華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 岩手生まれの野村胡堂 …キリスト教の精神で描いた「銭形平次捕物控」

岩手生まれの野村胡堂 …キリスト教の精神で描いた「銭形平次捕物控」

岩手生まれの野村胡堂 

…キリスト教の精神で描いた「銭形平次捕物控」



東京の千代田区外神田に鎮座する江戸総鎮守・神田明神(明治期に、現在の
正式名称「神田神社」に改称)社殿の側面に「銭形平次」の碑が在る。
私が初めてその碑を目にした時、石碑の刻字が「野村胡堂(のむら こどう)」
や、その著書名「銭形平次捕物控」ではなく、作品中に描かれた架空の人物名
「銭形平次」とだけであることに面白味を感じたものだ。
実在の人物であった訳ではないにも拘わらず、「銭形平次親分」のキャラクター
が人情時代劇のヒーローとして、如何に愛されたかの証でもあるのだろう。





野村胡堂の「銭形平次捕物控(ぜにがたへいじ とりものひかえ)」シリーズは、
昭和6年(1931年)、文藝春秋社の「オール読物」誌に「金色の処女」が発表
されて以来、昭和31年(1956年)発表の「鉄砲の音」に至るまで、26年の
長きに亘り、長編短編合わせて383編、原稿用紙にして、凡そ6万枚もの分量
の作品が描かれた。

江戸は神田明神下の長屋に住む岡っ引の平次親分(通称 銭形平次)が、子分の
八五郎(通称 がらっぱち)の「親分てぇへんだぁ!」との掛け声で持ち込んで
来る事件を、卓越した推理力と「寛永通宝」の「投げ銭」、十手(じゅって)を
駆使して、事件を解決して行く捕物帖で、映画やテレビで幾度も映像化され、
舞台でも演じられて来た時代劇の代表的な人気シリーズである。


銭形平次400


この「銭形平次捕物控」の特徴は、「罪を憎んで、人を憎まず」の精神に徹し、
心暖まる美しい人情を描いていることに在る。
主人公の銭形平次は、罪人をも赦す愛に満ちた人であり、事情に依っては犯人を
見逃してやる。
銭形平次が犯人を見逃してやったケースは全作品の半分に及ぶということで、
彼の検挙率は約5割に留まることになる。

野村胡堂は自身の描いた捕物シリーズに付いて、
「私の捕物帖の特徴は、まず容易に罪人を作らないこと、町民と土民に愛情を
持ったこと、侍や通人(遊び人)は徹底的に遣っ付けたこと、そして明るい
健康的な捕物にしようと心掛けたことだろう」と述べている。
野村胡堂は銭形平次とお静を、敬虔なクリスチャンであった自らと妻ハナさん
をモデルに描いたのだ。
彼自身が「私は、銭形平次をキリスト教の精神で書いています」と語っている。





野村胡堂は明治15年(1882年)、岩手県の北上川畔の水田地帯、北に盛岡、
南に花巻という位置関係に在る紫波郡大巻村(現紫波町)に生まれた。
野村家は長く庄屋を勤めた家系で、父長四郎は村会議員や助役を勤めた後、
村長を勤めた教養人であったという。
野村胡堂の本名は「野村長一(おさかず)」である。
八人兄弟の次男として生まれているが、長男が生後間も無く亡くなっている
ことから、跡継ぎとして「長一」と名付けられたのであろう。

明治29年(1896年)4月、岩手県下の名門・県立盛岡中学(現県立盛岡第一
高等学校)に進学した。
同級には、生涯の友となる金田一京助(文化勲章受賞の言語学者)、及川古志郎
(海軍大将、海軍大臣)、田子一民(衆議院議長、農林大臣)、郷古潔(三菱
重工社長)、二級上には米内光政(海軍大将、首相)、一級下に板垣征四郎
(陸軍大将、陸軍大臣)、二級下には石川一(石川啄木)と、後に各界で天下に
名を成す俊才達が在学していて、盛岡中学黄金時代(大豊作時代)と称された
時代に、野村胡堂は学生生活を送った。

