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火事場泥棒的ロシア人根性 …北方領土の実効支配

 2011-09-10
火事場泥棒的ロシア人根性 
               
               …北方領土の実効支配



メドベージェフ 国後島訪問400

ロシアのメドベージェフ大統領が、平成22年(2010年)11月1日、
日本側からの中止要請を 黙殺して、北方領土の国後島に上陸したが、
これはソ連時代を含めて、 ロシアの最高指導者による、北方領土初訪問
ということになる。

北方領土の実効支配を進めるロシア政府は、インフラ整備に30億円余りの
追加予算を投入することを正式に決定し、プーチン首相は9月8日、本年中
に12億ルーブル(凡そ31億円)の追加予算を配分する政令に署名した。

また、プーチン首相の最側近と目されるロシア国家安全保障会議の
パトルシェフ書記が9月11日、国後島を訪問する予定で、インフラ整備の
状況を視察し、連邦保安局(FSB)傘下の国境警備隊など治安・特務系機関の
地元幹部とも会談する予定とのこと。

北方領土の実効支配を進める、これら一連の行動には、ロシア側の強欲な
領土主張の意図が込められている。

その伏線として、ロシアは昨夏、日本が大東亜戦争の降伏文書に調印した
9月2日を事実上の対日戦勝記念日に定める法改正案を成立させている。
新記念日の正式名称は「第二次世界大戦終結の日」であるが、その実、
日本をターゲットとした「対日戦勝」を意味するものに他ならない。


歴史的な経緯としては……

昭和20年(1945年)8月14日、
大日本帝国政府(鈴木貫太郎内閣)は連合国に対し、
ポツダム宣言を受諾して、無条件降伏する旨をスイス政府経由で、
アメリカ合衆国大統領トルーマンに通達。

8月15日正午、昭和天皇の玉音放送に依って、終戦の詔勅が
全国民に公表されて、無条件降伏する旨が告げられた。

9月2日、昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を発布して、
降伏文書への署名及びその履行等を命じられ、日本政府全権の重光葵外相と
大本営(日本軍)全権の梅津美治郎参謀総長が、東京湾上のアメリカ戦艦
ミズーリに於いて、降伏文書に署名を行い、これに依って大日本帝国の
無条件降伏が確定したのである。

降伏調印A400

であるからして、「9月2日」を対日戦勝の日とすることは理論上、
何の違和感も無いのだが、相手が米国でも英国でもなく、ロシアで
あることが問題なのである。
ロシアが9月2日を、対日戦勝の日と強調したい訳には、
火事場泥棒としての都合があるからなのである。

それにしても、僕にはどうも解せないのは、ソビエト連邦時代は、
対日戦勝記念日を、降伏文書調印の翌日、9月3日に戦勝記念式典
とやらを開催したことに因んで、9月3日としていたのであるが、
それを敢えて1日早めたことに如何なる意味を込めている積もり
なのであろうかということである。
後述するが、実は戦勝記念日を1日早めたことはロシア政府にとって、
北方領土問題で不利な材料になるのである。

現在、ロシアは「旧ソ連軍が中国東北部と北朝鮮、南サハリン(樺太)
とクリール諸島(日本の北方四島と千島列島)を解放し、第二次世界大戦
の終結を早めた」と、時系列を引っ繰り返した大法螺を吹いている。
戦さが終わった後から出張って来て、何をホザくかというところである。


時系列を整理すると……

昭和20年(1945年)
2月4日~11日、クリミア半島のヤルタで米英ソ連の首脳、
ルーズベルト大統領(米国)、チャーチル首相(英国)、スターリン(ソ連)
が第二次世界大戦後の国際秩序について協議した「ヤルタ会談」が行われた。
この席上、ルーズベルトは「千島列島をソ連に引き渡すことを条件に」、
日ソ中立条約の一方的破棄、対日参戦を促し、極東密約(ヤルタ協定)と
呼ばれる秘密協定が結ばれた。
この密約では、ドイツの降伏後90日以内に、ソ連が日本との戦争に
参戦すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、
千島列島をソ連に引き渡すことなどが決められた。



1945年7月26日 米英中の3ヶ国(のちにソ連も参加)は
ポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。

8月6日、米軍、広島市に原子爆弾を投下。

8月8日午後11時(日本時間):
ソ連のモロトフ外相が、翌年1946年4月26日まで有効だった
日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告することを日本の佐藤大使に通告。

