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宮澤賢治の祈り …湧き出づる愛念

 2011-10-31
宮澤賢治の祈り
  
               …湧き出づる愛念



宮澤賢治の作品中、私が少年時代に最も感銘を受けた詩は、
賢治が昭和8年(1933年)37歳で永眠の後、賢治の弟、清六氏に依って、
遺書と共に茶色ズックのトランクから発見されたという手帳に書かれていた
「十月廿日(20日) この夜半おどろきさめ」である。
この詩は有名な「雨ニモマケズ」と一緒に書かれていたもので、その手帳は
発見の翌年、昭和9年(1934年)に発表された。



十月廿日 (この夜半おどろきさめ)

この夜半おどろきさめ 
耳をすまして西の階下を聽けば
ああまたあの兒が咳しては泣き
また咳しては泣いて居ります
その母のしずかに教へなだめる聲は
合間合間に絶えずきこえます

あの室は寒い室でございます
晝は日が射さず
夜は風が床下から床板のすき間をくぐり
昭和三年の十二月
私があの室で急性肺炎になりましたとき
新婚のあの子の父母は
私にこの日照る廣いじぶんらの室を與へ
じぶんらはその暗い
私の四月病んだ室へ入つて行つたのです
そしてその二月
あの子はあそこで生れました 
あの子は女の子にしては心強く
凡そ倒れたり落ちたり
そんなことでは泣きませんでした 
私が去年から病やうやく癒え
朝顔を作り菊を作れば
あの子もいつしよに水をやり
時には蕾ある枝もきつたりいたしました
この九月の末私はふたたび東京で病み
向ふで骨にならうと覺悟してゐましたが
こたびも父母の情けに歸つて來れば
あの子は門に立つて笑つて迎へ
また梯子から
 お久しぶりでござあんすと
聲をたえだえ叫びました
ああいま熱とあえぎのために
心をととのへるすべをしらず
それでもいつかの晩は
 わがないもやと言つて
ねむつてゐましたが
今夜はただただ咳き泣くばかりでございます

ああ 大梵天王
こよいはしたなくもこころみだれて
あなたに訴へ奉ります
あの子は三つでございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱えました
如何なる前世の非にもあれ
ただかの病かの痛苦をば
私にうつし賜はらんこと


谷川徹三編『宮沢賢治詩集』岩波文庫「手帳より」依り



昭和3年(1928年)、過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症し、それ以降、
約2年間はほぼ岩手県花巻の実家での療養生活を送ったという。

昭和6年(1931年)病から回復の兆しを見せた賢治は、東北砕石工場(現在の
一関市)という肥料工場に技師として勤務し、農学知識を活かして土壌改良用
石灰肥料の宣伝販売を担当していた。
9月20日、セールスの為に上京した際、上野駅に着いた時には、死を覚悟した
というほどの発熱と頭痛に苛まれて病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入った。
その傍ら、創作活動を行ない、10月20日にこの「この夜半おどろきさめ」を、
11月3日には有名な「雨ニモマケズ」を手帳に書き留めた。

宮澤賢治 手帳400

詩中、「あの子」というのは、同居していた末の妹クニ夫妻の長女「フジ」
のことで、宮澤家にとって初孫であった。
妹クニ夫妻は、療養の為に実家に戻った賢治の病床に、日当たりの良い二階の
部屋を譲り渡し、自分達は一階の寒い部屋に移っていたのだ。
その寒い部屋で三歳の姪っ子フジが夜中、咳き込んでいるのを聞いて、自分に
日当たりの良い部屋を譲ったばかりに、フジに風邪を引かせてしまったことが
心苦しく、自分が身代わりになるから、フジの病を自分に移して、フジを救って
欲しい、守護して欲しいと切に願っている。

「あの子は三つでございますが
 直立して合掌し
 法華の首題も唱えました」
というところが、また切ない。
まだ三歳の幼いフジではあるが、賢治が教えたのであろう、大乗仏教経典
「妙法蓮華経」の題目を唱えたこともある子であるからと、その功徳を
願っている。


私は仏教嫌い、法華経嫌い、日蓮嫌いであるが、賢治が終生、法華経を信奉
していたとか、日蓮主義を標榜する国柱会の会員であり続けたとかとは
関わり無く、賢治の深い愛念が胸に染み入る一詩である。




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