盛岡中学では金田一京助と共に交友会雑誌を創刊し、その中心的存在として、
俳句、短歌、小説と幅広く文芸活動を展開したという。
そこに、野村胡堂が
「これ以上はないという程に、恐ろしく下手な詩を書く奴」と思ったという
石川啄木が加わった。
平成24年(2012年)の今年は野村胡堂、金田一京助の生誕130年、そして
石川啄木の没後100年に当たる。


盛岡中学
        明治30年代の岩手県立盛岡中学校校舎


父長四郎は長一が医師になることを望んだが、彼は医学部志望ではなかった
ことから、親子間に確執が生じたこともあり、二年間の浪人生活を経た後、
第一高等学校、東京帝国大学法科に進学した。
明治43年(1910年)、卒業を目前に控えた時期に父親が事業に失敗し、野村家
は破産、その4ヶ月後に父親が亡くなったしたことから、授業料を滞納し、
卒業まで後3ヶ月という時に大学を除籍になってしまった。

求職活動の途上で偶然、盛岡中学での同級生、安村省三(新渡戸稲造の甥)と
と再会し、彼が報知社(後の報知新聞社)に勤めていたことから、その縁で、
明治45年(1912年)、報知社に入社し、以後31年間に亘って、政治部部員、
社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任し、
新聞人として活躍することになる。
大正2年(1913年)、31歳の時に、報知新聞紙上で連載した人物評論「人類館」
で初めて「胡堂」のペンネームを用いた。


紫波町400


野村胡堂とそのご妻女ハナさんとのラブストーリーは実に美しい。
当時の習慣で、胡堂には中学時代から親に決められた婚約者が居たのだが、
彼は同じ村に住む6歳年下の可憐な少女、橋本ハナさんに熱烈な恋をした。
「あの森の陰に 乙女ありき 山吹ありき」とは、ハナさんを想って詠んだ
若き日の歌であるという。
やがて、愛し合うようになった二人の仲は、村人にも知られることになり、
騒動となった。
彼には既に父親が決めた許婚が居たこともあるが、ハナさんは士族のお嬢様で、
平民である胡堂との結婚は身分違いということからも難しかったのだ。
どれほど彼が望んでも、許嫁との結婚を強いる父の意思は固く、盛岡中学を
卒業した彼は、愛するハナさんへの想いを断ち切る為に故郷を後にして、
上京したのだという。
しかし、強い絆で結ばれる奇しき縁の下に生を享けた二人だったのであろう、
その4年後、東京で開催された岩手県の県人会で、彼は日本女子大学に進学
したハナさんと喜びの再会を果たすことになる。
その時、彼女は小さな声で「貴方を措いて、私が妻になる人は居ません」と
熱烈に愛の告白をしたという。
大学の卒業を間近に控えた時期に破産し、学資の援助が出来なくなった父親
としては、せめて結婚だけは彼の望むようにして上げたいとの心境の変化が
あったのであろうか、ハナさんとの結婚を許してくれた。
明治43年(1910年)の春、二人は近所の蕎麦屋の二階で、盛り蕎麦一杯を
前にして、結婚式を挙げた。
招いたお客は金田一京助と、ハナさんの友人長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)
の二人だけの質素な祝言だったという。
やがて二人は、長女淳子、長男一彦、次女瓊子(けいこ)、三女稔子と四人の
子宝に恵まれた。





時は流れて、昭和2年(1927年)の夏、二人に深い悲しみが襲うことになる。
長女淳子が結核に冒され、17歳の短い生涯を閉じたのだ。
その年のクリスマス、胡堂は深い悲しみに沈むハナさんに聖書を贈った。
この頃から二人のキリスト教への信仰は、深まっていったのであろうと
思われるが、非情にも更なる悲運が二人を襲った。
長女淳子の死から間も無く、長男の一彦も結核に冒されたのだ。
文藝春秋から「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを書いて欲しい」と依頼
された胡堂は、昭和6年(1931年)4月、病床に在った一彦の為に、子供でも
読むことが出来る健康的な娯楽読み物をとの思いも込めて、「銭形平次捕物控」
の執筆を始めた。
昭和9年(1934年)、長い闘病生活の末、21歳の一彦は終に帰らぬ人となった。
因みに、前田陽一(パスカル研究者のフランス文学者)は一彦の親友で、
その妹美恵子(神谷美恵子 精神科医)とはプラトニックラブの仲であったと、
一彦の姪に当たる住川碧が日記を監修し、出版した「会うことは目で愛し合う
こと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。-神谷美恵子との日々」
(野村一彦著 2002年)に記されている。

