華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 2015年10月

「南京事件」とやらに関する文書類の世界記憶遺産登録に就いて

「南京事件」とやらに関する文書類の世界記憶遺産登録に就いて

…宣伝戦は戦争の一形態である。



国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、中華人民共和国政府が申請していた
「南京事件」とやらに関する文書類の世界記憶遺産登録を決定したとのこと。

所謂「南京大虐殺」なるものは、歴史捏造の最たるものである。
そのブラックプロパガンダの論理は、既に破綻している。
朝鮮系日本人、中国系日本人ならば、いざ知らず、大和系日本人であるならば、
偽論である東京裁判史観、自虐史観などに惑わされることなく、イデオロギーを超越して、
正視眼的に日本の近現代の歴史的事実に相対したいものである。
先人への愛念を胸に抱きつつ、真摯に日本国の歴史と伝統に向き合い、
国際政治の謀略戦、宣伝戦の虚構を喝破する洞察力、咀嚼力を研ぎ澄ませたいものである。


"The only thing necessary for the triumph of evil is for good men to do nothing."
Edmund Burke

「悪が勝利するために必要な唯一のことは、善人が何もしないことである」
エドマント・バーク(アイルランドの政治家)

「善人の無作為こそが、悪を栄えさせる」ということである。
「草莽崛起」あるのみ。




東京裁判11
極東国際軍事法廷(東京裁判)


「南京大虐殺」という捏造話は、昭和21年(1946年)から昭和23年
(1948年)に掛け、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のD.マッカーサー
司令官が布告した「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて行われた東京裁判
(極東国際軍事裁判)に於いて、戦勝国アメリカ合衆国の都合で偽作され、
突如として出現した虚構であり、歴史的事実ではないことは明々白々である。
東京裁判にはニュルンベルク裁判のパターンが適用され、ナチスドイツに依る
ホロコーストに相当する事案として、南京大虐殺が捏造されたのである。
「人道に対する罪( Crimes against Humanity)」なるものは、ナチスドイツが
行なったユダヤ人虐殺の非人道的行為を裁く目的で、ニュルンベルク裁判所
条例に創設された罪名である。


東京裁判に於ける東条英機
極東国際軍事法廷(東京裁判)に於ける東条英機被告


「東京裁判」と、「裁判」の名を冠するからには、極東国際軍事法廷では厳正に
国際法に則り、大日本帝国の罪科が審判されたと思われがちであるが、その実、
極東国際軍事裁判所なるものは法律機関としての裁判所ではなく、GHOの意図
として、満州事変以来の大日本帝国が如何に残虐極まりない侵略国家であり、
原子爆弾攻撃を受けたことが自業自得であるような、罪深い国家であったかを
日本国民及び世界にアピールする為の政治機関であったのである。
判事の一人であったラダ・ビノード・パール判事も、同様の所感を述べている。

東京裁判に於ける検察側の立証は、①一般段階(戦争準備段階)」、②満州段階、
③支那段階、④ソ連段階、⑤太平洋段階、⑥残虐事件段階、⑦個人段階の
7段階に亘って行なわれ、所謂「南京大虐殺事件」は日本軍の捕虜虐待等と
共に、6段階目の残虐事件段階で行なわれた。


南京攻略戦31
日本軍戦車隊の南京城内突入


昭和12年(1937年)12月から、昭和13年(1938年)春に掛け、当時、
国民党一党独裁の中華民国の首都であった南京の攻略戦に勝利した6~7万人の
日本軍将兵が、30万人もの南京市民を虐殺したとされている「事件」の事。

