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朝鮮人強制収容所は、釜山の何処に在ったのか…朝鮮人の事実誤認は甚だ病的である。

 2017-02-16
朝鮮人強制収容所は、釜山の何処に在ったのか。

…朝鮮人の事実誤認は甚だ病的である。



昭和13年(1938年)、第1次近衛文麿内閣は第73回帝国議会に於いて、
総力戦遂行の為、国家の総べての人的、物的資源を政府に依る統制、
運用を可能とする国家総動員法を制定させた。

国家総動員法第四条
「政府は戦時に際し、国家総動員上必要ある時は、勅令の定むる所により、
帝国臣民を徴用して、総動員業務に従事しむることを得る。
但し兵役法の適用を妨げず」
この国家総動員法に基づき、昭和14年(1939年)7月、国民徴用令
(勅令第451号)が発せられた。


第32記事1朝鮮総督府庁舎
               朝鮮総督府庁舎


朝鮮人が「強制連行」と称するブラックプロパガンダは、自由意志に依る
大量の移住者、自由意志で政府の「募集」「斡旋」に応じ、渡航して来た労務者、
及び国民徴用令に基づく「徴用」の戦時動員全体を対象としている。
戦後の造語である「強制連行」とは、この動員を指す。

但し、昭和19年(1944年)8月に至る迄、朝鮮人には国民徴用令の適用が
免除されていた。
朝鮮人の日本本土への徴用が開始されたのは、昭和19年(1944年)9月で、
下関-釜山間を運航していた関釜連絡船が米軍潜水艦の脅威に依り、航路の
安全を確保出来なくなった、昭和20年(1945年)3月迄の僅か7か月間で
朝鮮人労務者移入の実施は終了している。
しかも、朝鮮半島に於いては、国民徴用令は婦女子には適用されていない。
朝鮮人は「強制徴兵」と称するが、徴兵でさえ、朝鮮半島で実施されたのは
終戦の前年、昭和19年(1944年)9月である。

朝鮮人は政府の「徴用」を殊更に「強制徴用」と称するのを好む様であるが、
法令に基づく「徴用」は当然のことながら、「徴用拒否は一年以下の懲役に処す」
との強制力を持った戦時動員であったことから、「強制」の語は余計である。
「ご都合が宜しければ、是非お越し下さいませ」などという悠長な「徴用」は
天上天下、何処を探してもあろうはずはないのである。


半島人労務者移入に関する件


因みに、私の両親は昭和19年(1944年)に公布された学徒勤労令、及び
女子挺身勤労令に従がい、皇国の臣民として、勤労奉仕の義務を果たしている。
父は鉄道省の省線(省営鉄道、後の国鉄、JR)で働き、鉄橋上を走行中に
グラマンの機銃掃射を受けたものの、機敏に遮蔽物に身を隠し、九死に一生を
得たという体験も語っていた。
(当時の民間人は、米軍戦闘機なら何でも「グラマン」と呼んでしまう)
私が子供の頃、父は「戦後も鉄道に残った動員仲間で、幾人かが国鉄の駅長に
成っている。自分も残っていた方が良かったかも」と笑っていた。
自分も早く御国の為に戦いたいと望んでいたという、その父が赤紙(召集令状)を
受け取ったのは、何と終戦日の昭和20年8月15日であったという冗談の様な逸話もある。

母は海軍基地であった横須賀鎮守府で事務員として働き、終戦後には鎌倉の寺院に
設けられた終戦連絡事務所にも勤務したとのこと。
海軍士官にはハンサムでダンディーな人が多かったと褒め千切っていた母には、
さぞかし乙女心を煌めかせた覚えがあったのであろう。
海軍の将兵は挺身隊の少女達をとても可愛がってくれただけに、終戦の日には、
国家の敗戦以上に、職場の上司や仲間との別れが悲しくて泣いたと語っていた。
横須賀鎮守府からの転勤で、前線に出征した顔見知りの士官の戦死を名簿に
記すのはとても辛かったとも述懐していた。
戦時下、十代の少年少女であった我が両親は、その貴重な青春時代を御国の為にと、
御奉公に捧げた訳であるが、二人は戦中戦後の苦労話は語ったものの、生涯、
国家への恨み言は一言たりとも吐かなかった。


