スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)
タグ :

虚妄の仏教③ …「釈尊」は釈尊を意味しない

 2011-10-09
虚妄の仏教③

…「釈尊」は釈尊を意味しない



日本では一般的に「お釈迦様」と呼ばれているが、
紀元前5世紀頃、現在のインド・ネパール国境付近カピラワットゥ
に生まれたという仏教の開祖ブッダ、ゴータマ・シッダールタは、
「釈迦牟尼(しゃかむに←シャーキャ・ムニ)」と尊称される。
「釈迦」とは、彼の生まれた部族名、或いは国名であったらしい。
「牟尼」とは、聖者、修行者という意味で、「釈迦牟尼」は
「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。

仏教徒は、「釈迦牟尼」に「仏」「仏陀」「如来」「世尊」などの
称号を付加して、「釈迦牟尼仏」「釈迦牟尼仏陀」「釈迦牟尼如来」
「釈迦牟尼世尊」などと呼ぶが、略して、「釈迦仏(しゃかぶつ)」
「釈迦如来(しゃかにょらい)」「釈尊(しゃくそん)」とも呼ぶ。


釈尊=ゴータマ・シッダールタはその入滅に際して、弟子達に、
「自分の亡き後は、ただ自らを灯明とし、自らを依処として、
他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処と
することなくして修行に励むように」との遺言を残されたという。

そして、弟子達は亡き釈尊を追慕し、残された教えと戒律に
従って、その跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集したが、
その一方、釈尊の人格や肉体を崇拝する傾向が強まる余り、
釈尊を超人化して捉え、釈尊の身は不滅の真理、法そのもので
あるから、常に住していて、人々を教え導く為、永遠不滅の
存在であると神格化して崇拝したのであろう。 こうして、
最初期の仏身観が形成されて行ったと考えられる。

このことは反面、史実として存在したゴータマ・シッダールタ
である「釈尊」と、崇拝の対象である法身(ほっしん)としての
「釈尊」との乖離(かいり)が始まったとも言えるのだ。



釈尊の入滅後500~600年程の紀元後1世紀後半~2世紀に
大乗運動がインドで展開され、釈尊に仮託された思想文学、
神話とも言えるような偽経「般若経」「華厳経」「維摩経」
「法華経」「大無量寿経」「浄土経」などの基本的大乗経典が
「創作」、言葉を変えれば、「捏造」されたのである。


これらの大乗経典の中で、実は釈尊はインド降誕以前から
仏であり、涅槃に入ってからも(亡くなってからも)
仏として衆生を教化、救済されている。
釈尊の本体は、実は「無始無終の実在である常住不滅の久遠仏」
であって、インドに降誕した釈尊は、その仮の現われであるとか、
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)や阿弥陀仏(あみだぶつ)など、
様々な仏・菩薩が物語の中で「仮想」されて行ったことから、
史実の教主釈尊の存在価値は相対的に色褪せて行くことになった。


現実に、日本で隆盛を極めている数多の日蓮門下教団の信者達は、
「釈尊の出世の本懐(出現の目的)は法華経を説くことであった」
と主張する。
そして、それは、釈尊在世と入滅後、正法、像法時代、
2000年間の衆生を救済する為と、入滅後2000年以降
の末法の衆生を済度する為で、それは上行菩薩の出現を
予言したことに依るとの説を成す。

これは、1600年に戦われた徳川方と豊臣方の関が原の合戦は、
21世紀に民主党政権を樹立する為に戦われたと解釈するよりも、
遥かに歴史的事実から掛け離れた論説である。
元より、「法華経」は歴史的に(文献学的に)釈尊入滅後、
400~500年を経て、創作された思想文学であり、史実の釈尊
とは無関係である上、同様に大乗経典である「大方等大集経」を
典拠とした末法思想も、史実の釈尊の説であるはずがない。


史実の釈尊が予言した訳ではない「上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」
とは、法華経の第15章「妙法蓮華経従地涌出品第十五」に於いて、
「地涌の菩薩(じゆのぼさつ)」という、数多の菩薩達が大地から
出現するシーンがあるのだが、その筆頭を上行菩薩という。

法華経の第16章「妙法蓮華経如来寿量品第十六」では、
釈尊はインドに生まれる前から仏であり、涅槃に入ってからも
仏として衆生済度されているが、
それが「久遠実成(くおんじつじょう)の釈尊」である。
この久遠仏である釈尊に教化されて来たのが、上行菩薩以下
数多の菩薩達で、インドの地に「仮に」姿を現わした釈尊の
教化(きょうけ)の在り方を「迹化(しゃっけ)」と言い、
久遠実成(くおんじつじょう)の本地仏の教化、即ち永遠絶対で
ある仏の教化の在り方を「本化(ほんげ)」と言って、遥かに
重視するのだ。

更に、釈尊滅後2000年以降の末法時代に仏法を広めるという
上行菩薩こそが、鎌倉時代の日本に出現した日蓮であるという。
「日蓮は上行菩薩の再誕(さいたん)」という表現をする。
再誕も何も「仮想の仏・菩薩」に生まれ変わりや垂迹があるとは、
到底思えないのだが…。
「あの男は坂田銀時の生まれ変わりだから、強い」
「あの娘は秋山澪の生まれ変わりだから、可愛い」とアニメの
架空の人物の生まれ変わりというのと同様、客観的事実ではない。
但し、日蓮上人ご自身の宗教的、主観的自覚として、
そうであったというならば、それは勿論、ご自由である。

ボロブドゥール遺跡A400

こういう論理操作であるから、本来、仏教に於ける「釈尊」とは、
ゴータマ・ブッダの尊称であるにも拘わらず、日蓮門下の信者に
とって、「教主釈尊」とは「日蓮」のことであり、そのことを表現
する為に、世間一般が言うところの「日蓮上人」とは言わずに、
「日蓮聖人」「日蓮大聖人」と尊称を表記するのである。

日本の仏教は釈尊入滅後、約500年を経てからの新興宗教である
大乗仏教であるから、日蓮門下の法華経系教団のみならず、
何れの教団であれ、「釈尊」と言っても、「インド降誕の釈尊」を
常住不滅の本仏としての「釈尊」を同一視することはないので、
仏教開祖である「ゴータマ・シッダールタ=ブッダ=釈尊」を
重んずる風はなく、他の「仮想の仏」を本尊として崇拝する
という奇妙な事態を現じているのである。

カルト的な教義を奉じている信者達の思考回路には、原始仏教
-大乗仏教-鎌倉仏教の系譜を受けて、崇拝する対象を変化
させて行く傾向の流れを汲んで、仏祖よりも宗祖、宗祖よりも
現代の教団経営者を重んじ、個人崇拝する土壌があるのだろう。

史実の釈尊の存在感は愉快なほど、日本の仏教徒の眼中にはない。
「建築で足場を組むが、建物が出来上がったら、足場は不要」
「末法時代、釈尊の教えに功徳はない」
「今では役に立たない抜け殻のようなもの」と素気無い。
挙句の果てには、「大乗経典が史実の釈尊の教えであろうと
なかろうと、どうでも良いこと」と決定的に論理破綻していても、
お澄まししているのだから、篤信の仏教徒達なのではなくて、
真理の探求には疎い、本質的にいい加減な人達なのだ。


私は、史実の釈尊=ゴータマ・シッダールタの教えからしたら、
そもそも仏教は、神格化したような人格本尊は必要のない宗教
になっていたはずであると考えている。



スポンサーサイト
タグ :
コメント












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/tb.php/190-e5a224d7
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。