華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 戦艦武蔵からの生還者だったHさん

戦艦武蔵からの生還者だったHさん

戦艦武蔵からの生還者だったHさん



先日、ちょっと珍しい「H姓」を目にする機会があって
小学生の頃に、家族ぐるみのお付き合いで伊東温泉に
ご一緒したHさんのことをあれこれと思い出した。

Hさんは私の父より幾つか年上で、海軍特別年少兵として出征。
このHさんは何と、生還者の少ない戦艦武蔵の乗組員だったのだ。
子供の頃に初めて、そのことを父から聞いて、ビックリしたものだ。
お酒の好きな方で、会う時はいつも酔っ払っていたので
そんな凄い体験をされた方のようには、とても思えなかった。

1944年昭和19年10月に
戦艦武蔵は、米軍が進攻して来たフィリピンのレイテ湾突入を
目論んだものの、米軍の猛攻を受けてシブヤン海で沈没した。
出撃した武蔵の乗組員は2399人で、沈没した際に救助された
漂流者は1329人とこの段階では、他の艦艇と比較すれば多かった。

九死に一生を得た生存者達はコレヒドール島に上陸したそうだ。
しかし、その後、内地に向った輸送船が潜水艦の魚雷を受けて
沈没したり、マニラ攻防戦やフィリピン各地で陸戦を強いられて
その殆どの方々が玉砕為さったそうだ。

結局、最終的な生存者は2399人中、430人とのことだった。
Hさんは、その中のお一人であったのだ。
重油の漂う海で、丸太に掴まって何時間も漂っていたことまでは
お話してくれたが、その後のことは一切語られなかった。

大和と武蔵400

戦艦武蔵は、大和型戦艦の二番艦で、大和は広島呉海軍工廠で
建造されたが、三菱重工業長崎造船所で建造された。
兵装は主砲が46cm(45口径)砲3連装3基9門を装備していた。
横須賀にある記念艦三笠のタラップ近くに46cm砲弾が置いて
あるが、驚くほどに巨大なものだ。

実は、この主砲が実戦では何の役にも立たなかったのだ。
この46cm主砲の射撃時の反動は余りにも大きかったそうで、
最初の斉射の衝撃で、攻撃目標の照準を合わせるのに不可欠な
方位盤(照準器)が壊れてしまったそうなのだ。
自分で自分を打っ壊したということなのだ。

そもそも戦艦というものは、主砲自体の重量と発砲時の衝撃を
計算して、それに耐え得るものとして、総べての設計が決まる。
早い話が、大和にしても、武蔵にしても、46cm3連装3基9門を
載せたいが為に、建造されたに過ぎないという訳なのだ。

主砲400

大和型の一世代前の長門型戦艦の場合は41cm主砲二連装4基を
装備したいが為に設計、建造されて、あの大きさなったに過ぎない
ということだ。

敵の砲撃の射程外に居る内に、こちらは射程の長い大砲で
一方的に攻撃を開始したい。 
その為に、射程の長い大口径の主砲が欲しかったのだ。
しかし、航空戦力が充実して来た時代には殆ど意味を為さない
時代遅れの考え方であった。



これをアウトレンジ戦法というが、米軍はこの考え方を
空母艦隊搭載の雷撃機や爆撃機の「航続距離」「レーダーに
よる情報収集能力」に当て嵌めて、勝利した。

因みに戦闘機で言えば、あれは「空飛ぶ機関銃」に過ぎなかった
ということと同じ道理なのだ。
口径何ミリの機銃を何基装備出来て、弾丸を何発装備出来るかが
戦闘機のメインテーマだったのだ。

にも拘わらず…
人も組織も得てして、目的と手段を取り違えてしまうものだ。
その主砲が実戦で役に立たねば、世界一の戦艦と言っても、
戦力的には魚雷一本にも劣るのだ。何たる浪費であったことか。

戦艦武蔵はシブヤン海海戦で雷撃(魚雷)20本、爆弾17発命中、
至近弾は20発以上受けたそうだが、それでも直ぐには沈没しなかった
のだから、その造船技術レベルの高さは証明したことになる。
舷側を破壊されて浸水したら、反対側に海水を注入するなど
注排水をコントロールすることでバランスを保つことが出来る。

米海軍航空隊は、この武蔵攻撃の教訓を活かして、戦艦大和の
攻撃に際しては、徹底して左舷に攻撃を集中させた訳なのだ。

武蔵触雷撃400

温泉ホテルのプールで、Hさんの泳ぐ姿を見た。
日本泳法とか、古式(古流、和式)泳法とか言うそうだが、
斜めになって、見たこともない妙な手足の動かし方をされていた。
憶えているのは「抜き手」とか「もろ手伸び」「二段伸び」
といった変テコリンな名前だったこと。

武蔵から海上に逃れて、漂流されていた時には、こんな風に
泳がれたのかなと子供心にも勝手な想像をしてしまった。

夜になって、またプールで泳いだ。
そこに、お酒を飲んで酔っ払ったHさんがプールサイドに
やって来たのだが、その時、海水パンツの脇からもろに
オチンチンがはみ出ていた。
きっとトイレに寄って来て、酔っ払っていたから
オチンチンを収納し忘れたのだろう。

それを見たHさんの奥さんの発した言葉が、実に面白かった。
大きな声で、ただひたすら「玉(たま)!玉(たま)!」と
Hさんが気付くまで連呼した。

武蔵でのHさんの配置がどこであったか、憶えていない。
Hさんが砲塔や機銃配置であったなら、 戦闘中にきっと、
上官から「弾(たま)を持って来い!」
「弾(たま)!弾(たま)!」と怒鳴られたことだろう。

戦艦武蔵の栄えある水兵さんであったHさんが
奥さんに「玉!玉!」と怒鳴られていた。

やっぱり、戦争のない平和な時代が一番良いのだ。




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2011/06/18 16:59 | 随想COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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