日蓮の呪縛から解き放たれよ!③ …天台かぶれの独り善がり

日蓮の呪縛から解き放たれよ!③ 

              …天台かぶれの独り善がり



ゴータマ・ブッダ(463B.C. ?-383B.C?)の死後100年程で、
インド仏教は教義論争の為に分裂が起こり、教団は20部に分派した。
更にゴータマ・ブッダの死後500~600年程の紀元後1世紀後半~2世紀に
大乗運動がインドで展開され、 「般若経」「華厳経」「維摩経」「法華経」
「大無量寿経」「浄土経」などの基本的大乗経典が創作されたのである。

これらの大乗経典は、文献学的には明らかに、歴史上のゴータマ・ブッダが
説いたものではない。
思想の発展としては、ゴータマ・ブッダに仮託された思想文学であり、悪意を
込めて言えば、経典が捏造されたのであり、大乗仏典は総べて偽経なのである。
「法華経」の中の「久遠本仏」「観音菩薩」等々、「華厳経」の「盧遮那仏」、
「大日経」の「大日如来」、浄土経典の「阿弥陀如来」等、総べては「架空」
の存在である。
空想に基く「観念」世界での物語であって、歴史的事実でもなく、その実体も
有りはしないのである。

西洋哲学史に譬えるならば、アリストテレスの哲学も、カントの哲学、
ヘーゲル哲学、西田哲学に至るまでも、総べてをプラトン哲学と称するが
如きものである。
ゴータマ・ブッダの言葉そのものに最も近いであろうと推察される原始仏典
「スッタニパータ Sutta Nipata(経集)」や「ダンマパダ Dhammapada
(真理の言葉or法句経)」を一読すれば、ゴータマ・ブッダが大乗仏典など
説いたはずのないことは、猿でも判る。

祇園精舎A400
                  祇園精舎

中国に仏教が伝わったのは、2B.C.(元寿1年)頃ともA.C.67年(永年10)
とも言われているが、その最盛期は8世紀頃で、ゴータマ・ブッダを開祖と
する仏教は、インドで部派仏教から大乗仏教へと大きな質的変化を伴いながら
展開し、原始仏典から大乗仏典、ヒンドゥー教やゾロアスター教など異教の
教典類までをも混じえながら、様々な思想系統の経典が、その内容や教義が
体系化されないまま、混沌たる無秩序な状態で中国に流入し、翻訳、編纂が
為されたのである。

それらの経典群は余りにも多様化していて、相矛盾するような内容の教説が
各々、これぞゴータマ・ブッダの教え、仏説と主張している訳であるから、
その中の一体どこに、ゴータマ・ブッダの真実の教えがあるのかと、仏教徒達
が戸惑いを見せたあろうことは想像に難くない。
しかし、経典のどれもこれもがゴータマ・ブッダの教え、仏説であるとの
権威を持って提示されていた訳であるから、安易に取捨選択するという発想が
生まれるはずもない。
そこで便宜上、先ずは総べての経典を仏説であるとして受け入れ、矛盾する
ように見える諸経典を何とか整理する為に工夫し、その形式・内容などに
由って分類・体系化し、価値を判定した上で、ゴータマ・ブッダ究極の教え
がどれであるかを解釈することにしたのだが、5~6世紀の中国南北朝時代に
行われた、その判定方法を「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」、略して
「教判(きょうはん)」と言う。

経典の内容が様々に相違しているのは、ブッダが教えを説いた時期や内容が
異なる為ではないかとの立場で、各宗派がそれぞれの判断基準に従って判釈し、
揚子江を境にして南に三師三派、北に七師七派の所謂「南三北七」の十派が各々
独自の学派を形成した。

仏教各派が分立していた状況であるから、当然のこと、判釈作業は判釈者自身
の思想的立場、教学的立場から、総べての経典、教説を統一的に位置付け、
他派に対して、自派の優越性を示す必要もあったに違いない。
現代とは違って、文献学的な手法を駆使出来ない、時代的な制約下での
解釈学的な知的作業であった訳である。
「南三北七」の十派は大綱に於いては共通して、華厳経第一、涅槃経第二、
法華経第三という義を立てていたという。

