華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 「生きている英霊」と呼ばれた男 …奇跡の強運数12・22

「生きている英霊」と呼ばれた男 …奇跡の強運数12・22

「生きている英霊」と呼ばれた男 

ある超人的日本軍兵士 …奇跡の強運数12・22


若者文化発祥地として賑わう渋谷センター街であるが、渋谷センター商店街
振興組合は、現在の「怖い街」「汚い街」という危険なイメージを払拭したい
が為に、「渋谷センター街」の名称を9月26日から新しく「バスケットボール
ストリート(通称 バスケ通り)」と改めるという。

大盛堂書店400

その渋谷センター街の入り口の角に、政府系刊行物を扱うことでも有名な
「本のデパート 大盛堂書店」がある。
この大盛堂書店の創業者である、舩坂 弘(ふなさか ひろし)氏
《1920年10月30日生、2006年2月11日没》が、
個人の戦闘記録としては、唯一戦史叢書に載せられているほどに
驚異的な戦い振りを示され、敵であったアメリカ軍からも英雄として
賞賛された陸軍兵士であったことをご存知の方は多いのではないか。

戦史叢書の『陸軍作戦史二巻』には、「船坂軍曹は、激戦ののち重傷、
最後に敵将に一矢を報いんとして──中略──三日間意識不明、
死の世界を彷徨し、米軍に手厚く看護され蘇生。昭和二十一年正月、
奇跡的に復員帰国した」とある。



彼が勇名を轟かせたのは1944年9月にアメリカ軍が来襲したパラオ諸島、
ペリリュー島南西のアンガウル島の戦いに於いてであった。
1941年3月に宇都宮第36部隊に入隊、1944年3月、ソ連・満州国境で
警備任務に就いていた彼の部隊、第59連隊に南方への転属命令が下った。
パラオ諸島防衛に当たった第14師団は、パラオ本島防衛の為に部隊の殆どを
配置し、更にペリリュー島守備の為に1個大隊を割いた為、アンガウル島
守備隊は僅か1個大隊1,400名の戦力しかなかった。
アンガウル島に着任した23歳の彼は軍曹で、15名の部下を率いる擲弾筒
(てきだんとう)分隊長であった。



擲弾筒400

アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの平坦で小さな島である。
1944年9月11日、空母ワスプを擁するアメリカ艦隊が沖合いに姿を現わし、
上陸部隊援護の為、戦闘爆撃機の空爆と艦砲射撃を5日間に亘って行なった。
9月17日、アメリカ陸軍第81歩兵師団21,000名が、島の北東と南西の二方面
から上陸を開始した。

アンガウル島の平坦な地形からして、内陸部に誘い込んでの戦いは不利なので、
日本軍は水際作戦を採り、アメリカ上陸部隊を海岸で殲滅すべく迎え撃った。
彼はこの戦いで、擲弾筒と臼砲を駆使し、200名以上のアメリカ兵を倒した。
しかし、アメリカの上陸部隊は21,000名、日本軍守備隊は1,400名と、その
戦力差は15倍であり、その上、装備にも遥かに劣る以上、正面切っての戦いは
望むべくも無く、日本軍は残存兵力を島の北西の洞窟に集結させ、ゲリラ戦で
抵抗するしか術が無かった。

パラオ諸島地図400

こうした状況下での戦闘3日目、彼はアメリカ軍の砲撃で左大腿部を裂かれ、
瀕死の重傷を負ってしまった。
激しい戦闘が続く中、数時間放置された彼の許に漸く軍医がやって来たが、
傷口を診た軍医は最早これまでと判断し、自決用の手榴弾を渡して去って
行ったという。
彼の凄まじさは、軍医に死に体同然の負傷であると診断され、治療を放棄
されても絶望することなく、「負けて堪るか!」と生きることを決して断念
しなかった不撓不屈の精神力にある。
彼は近くにあった日章旗を包帯代わりに足縛り、必死に止血をし、夜通し
這って、洞窟の陣地に生還したのだ。