司令官から一兵卒に至るまでが6週間に亘って、獣のように嗜虐的に 8万人もの
婦女子を強姦しては惨殺し捲くったということになっている。
日本軍将兵は女性を犯した後、陰部に竹を突き刺しては殺し、妊婦を犯した後は
腹を切り裂いて、胎児を取り出し、その子まで銃剣で刺し殺したという。
娘を親の前で犯し、妻を夫の前で犯し、その後は銃剣で刺し殺し、軍刀で首を刎ね、
乳房は銃剣で切り取ったという。
そのように残虐非道な殺され方をした南京市民の遺体が、道路の両脇に延々と
続いていたと、自分らは現地に居らず、実見してもいない白人記者たち、
ニューヨークタイムズのT・ダーディン、H・アベンド、 シカゴ・デイリーニューズの
A・T・スティールらが記事を世界に配信した。


南京攻略戦35


そもそも、この所謂「南京大虐殺事件」報道は、中国国民党宣伝部とアメリカ、
イギリス、オーストラリアの反日記者達や、反日工作員であったプロテスタント
宣教師達が協同して行なったブラックプロパガンダ(虚偽を広報する宣伝戦)である。

この「南京大虐殺事件」のブラックプロパガンダの背景として、当時の欧米人が
抱いていた人種差別意識を根底にした、日本蔑視の感情を見逃してはならない。
我が国は白人と肩を並べ、列強と称されるようになった、憎き黄色人種の国で
あったのである。

また、党と軍を掌握し、最高職に就いていた蒋介石と、その妻宋美齢、彼女は
聖書を売り捲くって、 財閥にまでのし上がった一族の娘でプロテスタント信者であった。
工作員でもあった当時のプロテスタントの宣教師たちが、異教徒である日本人の
排斥に協力する素地は充分にあったのである。
終戦時には中国全土に3000人程の宣教師が居たそうであるが、敬虔なる人格者の
イメージとは程遠い輩であったようで、その殆どが終戦後に追放されている。

昭和7年(1932年)に起きた上海天長節爆弾事件のテロにも関与したという、
プロテスタントの宣教師ジョン・マギーに至っては、東京裁判に於ける反対尋問で
自分が実際に目撃したのは、たったの一件であると証言している。
しかも、その事例は「大虐殺」とやらとは遥かに程遠いもので、安全区の路上に
於いて、一人の中国人青年が日本軍の歩哨に誰何された。その際、その青年は
逃亡を図り、駆け出した。歩哨の日本軍兵士が制止するも、逃げ続けたので
射殺されたという内容である。
これは歩哨任務に就く兵士の正当な警備行動で、虐殺とは表現されない。

そんな輩が、幾万もの南京市民が日本軍に虐殺されたと世界に発信したと
いうのが、このブラックプロパガンダの舞台裏の現実なのである。


国民政府庁舎
日章旗の翻る南京政府庁舎


1938年当時、中国国民党が国際連盟に提訴して却下された時点での犠牲者数は、
戦死した中国国民党軍兵士と南京陥落直前に軍服を脱ぎ捨て、平服を身に纏った
便衣兵(ゲリラ戦兵士)など2万人であった。

誇張した犠牲者数で2万人であったにも拘わらず、8年後の東京裁判に於ける
検察側の立証で取り上げられた段階では、その犠牲者数は何と10倍の20万人に
膨れ上がっていたのである。
端から盛った話で2万人、それが東京裁判では20万人に大膨張。
但し、当然の事ながら、南京市民からの聞き取り調査で、虐殺事件なるものの
証言は一件も得られていない。
東京裁判開廷当時の犠牲者数で言えば、20万人もの南京市民が虐殺された
という、僅か8年前の大事件であったはずであるにも拘わらず、たった一件の
目撃証言さえ得られていないのである。
目撃証言どころか、実は遺体が無い。一人の被害者名簿も無い。遺族も居ない。


