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宮澤賢治は日蓮主義者であったのか?② …上行菩薩再誕論の呪縛

 2011-11-17
宮澤賢治は日蓮主義者であったのか?②  

               …上行菩薩再誕論の呪縛


賢治が法華経に帰依する機縁となったのが、日蓮宗の僧侶や信者からの折伏に
依るものではなく、盛岡北山の浄土真宗本願寺派寺院、願教寺(がんきょうじ)
の住職で仏教学者の島地大等(しまじ だいとう)氏の謦咳に接したこと、また
島地氏の編著書「漢和対照 妙法蓮華経」を読んだことに依るものであったこと
は、不幸中の幸いであったと言える。

出家在家を問わず、我が国の法華経系教団信者で、「法華経」という経典を
繙くことに依って随喜渇仰し、心服随従の信仰生活に入る人は極々稀で、
大方は「日蓮」だの、「題目」だの、「ご本尊」だのが先行して、「法華経」は、
「日蓮教」としての「一応の」依経として、捉えているに過ぎないものなのだ。
賢治が初めに触れた「法華経」は、中国で翻訳のみならず、創作を重ねられた
中国仏教の「法華経」、日蓮宗系の信者の受容する「法華経」は、その中国仏教
の「法華経」を、己への「予言書」と宗教的自覚を持った日蓮が信解知解した
ところの「法華経」であり、釈迦仏法と日蓮仏法との相違を生み、その様相は
大きく隔絶するものである。



極端な例を挙げると、日蓮系の、特に在家カルト教団の信者などは、虚構の
時代観である末法思想に依り、インド応誕の釈尊は無縁のものとして、屁とも
思っていないどころか、釈迦像を拝んだら、却って罰が当たると信じている。
一般には信じ難いことと思うが、彼らは「日蓮遺文集」を読むことはあっても、
法華経を繙くことなどは先ず無いものだ。
朝夕の勤行で方便品第二と如来寿量品第十六の一部分を読誦するが、音読に
気を取られて、意味など吟味していない。
法華経二十八品全部を一度でも読んだことのある人などは、極々稀なのである。
「資本論」を読んだことのない共産主義者の存在よりも、奇妙な現象と言える。

賢治作品の読者なら、「雨ニモマケズ」の「デクノボー」で、誰に対しても
礼拝し、敬意を表して、どんな仕打ちにも礼拝を止めなかった常不軽という
修行者は実は自分であったと語った釈尊の「不軽菩薩」を連想する人は多いが、
日蓮を信仰する彼らの殆どは「常不軽菩薩品第二十」を読んだこともないし、
そもそもそんな精神は毛筋ほども持ち合わせていないので、非仏教徒よりも
「雨ニモマケズ」への共感、共鳴は遥かに薄いものとなる。
賢治の場合は、「法華経」→「日蓮」→「国柱会」であって、「日蓮教団」→
「日蓮」→「法華経」の経路でなくて、良かったのだ。
後者の場合は、今も昔も「法華経の精神」とやらは何処吹く風で、何故か
老いも若きも、見苦しい俗物親分に忠誠を尽くす狂信的な「宗教ヤクザ」に
堕する「思考停止」の烏合の衆が圧倒的に多いのだ。

身延山久遠寺400
               日蓮宗総本山身延山久遠寺

国柱会は「祖廟中心・宗門統一」をスローガンに、日蓮の祖廟(身延山久遠寺)を
中心とした全日蓮門下の各教団の統一への活動を自会の存在意義の一つに
挙げていて、出家との対立関係は無く、身延山久遠寺への参詣を行なう。
山梨県南巨摩郡身延町に在る身延山久遠寺は、日蓮が晩年に過ごした地であり、
祖山(そざん)と呼ばれ、日蓮宗の総本山として崇敬されている。

日蓮宗で本尊とするのは、「久遠実成の本師釈迦牟尼仏」(くおんじつじょう
の ほんし しゃかむにぶつ)、つまり「釈尊」「お釈迦様」であるが、
この「釈尊」は約2500年前にインドに誕生し、80歳で亡くなった歴史上の
人物としての「釈尊」、ゴータマ・シッダールタではなく、過去・現在・未来の
三世に存在するという、永遠の存在としての「釈尊」を意味する。

