華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 虚妄の仏教⑥ …日蓮の事相は密教もどき

虚妄の仏教⑥ …日蓮の事相は密教もどき

虚妄の仏教⑥

…日蓮の事相は密教もどき



西洋哲学を学ぶ学徒は、その志す専攻に関わらず、哲学という
学問の原点として、ギリシャ時代のプラトンやアリストテレスなど
の著作を繙き、中世、近世、現代と一通りの哲学史を研究する。
従がって、例えば、西田幾多郎博士の論文を読んでも、ここは
誰それの影響を受けた論理展開であり、ここは博士独創の境地や
禅学から得た理論ではないか、などと推察出来るものだ。

しかし、西洋哲学史を全く学んでいない人が西田博士の論文を
読んで、難解ながらも深く感銘を受け、「これぞ哲学」と心酔
したとする。
そして、その西田哲学総べてが博士の思惟からのオリジナルであって、
ギリシャ哲学もカントやヘーゲルも一切関係無いと断言したとしたら、
はなはだ可笑しなものであろう。

例えば、ネクタイを着用する文化について、「ケルト人の装束であった
ものが形を変えて、ヨーロッパ全土に広まり、明治時代の我が国は
西洋文明受容の一環として、その服飾も取り入れ、現代では日本の
文化そのものとなっている」という風に捉えるべきものを、
「ネクタイ着用は日本独自の文化であり、その起源は日本にある」
としたら、歴史的事実に反する訳だ。

ウパニシャッド300

しかし、我が国の仏教教団の中には、前述のように、自宗の教義と
している教理や行法の起源について、釈尊の教説に連なるものなのか、
はたまた、ヒンドゥー教やゾロアスター教に由来するものなのかも
判別出来ないほどに無知であり、総べて自宗の祖師のオリジナルで
あると信じて止まない向きがある。
しかも、その教義を厚顔にも驕り昂ぶる表情で、「これぞ仏法」と、
言い散らかしているのが実情であるから、呆れるばかりである。

仏教そのものは信仰であり、信者が仏教学者である必要はないが、
自分の信奉する宗派を宣揚する為に理論武装して、他宗派を邪教と
罵るからには、それ相当の教養は身に付けていて欲しいものだ。
日蓮系教団は法華経至上主義を唱えながら、信者の殆どは法華経を
読んだこともないという、信じ難い馬鹿馬鹿しさが現実にある。

哲学徒がギリシャ哲学を学ぶように、幾ら日本に伝わった仏教が
大乗仏教であるとは言え、原始仏典なども繙いて、そもそも仏教の
始原は何であったのか、紀元前5世紀頃のインドの思潮は如何なる
ものであったのか、経典に書かれていることが、ゴータマ・ブッダの
独自の教説なのか、それとも、当時のインドでの常識であったのか、
更に、大乗仏教はゴータマ・ブッダに仮託した文学作品である
偽経に基づいたもので、原始仏教とは全く別物の宗教であること
くらいは認識しておいた方が良いと思うのだ。

密教曼荼羅400

また、日蓮系教団は、密教の真言宗を「真言亡国」と非難するが、
当の自分たちの信仰形態がその事相に於いて、密教そのものである
ことに気付いてもいないという滑稽さがある。
そして、そのことは法華経どころか、仏教でもないということ
さえも認識していない証でもあるのだ。


真言宗の教相判釈では、経典群を顕教と密教の二種に立て分け、
密教こそが仏教の核心であるとして、密教を顕教の上位に置く。
密教以前の「法華経」は顕教で、密教経典である「大日経」や
「金剛頂経」に劣るというのだ。

法華至上主義の日蓮が主張したのは、「釈尊の真意は法華経の中に有り、
法華経を否定することは、釈尊を否定することになる。
仏教開祖の釈尊を否定することは、国を滅ぼす所以である」として、
「真言亡国」と批判した訳である。


しかし、日蓮系諸教団が礼拝の対象とする文字曼荼羅自体が、
密教の密具「胎蔵界曼荼羅」を模したものではないか。
そして、密教経典に登場する「密教仏」である「不動明王」と
「愛染明王」とを曼荼羅に勧請し、密教で用いられる秘法である
「種字(しゅじ)」で描かれているという自語相違がある。

種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文
(真言)で、種子真言(しゅじしんごん)ともいう。
これを梵字(サンスクリット文字=悉曇[しったん]文字)で
表記したものは種子字(しゅじじ)、種字(しゅじ)とも略称する。
हां(haaM) 「ハーンorカーン」 不動明王
हूं(huuM) 「フーンorウーン」 愛染明王

妙に縦長に描かれてあり、梵字とは判らないような筆法であるが。
小学生の時に初めて曼荼羅を見て、「何じゃ、こりゃ」と、
最も印象深かったものだ。

また、日蓮の花押は、「大日如来」の「種字」をデザイン化した
ものであるとする説が日蓮門下では有力である。
अ (a) 「ア」   大日如来(胎蔵界)
आः(aaH)「アーハorアーク」 大日如来(胎蔵界)