蒋介石と毛沢東
蒋介石と毛沢東


特に留意すべきは、この所謂「南京大虐殺事件」に就いて、当時から何百回にも
及ぶ欧米報道機関を対象とした記者会見を行なっていた国民党の蒋介石でさえ
語っていないことである。
共産党の毛沢東も周恩来も、「南京大虐殺事件」に就いて言及していない。
でっち上げであることを充分に承知していた彼らが、沈黙していたのは当然である。
「南京大虐殺事件」なるものが事実であったとするならば、抗日戦を遂行していた
彼らにとって、日本を窮地に追い込むような国際世論向け宣伝戦の恰好の材料で
あったはずである。

ところが、1980代以降の中国では江沢民主導の下、この「南京大虐殺事件」を
史実として歴史教育が為された。
その犠牲者の数は30万人、現在では40万人とも50万人とも言われる様になり、
更に中国全土では数百万人が日本軍に虐殺されたと、国民党軍や八路軍に依る
自国民大虐殺までがカウントされている始末である。

その証拠写真とやらも、昭和12年(1937年)7月29日、北平(現在の北京市)の
東約12kmに在った通県(現在の北京市通州区北部)には「冀東(きとう)
防共自治政府」が置かれていたが、その中国人の保安隊約3000人に依って、
日本軍部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名が襲撃され、
約260名が虐殺された「通州(つうしゅう)事件」に於ける、日本人の遺体
写真であったり、満州馬賊の遺体写真であったりと、インチキな代物である
ことが暴かれている。


南京攻略戦32


連合軍占領下で、日本国政府を超越し、君臨した連合国最高司令官総司令部
GHQの意図を反映し、この「南京大虐殺」なるものの報道は、日本の報道機関
でも為されたが、それは東京裁判の行なわれていた期間中の昭和21~23年
(1946年~1948年)に限定される。
昭和12年(1937年)の南京攻略戦に、日本軍に従軍していた報道関係者は、
朝日新聞が約90人、毎日(東京日日、大阪日日)新聞が約80人、 共同通信社
数十人……合計数百人が現地取材で南京入りしたのであるから、彼らは南京の
真実を知っていたはずである。
彼らは、無かったことを有ったとは書かなかった。

しかし、その後、昭和46年(1971年)、中国で毛沢東派の紅衛兵が文化大革命を
繰り広げていた時代に、朝日新聞の本多勝一(崔泰英)記者が突如として、
「南京大虐殺」キャンペーンを始め、「中国の旅」という反日捏造記事を書いた。

当時の読売新聞社や毎日新聞社の編集責任者には、まだ南京攻略戦に同行取材し、
南京の状況を実見した記者が残っていたとのことであるが、それに比して、
朝日新聞社の場合は、編集責任者も本多勝一(崔泰英)記者も当時の南京を
知らぬ者たちで、無慙にも中国国民党のブラックプロパガンダの通りを記事に
したのである。
繰り返すが、東京裁判の審議に伴い、南京市民からの聞き取り調査が行なわれた結果、
大虐殺があったことの証言などは一件たりとも得られていないのである。


南京攻略戦33


中国人は「大虐殺」を「大屠殺」と表現するそうであるが、南京郊外の江東門近くに
「南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)」がある。
「旧日本軍の蛮行を、子々孫々にまで伝える」為の記念館であるという。
実は、この記念館の建設を執拗に中国共産党に持ち掛けたのは、日本人である。 
建設資金から建物の設計に至るまで、日本人が遣ったのである。

おまけに30万人虐殺説捏造まで提供している。 
この30万人を「政治的数字」と、当の中国共産党が認めている始末であるから、
実に何をか況やである。
犯人の反日日本人は、日本社会党で委員長にも就いた田辺誠氏(2015年7月
2日死去)であり、総評が3000万円を中国共産党に資金提供したという。
記念館の建設費用は870万円で事足りて、残金は中国共産党幹部連中で山分け
したという、実に薄汚いオチまで付いている。
日本人の敵は獅子身中の虫、日本人の中に居た反日左翼の日本人、反日朝鮮系
日本人であった訳である。

