華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 宮澤賢治の法華信仰 ① …賢治の折伏活動

宮澤賢治の法華信仰 ① …賢治の折伏活動

宮澤賢治の法華信仰 ① 

              …賢治の折伏活動


「折伏(しゃくぶく)」とは、何と驕り高ぶった高慢ちきな言葉であろうか。
「破折屈伏(はしゃくくっぷく)」の略語であるが、破り折って、屈服させると
いうのであるから、仏教徒、特に法華経信者の布教姿勢は、如何にも傲慢で
高圧的ではないか。
「折伏」の出典は、舎衛国(しゃえいこく)波斯匿(はしのく)王の娘で、
在家の女性信者である勝鬘夫人が説いたものを釈迦が認めたという形式を取る
経典「勝鬘師子吼一乗大方便方広経」略して、「勝鬘経(しょうまんぎょう)」で、
法華経ではない。

勝鬘経中の「十大受(十の大きな誓い)」の一つに、
「世尊よ、今後私は豚肉を売ったり、鳥屋などの罪ある商売で生活し、
如来の説かれた教えや掟を蔑ろにする性質の者たちを見たならば、
決して無関心では過ごしません。
世尊よ、部落でも村でも、町でも田舎でも、また王城の所在地でも、
誰彼を問わず、私の命令の及ぶ限り、懲らしめるべき類いの者たちは
これを「折伏」し、救い取るべき者たちに対しては、これを摂受
(しょうじゅ)します。
これは何故かと言えば、世尊よ、この折伏と摂受とによって、
世の中に真実の教え(正法)を永久に在らしめる為です。
真実の教えがもし永続するならば、神々や人間たちの身に生まれる者は
増大し、(死後)悪道に赴くものたちは減少するでしょう。
世尊よ、これこそは世尊が法輪を転ぜられた(目的)に従がう道であります。
世尊よ、この第九の誓いを、私は菩提の座に到達するまで厳守します」とある。

漢訳の「我得力時。於彼処見此衆生。応折伏者而折伏之。応摂受者而摂受之。
何以故。以折伏摂受故令法久住」が、
「世尊よ、部落でも村でも、町でも田舎でも、また王城の所在地でも、
誰彼を問わず、私の命令の及ぶ限り、懲らしめるべき類いの者たちは
これを「折伏」し、救い取るべき者たちに対しては、これを摂受
(しょうじゅ)します。
これは何故かと言えば、世尊よ、この折伏と摂受とによって、
世の中に真実の教え(正法)を永久に在らしめる為です」に相当する。

「摂引容受(しょういんようじゅ)」略して、「摂受(しょうじゅ)」というのは、
「折伏」の反対語に相当し、「心を寛大にして、相手やその間違いを即座に
否定することなく、反発せずに受け入れ、穏やかに説得すること」である。
摂受と折伏は衆生教化に用いる二種の方法で、衆生を受け入れ、慈悲を以って
正道に導く「摂受門」と、悪を挫き、心服させ、正法に導きいれる「折伏門」
の違いがある。

日蓮はその著作「開目抄」に於いて、
「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、
摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に
充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は
折伏を前とす常不軽品のごとし」

「摂受・折伏と言う法門は、水と火のようである。
火は水を嫌い、水は火を憎む。
摂受を行ずる者は折伏を笑い、折伏を行ずる者は摂受を悲しむ。
無智のもの、悪人が国土に充満している時は摂受を第一とする。
安楽行本に説かれている通りである。
邪知の者、謗法の者が多い時は、折伏を第一とする。
常不軽品に説かれる通りである」と、
末法時代の日本に於いては、摂受よりも折伏の方が適した布教法であると
断定しているのである。

紀元前5世紀頃(463B.C. ?-383B.C.?)現在のネパール国境付近
(インド説もある)のカピラワットゥの釈迦族に生を享けたゴータマ・
シッダールタの没後、彼を神格化したことに依って、その教説が宗教化し、
中国仏教として弄繰り回された挙句、日本に伝来した外来宗教を以って、
日蓮を末法世界人類唯一の救世主「閻浮一聖」として崇め、日本中世界中を
折伏して回り、何も世界人類の思想道徳を統一して頂かなくても結構ですと
いうところなのであるが、全国制覇を目論んで縄張りを広げる暴力団のように、
何とも厄介な独善的誇大妄想的宗教であることよ。

法華経55 400

大正9年(1920年)24歳の賢治が国柱会に入会した年の7月頃に、
田中智学氏著「本化摂折論(ほんげしょうしゃくろん)」と日蓮の遺文を
抜粋して書写した「摂折御文僧俗御判(しょうしゃくごもんそうぞくごはん)」
を書いているが、その冒頭に摂受・折伏の出典として、勝鬘経を引用している。