法華経巻物B400

こうした状況下、6世紀後半、隋の時代に、中国天台宗の開祖智顗(ちぎ)
(538-597)は、ブッダ一代50年に於ける説法の次第や、教法の内容、
教化の方法などを判釈した「五時八教」という虚構の理論を考案した。
「五時」というのは、ブッダ一代の化導を説法の順序に従って、
華厳時(けごんじ)、阿含時(あごんじ)、方等時(ほうどうじ)、般若時
(はんにゃじ)、法華涅槃時(ほっけねはんじ)の五期に分類したものをいう。
智はこの「五時八教判」という虚構を以って、法華経第一を唱えたのである。

日蓮在世の鎌倉時代、日本に於いて、「五時八教判」を立てたのは、比叡山
延暦寺の天台宗のみであった。
弘法大師空海は、真言宗の「密教」と真言宗以外の仏教を「顕教」として比較し、
密教の方が優れているとして「弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)」を著し、
心が置かれている状況を10に分け、下から9つ目までは、顕教の到る境地、
最後の10番目は密教のみが到達出来る境地(密教は10総べてを含む)という教え
「九顕十密(きゅうけんじゅうみつ)」を説いた「十住心論」を著わした。
真言宗では、「弁顕密二教論」を「堅の教判」、「十住心論」を「横の教判」
として立て、密教経典を依経とする。

浄土宗は、「聖浄二門判」を立て、仏教を聖道門と浄土門の二種に分類し、
「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を依教として、聖道門とは全く違った
法門構造を持つ宗派となった。
親鸞は、全仏教を竪と横に分け、それぞれに出(権教)と超(実教)を
組み合わせた教判「二双四重判」を立てた。

華厳宗は、「五教十宗判」を立て、「華厳経」を依経とした。
このように、どの宗派もそれぞれの判断基準で、自らが依って立つところの
経典を選択した訳である。

法華経絵巻A400

日蓮は自ら「天台沙門」と名乗ったように、天台の「五時八教判」を立て、
「天台の価値観」で法華経正意論を唱え、「法華経は最高の経典」と位置付け、
他の仏教諸宗派を「真言亡国(しんごんぼうこく)」「禅天魔(ぜんてんま)」
「念仏無間(ねんぶつむげん)」「律国賊(りつこくぞく)」などと邪教呼ばわり
して、批判したのみならず、「立正安国論」を著わして、他宗の排斥を鎌倉幕府
に要求したのである。

しかし、そもそも、日蓮は飽くまでも「法華経は釈尊の直説」という前提で
論を展開し、教義を構築している訳だが、中国仏教を経た大乗仏典群自体が
ゴータマ・ブッダの教えとは掛け離れた思想の展開を経た上での、後世の
偽作群なのであるから、日蓮が他の仏教諸宗派を邪教呼ばわりした所業は、
まさに「猿の尻笑い」であり、「鍋が釜を黒いと言う」「目糞鼻糞を笑う」
ようなことだったのである。
譬えて言えば、ニセ金作りの業者連中が偽造紙幣や偽造貨幣を持ち寄った会合
で、俺のニセ札は造幣局公認だが、お前らのは違うとほざき、俺以外の奴らの
ニセ金の流通は禁止しろと政府に要求しているのと同じほどに滑稽な話なので
ある。
自国のモラルや法律を他国に押し付けて、裁くような、実に不条理極まりない、
天台の価値観の絶対化を前提とした独断論に過ぎないのである。

そもそも、仏教の開祖ゴータマ・ブッダは、人として歩むべき道を説いたので
あって、鎮護国家思想を説いた訳ではない。
日蓮が己の教説を国教にすべく躍起になったのは、我が国が仏教伝来当初から、
国家の安泰を願う護国祈祷の宗教として受容したという経緯にも関係がある。
「法華経」「金光明最勝王経」「仁王般若経」を「鎮護国家三部経」「鎮護国家の
三部」として制定したのは、日本天台宗開祖の伝教大師最澄であったという。
日蓮はどこまでも、天台かぶれの独断主義者であったのだ。

法華経がゴータマ・ブッダの直説で、天台の「五時八教判」が絶対的真理で、
日蓮在世が末法時代に突入していなければ、日蓮の教義体系の正当性は
成立しないのである。


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