華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 きゅうり天王さん四方山話 …岩手県北上市諏訪町の諏訪神社さん

きゅうり天王さん四方山話 …岩手県北上市諏訪町の諏訪神社さん

きゅうり天王さん四方山話 

…岩手県北上市諏訪町の諏訪神社さん



岩手県北上市在住の友人から、毎年7月14日(月遅れ)になると、諏訪町に
鎮座される諏訪神社で「きゅうり天王さん」のお祭りが盛大に行われ、その夜は
諏訪町商店街が大いに賑わいを見せるとのお話をとても興味深く伺った。
「きゅうり天王」と言えば、「牛頭(ごず)天王」のことで、「牛頭天王宵宮祭」
であれば、八坂神社の祇園信仰、天王信仰のはずであるが、その祭礼が何故に
諏訪神社で行われるのか、不思議に思ったのだが、境内末社の一つに八坂神社
が在ると知って、納得させられたと共に、明治維新政府の宗教政策、その横暴
な行政に依って、壊滅的打撃を被った近代の神道史に思いを馳せ、本社境内で
境内末社の祭礼が盛大に行われていることを微笑ましく思い、深く感じ入った
という訳なのだ。


社伝に依れば、岩手県北上市諏訪町に鎮座される諏訪神社(元宮の地は幸町)
は、平安時代の大同2年(807年)、征夷大将軍坂上田村麻呂に依って、信州
諏訪大社の御祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ)の御分霊を勧請された
とのことであるから、今年平成24年で創祀から1205年を迎えるという由緒
有る古社である。
境内末社には、秋葉神社、八坂神社、金比羅神社、稲荷神社、金勢社が在り、
北上市、和賀郡一円の総鎮守氏神として、崇敬を受けているという。



きゅうり2

       岩手県北上市諏訪町 諏訪神社 きゅうり天王宵宮祭



日本三大奇祭の一つとされる御柱(おんばしら)祭や、諏訪湖の湖面の氷が
盛り上がる現象、御神渡(おみわたり)で有名な諏訪大社は、建御名方神
(たけみなかたのかみ)と建御名方神の后神、八坂刀売神(やさかとめのかみ)
の二柱を祀り、諏訪湖を挟んで、南側に本宮 (ほんみや)と前宮 (まえみや)
から成る上社(かみしゃ)が在り、北側に春宮 (はるみや)と秋宮(あきみや)
から成る下社(しもしゃ)が在るという、四宮から成る配置の境内を持つ。
創建年代は不明であるが、古事記や日本書紀などの記述から推測するに、
創祀は紀元0年から500年の間で、日本最古の一社と言える古社である。
※「諏訪」は「諏方」「洲羽」の表記も用いた。


「諏訪大社由緒略誌」には、「当大社は古来より朝廷の御崇敬がきわめて厚く、
持統天皇五年(西暦691年)には勅使をつかわされて、国家の安泰と五穀豊穣
を祈願なされたのをはじめ、歴代の朝廷の御崇敬を拝戴してきました。
また、諏訪大神は武勇の神・武門武将の守護神として信仰され、古くは神功
皇后の三韓出兵の折に御神威あり、平安時代には関東第一大軍神として広く
世に知られた」とある。
(神功皇后の新羅攻めは「古事記」に、持統天皇の勅使は「日本書紀」に記載)
特に、龍神信仰から成る風雨を司る風雨神(御名方《みなかた》の「水潟
(みなかた)」か?)、五穀豊穣の守護神としての農業神、製鉄に携わる
南方(みなかた)族という氏族(建御名方神の「御名方(みなかた)」か?)が
奉斎した神としての鍛冶神、鎌倉時代以降は「日本第一大軍神」と称された
武神としての御神徳が仰がれ、全国各地で祀られている。
全国に分祀されている諏訪神社は5千余社を数え、神職の居ない神社や社名を
変更した神社を含めれば、約1万社を数える。
全国に神社は凡そ11万社在るが、末社数は伏見稲荷大社を総本社とする稲荷
神社が3万余社と最も多く、次に多いのは宇佐八幡宮を総本社とする八幡神社
の2万5千社で、諏訪大社を総本社とする諏訪神社は三番目に多く、沖縄県を
除く全県に在る。
約7千社の諏訪神社が全国諏訪神社連合会に加盟し、年に一度、諏訪の地で
交流会を開催しているという。