この摂受折伏観に関して、賢治は、
「今の私は、摂受を行ずることは出来ません。
何故なら、自分の内なる心の中に、一切すべての現象を包摂、
包み込んでいることが出来ないからです。
南無妙法蓮華経は空間に充満する白光の星雲です。
その白光の星雲である南無妙法蓮華経を自分自身の心の中に
包むことによって、自分は釈尊のおぼしめしと日蓮聖人の慈悲を
表現していかなければならない」と心境を吐露している。
「白光の星雲に比すべき法華経の世界に同化し切れていない
未熟な自分には、摂受を行ずる資格がない」と言うのである。
賢治のこの、法華経の究極には摂受がある、日蓮の本懐は摂受にあったと
解釈していることを暗示する思想は、折伏を摂受の上位に置く教条主義的な
視野狭窄の日蓮信者には有り得ない豊かな慈悲心からの発想である。

大正3年(1914年)賢治18歳、盛岡中学校卒業後、島地大等編著
「漢和対照 妙法蓮華経」を読んで、「驚喜して身顫ひ戦けり」と激しく感動
したというが、大正9年(1920年)24歳で盛岡高等農林学校研究科を終了する
迄は、妹トシや親友保阪嘉内に法華経を読むことを勧める程度で、父政次郎に
浄土真宗からの改宗を迫るなど、本格的な折伏活動を開始したのは、10月の
国柱会入会以降のことになる。

大正10年(1921年)7月18日、在京中であった賢治は、上野図書館の3階で
保阪嘉内と落ち合い、宗教論を交わしたが、嘉内は賢治の「激しい白びかり」
のような折伏にも応ずることなく、入信を拒絶され、二人は決別に至っている。


       後列右側が賢治 後列左側が保阪嘉内氏

花巻農学校で同僚だった堀籠文之進は、盛岡高等農林学校では賢治の3年後輩
であったが、花巻農学校には大正10年4月に就任しているので、教師としては
同年12月就任の賢治には、8ヶ月先輩に当たっていた。
堀籠文之進と賢治は、公私共に親しい間柄であったようだが、賢治の執拗な
折伏に彼は応じなかった。
賢治に「諦めるからあなたの身体を打たせて下さい」と言われ、背中を打たれ、
「ああ、これで私の気持ちが治まりました。痛かったでしょう。許して下さい」
と謝罪されたことがあったという。
「宗教的な道を、一緒に行けないのは、宮澤さんの信仰の深さや気持ちが、
あんまり隔たり過ぎていて、むしろ恐ろしかったのです。
その結果、宮澤さんと気持ちの上でちょっと離れた時もあった」と彼は回想
している。

長篇詩「小岩井農場」の下書稿(パート5)に
「堀籠さんは温和しい人なんだ
 あのまっすぐないゝ魂を
 おれは始終おどしてばかり居る
 烈しい白びかりのやうなものを
 どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」
と、賢治は自分の折伏する激しい様子を描写している。


花巻農学校の同僚は校長の他に、教諭の堀籠文之進氏と白藤慈秀氏、
書記助教心得・舎監心得の奥寺五郎氏が居た。
白藤慈秀氏は賢治より少し年長であったようだが、浄土真宗の僧侶で、後に
賢治に影響を与えた島地大等氏が住職をしていた盛岡北山の願教寺僧侶に
なっているところからすると、お互いに水面下では宗教上の葛藤があった
はずで、微妙な関係性の間柄であったろうと推察される。


非常識なまでに熱狂的に折伏に奔走するのは、法華初信者の常であるが、
誰も居ない教室で、法華経の読誦、唱題する賢治の姿は目撃されてはいても、
教育現場で教え子を巻き込んでまでは、法華経への入信を勧めてはいなかった
ようである。



