華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 遥かなる宮澤賢治先生 …慕い続けた教え子達

遥かなる宮澤賢治先生 …慕い続けた教え子達

遥かなる宮澤賢治先生 

…慕い続けた教え子達


宮澤賢治は大正4年(1915年)、官立では日本最初の高等農林学校、
盛岡高等農林学校農学科(現 岩手大学農学部)に主席で入学し、
大正7年(1918年)3月に卒業、同年4月、地質学研究科入学、
大正9年(1920年)研究生を卒業している。
大正10年(1921年)11月、稗貫(ひえぬき)郡立稗貫農学校
(大正12年4月1日、郡制廃止に伴い、岩手県立花巻農学校となる。
 現 岩手県立花巻農業高等学校 )の教師となる。
賢治が花巻農学校で教鞭を執ったのは、大正10年12月から大正15年
3月末までの4年数ヶ月で、25歳から30歳の時代であり、教諭をしながら、
詩や童話を書いた。


大正時代の教育制度であるが、4年制の尋常小学校を卒業すると2年制或いは
4年制の高等小学校へ進学する。更に、旧制中学か師範学校へと続いていた。
花巻農学校は、乙種と呼ばれる2年間の教育期間で、2年制の高等小学校を
終えた者に入学資格があったことから、賢治の教え子は年齢にして13~14歳位
であったことになる。
当時の花巻農学校の生徒数は一学年40~50名程度で1~2年生合わせても
80~100名程度、教師は校長を含めて5名と小さな学校であった。
賢治は英語、代数、化学、気象、作物、土壌、肥料、実習などを教えたという。



「先生はほほーっと宙に舞った」というタイトルの宮沢賢治の教え子
インタビュー映画(1991年作品)がある。
花巻農学校の教え子達が、幼き頃の賢治との触れ合いから70年を経て、
80歳を過ぎても尚、心の中に生き続ける宮澤賢治先生を慕わしげに、
活き活きと語っていらっしゃる。
現在もご健在であれば、皆さん100歳を超えていらっしゃることになる訳だが、
最早、賢治の教え子でご存命の方はいらっしゃらないということである。


教え子のお一人に、長坂俊雄さんがいらっしゃった。
長坂さんのお家は田畑を持たず、細々と雑貨屋さんを営んでいたそうで、
高等小学校卒業後は盛岡の理髪店で丁稚奉公をする予定であったという。
村長さんの息子さんであった友人から、花巻農学校を受験するのだが、
一人で行くのは心細いので一緒に行ってくれと頼まれ、自分は受験する
訳ではないので、試験会場に入らず、テニスコートで過ごしていたら、
試験監督の宮澤先生が声を掛けてくれ、付き添いで来たという事情を話すと、
「それでは退屈だろうから、君も試験を受けちゃいなさい」とおっしゃる。
長坂さんが願書も出していないと言うと、「そんなもん、要らん、要らん」
と宮澤先生。
二週間後、長坂さんに合格通知と入学手続きの書類が届いたが、入学する
積りはなかったところ、息子さんから事情を聞いた村長さんがお家に来られて、
親御さんを説得してくれ、宮澤先生も進学を許してくれるよう、お家を訪れて、
お話してくれたことで、時期は暫く遅れたものの、晴れて花巻農学校に入学
出来たという。


長坂さんは宮澤先生から、自分は急いで原稿を書くので後から読み直すと
とても分かり難いので、1枚毎に手間賃を出すから、時間のある時に原稿の
清書をしてくれないかと頼まれたという。
そうして渡された原稿であっても、書かれていた文字は綺麗で、写し易く、
毎回数十枚の原稿を写すと、学校の月謝が払えるほどの額になったという。
長坂さんが、そうした宮澤先生の恩情に気付いたのはずっと後のことであった
そうだ。
宮澤先生は時々、その原稿を長坂さんに読んでくれ、その影響で文学の世界に
親しむようになったという。

長坂さんは、宮澤先生の指導した演劇「植物医師」で主役を演じ、本番では
用意された懐中時計の代わりに、大きな目覚まし時計を懐に忍ばせては
面白さを強調したりと、思い掛けない適性を見せ、喜んだ宮澤先生は彼を
「喜劇の天才」と褒め上げてくれたという。


この長坂俊雄さんは、賢治の詩の中に「俊夫」として登場している。
岩手山登山で生徒を引率している賢治が休息中に、亡くなった妹とし子さん
のことを想って詠った詩「風林」

「………………… 
 …………………
 …………………       
《手凍えだ》                   
《手凍えだ?                   
 俊夫ゆぐ凍えるば                
 こないだもボタンおれさ掛げらせだぢやい》    
俊夫というのはどつちだらう 川村だらうか      
あの青ざめた喜劇の天才[植物医師]の一役者     
わたくしははね起きなければならない         
《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》           
《川村》                     
やつぱりさうだ                  
…………………」

※(詩の中の「川村」は長坂俊雄さんの旧姓)
※《 》は生徒たちの会話



  
稗貫農学校の碑 400

長坂さんは卒業後、当時、日本統治下にあった台湾で警察官となり、
農業指導の出来る一風変わったおまわりさんとして、活躍されたそうだ。
戦時中は南方戦線で戦われ、敗戦で英軍の捕虜となった。
捕虜として、重労働を課せられていた長坂さんがある時、花巻農学校で
宮澤先生から習った歌を歌っていたところ、それを聴き付けた英軍将校が喜び、
どうして英国の曲を知っているのかと聞いては、コーヒーをご馳走してくれ、
それからは楽な室内作業に配置転換させてくれたという。
復員後、地元で検察庁に勤めた長坂さんが、不法なビラ撒きをしたとして
収監され、ハンガーストライキで抵抗し、敵愾心剥き出しの学生達の事情
聴取に赴いた時の出来事。
長坂さんが花巻出身と知った学生の一人から「じゃあ、宮澤賢治を見たことが
あるか?」と聞かれ、見たことがあるどころか、宮澤先生の教え子だと言うと、
それまでの学生達の頑なな態度が一変して、打ち解けた態度に変わり、素直に
胸襟をを開いてくれたということがあったという。

長坂さんは、1992年4月放送のNHKドラマ 
「バルコクバララゲ~教師宮澤賢治の授業」に、なかだ老人として登場された。
長坂さんは短歌を作り、「花巻のむかしばなし」を収集し、亡くなられるまで
地元の語り部として活動を続けられ、昔話の録音も出版されていらっしゃる。



13歳、14歳の少年時代、僅か2年間の師弟関係であったにも拘わらず、
生涯に亘り、時空を超えて、麗しい魂の交流を持ち続けた教師と教え子達とは、
何と微笑ましき、美しき稀有なる縁であったのだろうか。
長坂さんの「宮澤先生」の他にも、何十人、何百人もの「宮澤先生」が
70年、80年、脈々と生き続けていたに違いない。










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2011/11/02 08:18 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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