華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 殉国 …終戦後の特攻出撃

殉国 …終戦後の特攻出撃

殉国 …終戦後の特攻出撃


私の友人、Mさんのご親族に、昭和20年8月15日正午、
昭和天皇が全国民に対して、連合国に無条件降伏する旨、
終戦の詔勅(しょうちょく)を発せられた玉音放送の後、
15日か16日かも判らないが、戦友の制止を振り切って
出撃された特攻隊員が いらっしゃったと伺い、
大変に感銘を受けた。
翻意を促そうとした、その同僚隊員ご自身からの
お身内への悲しい証言があったそうな。

その出撃がどこの基地からであったのか、
そのお身内が海軍の神風特別攻撃隊員であったのか、
陸軍航空隊の特攻隊員であったのかなどの詳細について、
Mさんはご存知でなく、さぞかし混乱が頂点に達したで
あろう終戦時の出来事だけに追跡調査は難しい。

宇垣纏中将400

Mさんにお話を伺って、最初に思い浮かんだのは「最後の特攻」と
呼ばれる、玉音放送後で無条件降伏を知った後の 宇垣纏(まとめ)
海軍中将と大分701航空隊彗星艦上爆撃機11機の特攻出撃だった。

宇垣纏海軍中将は第五航空艦隊司令長官として、約半年に渡り、
特攻隊の出撃を命令し、鹿児島鹿屋航空基地で彼らを見送った。
終戦時は大分航空基地に居た。

彼は正午の玉音放送で無条件降伏を知り、自身の自決の為に
敢えて「未だ停戦命令を受けていない」として、5機出撃の
特攻命令を下した。 その内の一機に自分が同乗する為に…。

ところが、隊長の中津留達雄大尉(23歳)は
「長官が特攻を掛けられるというのに、たった5機というのは
何ごとでありますかっ! 私の隊は全機でお供します」と応え、
11機の彗星艦上爆撃機で出撃したのだった。
中津留大尉は隊員達に「一度、爆弾を落としてから、
再度、敵艦に体当たりせよ」との命令を下したと記録にある。

彗星400

中津留隊の搭乗機となった「彗星(すいせい)」は単発複座で、
操縦士と偵察員の2人乗りであった。
宇垣中将が中津留機の偵察席に乗り込もうとしたが、
偵察員の遠藤秋章飛曹長(22歳)が既に乗っていて、
「降りろ」と命令されても聞き入れずに結局、狭い偵察席の
シートに宇垣中将が座り、遠藤飛曹長はその足元にしゃがみ
込むようにして、1機3名で出撃したそうだ。

因みに、中津留大尉は前月の7月に女児を授かったばかり。
遠藤飛曹長は新婚一週間目だったそうだ。

つまり、彗星1機には3名、他の彗星10機には20名
合計23名が搭乗していたのだ。
出撃した11機の内、途中で3機は不時着している。
不時着時に1名が戦死しているので、生還は5名
22名の内、生還した5名を除いて、「十七勇士」と呼ばれ
岡山護国神社に宇垣纏中将と共に祭られている。

アメリカ軍側の調査に依れば、
この攻撃で、テンダー水上機母艦が小破したとある。

実は、彼ら中津留隊は無条件降伏の玉音放送を聴いてはおらず、
自由意志ではなく、命令で特攻出撃させられたという説もある。
宇垣纏中将の「私兵特攻」であったのかも知れないのだ。

彗星艦爆400

Mさんのご親族は、中津留隊の名簿にはない。

終戦の8月15日午後と16日には、全国の航空基地から
日本近海に出撃している艦船に体当たり攻撃を考えたのか、
先に逝った戦友達の後を追うかのように、一人静かに出撃して
行った特攻隊員達がいたそうだ。
中には自ら海面に突っ込んで、自決を遂げた隊員も…。
彼らの最後の様子を伝える記録は、殆ど無いに等しい。

航空特攻作戦に限って言えば、
海軍の航空特攻の戦死者は2531名
陸軍の航空特攻の戦死者は1417名と確認されている。

しかし、Mさんのご親族や701空のような場合は
玉音放送後であった為に、特攻名簿には載っていない。

終戦当時、自決した人々は700名に及んだとのことだが、
阿南陸軍大臣やフィリピンレイテ湾で最初の神風特別攻撃隊
関行男大尉の敷島隊に出撃を命じた大西瀧次郎海軍中将以外に、
特攻作戦推進の責任を取って、自決した軍幹部など居なかった。

これで死なずに済んだと安堵した人々も多かったろうに、
Mさんの血縁である若き特攻隊員の彼は、戦友の制止を振り切ってまで、
何を思って一人静かに真夏の空へと飛び立って行ったのだろうか。
思いを馳せるだけでも、せめてもの慰霊になるような気がする。



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2011/06/18 18:01 | 随想COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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