彼の気力、体力が尋常でないのは、何とこの翌日には、左足を引き摺りながら
も歩けるまで回復し、そのまま戦闘に復帰していることである。
この後の戦闘に於いても幾度となく、瀕死の重傷を負い、動くこともまま
ならない状態に陥ることになるのだが、それでも不思議と翌日には回復を
見せるという奇跡を現ずるのだから、只事ではない。
ご本人は後に「生まれ付き、傷が治り易い体質なのだ」と笑っておられたとか。

アンガウル島上陸部隊400

この後の戦い振りがまた凄かったのだ。
重傷を負いながらも、ある時は、拳銃の3連射で3名のアメリカ兵を倒し、
またある時は、アメリカ兵から奪い取ったサブマシンガンで、3名のアメリカ兵を
一遍に倒した。
銃剣で1名を刺した後、サブマシンガンを装備していたもう1名には素早く、
その銃剣を投げ付けて、顎部に命中させて倒したこともあったという。
その余りにも鬼気迫る奮闘振りを目撃した兵士達は、彼を「不死身の分隊長」
「鬼の分隊長」と賞賛した。
彼は中隊随一の射撃の名手であり、入隊以前から剣道と銃剣道の有段者で、
軍の銃剣術の名手でもあっただけに、白兵戦に秀でていたことは確かで
あったろうが、それにしてもその強兵振りは見事に常軌を逸している。

彼の負傷は、戦闘初日から数えて大小24ヶ所に及び、その内重傷は
左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2ヶ所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の
5ヶ所、更にに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。
その化膿した腹部の貫通銃創にはハエが集り、ウジが湧いてしまったという。
その上、砲弾の破片が全身の20ヶ所にも食い込み、火傷を負っていたのだ。

水も食料も弾薬の補給も無い激戦の最前線で、極度の飢えと失血に体力は
消耗し切り、視力は落ち、立ち歩くことも難しい状況に立ち至り、然しもの
彼も遂に「最早これまで」と自決を決意し、父母に向けて遺書を認めたという。

「若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、
御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ
近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、
敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺
数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。
今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ」

手榴弾400

彼は自爆して、自決しようと手榴弾の安全ピンを引き抜き、信管を叩いて
起爆の操作をするも、何とその手榴弾は不発弾で爆発しなかった。
こういう、天に死なせて貰えないところが、彼の強運たる所以であろう。
彼はこの時、底知れぬ深い絶望感を味わったという。
その後、数時間は茫然自失の状態に陥るものの、彼は絶望から気を取り直した。
どうせ死ぬのなら、アメリカ軍の司令部に斬り込みを敢行しようと腹を決めた。

ここからの行動がまた凄まじい。
ウジが湧いてしまった腹部の傷の治療にと、拳銃弾から中の火薬を取り出し、
その火薬を腹部の患部に流し込んで、火を点けたのだ。
彼は激痛の余り、半日ほど意識を失っていたが、意識を取り戻すと体に6発
の手榴弾を括り付け、拳銃1丁を装備し、洞窟を這い出て、単身出撃した。


当時、アメリカ軍司令部周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、
高射機関砲大隊など、総勢1万名が駐屯していた。
彼は匍匐(ほふく)前進で山谷に分け入り、アメリカ軍前哨陣地を突破し、
4日目に至り、遂に司令部である指揮所テントまで20mの地点にまで接近
出来た。
彼は、アメリカ軍将校らが指揮所テントに集結した時点で突撃しょうと、
暫く絶好のチャンスを伺っていた。
アメリカ軍将校が次々と集まった頃合いを見て、最期を覚悟した彼は右手に
安全ピンを抜いた手榴弾を握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を振り絞って
指揮所テント目掛けて、突進した。
全身が傷だらけ、血塗れで、軍服はボロボロ、亡霊とも見紛うほどの凄惨な
その姿に、呆然としたアメリカ兵達は恐慌を来たし、銃を乱射したという。
アメリカ軍の動揺を尻目に突進した彼であったが、指揮所テントに到達し、
手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、遂に首を撃ち抜かれて昏倒してしまった。

