「信」の解字 … まことの心と信じる心

「信」の解字 

…まことの心と信じる心





「信」は、
「人」+(「口」+「辛」)と、象形文字の組み合わせで成り立ち、
いずれの文字からも意義を取って構成される会意文字
(かいいもじ)である。

但し、学説に依っては、「辛」は「しん」の音符であるから、
「信」を形声文字(意味を表わす部分と音を表わす部分が
合わさって出来た漢字)としている。


「口」は、「誓いの文書」を表わす。
「辛」は、入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨に依る刑罰を示す。

辛

(「口」+「辛」)=「言」で、
神に誓い、祈ることに、「もし虚偽不純があるならば、
私は神の刑罰としての入れ墨の刑を受けるであろう」と
その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様
(自己詛盟)から、「謹んで言う」「はっきり言う」と
いう意味になる。

70言

※因みに「辛」は「植物の種子」の象形であり、人の「口」から
 発せられた音を「植物の実」に譬えて、「言」という文字が
 出来たとする説もある。

「人」は金八先生の授業のように、二人の人が支え合っている姿
ではなくて、一人の人が立っている形である。

人70

であるからして、「信」は本来、
「一度言明したことや約束したことをどこまでも押し通す」
人間の行為、「途中で屈することなく、真っ直ぐ伸び進む」
人間の行為を表わし、「まこと」「真実」「誠実」の意味を表わす。

「信」の字で最も強くイメージする「信じる」という意味は、
その派生義ということになる。
だから、「不信」の第一義は、
「前言を翻したり、途中で屈したりすること」で、
「疑いを抱く」という意味は第二義である。

私が思うに、「まこと」という意味での「信」には、
それ自体で意義はあるが、「信じる」という意味での
「信」の場合は、その「信じる」対象如何で価値が変わる。

私の嫌いな言葉の一つに「信心」という仏教用語がある。
私はごく当たり前に日本の神々に祈りを捧げる神徒であるから、
「信仰」には大らかであるが、「信心」と聞くと、親が信者で
あった関係で、子供の頃に関わることになった、甚だアクの強い
インチキ教団を連想してしまうので、生理的に毛嫌いする仕儀に
相成ったという次第である。

仏教一般では「信」は、心を清浄にする精神の作用を意味する。
仏道を修める第一歩にこの「信」を置き、心を清浄にして、
仏の教えを疑わず、その教えを行じることが求められる。
どんな宗派でも、この「信」を絶対的に価値有るものとして、
信者に疑いを持たぬこと、すなわち無疑心を求めるものだ。
しかし、そもそも「無疑」を前提とした「信」など有り得ない
のではないのか。
「信じる」という行為は、疑念があるからこそ成り立つことで、
疑念のないことに対しては「信じる」必要もないのだ。
100%疑いの無いことを対象にするのなら、それは「信」では
なくて、「知」である。

親鸞上人の「信心」の意義付けには、その宗教的境地から来る
独特な理論があるように感じられるが、一般に言われる「信心」の
「信」は、この仏様に祈れば、この教団の指導通りに信仰活動をすれば、
きっと自分の願いが叶うのだろう、きっと諸天善神のご加護を戴けて、
悲運を免れて、幸せな境涯に到れるのだろう、尊敬する宗教指導者が
そう言うのだから、きっと、そうに違いないと信じる「信」である。
だから、教団の指導者がどんな馬鹿げたことをやらかしても、それが
宗教的に正しいことで、自分たちのご利益に結び付くということに
疑いや批判の念を抱いてはいけない。疑いを抱いて教団を離れたら、
地獄に堕ちてしまうと考えるような、そういう類いの「信」である。
「鰯の頭も信心から」の「信」に過ぎない。

「鰯(いわし)の頭も信心から」とは、
鰯の頭のように、一般の人には値打ちのないと思うものでも、
信仰心のある人にとって、信仰の対象となれば、尊く有り難い
ものになるという意味である。




平安時代の節分の風習で、注連縄(しめなわ)に鯔(ぼら、なよし)
を柊(ひいらぎ)を飾っていたものが近世以降、鰯の頭を柊の小枝に
刺して、戸口に飾るように変わり、鬼が嫌うとされた柊の棘(トゲ)
と、鰯の臭気で鬼を退散させようとしたものだそうな。

このことわざは一般に、妙ちきりんな宗教を頑迷に信仰している
人や教団を揶揄する場合などに皮肉を込めて語られるが、信仰心の
不思議さを、感嘆の念を込めて譬えた褒め言葉であるのかも知れない。


本尊がどうであれ、教祖がどうであれ、教理がどうであれ、
只ひたすら熱心に信じることに徹して、上意下達の方針を
そのまま行じてさえいれば、ご利益があるという妄信、
狂信の信仰態度は、総べて一切を自己正当化するものだ。
自分達の宗教が世界最高で唯一絶対無二の正しい宗教で、
この信心をしない人は愚かで間違っている、救って上げなきゃ、
成仏出来ない、地獄に堕ちると、他の宗教を邪教呼ばわりして、
激しく薄汚い言葉を吐いては執拗に批難し続ける。
これでは、個人的には「信心過ぎて、極楽を通り越す」
「信心も度が過ぎると却って、邪道に陥って害を及ぼすように
なってしまうから、信心は程々にしなさいよ」という譬えを
実証してしまうことになる。
尤も、「うちの宗教は一番ではなく、何番目かに正しい」と
思っている信者が居る訳もないのだが。



金を儲けるの「儲」という漢字は、宗教団体が集金マシーンと
化して大繁盛している現代では、なかなか面白味がある。
「信+者」=「儲」で、教団本部にお布施がいっぱい!とか、
「人」の「言」うことを「信」じる「者」と書いて「儲」でしょ。
だからね、「信ずる者は儲ける」の。
お金儲けをしたかったら、教祖様の言うことを堅く信じて、
その通りに信心しなさいよとか、現代の日本社会に於いては
ユーモラスに真理を突いてはいると思う。

残念ながら、「儲」の構造は「信+者」ではなく、
「人+諸」である。
「ショ」の音符「諸」は「貯」に通じ、「たくわえておく」の
意味を表わし、転じて「儲ける」の意味が生まれたようだ。
「儲」は、人を貯えておくという意味で、跡継ぎとして
備えておく人、太子の意味を表わす。
「儲位」は皇太子の位を意味し、「儲君」は世継ぎの君、
皇太子を表わす。

これでは面白味の無い解字なので、
「信者」を「沢山抱えている人」は「儲かる」ものだと、
俗説をアピールしておくとしようかな。




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