華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 岩手県の第1回衆議院議員総選挙…何故か、土佐藩出身の大江卓が当選

岩手県の第1回衆議院議員総選挙…何故か、土佐藩出身の大江卓が当選

岩手県の第1回衆議院議員総選挙 

   …何故か、土佐藩出身の大江卓が当選



第1回衆議院(帝国議会)議員総選挙は、明治23年(1890年)7月1日、
山縣有朋内閣の下で行なわれた。
若き日の山縣は狂介と名乗り、高杉晋作が作った長州藩の奇兵隊軍監としての
地位を最大限に利用して、足軽の身分から陸軍元帥、総理大臣にまで立身出世
を果たし、藩閥官僚のボス的存在、怪物的存在となった人物である。

総選挙は定員300人、小選挙区制で行われた。
有権者は、直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性のみに限られ、当時の
全人口3千993万3478人の内の45万872人で、僅か1.13%に過ぎなかった。


第一回帝国議会開院式B

帝国議会開院式A

            第1回帝国議会開院式


明治18年(1885年)、初代の内閣総理大臣となった、長州閥の伊藤博文から、
平成23年(2011年)に就任した野田佳彦氏まで、62人の総理大臣がいるが、
岩手県は薩長官僚体制を終わらせ、日本で最初の政党内閣を組織した平民宰相
原敬を初めとして、斎藤実、米内光政、東條英機、鈴木善幸と5人の総理大臣
を生み出し、また、東京市長を務めた後藤新平など多くの有為な政治家を輩出
している。

但し、東條英機の場合、祖父が南部藩士、父親東條英教陸軍中将も盛岡出身で
あるが、彼自身は東京生まれで、本籍地は盛岡であっても岩手に居住したこと
はないので除外して、岩手県出身宰相は4人と数えても良い。

江戸幕藩体制下、現在の北上市以北の岩手県北部は南部家の盛岡藩(南部藩)、
北上市以南の県南部は仙台藩(伊達家)の所領であった。
幕末の戊辰戦争では盛岡藩、仙台藩共に佐幕派として、奥羽越列藩同盟を結成、
薩長土肥(薩摩、長州、土佐、佐賀)の四藩が率いる官軍(新政府軍)と戦い、
敗れたことで維新後、「朝敵」「逆賊」の汚名を着せられ、岩手出身者は薩長の
藩閥が支配していた中央政府から悉く冷遇され、辛酸を嘗めさせられた。
薩長藩閥政府からは、「白河以北一山百文」(福島県の白河ノ関以北、つまり
東北は一山百文程度の価値しかない地域だ)と蔑まれ、苦難を強いられていた
時代に在りながらも、岩手県は南部盛岡人持ち前の反骨の気質を奮い起こして、
傑出した人物を育み続けて来たのである。

歴代総理の出身地を県別に見ると、旧長州藩の山口県がトップで、伊藤博文
から安倍晋三氏まで8人、岩手県の5人はこれに次ぐ。
長州藩と共に明治維新の主役を演じ、明治新政府を牛耳っていた旧薩摩藩の
鹿児島県にして、僅か3人の総理大臣を送り出したに過ぎない。


第一次仮議事堂450
               
                  第一次仮議事堂

第二次仮議事堂450

                  第二次仮議事堂

仮議事堂C450


仮議事堂D450


第1回衆議院議員総選挙 岩手県選挙区の結果

岩手県第1区(定員1人)
盛岡市、南岩手郡、北岩手郡、紫波郡、二戸郡
岩手県第2区(定員1人)
東閉伊郡、中閉伊郡、北閉伊郡、南九戸郡、北九戸郡
岩手県第3区(定員1人)
稗貫郡、東和賀郡、西和賀郡、西閉伊郡、南閉伊郡
岩手県第4区(定員1人)
江刺郡、胆沢郡、気仙郡
岩手県第5区(定員1人)
西磐井郡、東磐井郡


