華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 宮澤賢治は日蓮主義者であったのか? ①

宮澤賢治は日蓮主義者であったのか? ①

宮澤賢治は日蓮主義者であったのか? ①



賢治の父、政次郎氏(明治7年・1874年-昭和32年・1957年)は
古着質商を家業とする有力な商家であり、篤信の門徒(浄土真宗の信者)
であったという。花巻仏教会や四恩会を組織しては、幹事として世話をする
一方、講師を招聘しての仏教講座の夏期講習会を毎年開き、更に国訳の経文
を刊行して、人々に施本するなど、弘教活動に尽力している。

賢治は、大正3年(1914年)盛岡中学を卒業した18歳の秋、島地大等
(しまじ だいとう)編著「漢和対照妙法蓮華経」(法華経)を読んで
「只驚喜し身顫い戦けり」と激しく感動し、大正9年(1920年)、
24歳の時には、父政次郎の反対を押し切り、純正日蓮主義を奉じる、
国家主義的な日蓮宗系在家仏教団体「国柱会」の信行部に入会したが、
そもそも、その法華経との出会いの切っ掛けを作ったのは皮肉な事に、
他ならぬ父政次郎自身であったとも言える。

漢和対照妙法蓮華経
「漢和対照妙法蓮華経」通称「赤本法華経」

明治44年(1911年)8月、盛岡中学3年生、15歳であった賢治は、
父政次郎が主導的に企画した花巻温泉郷大沢温泉に於ける「夏季仏教講習会」
で、「漢和対照 妙法蓮華経」の編著者、島地大等の講話を聞いている。
更に大正2年(1913年)10月、盛岡中学5年生、17歳の時には、願教寺での
「報恩講」に出席、大正4年(1915年)8月、盛岡高等農林学校1年生、19歳
の時には、願教寺「夏期仏教講習会」に一週間に亘って参加し、「歎異鈔法話」
を聴聞し、島地大等氏の謦咳に接している。
島地大等氏は浄土真宗本願寺派願教寺住職で、仏教学者でもあり、
インドや中国の仏教史蹟調査、比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺で
古文書研究などの励まれ、東京帝国大学や東洋大学などで教鞭を執った。
「歎異抄講本」「天台教学史」「日本仏教教学史」などの著作も多い。
明治8年(1875年)-昭和2年(1927年)

島地大等氏は浄土真宗の僧侶であったが、日蓮への尊崇の念を抱いていたのか、
彼の著書や講話が日蓮への言及が機縁となり、賢治に法華経及び日蓮への関心
を抱かしめたのではないかと推察される。


               島地大等氏

大正7年(1918年)2月、22歳の時、日本女子大の学生であった妹トシの看病の為に、
母イチと共に上京し、翌8年(1919年)2月まで滞京していたようが、
その間に国柱会の創立者田中智学氏の講演を鶯谷の本部国柱会館で聴聞した
ことがある旨、友人保坂嘉内氏への手紙に記されている。
大正8年(1919年)か、大正9年(1920)頃と推定されるが、賢治は
田中智学氏著の「本化攝折論」や「日蓮上人御遺文集」の抜書き「攝折御文、
僧俗御判」を編集し、大正9年10月、24歳で国柱会に入会、「南妙法蓮華経!
南妙法蓮華経!……」とお題目を唱えながら、花巻の町を歩いたという程の
熱狂振りを見せていたようである。
大正10年1月、父母の改宗を熱望して容れられず、突如無断で上京して、
国柱会本部を訪れ、同会幹部講師の高知尾智耀(たかち おちよう)氏から
「法華文学ノ創作」を勧められたという。
本郷菊坂町に間借りし、赤門前の文信社で筆耕校正の仕事で自活しながら、
午後には街頭布教活動や国柱会本部での奉仕活動に励み、8月の帰郷時には
大トランク一杯の原稿が有ったという程、童話の創作に熱中したようである。