私は若い頃、東京都千代田区永田町に在る国立国会図書館に通っては、様々な
歴史的資料を閲覧したものである。
現在ではインターネット上でも有る程度は閲覧出来るので、探究心の有る方は
利用されると良い。
「南京大虐殺事件」なるものに関しては、極東国際軍事裁判記録(東京裁判記録)や
日本陸軍支那派遣軍関係の文書を閲覧されると良い。


南京攻略戦34


幾度でも、幾度でも繰り返す。
日本軍が30万人もの南京市民を虐殺したと言うが、その遺体が無い。
当然のことながら、一人の被害者名簿さえ無い。遺族も居ない。目撃者も居ない。
日本を貶めようと連合国の検察側が頑張った東京裁判でも、南京市民からの
聞き取り調査を実施したものの、大虐殺とやらの目撃証言を一件も得ていない。

「南京大虐殺」とは、馬鹿馬鹿しいにも程が有る大法螺話である。
南京攻略戦当時の南京城内の人口は20万人であるから、皆殺しにしても
20万人ということになるが、残りの10万人は幽霊でも殺したと言うのか?
日本軍の南京入城後、中国人が流入したことで、2ヶ月後には人口が5万人増え、
25万人になっているが、常識的に考えても、大虐殺が行われているという
地獄絵図の様な屠殺場と化した南京城内にのこのこと戻って来るものか?
むしろ、暴虐を尽くした国民党軍が南京城から撤退し、南京市民が安心して、
城内に流入したいうのが事の真相ではなかったか。

30万人が殺されたならば、30万体の遺体があったはずである。
野球場の観客数の10倍、広島で原爆が炸裂したあの日の犠牲者の2倍以上もの
遺体数である。
平均体重を50kgとしても、30万人なら15,000,000kg、15,000tにもなる。
その15,000tもの肉と骨は一体全体、何処に行ったというのであろうか?
焼却した形跡も無く、埋葬された痕跡も無い。
15,000tもの遺体の山を一体全体、どの様な方法で無と化したのか。
15,000tもの肉と骨を全部、長江の流れに放り投げたとでも大法螺を吹くか?
ナチスドイツのユダヤ人虐殺の事例で解るように、遺体の処理というものは
大層難儀なものなのである。
要するに、早い話が嘘なのである。


南京攻略戦36



皇軍である帝国陸軍の軍紀は厳格なものであった。
中国兵如きとは違い、皇軍将兵に限っては、一般市民の大虐殺など有り得ない
ことなのである。

前述した「便衣兵(平服のゲリラ兵)狩り」は国際法上、合法な戦闘行為である。
中国兵は卑怯にも平服に着替え、非戦闘員が居住する安全区に逃げ込み、
日本軍将兵を襲撃もした。
ハーグ陸戦規定で、便衣兵の即時処刑を合法化しているのは、非戦闘員を戦禍
から守る為である。
処刑が殺人である以上、刺殺や銃殺など残酷な行為であるのは当然で、それは
何も日本軍に限ったことではない。
これら便衣兵の処刑を東京裁判では、民間人の虐殺と摩り替えられたのである。
しかも、中国兵は軍服を脱ぎ捨て、平服に着替えてゲリラ化した訳であるが、
その着替えた平服一式は衣料品店で正規に購入したという代物ではない。
中国兵は路上で同胞を殺害し、衣類を奪ったなどという中国人の証言がある。
そのような被害者さえも、日本軍に殺されたことになっているのである。

日本軍が南京城を攻略した段階で、国民党の幹部や南京防衛軍司令官唐生智ら、
軍の上層部は、兵士を置き去りにして、既に逃走していたという。
国民党軍には「督戦隊(とくせんたい)」という部隊があって、退却や逃走する
中国兵を射殺したり、トーチカの守備兵に至っては、足枷でトーチカに繋ぎ、
更には逃亡出来ない様にトーチカの出入り口を鎖で塞ぐ等、一体どちらが敵か
判らない程に、同胞を残虐非道に扱ったという、著しくモラルの低い軍隊組織
であったのである。
そもそも、南京城内に置き去りにされた中国兵たちは、南京周辺で3度に亘り、
少年に至るまで強制的に徴兵された人々が殆どで、日本軍の進攻に恐怖し、
軍服を脱ぎ捨てて、一般市民の中に逃げ込んだケースが多かったという。

