華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 重要文化財「岩手銀行中ノ橋支店」

重要文化財「岩手銀行中ノ橋支店」

重要文化財「岩手銀行中ノ橋支店」


岩手県盛岡市の中心地、北上川の支流中津川の畔に佇む、美しい赤レンガ造り
の重要文化財「岩手銀行中ノ橋支店」が、明治44年(1911年)の建築から
100年間続いた営業店としての活動を終えたことを、岩手ファンである私は、
河北新報の記事で知った。

この「岩手銀行中ノ橋支店」は、明治44年に「旧盛岡銀行の本店」として
建てられたもので、旧盛岡銀行が昭和恐慌で破綻後、昭和11年(1936年)
「岩手殖産銀行本店」となり、昭和35年(1960年)の行名改称に依って
「岩手銀行本店」、昭和58年(1983年)の本店移転で「中ノ橋支店」に
なったという経緯を持つ。
平成6年(1994年)に、営業中の銀行建築としては、初めて重要文化財に
指定されたという稀なケースである。

旧盛岡銀行本店A400

東京駅丸の内駅舎の設計者でもある当時の建築界の重鎮、工学博士辰野金吾
(嘉永7年《1854年》-大正8年《1919年》)と盛岡出身の工学博士葛西萬司
(文久3年《1863年》-昭和17年《1942年》)の両氏が、共同経営した辰野・
葛西建築事務所として、設計を担当した。

この両氏は、辰野博士が嘉永7年(安政元年)、葛西博士が文久3年と、
江戸時代の生まれである。
江戸幕府の大政奉還は、慶応3年(1867年)に起こり、明治新政府樹立は、
明治元年(1868年)に起きた。
マシュー・ペリー提督が米海軍東インド艦隊を率い、日本に開国を求めて、
来航した、いわゆる黒船来航は嘉永6年(1853年)の出来事で、その翌年には
再び来航したペリー提督に迫られての日米和親条約調印や吉田松陰の捕縛など
の歴史的事件が起きた、そういう幕末の幕開け時期に、辰野博士は生まれた
ことになる。

葛西博士が生まれた文久3年には、「攘夷決行」で「馬関戦争」「薩英戦争」の
勃発、「天誅組の変」「生野の変」の挙兵、「八月十八日の政変」で「七卿落ち」、
また、後に「新撰組」と改称された「壬生浪士組」の結成などの重大な出来事
が起きている。

旧盛岡銀行本店B400

辰野博士は、肥前(佐賀)唐津藩の下級藩士の生まれで、葛西博士は、南部藩
家老の次男として盛岡に生まれ、後に南部藩士葛西家の養子となっている。
西郷隆盛を盟主にして起こった薩摩士族による武力反乱、我が国最後の内戦
となった「西南戦争」が戦われたのは明治10年のことであるが、その時期には
辰野博士は、工部大学校(現・東大工学部)で、英国人の建築家、ジョサイア・
コンドル(1852年-1920年)から、造家学を学んでいたことになる。

両氏の経歴は、まるで司馬遼太郎著「坂の上の雲」に描かれた、封建時代から
目覚めたばかりの近代日本の勃興期に於ける、「和魂洋才」の青春群像そのもの
であるかのように感じられる。

東京駅絵葉書400

                東京駅駅舎

この重文「岩手銀行中ノ橋支店」は、格調高いルネッサンス様式を基調として、
赤レンガと白色花崗岩を帯状に巡らせた美しい外観で、盛岡のシンボル的な
存在なのだ。
辰野博士、葛西博士、両氏の設計だけに、東京駅丸の内駅舎に似ている。
旧盛岡銀行破綻後、昭和11年(1936年)「岩手殖産銀行本店」となった
段階で、イメージアップを図ったものか、赤レンガを白く塗り潰したことが
あり、また戦争中には空襲対策で、黒く塗り潰していた時期もあったという
100年の歴史が刻まれている。

詩碑 岩手公園

賢治詩碑「岩手公園」

宮澤賢治がこの世を去る1ヶ月前の昭和8年8月に綴った詩「岩手公園」
(文語詩稿)の最後に、
「弧光燈(アークライト)にめくるめき、 羽虫の群のあつまりつ、
 川と銀行木のみどり、         まちはしづかにたそがるゝ。」
とあるが、この「銀行」とは「旧盛岡銀行の本店」を指しているのだ。
賢治の「岩手公園」詩碑は、盛岡市内丸、岩手公園北東隅近くに在る。







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2012/01/05 05:03 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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