内村鑑三氏の愛弟子で、熱烈なクリスチャンであった斎藤宗次郎氏は、
賢治より18歳年長であったが、大正10年(1921年)から15年(1926年)
までの4年間、賢治と親しく交流を持っていたという。
「求康堂」という新聞取次店を営んでいた斎藤宗次郎氏は新聞配達をしていて、
花巻農学校に集金に行った折り、「宮澤賢治先生がいた」職員室の中で話をし、
一緒に音楽を聴いたりしたという。
斎藤宗次郎氏は、「宮澤先生はたくさんレコードを持っていて、ベートーベン
とかモーツァルトとかドヴォルザークとか聴かせて貰った」と21歳から91歳
までの70年間に膨大な日記に基いた自叙伝「二荊自叙伝(にけいじじょでん)」
に書いている。
賢治と二人でストーブを囲んでいる様子のスケッチも、日記に描いている。
熱烈な信仰心を燃え滾らせた法華信者とキリスト者、異教の二人が相見えた訳
であるが意外にも、斎藤宗次郎氏は、「僕は宮澤賢治と宗教の事で話をした事は
ない」と回想している。
精神的巨人とも言える二人の人格者が、高い境地からお互いの存在を認め合い、
独善的、排他的宗教感情に抑制を利かせ、宗教論争で強烈に自己主張すること
もなく、謗り合い、侮り合うこともなく、二つの魂を触れ合わせた高貴な匂い
の漂うエピソードである。
日蓮の崇拝者には独特の臭味があり、それが人格を崩し、相や行為行動に
悪現象として顕在化するものであるが、賢治にはその醜い傾向性は希薄で
あったに違いない。
それは一義的に、彼は法華経信者であって、日蓮信者ではなかったからである。


               斎藤宗次郎氏

「宗教の事で話をした事はない」という賢治と斎藤宗次郎氏の交情を、私は
麗しき関係性と感じるが、日蓮系の信者は賢治の「謗法(ほうぼう)」と見る。
「謗法」とは、「誹謗正法(ひぼうしょうぼう)」の略で、仏法を謗り、真理を
蔑ろにすることである。

「妙法蓮華経譬喩品第三」には
「若し人信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)する時は
すなわち一切 世間の仏種を断ぜん。
或いはまた、顰蹙(ひんしゅく)して しかも疑惑を抱かば
汝は、当に この人罪報を説くを聴くべし。
若しくは仏の在世に 若しくは滅度の後に
それ、かくの如き経典を 誹謗(ひぼう)するもの有りて
経を読誦し書し 持つ者有るを見て
軽賤(きょうせん)し憎嫉(ぞうしつ)して 結恨(うらみ)を懐かば
この人の罪報を 汝、今、また聴け。
その人、命、終われば 阿鼻獄に入らん」

サンスクリット原典からの翻訳
「余の巧妙な手段は常にこの世に確立されている仏の指導方法である。
それを捨てて、渋面をして乗り物を捨て去った人の、
この世に於ける悲惨な報いを汝は聴け。
余の在世中であれ、あるいは入滅した後であれ、このような経典を捨て去って、
あるいは僧たちに過酷な態度をした人々の受ける報いを汝は聴け。
愚かな輩は人間界で死んだのち堕ちて、幾劫かを満了するあいだ
阿鼻地獄に住む人となり、
その後さらに幾小劫のあいだ、かれらはそこで堕落を続けるのだ」

法華経を信受しない者は地獄に堕ちるというのであるが、法華経の信者で
あっても「謗法与同罪」というものがあるので、油断は出来ないのだ。
日蓮の弟子、日興は「日興遺誡置文(にっこう ゆいかいおきもん)」に、
「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」と書いている。
「謗法与同罪」とは…
日蓮59歳、その生涯を終える2年前、弘安3年(1280年)「秋元御書」に、
「常に仏禁(いまし)めて言はく、何なる持戒智慧高く御坐(おわ)して、
一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵(かたき)を見て、
責(せ)め罵(の)り国主にも申さず、人を恐れて黙止(もだ)するならば、
必ず無間大城に堕(お)つべし。
譬(たと)へば我は謀叛(むほん)を発(お)こさねども、謀叛の者を知りて
国主にも申さねば、与同罪(よどうざい)は彼の謀叛の者の如し。
南岳大師(なんがくだいし)の云はく『法華経の讐(あだ)を見て
呵責(かしゃく)せざる者は謗法の者なり、無間地獄の上に堕ちん』と。
見て申さぬ大智者は、無間の底に堕(お)ちて彼の地獄の有らん限りは
出づるべからず」と書いている。

つまり、法華経を信じないどころか、法華経の仇であるキリスト者(外道)、
斎藤宗次郎氏を呵責することなく、仲良く音楽鑑賞に浸っていた法華経の信者、
賢治は謗法与同の罪に因り、無間地獄に堕ちるということである。

法華経33 400

また、建治2年(1276年)日蓮55歳時の遺文、
曽谷殿御返事(別名 成仏用心抄)には、
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、
師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。(中略)
謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、
水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」

「法華経の敵を見ても、そのまま放置して折伏しなければ、
僧侶も信徒も共に無間地獄に堕ちる事は疑いない事である。
謗法を責めないで成仏のみを願うならば、火の中に水を求め、
水の中に火を尋ねるようなものである。願いもはかなく消えてしまう」
とある。