次女瓊子は若くして小説家としてデビューし、また経済学者の松田智雄と結婚
するも、昭和15年(1940年)、23歳の若さで姉、兄と同様に結核に倒れた。
尚、瓊子に先立たれた夫の松田智雄は、瓊子の妹、三女の稔子と再婚した。
我が子を三人も失った夫妻の悲しみは如何ばかりであったろうか、
想像を絶するものがある。


昭和32年(1957年)夏、白内障を患った胡堂は、ハナさんの「もう辞めま
しょう」との言葉で、26年に亘った「銭形平次捕物控」の連載を終える決意を
固めたという。
昭和38年(1963年)春、野村胡堂は肺炎でこの世を去った。享年80歳。
二人が最期に交わした言葉は、「神の子に成りましょうか」
「あぁ、もう思い残すことは無い」というものだったという。
野村胡堂の葬儀委員長は生涯の友となった金田一京助が務めた。
胡堂が逝った5年後の昭和43年(1968年)冬、クリスマスの夜にハナさんは、
彼と同じ80歳で天に召された。


下ノ橋教会


一概にキリスト教と言っても、カトリックと、プロテスタント教派には、
長老派系、メソジスト系、バブテスト系、ルーテル系…と数多くの教派が存在
している訳であるが、日本に於けるキリスト教徒の人口比率は、おそらくは
明治期と然して変わらず、1~2%に過ぎないものであろうと思われる。
そのような宗教事情の日本社会で、罪を罰することよりも、罪人を赦すことを
重んじ、「キリスト教の精神で書いた」と作者が自認する文芸作品が長きに亘り、
多く人々の共感を得て、愛読され続け、現代では出版事情から小説自体としては
読まれることが少なくなったにせよ、そのストーリー自体は繰り返し映像化
され、舞台でも演じられることは、キリスト教精神の昇華が日本人の精神性に
共感を覚えさせていることの証なのであろう。
何百万人もの信者を擁し、何十年にも亘って、独善的な教団経営を続けて
いながら、金と選挙の票を動かせるだけで、信者の霊性の深まりも無く、
日本の思潮に何ら良い影響を及ぼしていない、烏合の衆の如きマンモス教団と
較べてみても、胡堂の信仰心の昇華が如何に良質なものだったか分かるだろう。


中津川と下ノ橋教会


岩手のクリスチャンで、私が先ず思い浮かべるのは、花巻で宮沢賢治とも
親交の有った熱烈な信仰者、内村鑑三の愛弟子、斎藤宗次郎である。
また、時代は遡るが、明治2年(1869年)に来日した、アメリカのオランダ
改革派教会の女性宣教師、メアリー・E・キダー(1834年-1911年)である。
横浜のフェリス女学院の創立者である彼女は、明治21年(1888年)に夫の
E.R.ミラーと共に盛岡に赴任し、元沼津水野藩士であった三浦徹牧師と協力
して、熱心に伝道を続け、明治29年(1896年)には、岩手公園と中津川に
囲まれた地に、現在の下ノ橋教会を設立している。
彼女は癌を発症するまでの14年間、盛岡の地で教勢拡大に努めた。
野村胡堂が如何にしてキリスト教に導かれたのかは知らないが、彼が少年期を
過ごした盛岡には、彼をイエスに向かわしめる土壌があったのかも知れない。


※敬称略



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テーマ : 聖書・キリスト教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2012/05/04 19:35 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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