この国際法上、禁止されていた国民党軍の「便衣隊」に依るゲリラ戦に対し、
日本軍が南京城内の敗残兵掃蕩戦で、それら平服の中国兵たちを民間人の中から
探索し、ハーグ陸戦規定で当然の合法行為である便衣兵の即時処が、第三者の目には、
非戦闘員を殺害したと映るのは至極、当然のことである。


日本軍に依る処刑 詳細不明


村山富市元首相は、平成25年(2013年)5月19日付日本経済新聞インタビューで、
安倍晋三首相の「侵略の定義は定まっていない」との発言を批判し、「武力で
敵国に乗り込めば、それが侵略」と述べたが、大日本帝国が遂行した戦争が
自衛戦争であったことは、歴史的事実である。

対中国に関し、日本軍が中国大陸に駐留していた事実を以って、即座に侵略と
する論を為す人々が居るが、日本軍は明治34年(1901年)9月7日調印の
「義和団事変ニ関スル最終議定書(北京議定書)」に基づいて、合法的に「北京・
山海関間の鉄道の保全、並びにこの間に居住する居留民の保護の為に駐兵及び
演習する」ことになったのである。

義和団事変とは、1890年代末から山東省で大刀会などの武術組織を中心とした、
大規模な反キリスト教の立場に立った武装排外運動で、1900年には天津や北京
を占拠、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃し、外国人を大虐殺した。
清朝政府は当初、義和団鎮圧に当たっていたが、1900年6月、「扶清滅洋
(清を助けて、西洋を滅ぼす)」を掲げるこの大規模な武装排外運動を支持し、
義和団と共に外国勢力を排除することに方向転換、列国に宣戦布告をした。
これを受けて、日本、ロシア、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、
イタリア、オーストリアの8ヶ国の連合軍2万人が出兵し、これを鎮圧、8月
には清朝政府が降伏し、翌1901年の「義和団事変ニ関スル最終議定書(北京
議定書)」で、北京への外国軍の駐屯を認めた。


義和団事件1
義和団事変の図


また、1946年までの中国には、「租界(そかい)」があった。
租界というのは、清国とイギリスで戦われた阿片戦争後の不平等条約に依り、
中国大陸各地の条約港に設けられた、行政自治権や治外法権を持つ外国人
居留地のことで、20世紀の近代中国に於ける列強の権益の拠点であった。
中国に租界を有していた列強は、イギリスを始めとして、日本、アメリカ、
フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどで、
それぞれの国が自国の居留民保護の為に、軍隊を駐留させていた。

この外国人居留地は、列強が外交上の交渉で清国から得た権益で、後に
中華民国に継承された訳であるが、この治外法権を持つ居留地を、中国の
官憲には保護する義務があったにも拘わらず、彼らは軍隊組織、警察組織と
しての体を為しておらず、彼ら自身が昭和2年(1927年)、日本人が虐殺された
「もう一つの南京事件」や昭和12年(1937年)の通州事件等、凄惨極まりない
日本人惨殺事件を引き起こしていたのである。

義和団事件2
「義和団事変ニ関スル最終議定書(北京 議定書)」に基づき、自国の居留民保護の為、日本、イギリス、
アメリカ、 フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリア各国が軍隊を駐留させていた。


我が国にも嘗て、横浜や神戸に外国人居留地が存在した。
安政年間(1858年)に、江戸幕府の日米修好通商条約を始めとして、
イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。
この「安政の五ヶ国条約」に依り、東京と大阪、箱館、神奈川、長崎、
兵庫、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。