諏訪大社上社前宮450

                  諏訪大社上社前宮



室町時代に描かれた「諏訪大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)」には、
平安時代初期、桓武朝の延暦20年(801年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征
の途中、信濃国諏訪に立ち寄り、東関第一の軍神と聞く諏訪大明神に蝦夷征討
の戦勝祈願を行なったところ、諏訪大明神が一人の騎馬武者に化身して現われ、
戦いを勝利に導いたとある。
「東山道の伊那の大田切に差し掛かると、梶の葉紋(梶紋は諏訪大社の神紋)
の水干を着て、鷹の羽の矢を背負い、葦毛の馬に乗った一人の武者が参加した。
彼は戦闘で常に先陣に立ち、各所でその一族も参戦して、大いに武功を挙げた。
蝦夷平定の勝利を得て、帰路に就き、佐久と諏訪の境まで来ると、その武者は
『我は諏訪明神なり』と言って、姿を消した」という。
坂上田村麻呂は平安京に凱旋した後、戦勝を齎した諏訪明神の神験に深く感謝
し、信濃国から諏訪明神を都にも勧請、下諏訪神社(現在の尚徳諏訪神社)を
建立している。



祇園社450



京都市東山区に鎮座する八坂神社の御祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)
と、その后神の櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、そして、八柱御子神
(やはしらのみこがみ)、すなわち、須佐之男命の8人の御子神(八島篠見神、
五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、
須勢理毘売命)である。

スサノオノミコトは、古事記では「須佐之男命」、日本書紀では「素戔嗚尊」
と表記されており、記紀神話では天照大御神の弟神として語られている。
天照大御神は「天神地祇」の「天神」「天津神(あまつかみ)」の代表的存在、
須佐之男命は「地祇」「国津神(くにつかみ)」の代表的存在として、崇敬されている。
神々の系譜からすると、諏訪大社の御祭神、建御名方神(たけみなかたのかみ)
は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の御子神であるから、八坂神社の御祭神
である須佐之男命の7世の孫神ということになる。


八坂神社と言えば、誰しもが祇園祭を想起することであろうが、この祇園祭は
平安時代の貞観11年(869年)、流行する疫病や頻発する災害の原因を怨霊の
祟りと考え、それを鎮める為、平家物語「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響
あり。…」で有名なインドの祇園精舎の守護神であるという牛頭天王を防疫神、
厄除神として祀った、宮中の祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源とされて
いる。
やがて、祇園社からご神体を奉じた神輿を市中に迎え入れる為、市中を祓い
清める儀式として、山鉾を巡行させるようになったという。



牛頭天王



そもそも牛頭天王を祀ったことから、旧称が「祇園感神院」「祇園社」なので
あり、現在でも「祇園さん」「天王さん」と親しく呼ばれている訳で、これは
「祇園信仰」、「天王信仰」なのである。
この「牛頭天王信仰」には二系統が有り、八坂神社を総本社とする祇園社は
西日本を中心に2千百余社あり、愛知県津島市に鎮座する津島神社を総本社
とする天王社は、中部・東海地方を中心に3千余社在る。

これら牛頭天王信仰の神社が主祭神を須佐之男命としているのは神仏習合時代、
仏・菩薩こそが日本の神々の真の姿(本地)であり、八百万の神々は仏・菩薩
が仮の姿(垂迹)、「権現」として、日本の地に現れたものとする「本地垂迹説」
に基づき、日本の須佐之男命を薬師如来の垂迹であるとするインドの牛頭天王
の、そのまた更に垂迹であるというが故に、同一神と見做されたことに依る。

仏とやらの垂迹であるインドの神の、そのまた垂迹であるとは、我らが日本の
神である須佐之男命を、随分と貶めてくれたものである。
織田信長の家来であった豊臣秀吉が、主君の同盟者であった徳川家康を豊臣家
の家来筋として、格下に扱ったよりも遥かに不届きな話である。
ヤクザの世界で言えば、親分の兄弟分であるオジキ(伯父貴or叔父貴)を自分
の子分にするような筋の通らぬ話ではないか。



胡瓜

       岩手県北上市諏訪町 諏訪神社 きゅうり天王宵宮祭



ところで、岩手県北上市の諏訪神社の祭礼「きゅうり天王さん宵宮」であるが、
その夜の諏訪神社は、お供えの胡瓜を手にした老若男女が参拝の順番待ちで、
境内から溢れるほどの長蛇の列を為して、大いに賑わうそうだ。
参拝者は初生りの胡瓜を境内末社である八坂神社の神前に奉納し、疫病払い、
無病息災を祈念するというが、胡瓜をお供えする風習はユーモラスで愉快だ。
因みに、埼玉県に鎮座する川越氷川神社の境内末社である八坂神社の場合は、
胡瓜を2本奉納して、その代わりに別の胡瓜1本を戴くという取り替えっこを
する面白い仕来たりだそうな。