8月9日
ソ連軍はソ満国境を越えて、満州国に侵攻。
米軍が長崎市に原子爆弾を投下。

8月11日
樺太に、3万5千のソ連軍が侵攻。

8月14日
御前会議で、昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が決定され、
連合国に対し、無条件降伏を通告した。

8月15日正午
前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」(終戦の詔書などともいう)を
昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され(いわゆる玉音放送)、
国民及び陸海軍にポツダム宣言の受諾と軍の降伏の決定が伝えられた。

8月16日
大日本帝国大本営、日本軍部隊へ即時停戦命令を発令。
マッカーサー元帥、米軍に戦闘中止命令を発令。

8月17日
ソ連軍、千島列島占領作戦開始。

8月18日
ソ連軍が千島列島の占守(しゅむしゅ)島に上陸作戦敢行。
日本軍守備隊と交戦。(21日迄戦闘)

8月23日
スターリンが、日本人捕虜のシベリア移送を指令。

8月24日
ソ連軍、千島列島の幌延(ぱらむしる)島占領。

8月25日
ソ連軍、千島列島の温弥古丹(おんねこたん)島、
捨子古丹(しゃすこたん)島、松輪(まつわ)島を占領。

8月27日
ソ連軍、千島列島の新知(しむしる)島占領。

8月28日
ソ連軍、北方領土の択捉(えとろふ)島占領。

8月31日
ソ連軍、千島列島の得撫島(うるっぷ)占領。


9月1日
ソ連軍、北方領土の国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島占領。

9月2日
東京湾上のアメリカ戦艦上で、降伏文書調印式、ソ連も調印。

降伏調印B400

9月3日~5日
ソ連軍、北方領土の歯舞(はぼまい)群島占領。


※ ロシア政府の抜けているところは、ここである。
9月2日を対日戦勝の日としたら、9月3日から侵攻開始した歯舞群島は
戦争に依って奪い取って、自国に編入した領土という奴らの馬鹿な論拠から
でさえも完全に外れてしまう訳で、ロシアの領土主張は成り立たないにも
拘わらず、墓穴を掘って、対日戦勝記念日をわざわざ、9月3日から
9月2日に変更したのである。


1946年2月2日
ソ連最高会議幹部会令で、千島列島と北方領土をソ連に編入。

1951年9月8日
サン・フランシスコ平和条約は、日本が千島列島及び南樺太に対する権利、
権限及び請求権を放棄することを規定している。
しかし、同条約は、これらの領土がどの国に帰属するかについては規定
していない上に、ソ連は同条約に調印していないのである。

1956年10月19日
日ソ共同宣言を合意。
同宣言で、両国間の戦争状態を終結させ、外交・領事関係を回復させた。
日ソ共同宣言に於いて、日ソ両国が正常な外交関係の回復し、
平和条約締結後には、歯舞群島及び色丹島を日本に返還することが
規定されている。


北方領土400

ソ連軍の千島列島侵攻については……

終戦日8月15日から3日後の8月18日
終戦による武装解除の準備を進めていた占守島の日本軍に対し、
ソ連軍が奇襲上陸攻撃を開始。
「日没までに全島を占領する」という作戦計画で、1個師団8363名
218門もの大砲を装備した上陸部隊と、艦隊54隻で侵攻。

日本軍は既に戦車から無線機や機関銃を取り外すなどの解除準備を
始めてしまっていたが、武装を整え直し、自衛戦闘を開始。
日本軍に有利な戦況で、上陸部隊を海岸に追い詰め、殲滅する寸前で
あったが、上級部隊からの命令で8月21日に戦闘を終結させた。

日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3000名、
ソ連側資料では、日本軍の死傷者1018名、ソ連側1567名とある。
何れにせよ、ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことは
確かなようである。



ソ連政府機関紙イズベスチアは、この戦いについて、
「占守島の戦いは、満州・朝鮮に於ける戦闘よりも遥かに損害は甚大であった。
8月19日はソ連人民にとって悲しみの日である」との記事を掲載したが、
終戦後に無法にも、領土拡張の醜悪な欲望満々に攻め込んで来て、
「人民の悲しみの日」も無いであろうに。

実は、極東ソ連軍総司令部は北千島、中千島、南千島及び北海道に対する
第二次、第三次侵攻作戦と、段階的に占領する作戦計画を立案していたのである。

この占守島の戦いに於ける日本陸軍第91師団の善戦のお陰で、
一日で占領させる予定であった占守島でソ連軍に時間を浪費させた為、
千島列島全体の侵攻作戦が遅滞し、その間に米軍の北海道進駐が完了
したことで、ソ連軍の北海道侵攻のタイミングを外し、ソ連が要求した
北海道北部の分割統治が回避されたのである。

