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陸奥宗光と社交界の華亮子

 2011-06-21
陸奥宗光と社交界の華亮子


幕末の動乱期に活躍し、歴史に名を残した人々の中で、
私が僅かながらもご縁を持っているのは、佐幕派では
新撰組の沖田総司だが、討幕派では、大江卓、後藤象二郎と
土佐系の志士達だ。
そんな関係で、少年の頃から陸奥宗光にも興味があった。

彼は紀州藩士の六男として生まれた。
伊達家の分家、駿河伊達家の子孫であったようだ。
若き日には、陸奥陽之助、伊達小次郎と名乗った。
頭脳明晰な俊英であった彼は、江戸時代の儒学を
集大成したとされる儒学者安井息軒に師事するも、
遊郭吉原通いが露見して、破門を受けた。

安井息軒は、近代漢学の基礎を築いたとされ、
「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。
一生の計は少壮の時にあり」
という有名な言葉を残した人だ。



陸奥陽之助は、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(後の木戸孝允)
伊藤俊輔(後の伊藤博文)と交友を持ち、勝海舟の神戸海軍操練所に
学び、その後、坂本龍馬の海援隊に加盟した。
坂本龍馬が彼を評した有名な言葉が残っている。
「二本(刀を)差さなくても食って行けるのは、俺と陸奥だけだ」
それに対して、陽之助は龍馬を評して、
「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき
 自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と語り残している。

明治10年に薩摩の私学校党が西郷隆盛を擁して、政府軍と戦った
西南戦争に際して、陽之助は土佐の大江卓らとともに、政府転覆を
謀ったが、明治11年にそのことが露見して、禁固5年の刑で投獄。
明治16年に特赦で出獄、その後は旧友伊藤博文の後援もあって、
ヨーロッパに留学。
政界に復帰後の彼の活躍は目覚ましかった。
外交官、大臣として活躍し、江戸幕府が諸外国と締結していた
15カ国との不平等条約を改正し、治外法権の撤廃を成し遂げたのは
総べて、彼の外務大臣在任期間中のことであった。

陽之助は芸妓出身の妻蓮子を亡くし、明治6年に後添えを得た。
その名を亮子と言う。 当時、17歳。
彼女は明治維新で没落した士族の生まれであったそうで、
徳川家旗本金田淡路守の娘、また播州竜野藩士の娘との説もある。
士族の娘が花柳界や遊郭に身を沈めたという例は当時、多かった。

柏屋の芸妓「小鈴」として、新橋で一二を争う美貌は評判となり、
大いに売れたそうだ。
しかも、「男嫌い」との評判もあり、身持ちは堅かったとか。

明治11年に夫の陽之助が政府転覆運動に加担した罪で
投獄されている間、相思相愛の二人は往復書簡で支え合い、
聡明な亮子は賢夫人として、立派に逆境を耐えた。

この亮子は、陽之助の政界復帰後に、その美貌と聡明さで「鹿鳴館の華」
陽之助の駐米公使時代には「ワシントン社交界の華」と謳われたのだ。



明治16年、現在の内幸町に建てられた鹿鳴館は、外国からの賓客の接待や
舞踏会などが催された、文明開化の象徴とされると共に、西洋人の猿真似
として、当時の退廃的文化の象徴でもあったかも知れない。

それにしても、その聡明さと美貌を外国人からも賛嘆、絶賛された亮子の
有名な写真はワシントンのスタジオで撮影されたとされるが、確かに美しい。



陽之助は若き日に、映画の鞍馬天狗のような頭巾を被った写真を残している。
坂本龍馬暗殺の敵討ちとして、海援隊同志15人と共に新撰組隊士と紀州藩士が
護衛する紀州藩公用人三浦休太郎 (彼を龍馬暗殺の黒幕と誤解した訳だが)
の宿、天満屋に斬り込んだという壮烈な戦い振りも見せている。

そんな彼が明治時代の政治家として、亮子を伴なっては鹿鳴館に馬車で
出入りし、外交官としては、社交界の華と謳われた妻亮子と共に、
ワシントン政界で活躍したというのだから、隔世の感がある。
やはり、明治維新は日本の歴史を隔する一大革命であったのだ。



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