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神社の本質を侵害する行為 …那智の滝でロッククライミング

 2012-07-20
神社の本質を侵害する行為 

           …那智の滝でロッククライミング



7月15日、和歌山県東牟婁郡(ひがしむろぐん)那智勝浦町那智山に鎮座する
飛瀧(ひろう)神社の「那智の滝」でロッククライミングをしたとして、
世界的にも著名と言われる32歳のアルパインクライマーとその仲間たち
(35歳と28歳)3人が、軽犯罪法違反(禁止区域への立ち入り)の疑いで
現行犯逮捕されたことが話題となった。
この3人は「那智の滝」の滝壺近くにある「立入禁止」の札が掛かった柵を
乗り越え、133mある滝の約2/3の高さ約100mまで登ったという。





飛瀧神社は熊野那智大社の別宮で、「那智の滝」自体を「御神体」として、
敷地への立ち入りを禁止している。
朝日芳英宮司(78歳)の「2700年の歴史上、こんなことは初めて。
御神体として祭られている所に入るとは、宗教を侮辱されたようなもので、
宮司として絶対に許せない」とのコメントが報道された。

この件に関して、インターネット上でも様々な見解が交わされたが、中には
日本人でありながら、神道に対する認識不足を感じさせるコメントも多く、
日本人の精神の変質を痛感させられる。
「滝を御神体としている」ことをせせら笑い、宮司の発言を揶揄するような
不遜なコメントも目に付いたが、それらは「神の降臨の媒体としての依代
(よりしろ)」という概念への不見識の表われであろうと思われる。





日本神道に於ける神(カミ)は、具体的な姿を持たない。
(GODの訳語として、「神」の語を当てたことは日本人の大きな誤りであった)
江戸時代の国学者、本居宣長の神の定義に「尋常ではない、霊威を発するもの」
とあるように、神道の神は降臨しては霊威のみを人々に感じさせる存在であり、
特定の姿を表わさないものである。
古代の日本人は、御神霊(ごしんれい)は山や岩、樹木や滝などの自然物を
「依代」として、降臨され、宿られると捉えていたようである。
「依代」というのは、御神霊が出現される際の媒体、寄り憑く有体物という
意味で、御神霊を招き、お迎えする立場からは、「招代(おぎしろ)」とも言う。

このように御神霊の降臨は「場所」や「物」に寄り憑いて宿られ、鎮まる形態
を取り、その「場所」や「物」が「御神体(ごしんたい)」ということになる。
従がって、依代としての「場所」や「物」である「御神体」は、当然のこと
ながら、御神霊そのものという訳ではない。
但し、崇敬する立場からの感覚としては、御神霊が宿られていると捉える限り
に於いて、「御神体」は、御神霊と不可分の聖なる存在として、御神霊そのもの
であるかのように神聖視し、敬虔に拝することになる。


那智の滝450



原初の神社には、社殿は存在しなかった。
古代の日本人は、「此処はご神霊をお迎えし、お祭りするに相応しい清浄な
場所である」と、本能的な直感力で霊地を選び、その場所の周囲に常磐木
(ときわぎ=常緑樹)を立てて、ご神霊に降臨して頂く聖なる領域と、
人間が暮らす俗なる領域とを峻別したのであろう。
そして、その神域にご神霊の宿られる石や木や山自体を依代(よりしろ)と
して設定し、ご神霊をお招きし、祭りを行い、祭りを終えれば、またお戻り
頂くという「神籬磐座(ひもろぎのいわくら)」の形態で祭祀(おまつり)を
行っていたであろうことが推察される。
飛瀧神社には本殿も拝殿も無く、太古の祭祀の形態を維持している。

神社(かむつやしろ)の本質は、ご神霊の占有空間を堅守することにある。
神社は極端な話、形状的には、何も無いただの平地でも良かったのである。
神社の本質からすれば、玉垣(神社の周りに廻らせた垣根=瑞垣《みずがき》)
や鳥居、注連縄(しめなわ)などを設けて、ご神霊が占有する聖なる空間の
境界を明らかにしておきさえすれば、何も殊更、常設の建造物は必要としない
のであるが、仏教伝来後、仏教寺院の大伽藍建築の影響を受けてしまったの
であろう、社殿を設けた今日の神社形態へと大きく変貌を遂げたのだ。
奈良時代に編纂された、日本最古の歌集「万葉集」に収められた歌などからも、
古代日本では「社(やしろ)」や「神社(もり)」が建造物を意味するものでは
なく、一定の区域を聖なる神域として、人間が立ち入ることを禁じた
「ご神霊の占有地」という意味であったことが窺われる。
この神域は、他教で言うところの聖地とは意味合いが違うのである。


那智の滝注連縄450



熊野那智大社別宮 飛瀧神社では、毎年7月と12月に那智の滝に掛かる注連縄
(しめなわ)張替えの神事が行われる。
注連縄とは、「神霊の聖なる空間」と「人間の俗なる空間」の境界線の目印と
して張る縄であり、その神域が禁足地であることを示すものでもある。
白装束に烏帽子(えぼし)姿の5人の神職が長さ26m、直径6cm、重量4kgの
大注連縄を担って、2kmの急な山道を歩いて、滝口まで運び、命綱も付けずに、
半年経った古い注連縄を新しい注連縄に張り替える。


那智の滝でロッククライミングをしたクライマーたちは、太古の昔から神社が
堅守して来た、この「聖なる御神霊の空間」と「人間の俗なる空間」との境界
を侵害したことになり、神社の本質的な存在意義を蹂躙する意味を持つ。
このことを踏まえれば、宮司の「御神体として祭られている所に入るとは、
宗教を侮辱されたようなもの…」との心情が良く理解出来るのではなかろうか。
チャペルやモスクの屋根に登ったり、バイブルやコーランを山積みにして、
焚書するよりも遥かに、宗教的な本質を踏み躙る不敬を働いたことになるが、
日本神道は包容力豊かで寛大であるからして、他教の狂信者のように、
神徒が立ち騒いで、報復するようなことは無い。





2009年に「ピオレ・ドール(金のピッケル)」賞を受賞し、世界的にも有名な
クライマーであるというリーダー格のS氏は、「立ち入り禁止とは分かっていた
が、日本一の滝に登ってみたかった」と登攀欲を語ったそうだが、ミス日本を
抱きたいからと言って、自分の恋人でも妻でもないのにセックスしてしまう
ようなもので、それは不味いというもの。

このS氏の名相から数霊で運勢診断すると、成る程、秀でた技術を持っていて
(38)、その道の第一人者となり(41)、国際感覚も豊かで、国外にも活躍の場
を求めて成功する(45)という暗示は確かに読み取れるものの、周囲が幾ら
反対したとしても、人の話には耳を傾けずに我を通す頑固さが災いを招く(17)
という暗示も読み取れる。
主運には姓名学で「破家亡身」を暗示する数霊34が表われていて、一度躓くと
次から次へと急転直下、転落して行き、苦労して築いた地位や名誉や財産を
一気に失ってしまう暗示が読み取れ、また、数霊の配列にも凶兆が暗示されて
いるので、余程の自省を伴なった謙虚な自助努力をしないと、栄光は過去の
ものと成り果てるであろうと思われる。
那智の滝でロッククライミングしたことに、西洋流の自然は人間が征服すべき
ものという、S氏の自然観が垣間見て取れる。
このままの意識で、しかも運気低迷期に世界の峻険に挑み、登攀を続けるのは
非常に危険なことである。
名相から読み取れる流年からすると、S氏の運気は転落期を迎えることになる。
クライミングはもう止めた方が良い。



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