南部式拳銃400

現場に駆け付けたアメリカ軍軍医は死亡と判断し、彼は野戦病院に運ばれた。
この時、その軍医は、手榴弾と拳銃を握り締めたまま離さない彼の指を一本
一本解き解しながら、周囲のアメリカ兵に向かって、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけが出来る勇敢な死に方だ」と、
彼の勇戦振りを賞賛したという。
ところが、彼はここでも息を吹き返し、驚異的な回復力を見せたのだ。
この不死身の日本兵の話は、アンガウル島のアメリカ兵の間で話題となり、
敵ながらも「勇敢なる兵士」として、彼の勇気を称えたという。

アンガウル島で戦ったアメリカ軍兵士であったマサチューセッツ大学教授
ロバート・E・テイラーは戦後、彼に宛てた手紙の中で
「貴方のあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。貴方のような人が
いるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、その活躍に
讃辞を惜しまなかったほどである。

一命を取り留めた彼は、アメリカ軍の治療で数日で歩けるまでに回復し、
先に占領されていた隣に位置するペリリュー島の捕虜収容所に移送された。
尚も戦闘意欲の衰えない彼は、重症患者であることから、監視の目が甘い
ことを見抜いて、早くも2日目の晩、夜陰に紛れてこっそりと収容施設を
抜け出した。 単なる脱走ではなかった。
彼は1000mを匍匐前進し、放置されていた日本軍兵士の遺体の弾薬入れから
小銃弾を掻き集め、その弾丸から火薬を抜き出して、その火薬を導火線にして、
アメリカ軍の弾薬集積所を爆破したのだが、その後またこっそりと収容所に
戻るという離れ業をやってのけたのだ。
アメリカ軍はこの爆発を原因不明として、迷宮入りさせたという。

アンガウル島アメリカ陸軍400

この後も彼は、歩哨を倒して銃を奪おうとしたり、飛行場炎上計画を練っては、
マッチを手に入れたりと、衰えない闘志を湧き立たせ続けたというが、後に
生涯の友となる、日本語の海兵隊通訳、敬虔なクリスチャンの捕虜監督官
フォレスト・ヴァーノン・クレンショー伍長との出会いに依って、然しもの
彼も漸く矛を収めることになる。
余りの暴れん坊振りに、彼は収容所の柱に括り付けられて、銃殺を覚悟した
そうだが、その時にクレンショー伍長はたどたどしい日本語で、
「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。アナタハ神ノ子デス。
アナタノ生キルコト、死ヌコト、神様ノ手ニ委ネラレテイマス」 と諭して
くれたという。
ハワイの捕虜収容所に移送されることになった時にも、クレンショー伍長は
見送りの際に「軍曹、死ンデハイケナイ。生キテ日本ニ帰リナサイ。
私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ神ニ祈リマス」と語り、戦後も連絡が
取れるように、「F.V.CRENSHAW」と自分の名を記した一枚の紙片を彼に
渡した。

戦後、彼はクレンショー氏に会いたいと、110通の手紙をあらゆる方面に送り
続けては八方手を尽くし、運送会社の副社長になっていたクレンショー伍長を
探し当て、毎週日曜日の文通を通して、友情を深め合ったという。
やがてクレンショー氏が来日し、20年振りの再会を果たすことになる。
帰国するクレンショー氏に彼は、名刀「一文字行広」を贈った。
その後、クレンショー氏は新たに貿易会社を創立したが、その社名は
「大盛堂書店」に因んで、「タイセイドー・インターナショナル」と命名
したという。

要注意人物としての監視下、彼はペリリュー島捕虜収容所から、グアム、
ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々と移動し、
昭和21年に帰国した。
栃木の実家には、アンガウル島守備隊が昭和19年10月19日に玉砕している
ことから、昭和20年12月の段階で戦死公報が届けられており、位牌もお墓も
出来ていたという。