また、祗園祭の期間中、八坂神社の氏子は胡瓜を食べないという。
この「胡瓜断ち」という禁忌の理由として、胡瓜を輪切りにした時の切り口が、
八坂神社の神紋(社紋)である「五瓜に唐花紋( ごうりにからばなもん )」に
似ていることに依るという説明が一般的のようである。


このように、牛頭天王信仰に付き物の「きゅうり天王」の胡瓜の由来であるが、
そもそも胡瓜はインド北部、ヒマラヤ山麓が原産地であり、日本には平安時代
にシルクロード経由で伝わって来たということであるから、須佐之男命とは
無関係のはずである。

牛頭天王信仰の神社の中には、「須佐之男命は乱暴な行為を繰り返したが為に、
神々から追われる身となった時、逃げ場に困り、胡瓜畑に身を隠して、危うく
難を逃れたことから、絶体絶命の危機を救ってくれた胡瓜を神聖視して、食べ
なかった」とか、「須佐之男命は天孫降臨で、胡瓜畑に降り立った」などという
伝説があると語る向きもあるようだが、古事記にも日本書紀にも、そうは記述
されていない。
「牛頭天王が神々の追っ手から逃れる為に、胡瓜畑の中に身を隠して、難を
逃れた」「牛頭天王は胡瓜が好物」というメイド・イン・印度のエピソードから、
祭神を守った胡瓜を食べないという説の方が「きゅうり天王」の由来としては、
整合性があるのではなかろうか。



五瓜に唐花紋450



但し、胡瓜を牛頭天王にお供えするようになった宗教思想史的な由縁など、
実際に、手に手に胡瓜を1本ずつ携えて、「きゅうり天王」に参詣し、無病息災
を祈念する参拝者の素朴な心情とは余り関わりが無いのではなかろうか。
むしろ、起源はどうであれ、八坂神社の鎮座する全国各地それぞれの地域性に
依って、胡瓜をお供えする意味合いには違いがあるのかも知れない。

全国各地の八坂神社には、その地域で疫病が流行り、それを鎮める為に創祀
された例が多く、「きゅうり天王宵宮祭」を「カッパ祭」と呼んでいる地域も
あることからすると、どうやら河童伝説に由来する「きゅうり天王さん」も
ありそうである。
水神を祀る祭礼で、河童にお供えする為に好物の胡瓜を川に流す風習がある
地域もあり、このような場合は、河童を川の精霊、水神の化身として捉えて
いる証であろう。
川が氾濫すれば、洪水が起き、その後には疫病が蔓延することが多かった。
そこで、川の精霊、水神の化身である河童に、水の恵み対する感謝と水害を
防いで貰いたいという願いを込めて、好物と言われる胡瓜を供えるように
なったとしても、そう可笑しい話ではない。
岩手県には日本民俗学の父、柳田國男の著書「遠野物語」で有名な民話の
ふるさと遠野市があり、遠野のカッパ淵は河童伝説の伝承地でもある。



河童淵の河童450

河童淵450

                 岩手県遠野市 河童淵



岩手県北上市の諏訪神社境内に、八坂神社が末社として合祀されながらも、
牛頭天王信仰である「きゅうり天王さん」の祭礼が行われているという風景は、
奈良時代以降の神道と仏教の習合と分離の歴史を如実に物語っていると言える。

明治維新の王政復古は、天皇崇拝の尊王思想や復古神道の神国思想を中核的な
イデオロギーに据えて、断行された大革命であったにも拘わらず、明治新政府は
「神道は宗教ではなく、治教である」「神社神道は宗教ではなく、国家祭祀で
ある」との神道非宗教説を唱え、神道から祭祀のみを分離し、神社信仰という
宗教性を神社神道から完全に切り離した国家神道なるものを創作し、祭政一致
の実現を目指した。
「神社ノ儀ハ、国家ノ宗祀ニテ、一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ
勿論ノ事ニ候処…」(太政官布告第234号)


江戸幕府は、キリスト教や日蓮宗不受不施派などの邪宗門排除を目的とする
宗教政策の一環として、寺請(てらうけ)制度を設けていたが、宗門人別改帳
作成などに依って、寺院が役所であるかのように住民調査の一端も担うことに
もなり、それは実質的に国教化された仏教教団が民衆管理の一翼を担っていた
ことになる。
その体制下で、仏教が本で神道が従という本地垂迹説に基づいた神仏習合思想
から、神社は仏教寺院の監督下に在って、完全に隷属させられていた。
外来宗教である仏教からの、神社の分離独立は神職の悲願であったに違いない。