種字一覧400

そもそも我が国の為政者は、仏教を鎮護国家の為に受容した経緯が
あり、密教の加持祈祷は魅力的で、必要不可欠なものであったろう。
鎌倉仏教に於いて、日蓮の特色は密教的なその救国論にあり、国家
社会の救済を至上目的として、仏国土の建設を目指したことにある。


1271年(文永8年)、旱魃に襲われたこの年、八代執権北条時宗は、
極楽寺の忍性に雨乞いの祈祷を命じたが雨は降らず、代わって
日蓮が田辺ヶ池(雨乞いの池)の淵に立って、雨乞いの祈祷を
行なったところ、大雨が降ったという、雨乞い対決の伝説が
残されている。
明治時代の末、鎌倉で1735年(享保20年)に江戸講中が建てた
「日蓮大菩薩祈雨之旧跡地」と書かれた石塔が出土したが、現在の
龍王山霊光寺の境内が、日蓮が雨乞いの祈祷を行った場所に当たる
と言われている。
加持祈祷は法華経世界とは程遠く、如何にも密教的である。


密教では曼荼羅に向かい、手に印を結び、口に真言を唱え、
心に「大日如来」を描いて、「入我我入」の境地を目指す。

密教の本尊である「大日如来」を「大宇宙の生命そのもの」と捉え、
その「大日如来という大宇宙の生命」が、「自分の生命」でもあると
するのは、古代インドの宗教体系(古代ヒンドゥ教=バラモン教)の
「梵我一如」、「梵=ブラフマン」と「我=アートマン」との関係性
そのものである。
「大日如来」という仏教の表現を取りながら、「梵我一如」という
古代インドの伝統的な宗教観を内実としているというのが密教
なのである。
密教の行者が手に印を結び、口に真言を唱え、心に「大日如来」を
描くという、身口意(しんくい)による三密を実践し、大宇宙と
一体化して、逆に宇宙の本体を動かして行くことが出来るという
理屈である。

翻って、日蓮の信者は、文字曼荼羅に向かって、合掌し、法華経の
タイトル(題目)と唱え、虚空会の儀式(あるいは久遠の本仏)を
心に描いて、「境智冥合」するという事相に於いて、密教と全く同様
なのである。
「宇宙のリズムに自分の生命を合わせる為」などと、訳の解らない
表現が通用している。


そもそも、「法華経=妙法蓮華経」に帰依する、帰命する(南無する)
という意味の「南無妙法蓮華経」と呪文を唱えること自体が
密教の真言(マントラ)そのものではないか。

そして、その密教であるが、ヒンドゥー教やら、ゾロアスター教と
仏教から影響を受けて融合したような「マニ教」、「ミトラ教」などの
経典と仏教経典との区別が付けられずに、そのまま仏教の一派として
受け入れられて、成立したというのが歴史的事実ではないか。
密教は本来、仏教ではないのである。


密教に於ける、加持祈祷の「護摩焚き」や、お盆の「火送り」など、
「拝火教」とも呼ばれるゾロアスター教の儀式そのものではないのか。
お盆は正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言うが、この言葉の
語源も、古代インド語の「ウランバナ」か、あるいは、
ゾロアスター教の母語でもあるペルシア語の「ウルヴァン(=霊魂)」
に由来するものと考えられるだろう。

現代の仏教徒はおそらく自覚していなかろうが、仏教が他宗教を
受容して、自分たちが仏教の開祖釈尊の教説とは関わりの無い、
ヒンドゥー教徒やゾロアスター教徒もどきの信仰形態を取っている
のだということである。

ゾロアスター400

日蓮系諸教団のメンバーは、人を非難する時に「地獄へ堕ちる」と
口癖のように言うが、これなども、ゾロアスター教の善悪二元論
(天国と地獄)に由来するものなのではないか。
教主釈尊の教説のどこを突っ突いたら、「地獄に堕ちる」「堕地獄」
の脅し文句が出て来るというのか。


「血脈相承(けちみゃくそうじょう)」は仏教に於いて、法体等が師から、
弟子へと相続されることを、人体に於ける血液の流れに譬えた訳で
あるが、信頼出来る弟子一人だけに奥義を相伝するという「一子相承」
などは、密教の秘密相承の真似であり、そもそもがこの相伝方法は
古代インドのヒンドゥー教、バラモン教に連なるウパニシャッド哲学
の哲人相承形態を、密教が取り入れたものではないか。
こんなものは、本来の仏教では有り得ない。
但し、この「血脈相承」の考え方は教団内に於いて、先代、歴代の
威光を自分に投影させて、権力固めするのには大いに役立つので、
「仏教商売」には欠かせないツールなのである。


要するに、仏教徒を自認しながらも、その事相に於いては、
釈尊の系譜に連なるものではなく、自らが「邪宗教」だの
「外道(げどう)」などと罵詈雑言を浴びせ掛けている
他宗教の行体そのものであったりするということなのだ。
そういうことを自覚した上で、自分の信奉する教団以外の宗教を
邪教呼ばわりまでして、批判しているのか?ということである。

尤も、意識的に万教帰一を実践していると言うのであるならば、
ご立派なものであると思うが、そんな気の利いたことの出来る
鎌倉仏教徒などは存在するまい。


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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2011/10/09 11:32 | 日本仏教批判COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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