日蓮宗の教義は、 釈尊が説いた(仏説)とする経典の中で、その真髄は法華経
であり、その法華経の一切は「南無妙法蓮華経」の「題目」に集約されるとし、
その法華経と題目を一天四海(天下、全世界)に広めること(広宣流布)に
依って、命のある一切(衆生)の救済するというものである。
身延山久遠寺を頂点とする日蓮宗の日蓮(日蓮聖人)の捉え方は、「人本尊」
とせず、日蓮は飽くまでも「永遠の存在としての釈尊」の教えである法華経を
仏の使い(仏使)として、伝えた(若しくは、伝えてくれている)という見地である。


               鶯谷の国柱会館


賢治が終生、そのメンバーであった国柱会の日蓮観は、
「法華経には末法の人々を救う為に、本仏の本弟子である『本化の菩薩』を
派遣すると『予言』されていて、日蓮が受けた数々の法難迫害は、この
『法華経』の『予言』と符合する。
このことから、日蓮こそ、絶対平和世界を実現する為に、『法華経』に出現を
『予言』された『本化上行菩薩』である。
従がって、日蓮を一宗一派の祖師としてでなく、『世界人類の唯一の救世主』
『閻浮一聖』として崇める」という大仰なもので、「日蓮本仏論」に限り無く
近いものがある。

仏教経典は、それが虚構であっても、釈尊の教え(仏説)であるという一点に
於いて権威付けられているにも関わらず、一方で歴史上の釈尊を否定しながら、
他方では、その釈尊が説いたとする経典に書いてあるから真理であるとして、
「予言なるもの」の価値を絶対視し、それを根拠に論を進めるという大矛盾が
存在する。

そもそも、宗教経典に於ける「教え」というものは、その時代に生きる人々の
救済の為に書かれたものであって、何も1222年に生まれる日蓮の為に、仏滅後
400年から600年の紀元前後に法華経が編纂されたという訳ではないのである
から、法華経を「予言の書」と捉えるのは誤りである。

上行菩薩像
        上行菩薩

日蓮の信奉者が主張する、法華経に於ける「予言」とは、
「釈尊の出世の本懐は、法華経を説くことであり、釈尊在世と滅後二千年間の
衆生救済の為と、滅後二千年後以降の末法の衆生を済度する『上行菩薩出現の
予証の為』であった」とする。

仏滅後500年前後に原型が編纂された法華経は、釈尊の教説ではない。
「釈尊の出世の本懐は、法華経を説くことであった」というのは、中国僧
天台大師智(ちぎ)(538-597)の「教相判釈」という、膨大な仏教経典の
整理方法の仮説に依る虚構である。

上行菩薩出現の大前提である「末法」という時代観であるが、
「正法・像法・末法」の「三時説」は法華経には説かれていないのである。
この「三時説」は、「法華経」よりも後代に成立した「大方等大集月蔵経」に
説かれたものであって、「法華経」にある2ヶ所の「末法」と訳されている
サンスクリット語の言葉は単に「仏滅後」という意味に過ぎないのである。

「釈尊は、法華経如来神力品第二十一に於いて、法華経の肝要を上行菩薩に
付嘱して、滅後末法の弘教を託した」という。
その上行菩薩に付いて、釈尊は「日や月の光明がよく諸の薄暗いところを除く
ように、この人は世間においてよく人々の闇を滅し」とあり、「この人」は
「凡夫の姿をした法華経の行者」つまり、1222年の鎌倉時代、日本に生まれた
日蓮その人であるというのだ。

「法華経法師品第十や、勧持品第十三、安楽行品第十四の経文にあるように、
釈尊滅後の末法の時代に凡夫として出現し、法華経を弘めることで数々の
難に遭ったのは、古今東西に於いて、鎌倉時代の日本に出現した日蓮しか
いない。中国の天台大師智も比叡山の伝教大師最澄も法華経を弘教した
ことに依って、世間から迫害を受けてはいない。
だから、日蓮こそが、従地涌出品第十五に説かれるところの上行菩薩の再誕
なのだ」という論法である。
尤も、再誕も何も、上行菩薩は架空の存在に過ぎない訳であるが。