この第91師団の勇戦が無かったら、北海道は南北に分断され、
1950年代、1960年代の米ソの対立構造からして、朝鮮半島や
ベトナム同様、北海道で日本人同士が代理戦争させられていた
であろうことは間違いの無いことであったのである。
この絶大な意義のある占守島の戦いは、もっと評価される
べきなのであるが、歴史の教科書には載っていないどころか、
余り世に知られていないのが、現代日本の実情である。


この第91師団は占守島、幌筵島を中心とする要域に配置され、
北千島方面の防衛を担当していた。
第91師団は昭和19年4月に現役兵を主体に編成された新鋭兵団で、
独立歩兵4個大隊を基幹とする第73旅団、第74旅団、と戦車第二連隊、
師団砲兵隊、重砲隊等で成り、優秀な兵員と充実した装備を誇る精鋭兵団で
あったのである。
また、陸軍の一式戦闘機4機と海軍航空隊分遣隊の九七式艦上攻撃機4機の
計8機が配備されていた。
この内1機は、ソ連軍海上部隊に特攻を敢行し、体当たりしている。
最後の特攻である。 しかも、終戦後の……。

シュムシ島砲台400

北方領土問題の経緯に就いては、

①日魯通好条約(1855年)
日魯通好条約に於いて、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の
間の両国国境をそのまま確認。

②樺太千島交換条約(1875年)
日本は、樺太千島交換条約に依り、千島列島(列島最北の占守島から
ウルップ島までの18島)をロシアから譲り受ける代わりに、
ロシアに対して樺太全島を放棄。

③ポーツマス条約(1905年)
日露戦争後のポーツマス条約に於いて、日本はロシアから樺太(サハリン)
の北緯50度以南の部分を譲り受けた。


1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦に於ける連合国側の
指導原則として、「大西洋憲章」に署名し、戦争によって領土の拡張は
求めない方針を確認した。(領土不拡大の原則)
ソ連もこの憲章に参加している。
そもそも、ソ連軍が樺太や千島列島に侵攻したということは、
樺太や千島列島はソ連の領土ではなかったという証明なのである。
わざわざ自国に侵攻する馬鹿も居るまい。
千島列島は我が国に武力で奪われた自国領ではないのであるから、
領土不拡大の原則からして、軍事占領をしようが、ソ連に帰属とは
ならないのである。
国際法上、千島列島全体が日本国の領土であることに変わりはないのである。


また、1943年11月の「カイロ宣言」では、大西洋憲章を確認の上、
「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域から、日本を排除すると宣言。
しかし、そもそも千島列島も北方四島も我が国が略取した領土ではないの
であるから、排除される地域の対象外なのである。



日本国政府や外務省が北方四島を我が国の領土と主張する論拠として、
我が国はサンフランシスコ講和条約に依って、ポーツマス条約で獲得した
樺太の一部と千島列島に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄したが、
北方四島は千島列島の中に含まれないので、我が国の領土であるとしている。

強欲で強かな悪党であるロシアを相手に、こんな風では交渉が進捗する
はずもないのである。
そもそも、サンフランシスコ条約では、沖縄や小笠原諸島を米国信託統治下
としたが、千島列島・南樺太に関しては、帰属する国家を明記していない
のであるから、ロシアに占領され続けなければならない筋合いは無いのである。

当時、無条件降伏をした日本国としては、好むと好まざるとに拘わらず、
樺太の南半分と千島列島の放棄を受諾するしかなかった、選択肢の無い
状況下の出来事である上、ロシアに信託統治も任された訳でもないので、
国際法上、樺太の一部と千島列島の帰属は宙に浮いたままなのである。
しかも、ソ連は、サンフランシスコ講和条約には署名もしていないので
あるから、同条約上の権利を主張することも出来ないのである。

従がって、日本政府は北方四島を返せなどとケチ臭いことを言っていないで、
樺太は呉れてやるから、千島列島全体を返せと主張すれば良いのである。
強欲な悪徳商人相手に商談をするのと同じなのだから、四島を返せと言って、
上手く行っても、値切られて二島しか帰って来ないものである。
千島列島全部を返せと主張して初めて、四島位は奪還来るというもの。

そう言えば、歴史的に昔からロシアは外交上の条約を守らないので有名で
あることをふと思い出した。



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