国柱会館400
               鶯谷の本部 国柱会館

大正から昭和に掛けての時代は、宗教的軍事主義、皇道ファシズムを標榜する
狂信的な日蓮主義者が跳梁跋扈した時代でもあった。
戦争を「正法流布の手段」と捉え、「世界最終戦論」を唱えた軍事思想家で、
昭和6年(1931年)関東軍作戦参謀として、満州事変の発端となる柳条湖の
鉄道爆破事件を起した石原莞爾は熱烈な日蓮主義者で、国柱会の会員であった。

昭和7年、テロに依る破壊が建設を生むとして、「順逆不二の法門」を唱え、
「一人一殺主義」で指導者層を暗殺することに依る国家改造を企図し、
濱口雄幸内閣で蔵相を務めた井上準之助、三井財閥の総帥・団琢磨を暗殺した
右翼テロリスト秘密結社「血盟団(けつめいだん)」の指導者井上日召も
団員たちも激烈な日蓮主義者であり、昭和7年、上海事変勃発の経緯の中で、
日本人青年同志会に依る、抗日組織の拠点であったタオル工場・三友実業公司
襲撃を指導した重藤憲文憲兵大尉も、五・一五事件の青年将校山岸宏海軍中尉
も、立正安国論を愛誦し、「順逆不二之法門」という小冊子を著した二・二六
事件の西田税(みつぎ)元陸軍少尉もまた熱烈な日蓮主義者であった。

「日本改造法案大綱」を著した右翼の理論的最高指導者で、黒幕的な存在と
して、昭和6年(1931年)の十月事件、昭和7年(1932年)の五・一五事件、
昭和11年(1936年)の二・二六事件のクーデター未遂事件などに関与した
北一輝も日夜、法華経二十八品を読誦し、受け取る霊告を「神仏言集」として、
7年間に亘り、「南無妙法蓮華経」と大書したノートに書付ていたような、
矯激極まる日蓮主義者であった。

日蓮門下の釈尊を中心とした信仰への統合や社会運動、政治運動など、日蓮
主義伝道活動を広く展開した顕本法華宗の開祖、本多日生の影響下にあった
江川桜堂が創始した日蓮系新宗教「日蓮会」の青年部「日蓮会殉教衆青年党」
(通称「死のう団」)は、昭和8年(1933年)、集団で「死のう」と叫びながら
行進して逮捕された事件、昭和12年(1937年)、国会議事堂など5ヶ所で割腹を
図る事件など、「死のう団事件」と呼ばれる一連の騒擾事件を起こしている。

こうした日蓮主義台頭の風潮を背景として、1922年(大正11年)、日蓮門下
は合同で大正天皇に宗祖日蓮の大師号降賜の請願をし、「立正」大師号追謚を
実現させているが、戦前戦中に於ける日蓮主義の歴史的汚点を慮ってか、
立正大師号の通用は弘法大師や伝教大師のように一般化していない。

賢治は「日蓮主義者」に付いて、友人保阪嘉内氏宛てに、
「日蓮主義者。この語をあなたは好むまい。私も曾ては勿体なくも烈しく
嫌ひました。但しそれは本当の日蓮主義者を見なかった為です。
東京鴬谷国柱会館及『日蓮聖人の教義』『妙宗式目講義録』等は必ずあなたを
感泣させるに相違ありません」と入会当初の心酔振りを熱烈に書き送ったり、
「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば、
私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります」とまでの熱狂的傾倒を露わ
にしていたようであるが、詩「国柱会」「心相」「カーバイト倉庫」などからは、
後日の国柱会への失望の暗喩が読み取れる。

2.26 戦車400
          二・二六事件 叛乱軍の鎮圧に向かう戦車隊

日蓮は、法華経「以外」の経典を、法華経「以前」に説かれた経典と捉え、
法華経以外の経典総べては「真実を説く為の『仮の方便のお経』」、すなわち
「権教(ごんきょう)」であり、「法華経こそが最高の経典」と位置付け、
他の仏教諸宗派を睥睨し、邪教扱いで誹謗中傷する虚妄の大義「法華経正意論」
を論拠として、宗教理論を構築した。
その釈尊に仮託された思想文学作品に過ぎない「法華経」を、末法の時代に
釈尊の使者として、地涌(じゆ)の上首(じょうしゅ)上行菩薩
(じょうぎょうぼさつ)が出現し、「法華経」を広めて、民衆を救済すると
いう予言書と捉え、その上行菩薩の再誕は当に自分であるとの宗教的自覚
を抱いた日蓮が構築した理論が、現代に至るまで踏襲されているのである。