花巻農業高校敷地内「賢治先生の家」400
          岩手県立花巻農業高校敷地内「賢治先生の家」

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の一文で
有名な「農民芸術概論綱要」は、昭和元年(1926年)に賢治が花巻農学校教諭
を依願退職し、設立した羅須地人協会の趣意書のような理論書と言える。
これは、当時疲弊していた農村に対して、増産の為の肥料設計を指導すると
共に、農民芸術を提唱して、農村の生活向上を図ろうとしたものであるが、
賢治の理想とするところの世界では、宗教と科学、芸術は統合されるべきで
あると考えられていた。

賢治の宗教観には、彼自身が大自然の森羅万象の根底に在る真理に感応して、
魂の奥底に「心象」を感じ取ったかのような、宗教的な神秘体験を背景にした
「法悦」とも言える深淵な悟達の境地があったようにさえ感じられる。
だからこそ、母イチさんに「この童話は、有り難い仏さんの教えを、
一生懸命に書いたものだんすじゃ。だからいつかは、きっと、みんなで
喜んで読むようになるんすじゃ」と語ったように、彼の文筆活動は彼自身の
目的意識としては「法華文学ノ創作」であったにしても、仏教教理をそのまま
表現した単なる宗教文学にはせずに、「心象」を「スケッチ」することに依って、
珠玉の如き詩や童話を描くことが出来たのではなかろうか。
国柱会の教義を教条主義的に唯一絶対的な真理として捉え、賽主の田中智学氏
を盲目的に崇拝するような愚劣なことは、彼には無縁で、仏教思想が彼の胸中
で昇華されたかのようなその作品群に匂い立つ宗教心はむしろ、キリスト教
神秘主義的でさえある。

宮澤賢治童話村400
               宮澤賢治童話村

有名な「雨ニモマケズ」手帳の裏表紙の鉛筆挿しの中に、
「塵点の劫をし過ぎていましこの 妙(たえ)のみ法(のり)にあひまつりしを」
という短歌が書かれた紙片が入っていたという。

「塵点の劫」とは仏教用語「塵点劫(じんでんごう)」で、計測することの
出来ないような、極めて長い時間を表現している。
法華経寿量品第十六に於いて、釈迦はインドに生まれて、18歳で出家、
修行に依って、30歳で始めて正覚を得たという立場(始成正覚)を否定して、
真実はそうではなく、自分は「五百塵点劫」という久遠の昔に成道して以来、
ずっと説法教化して来たという立場「久遠実成」を表明した。
「妙(たえ)のみ法(のり)」は「妙の御法」で、「妙法」「妙法蓮華経(法華経)」
のこと。
巡り会い難き法華経を、今世で受持出来た法悦を詠ったものであろう。
昭和36年(1961年)に宮沢賢治研究会が、身延山久遠寺にこの歌碑を
建立している。

久遠寺の歌碑400
          身延山久遠寺に建立された賢治の歌碑

賢治の遺言は、
「国訳の法華経を千部印刷して知己友人にわけて下さい。
 校正は北向さんにお願いして下さい。本の表紙は朱色に。
 『私の一生の仕事は、このお経をあなたのお手元にお届けすることでした。
 あなたが仏様の心に触れて、一番良い、正しい道に入られますように』
 ということを書いて下さい」というもので、父政次郎氏が印刷する法華経の
範囲を確認すべく、「法華経は自我偈だけか、または全品か」と問うたところ、
「どうぞ法華経全品をお願いします」と答えたという。
「自我偈」とは、法華経二十八品(章)の内、如来寿量品第十六の一部分、
勤行で読誦される「自我得仏来……速成就仏身」の範囲をいう。
この遺言の数時間後に、賢治は逝った。


昭和9年6月5日、
「合掌、私の全生涯の仕事は此経をあなたのお手許に届け、
 そしてその中にある佛意に触れて、
 あなたが無上道に入られんことをお願ひする外ありません。
 昭和八年九月二十一日 臨終の日に於て 宮澤賢治」
と後書きの付された法華経が弟清六氏に依って発行され、遺言通り、
友人知己に配られたという。

賢治遺言の法華経400
            賢治の遺言に沿って作られた法華経



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