岩手宮古湾の海戦 …新撰組隊士海上の斬り込み

 2011-06-21
宮古湾の海戦 …新撰組隊士海上の斬り込み



宮古湾は岩手県中部東側にある、リアス式海岸であり、
幅3km長さ6km。 北東側に開け、太平洋と繋がっている。
東日本大震災では、宮古湾沿岸でも甚大な被害を蒙った。
宮古湾沿岸部被災状況の報道に接すると、幕末史が好きな私は、
1869年(明治2年)5月に戦われた宮古湾の海戦を想起してしまう。

宮古湾地図400

明治元年(1868年)に、徳川方は新政府軍に降伏して、
江戸城を無血開城したが、徹底抗戦を主張していた
榎本武揚率いる旧幕府海軍の艦隊は降伏を拒否して、
江戸沖から脱走し、蝦夷地の箱館を占領した。

江戸城無血開城の時点では、旧幕府軍の海軍戦力は、
新政府軍のそれを上回っていたのだ。
特に、旧幕府艦隊の旗艦開陽は最強の軍艦であった。

榎本艦隊は蝦夷地に向う途中で寄港した仙台で、
新撰組の土方歳三以下、生き残り隊士達と合流した。

ところが、榎本艦隊の旗艦開陽は箱館沖で
暴風雨に遭遇し、沈没してしまったのだ。

片や、新政府軍は当時、世界でも最先端技術の結晶であった
鋼鉄製装甲の軍艦ストーンウォール号を米国から購入した。

ストーンウォール号400

このストーンウォール号は後に、東艦(あずまかん)と
呼ばれたが、当時は甲鉄艦(こうてつかん)と呼ばれたそうだ。
この甲鉄艦は元々、米国の南北戦争時に南部同盟が仏国に
発注したものであったが、南軍の敗戦で北軍の手に渡った。

それを江戸幕府が米国に発注したものであったことから、
榎本武揚は江戸沖脱走以前から、この甲鉄艦の譲渡を米国と
交渉していたのだが、米国は日本が内戦中であることから、
中立を守る立場を堅持して、引渡しには応じなかったのだ。

旧幕府軍が蝦夷地に集結して、局地戦の様相を呈して来た段階で、
米国は甲鉄艦を新政府に引き渡してしまった。
ここで、両軍の海上戦力の優劣が大きく逆転してしまったのだ。


明治2年、春の到来を待って、新政府軍は旧幕府軍への
攻撃作戦を開始した。
榎本や土方は、甲鉄艦を含む新政府軍の艦隊8隻が、
岩手(当時の盛岡藩)の宮古湾に入港するとの情報を得て、
近代戦では余り例を見ない作戦を立案、決行することにした。
それは接舷攻撃で、敵艦に接舷して、乗り込み、艦を奪う
という、実に稀な作戦計画であった。

当時、仏国のナポレオン3世が江戸幕府に軍事顧問団を派遣
していた縁で、そのまま仏国の軍人が榎本軍に随行していた。
その為にこの作戦は当時、仏語で「アボルダージュ」と
呼ばれていた。
剣客であった新撰組隊士の面々も、この海上の斬り込みを
「アボルダージュ」と仏語を口にしたのか。

榎本軍は回天、蟠龍、高雄の3隻の軍艦で出撃したものの、
途中で嵐に遭遇して、蟠龍は機関を損傷してしまった為に、
回天と高雄の2艦だけで湾内に突入することとなった。

宮古湾海戦1 400

旗艦の回天には土方歳三と相馬主計、野村利三郎が
乗り込んでいた。
新撰組隊士相馬主計と野村利三郎の二人は、千葉流山で
近藤勇が新政府軍に降伏した際に同行し、近藤と共に
処刑される予定であったが、近藤の助命嘆願により、
二人は処刑を免れていたのだ。

回天と高雄は宮古湾突入の奇襲には成功したものの、
回天は甲鉄艦に上手く接舷出来ずに、回天の船首が
甲鉄艦の船腹に突っ込んでしまい、乗り上げてしまった。
その為に、3メートル程もの高低差が生じた上、
甲鉄艦に乗り移れる位置が、回天の船首に限定されて
しまったので、乗り込む以前に甲鉄艦側のガトリング銃
の餌食とされて、甲鉄艦に斬り込めたのは野村利三郎ほか
僅か数名であったとのこと。
旧幕府側が撤退するまでの、約30分の戦いであったという。

宮古湾海戦2 400

野村利三郎は甲鉄艦上で戦死。その遺体は海に打ち棄てられた。

相馬主計は、箱館で新政府軍に降伏した際、
新撰組隊長として、恭順書に署名をした人物である。
相馬主計は何故か、明治8年に割腹して、哀しい最期を遂げた。

土方歳三は新政府軍の箱館総攻撃の折、馬上指揮中、
銃撃を受けて戦死を遂げた。






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