歴史的事実としての大乗仏教経典群の成立事情に鑑みて、日蓮教義は論理破綻
を起こしており、通用しないお伽話なのであるが、日蓮が活躍した鎌倉時代
以降、我が国の法華経受容の仕方は、大方の場合、日蓮というフィルターを
通した上での法華経理解となっている。
その日蓮の法華経理解もまた、中国仏教、天台学というフィルターと通した上
での法華経である訳なのだ。
そういう背景を持つ、日本に於ける法華経という経典であるからこそ、過去も
現在も、法華経!法華経!と騒ぐ輩こそが、仏教の心、法華経の精神とやらを
体現することもなく、むしろ独善的、偽善的、偏執的、排他的、戦闘的、独裁
を好む愚民的視野狭搾な「宗教ヤクザ」に堕して行くという奇妙な現実がある
が、悪現象は悪信仰の証に他ならないのである。


                田中智学氏

日蓮宗僧侶であった田中智学氏が、明治13年(1880年)に「蓮華会」を設立、
明治17年(1884年)に「立正安国会」と改称した組織をルーツとして、
大正3年(1914年)に、「純正日蓮主義」を信奉する在家仏教団体「国柱会」
を設立し、在家主義の立場から、仏教の近代化を目指した。
名称の由縁は、日蓮の遺文「開目抄」中「われ日本の柱とならん」の語に依る。
宗派としての名称は「本化妙宗」で、釈尊を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、本尊は
日蓮の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。

国柱会では、日蓮を「閻浮(えんぶ=世界)一聖」、つまり法華経の予言通り、
人類の救済を任務として、末法時代の日本に出現した上行菩薩と仰ぎ見て、
日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合論(法国冥合論)を標榜している。
大正12年(1923年)には、天皇の法華経帰依に依る広宣流布、国立戒壇建立、
宗教革命を目指して、議会政治に参画すべく政治結社「立憲養正会」を結成
したが、帝国議会の議席獲得には至らなかった。

田中智学氏は、現代では国家主義的右派指導者のイメージが強いが、明治から
大正に掛けては相当に魅力的なカリスマ的存在であったようで、政界、財界、
軍人、文壇、演劇界等々、文人北原白秋からファシスト北一輝まで、多方面で
多種多様な交流があったという。
大東亜共栄圏建設のスローガンとなった「八紘一宇」も「日蓮主義」も、
彼の造語であった。
国柱会の思想「在家主義」や「日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合論」
「国立戒壇論」など、現代の日蓮系他教団にも大きな影響を及ぼし続けている。

最勝閣400
               三保最勝閣

賢治に関わる国柱会の活動分野としては、大正11年(1922年)に、「国性芸術」
と呼んだ芸術を通しての教化活動を推進する「国性文芸会」という国柱会の
付属機関が組織されているが、賢治の演劇活動や「法華文学ノ創作」活動は、
この趣旨に沿うことになる。

田中智学氏は多芸多才で、国柱会の建築物、三保の最勝閣(大正11年11月
に亡くなった妹トシの遺骨を、賢治は三保最勝閣に持参した)や鶯谷の本部、
国柱会館の設計も手掛けたというが、都市計画にも一家言あったようで、
大正9年には「東京新都市論」を、明治20年には農工一体のコミューン
「本時郷団」(法華村、日蓮村、日本村とも言う)の建設を提唱していた。
賢治の「羅須地人協会」の発想は、この「本時郷団」のユートピア構想と
その軌を一にしているようである。





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2011/11/15 06:44 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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