明治新政府は慶応4年(1868年)に神仏分離令(正式には、神仏判然令)を
公布し、奈良時代から続いて来た神仏習合思想に基づく慣習を禁止し、神社と
仏教寺院、神職と僧侶を明確に区別させて、神道と仏教を完全に分離させた。

※ 慶応を明治と改元する詔書は、慶応4年9月8日(新暦1868年10月23日)
に公示された。神仏判然令公布は、慶応4年3月13日(新暦1868年4月5日)
であるが、法的には慶応4年1月1日に遡って、明治元年とすると定めたので、
神仏判然令公布の年を慶応4年ではなく、明治元年としても良いことになる。


この神仏分離という宗教政策の断行に依って、仏教色の強い牛頭天王信仰は
公的に神社から排斥された歴史を持つ。
神の御名に冠する称号である「大神」や「明神」などの神号の内、「権現」や
「大菩薩」、牛頭天王の「天王」など、仏教に由来する神号の使用は禁止された。

社名にも仏教語の使用が禁じられた為、京都の「祇園社」はその鎮座地の地名
に因んで「八坂神社」と改称し、祭祀対象も牛頭天王から、神仏習合時代には
同一神と見做されていた須佐之男命とした。
京都の祇園社同様に、全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社が、須佐之男命を
祭祀対象とする神社に再編され、社名も「八坂神社」「津島神社」「八雲神社」
「素盞嗚神社」などへの改称を余儀無くされた。
現在は諏訪神社の境内末社である八坂神社も、嘗ては「祇園社」か「天王社」
などと名乗っていたものを、総本社である京都の祇園社に倣って、八坂神社と
改称したものであろう。



諏訪神社境内450

            岩手県北上市諏訪町 諏訪神社境内



明治政府は全ての神社の社格を制定して、官社としては官幣社と国幣社(それ
ぞれを更に大社、中社、小社に分類)、諸社としては府社、県社、郷社と定めた。
明治39年(1906年)、第1次西園寺内閣に於いて、岩手県出身の原敬内務大臣
は、一町村に一社を標準とする神社の整理合併策である「神社合祀令」を訓令。

神社は「国家の宗祀」、神職は「国家の宗祀に奉職する公務員」として、全ての
神社を国家の管理下に置き、神社運営に掛かる経費を公費で賄う為(神饌幣帛
料の供進)、府県社以下の神社に対しては地方公共団体が財政負担出来るように、
また、神社の氏子区域と行政区画を一致させる為にも、神社の絶対数を削減
する必要があった。
更に、千年間に及ぶ神仏習合時代を経た中で、神道と仏教、修験道などが混交
した状態にあった神社など、古事記、日本書紀の記紀神話や延喜式神名帳に
記載されている神々以外を排斥して、神道を純化させる意味合いもあった
のであろう。

神社合祀の方法としては、複数の神社の祭神を一ヶ所の神社に合祀する方法と、
保護する神社の境内に、廃止する神社を境内末社として、纏めて遷座させる
方法とがあった。
保護すべきか、廃止すべきか、統廃合の判断は地方の府県知事に委ねられた
ことに依り、神社合祀、または廃止の状況にはかなりの地域差が生じたという。



千葉神社の境内末社

                 千葉神社の境内末社群



岩手県北上市の諏訪神社の場合、現在の御祭神は建御名方命、天照皇大神、
大山津見命、品蛇和気命、菅原神、保食神の6柱であり、それぞれ系譜の
異なる神々が同時に祭祀の対象となっていることからすると、建御名方命
以外の神々は、前者の方法で合祀された結果ではないかと推察される。
この場合、被合祀神社の社名は残らない。
境内末社には、八坂神社、秋葉神社、金比羅神社、稲荷神社、金勢社の5社が
在り、この5社は後者の方法で遷座させられた被合祀神社ということになる。

この神社合祀政策の結果、明治39年(1906年)には約19万社在った全国の
神社が、大正8年(1919年)の統計では11万6千社にまで激減した。
13年間に7万4千社余りもの神社が被合祀、もしくは廃止されたことになる。
この氏子の信仰を完全に無視した神社合祀に依って、各地に伝承されて来た
古来の祭礼習俗や民俗行事など、多くの宗教的伝統が無惨にも破壊された。


諏訪神社 社伝板450



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2012/11/17 06:02 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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