敗戦の哀しみ
          敗戦の哀しみ 乙女の涙


国家総動員法の緩やかな適用に依る、「募集」「斡旋」「徴用」で、朝鮮半島から
内地に渡航した人数は、旧厚生省の統計で66万7684人、旧内務省の統計では
63万5000余人とされている。
明治43年(1910年)の日韓併合時、朝鮮半島の人口は約1千3百万人。
昭和20年(1945年)の終戦時の朝鮮人人口は、朝鮮半島約2千5百万人、
日本内地約2百万人、満州、華北約2百万人であった。
終戦時、内地で動員されていた朝鮮人は、労務者、軍人、軍属全体で約43万
5千人、朝鮮人人口の22%に過ぎない。
残りの78%、156万5千人の内地在住朝鮮人は戦時動員ではないのである。


第32記事8加州アルカディアに到着サンタアニタセンター
日系アメリカ人強制収容 カリフォルニア州サンタアニタ収容所に到着の風景

第32記事10日系人強制収容2
          日系アメリカ人強制収容所のフェンス


北朝鮮は600万人強制連行説の法螺を吹いていたが、平成15年(2003年)に
至り、朝鮮労働党機関紙労働新聞の記事では840万人に膨張させている。
昭和17年(1942年)当時の統計では、朝鮮半島の人口は約2500万人であるからして、
朝鮮人の3人に1人が朝鮮半島から日本本土に強制連行されたと奇妙奇天烈な
主張をしているのであるが、昭和20年(1945年)の終戦時の朝鮮半島の朝鮮人
人口は約2500万人と、昭和17年(1942年)当時の人口と変化は無い。

韓国国定教科書では、日本政府は650万人もの朝鮮人を強制連行し、その中の
朝鮮人女性数十万人を強制的に慰安婦にし、無報酬の性的奴隷として、日本軍
将兵が日常的にレイプし捲くり、挙句の果ては「皆殺し」にしたとしている。
数十万人と言えば、常識的に40~50万人を意味するが、最近では何故か、
人数をダウンさせて、20万人説を定着させている。
慰安婦として働いた女性たちは、日本人、台湾人、朝鮮人、インドネシア人、
フィリピン人、ベトナム人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人、中国人、
オランダ人などで、日本人女性が7割、朝鮮人女性が2割を占めていたという。
全体の2割で20万人であるとすれば、慰安婦総数は100万人になる。
終戦時に於ける日本陸海軍の残存兵力は内地に約173万人、外地に約330万人
との統計がある。
支那事変から大東亜戦争(1937年~1945年)での軍人、軍属の戦没者数は
約230万人(政府の公式見解)である。
700万人規模の軍隊に、100万人の慰安婦が充てがわれたなどとの捏造話には
無理がある。
しかも、朝鮮人慰安婦は毎日毎日、40人から50人の日本軍将兵にレイプされ
捲ったというのであるから、尚の事、数が合わない。


下関市公安局HP
下関市公安局様HP依り、
関釜連絡船の航路図を拝借。


我が国の教科書に於いても、
「朝鮮の人々のうち、約7万人が朝鮮総督府の行政機関や警察の圧迫などによって
日本本土に強制連行され、過酷な条件で危険な作業に従事させられた。
戦争末期には徴兵制もしかれ、また、多くの女性が挺身隊に集められた」
(東京書籍 日本史A 「大東亜共栄圏」)

「また、数十万人の朝鮮人や、占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、
鉱山や土木工事現場などで労働させた」
(山川出版 日本史A 「国民生活の崩壊」)

「国内でも労働力不足の深刻な鉱山や土木建築業では、多数の朝鮮人にくわえ、
占領地域の中国人も強制連行し、酷使した」
(清水書院 日本史B 「戦時下の国民生活や社会のようすは」)
等々の記述がある。


第32記事4釜山駅舎
               釜山駅舎


「強制連行」に関する朝鮮人の証言集なる出版物は多く、我が国の教科書にも、
その一部がそのまま掲載されている有様である。

「夜、突然、村のえらいさんがやって来て連行された。論山から釜山まで
貨車で、釜山から船で下関に着いた。トラックで運ばれた後、貨車列車に乗り、
着いた所が柳本(奈良県天理市)だった。昼間は飛行場の建設、夜はトンネルを
掘った」
(宋将用氏の証言)

「朝鮮人女性の連行を計画したのは、桜井町(当時)の特高警察で慶尚南道
普州郡、東普州郡から『家事の手伝いの仕事』と偽って、女子挺身隊の名で
連行し、柳本飛行場(奈良県天理市)の慰安所で売春を強要した。
女性たちは17歳から26歳までの20人で、昼は豆、夜は乾パンだった」
(姜正市氏の証言)

「寝ているところを、警察と役場の職員に徴用令状を突き付けられ、手錠を
掛けられたまま連行された」
(教育出版)