開港場としては、横浜と神戸のみであったが、居留地は長崎や築地など
にも在り、外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、或いは
住宅倉庫商館を建てることが認められ、治外法権とされていた。
我が国の場合は条約改正の外交努力に依り、1899年には総べて回収した
訳であるが。

日中全面戦争への道程として、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、
首都南京攻略という経緯は、中国を侵略するという目的ではなくて、
発端は飽くまでも、日本人居留民保護の為に止むを得ず、日本政府が
軍隊を増派したということなのである。

譬えて言えば、幕末、居留地を守るべき幕府の軍隊が治外法権を持つ
横浜の居留地に侵入し、小規模のイギリス軍を撃破、略奪の上、外国人に
陵辱を加え、虐殺したとする。
更に、居留地は幕府の大部隊に包囲された状態が続く。
当然、イギリス本国政府は自国民保護の為に、艦隊を派遣し、陸兵も増派する。
増強されたイギリス軍と幕府軍との交戦があり、幕府軍は江戸に潰走した。
そこで、イギリス軍は禍根を断つ為に、江戸府内にまで追撃し、幕府軍を江戸
から駆逐したとしよう。

要するに、日中の武力衝突が泥沼の戦争状態にまで発展した構図というのは、
正にこういうことであった訳なのである。
この譬え話の江戸が、実際の日中戦争に於いては、南京であった訳である。


上海租界地51
上海の租界地


南京大虐殺「否定」論者と南京大虐殺「肯定」論者などと併記すれば、双方に
相応の理が有るかのように見受けられようが、事実でないことは何処までも
事実ではないとして、歴史的事実を正当に認識する常識人か、無意識的にか、
否か、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)に
依る東京裁判史観の呪縛にその身を委ね続ける被洗脳者か、ということである。

要するに、南京大虐殺なるものが、事実でないことを事実のようにでっち上げ
られた大嘘と見抜いている常識人と、それを見抜けぬ莫迦者と、情報戦に於ける
ブラックプロパガンダのメインテーマとして、南京大虐殺の虚構を大いに活用
する反日左翼の扇動者の3タイプの日本人が存在しているということである。(了)




南京入城時7
12月13日、南京入城時


12月13日 入城に拍手1
12月13日の南京入城時、市民が拍手


12月15日安全区にて
12月15日、安全区にて


安全区内3
安全区にて


12月22日 お菓子を配る日本兵
12月22日 お菓子を配る日本軍兵士



日本軍の南京市民への布告を掲示






国民党軍中国兵捕虜


支那兵捕虜の護送 僅かな日本兵
便衣兵捕虜移送時の日本軍兵士の少なさは注目に値する。小銃を構えてもいない。


良民証交付1
良民証交付


12月20日 支那兵を治療する看護兵
12月20日、国民党軍中国兵捕虜を治療する日本軍看護兵


12月20日か23日 日本軍衛生隊
12月20日or23日 日本軍衛生隊



12月20日or23日 日本軍衛生隊

安全区で南京市民に食糧を配布
安全区で南京市民に食糧を配布


12月30日婦人にミルクを上げる
12月30日、婦人にミルクを渡す日本軍兵士





12月20日 子供と遊ぶ
12月20日、子供と遊ぶ日本軍兵士



子供と一緒に写真撮影


赤星昴少尉と支那人の少年
赤星昴少尉と中国人少年


子供たちと
子供たちとの交流






露天商との交流


食事する日本兵
露天で食事する日本軍兵士


12月27日 k


露天商との交流
露天商との交流


露天商
中国人露天商



中国人露天商


南京市民の親子
南京市民の親子


12月25日 壊れた馬車で遊ぶ子供たち
12月25日、壊れた馬車で遊ぶ子供たち


12月15日 支那人家族
12月15日、中国人家族











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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2015/10/19 11:25 | 支那関連COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

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