町、二戸市、九戸村、青森県内には三戸町、五戸町、
六戸町、七戸町、八戸市の地名がある。
「四」の音韻を忌避したのであろうと思われるが、四戸の地名は残っていない。


宇治川の先陣争い1
宇治川の先陣争い


寿永3年(1184年)の宇治川の戦いに於ける先陣争いで有名な佐々木高綱は
七戸立の「生唼(いけずき)」、梶原景季は三戸立の「磨墨(するすみ)」に
乗馬していたという。
また、一ノ谷の戦いで、平家の若武者平敦盛を討ち取った熊谷直実の愛馬、
「権太栗毛(ごんたくりげ)」は一戸立、替え馬の「西楼」は三戸立であったという。
熊谷直実が一戸の牧まで郎従を遣わし、名馬権太栗毛を上品絹200疋の値で
求めさせたという逸話は有名である。


南部氏の史料に依れば、文治5年(1189年)、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を
征伐した戦いに於ける論功行賞で、南部光行が糠部五郡を拝領したとされる。

「聞老遺事」
「陸奥国阿津加志山国見沢にて戦功ある輩三十六人、公(光行)其一員なり。
頼朝公賞之、奥州を裁て三十六人に賜ふ。糠部以北公領之玉ふ」
「奥南旧指録」
「同月十九日頼朝公奥州に泰衡を御退治として、東国に発向し玉ふ。
此時光行公御先陳に有て阿津樫山国見峠所々に戦功を立玉ふに依て、
頼朝公御感浅からず、糠部郡を光行公に給る」

南部氏は甲斐源氏の一族で、その遠祖を八幡太郎義家の弟新羅三郎義光とする。
治承4年(1180年)、源光行は源頼朝に従がい、石橋山の合戦で戦功を挙げ、
甲斐国(現在の山梨県)南巨摩郡南部郷(現在の南部町)に地頭領を与えられ、
鎌倉に出仕した。
南部姓を名乗ったのは、源義光から5代目のこの光行からで、光行が南部氏の
始祖となる。
光行の三男実長は波木井郷(現在の身延町)を与えられて分家し、波木井南部
と呼ばれた。
文治5年(1189年)、南部光行は実長を波木井郷に残して、源頼朝の奥州平泉
討伐に従軍し、その奥州合戦での戦功で陸奥国糠部郡を与えられ、奥州(三戸)
南部氏の始祖となる。
糠部五郡は現在の岩手県北部から青森県の下北地方までの陸奥北部一帯の広域
であった為、一族を要所に配置して分割統治を行なった。
光行の6人の息子が後にそれぞれ、長男行朝は一戸氏の祖、次男実光は三戸に
本拠を置く南部氏宗家を継ぎ、三男実長は八戸氏の祖、四男朝清は七戸氏の祖、
五男宗清は四戸氏の祖、六男行連は九戸氏の祖となり、南部一族はそれぞれの
領地名を姓に名乗ることとなった。

甲斐(山梨県)と言えば、甲斐駒で有名な一大馬産地であった。
馬の生産育成に経験豊富であった南部氏が、糠部駿馬の伝統を引き継ぎ、
更に優秀な「南部駒」の馬産を発展させたことは天の配剤であったと思える。
盛岡藩、岩手県は日本馬の中で最良の馬と評された南部駒の大産地であったが、
残念ながら、昭和初期には南部駒を絶滅させてしまった。


江戸名所図会馬市
江戸名所図会 馬市


最後の南部駒 盛号
最後の南部駒 盛号





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