「町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手当たり次第、
役に立ちそうな人は片っ端から、そのままトラックに乗せて船まで送り、
日本に連れて来た。徴用というが、人さらいですよ」
(大阪書籍)


第32記事2釜山港1
               釜山港1

第32記事3釜山港2
               釜山港2


昆虫採集の折には、虫籠が必携であり、魚釣りの折には、魚籠が必携である。
同様に、朝鮮半島から日本本土への強制連行なるものが歴史的事実であると
するならば、その移送経路には朝鮮人強制収容所が存在していたはずである。

ナチス党政権下のドイツに於いて、1933年~1945年に行われたユダヤ人等の
強制収容所への移送、収監風景、昭和17年(1942年)~昭和21年(1946年)の期間、
ルーズベルト政権下のアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、
ペルー、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン等々、連合国側諸国に依って
行われた日系人、日本人移民の強制収容所への移送、収監風景をイメージ
されるが良い。

朝鮮総督府が統治した朝鮮半島の行政区画は、13道(一級行政区画)、
21府(内地の「市」に相当)、218郡、2島、122邑(内地の「町」に相当)、
2202面(内地の「村」に相当)であった。(昭和19年‐1944年当時)

朝鮮十三道制
Wikipedia様「十三道制」依り、画像を拝借。


我が国の官憲が、朝鮮半島全域から何十万、何百万もの朝鮮人を日本本土に
強制連行したとするならば、先ずは122邑(内地の「町」に相当)や
2202面(内地の「村」に相当)にはそれぞれ留置場が必要であったはずである。
更に、13道(一級行政区画)、21府(内地の「市」に相当)、218郡に於ける
交通の要衝にはそれぞれ、中規模な強制収容所が必要であったはずである。
また、朝鮮半島から日本本土への渡航手段には、下関‐釜山間(航路距離 
240km)を運航していた関釜(かんふ)連絡船(1905年~1945年)を
用いていたのであるから、釜山港と下関港の近郊には大規模な強制収容所が
必要であったはずである。
特に釜山の地には、連絡船出航までの待機所であるにせよ、巨大な収容所は
必要不可欠であったはずである。
中近世の大西洋黒人奴隷貿易の交易地ギニア湾の拠点であったエルミナ城や
サン・ジョルジェ・ダ・ミナ城をイメージされるが良い。


第32記事5景福丸1922年就航
          関釜連絡船 景福丸(1922年就航)

第32記事6金剛丸1936年就航
          関釜連絡船 金剛丸(1936年就航)


これら朝鮮人強制収容所の遺構は一体、半島の何処に在るのか。
巨大な朝鮮人強制収容所の遺構は一体、釜山の何処にあるのか。

而して、移送先の日本本土側の収監状態は如何に。
下関は疎か、日本全国、何処にも朝鮮人強制収容所の如きは存在していなかった。

強制連行の場合には、移送に用いる列車の車両の問題もある。
ナチスドイツの様に貨車を用いるか、車窓に鉄格子を設けた特別仕様車両を
用いるか、普通列車で朝鮮人を乗せた車両を一般車両から隔離するか等々。
特別ダイヤでの運行も必要であったはずである。
関釜連絡船内でも、強制連行する朝鮮人は一般客から隔離する必要があった
はずである。
何よりも先ず第一に、軍、及び警察に於いて、護送を任務とする部隊編成が
必要不可欠であったはずである。
しかし、それら諸々の強制連行とやらの記録や痕跡など、我が国には存在していない。

韓国では、釜山の日本総領事館前に慰安婦像とやらを設置しているが、
強制連行が歴史的事実であるとするならば、存在するはずの朝鮮人強制収容所の
跡地こそ、慰安婦像設置に相応しいではないか。
ニューヨーク港の自由の女神像の如き、巨大な像を建立するが良い。
然もなくば、五百羅漢や千体仏の様に、何百、何千と作るが良い。
近い将来、必ずや朝鮮半島全域で慰安婦像の破壊運動が勃発する。
「ハルモニに騙されたぁ!」と叫びながら、打ち壊す狂態が目に浮かぶ様
ではないか。
実に愚かな民族である。


第32記事7大正時代の下関駅前
          大正時代の下関駅前風景


日本人は概して、歴史的事実を実証的、且つ客観的に評価する。
朝鮮人の作為的事実誤認は史観以前の問題であり、甚だ病的である。


昭和34年7月付朝日新聞記事
外務省発表 「大半、自由意思で居住」 戦時徴用は245人
昭和34年(1959年)7月13日付朝日新聞記事





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