「舩坂 弘」氏の名相を鑑るに、基礎運に相当する箇所に、
運数5が表われており、
「質実剛健であり、心身ともに恵まれる。運動神経も抜群で、病気に対する
 抵抗力が強い」とある。
また、全体運、総合運に相当する箇所と社会運の2ヶ所に運数22が、
主運と家庭運の2ヶ所に運数12が表われている。
12にせよ、22にせよ、凶運を暗示する傾向の非常に強い凶数ではあるのだが、
実は、「奇跡的な強運」を表わす象意のある「強運の奇跡数」でもあるのだ。
どんなに悪い状況に置かれたとしても、どう考えても絶望的な状況下でも、
不思議とそのピンチを何とか切り抜けられるという強運を暗示しているのだ。
この数霊は、彼の人生の運命的な特徴をよく表わしていると言える。

舩坂弘氏建立慰霊碑

私は姓名学上、「舩坂 弘」氏の名相から読み取れる「奇跡の強運数」
12、22の象意の一面を表現したいが故に、この一文を書いている。
その為に、地獄の戦場であったアンガウル島の攻防戦で、彼が如何に
超人的な戦闘者として、奇跡的に戦い抜き、生き抜いたかをメインに
記述して来たが、実は彼が「生きている英霊」と賞賛された所以は、
戦後の彼の見事な生き様に由来するものなのだ。

捕虜生活を通して、アメリカ文化を目にした彼は日本の戦後復興の為に有益な
文化事業として書店経営を志し、養父の書店の地所に日本で初めての試みと
なる、建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」を立ち上げた。

彼は書店経営の傍ら、「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」
「ペリリュー島 玉砕戦」「聖書と刀‐太平洋の友情」「殉国の炎」
「関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密」…と戦記などの著作を出版し、
その印税を投じて、アンガウル島のみならず、ペリリュー島、ガドブス島、
コロール島、グアム島などの島々に次々と鎮魂の為の慰霊碑を建立した。
また、アンガウル島での遺骨収集と慰霊の旅を毎年欠かさずに行ない、
パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などにも尽力
されたのである。

アンガウル島の舩坂弘建立慰霊碑碑文には、
「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、
 永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」
と刻まれているという。



彼は、三島由紀夫と剣道を通じて親交があったことでも知られている。
彼の自叙伝「英霊の絶叫-玉砕島アンガウル」には三島が序文を寄せ、
楯の会事件で三島が切腹した際に、森田必勝(25歳)が介錯に遣った
三島の愛刀「関の孫六」は、彼が三島に贈ったものだったのだ。


余談になるが…、
昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫(45歳)は自らが結成した
民兵組織「楯の会」の隊長として、隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地
(現在の防衛省本省)に東部方面総監を訪れ、総監室で日本刀を武器に
総監を監禁。
総監室の前のバルコニーで演説し、戦力放棄を謳った現行憲法を否定し、
「共に起ち、義の為に死のう」と自衛隊にクーデター決起を呼び掛ける
檄を飛ばしたが、自衛隊員達は三島の熱烈な訴えに嘲笑で応え、罵声を
浴びせるばかりで、30分間予定されていた演説は、7分間で切り上げられ、
三島と森田は、「天皇陛下万歳」を三唱し、総監室に姿を消した。
その1時間後、三島は割腹自刃し、森田必勝が介錯で二太刀打ち下ろすも
三島の首を断つことが出来ず、古賀浩靖が三太刀目を入れて、漸く三島の
首は胴を離れた。
次いで、森田は血塗れの三島の胴体の脇に跪き、三島が使った短刀で
腹を刺し、古賀がその首を一太刀で刎ねた。
憂国の士の情念が沸騰点に達したかのような、凄惨で血生臭い事件があったのだ。



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2011/09/27 09:22 | 歴史雑感COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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