日蓮は続けて、
「法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし
うるし千ばいに蟹(かに)の足一つ入れたらんが如し
毒気深入・失本心故は是なり」と、
蟹の足を謗法に譬え、法華経を信じても謗法が少しでもあれば、
功徳が無いばかりでなく、逆に必ず地獄に堕ちる。
謗法を受け入れて行く内に、謗法の毒が深く入り込み、
本心を失えば、必ず地獄に堕ちるというのである。

法華経の信者として、折伏活動が一向に進展しなかった賢治は、このように
「堕地獄」「堕地獄」と脅され続ける精神世界の中で、宗教的強迫観念に
苛まれたこともあったはずである。

法華経の信者どもの思い上がりは甚だしいもので、法華経に敵対する者、
謗法者を殺すのは、法華経主義からすれば、大功徳になるとまで言い放つ。
先に引用した、弘安3年(1280年)「秋元御書」には、
「涅槃経」の見解を引用して、
「不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり。(中略)
法華経の敵になれば、此れを害するは第一の功徳と説き給うなり
況や供養を展ぶべきをや」と書いている。
「殺生戒は仏誡の第一であるが、謗法の悪人を懲罰するのは、法華経行者の
義務であり、如何に折伏してもこれに応じない者は、殺すことも止むを得ず、
却って真の慈悲である。謗法者を殺すのは、法華経主義の見地からは、不道徳
でなく、却って大道徳、大功徳になる。
このように謗法の悪人は殺しても良いほどであるから、謗法者に供養を
施すべきでないのは当然のことである」ということである。

このような教説であるから、法華経が最勝の経典だの、大慈悲だの、一生成仏
だのと気取ってみても、日蓮信者の行体は所詮、宗教ヤクザになるの他は無い。

宮澤政次郎 賢治の父君
       賢治の父君 政次郎氏

宮澤家は旧家で、代々熱心な浄土真宗の信徒であったというが、
大正9年(1920年)盛岡高等農林学校研究生を終え、家に戻って来た
24歳の賢治は、父政次郎氏に改宗を申し入れ、連日連夜の激しい宗教論争で、
家中の雰囲気が暗澹たるものになったというが、一々経典を根拠に挙げて、
論じ合っていたということからすると、感情的な親子喧嘩というよりも、
理知的な法論らしき争論が繰り広げられていたのではないかと想像される。
父政次郎氏は母イチさんに
「聞いていて、ひどかったろう(辛かったろうの意)。だが、大事なことを
言い合ったので、喧嘩ではないのだからな」と涙を流したことがあるという。
翌年の大正10年(1921年)に、賢治は家出し、東京の国柱会本部での奉仕
活動などをしながらも、猛然と童話を多作する訳だが、父政次郎氏は4月に
上京し、賢治を帯同して、6日間の関西旅行に出掛け、比叡山延暦寺に参詣
させたという。
叡山は天台宗の総本山であるが、鎌倉時代に法然、栄西、道元、親鸞、日蓮
と、各宗の開祖を輩出した鎌倉仏教の源泉となる一大拠点であった訳で、
そこを訪れることに依って、冷静に日本仏教史を辿り、法華経オンリーの
偏狭な仏教観を打破して貰いたいという願いがあったのではないかと推察
される。

賢治は法華経を出版して、知己に配布して欲しいと法華経に対する熱誠を
込めた遺言を、父政次郎氏に遺したが、父は立派であると賢治を褒め、
賢治は喜んで、「初めて父さんに褒められた」と弟清六氏に語ったという。
親子の信仰上の対立は、賢治の死まで続いたが、昭和26年(1951年)、
賢治の折伏が成就したと言うべきか、父政次郎氏は日蓮宗に改宗した。
その父政次郎氏の胸中は計り難いが、賢治への愛念が伝わって来るかの
ようで、その智を超えた情を思うと、胸に迫り来るものがある。


詩「病相」
「われのみみちにたゞしきと
 ちちのいかりをあざわらひ
 ははのなげきをさげずみて
 さこそは得つるやまひゆゑ
 こゑはむなしく息あへぎ
 春は来れども日に三たび
 あせうちながしのたうてば
 すがたばかりは録されし
 下品ざんげのさまなせり」

賢治はこの詩の中で、自分だけが正しいと思い込み、父を嘲笑ったり、
母を蔑んだりして来たことを「下品懺悔の様」と、深く慙愧している。
「さこそは得つる病故」と、それもこれも「病相」の現れだったと弁明し、
反省しているところが痛々しくも、親子の情愛が溢れているかのようだ。








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テーマ : 宗教・信仰 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2011/11/20 14:49 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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