当選者は、
第1区 谷河尚忠(たにかわ ひさただ)
第2区 伊東圭介
第3区 佐藤昌蔵
第4区 下飯坂権三郎(しもいいざか ごんざぶろう)
第5区 大江卓(おおえ たく)
と、さすがに錚々たる顔触れであるが、佐藤昌蔵を除く4人は、自由民権運動
の流れを汲む反政府派であった。


1選挙 ビゴー画

            投票風景 ビゴー画

初の総選挙で選出された岩手県代議士の中に、「戊辰戦争の仇」土佐藩出身の
高知県人、大江卓がいたことは摩訶不思議な観がある。
大江卓(弘化4年《1847年》-大正10年《1921年》)は、神奈川県権令
(副知事)時代の明治4年(1871年)、政府に「穢多・非人」の称を廃止し、
平民とするように民部省に建白し、太政官令「賎民(被差別民)解放令」
(穢多非人ノ称ヲ被廃候条、自今身分職業共平民同様タル可キ事)布告を実現
させたことや、明治5年(1872年)、ペルー籍の奴隷船マリア・ルーズ号事件
の裁判長を自ら申し出て、独、仏、伊、蘭の干渉を受けつつも、日本最初の
国際裁判で清国側を勝利に導き、清国人苦力(クーリー)を解放することに
成功したこと、人身売買及び公娼制度廃止を司法省に建白し、太政官令布告を
実現させたことなど、気骨の有るヒューマニストで有名である。

大江卓のご子孫と僅かながらもご縁が有り、新撰組ファンでもある私としては、
陸援隊隊士の20歳の時に、近江屋での坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺の報復として、
紀州藩公用人の三浦久太郎暗殺を画策し、陸奥宗光ら海援隊、陸援隊、十津川
郷士16人の同志たちと共に、新撰組隊士たちが警護する三浦の止宿する油小路
通花屋町下ルの旅宿天満屋に斬り込んだ血気盛んなイメージが強い。

大江卓はやがて官を去って、自由民権運動に身を投じ、明治10年(1877年)
に薩摩士族が蜂起した西南戦争に呼応、土佐立志社を中心とした土佐挙兵計画
に参画(銃器購入担当)し、政府転覆を図った廉で禁固10年以下の刑を受けた。


大江卓B
         大江 卓


「申渡
高知県土佐国幡多郡宿毛駅六十三番地士族
当時東京府高輪町三十五番地寄留
弘長男 大江 卓

其方儀明治十年鹿児島賊徒暴挙ノ時ニ際シ林有造岩神昂ト共二政府ヲ顚覆セン
量ヲ企テ陸奥宗 光へ牒示シ又川村矯一郎二重臣暗殺ノ事ヲ教唆シ加之林有造
力外国商ヨリ銃器弾薬ヲ何時モ取 入ル様差押スル事二立入一少ナカラサル
金額ヲ同商二渡シタル科二依リ除族ノ上禁獄終身二処 スヘキ処軽減スヘキ
事情アルヲ以テ除族ノ上禁獄十年申付候事
明治11年8月20日  大審院  」


明治11年(1878年)から明治17年(1884年)までの7年間、大江卓は同じ
土佐出身の林有造と共に、盛岡の岩手監獄に収監されていた。
因みに、彼は国事犯として、盛岡に向かうに際し、長男太の養育を大江の良き
理解者であった福沢諭吉に託している。
大江卓の妻は後藤象二郎の次女小苗で、後藤象二郎は義父に当たる。


藩政時代の岩手


島惟精(しま いせい)(1834年-1886年)という、府内藩(現在の大分県
大分市)出身の内務官僚がいた。
明治4年(1871年)、盛岡県参事に就任以来、明治17年(1884年)まで、
盛岡県令、岩手県参事、岩手県権令、岩手県令を歴任した人物である。
この島惟精県令が大江卓の経歴を重んじて様々に配慮し、外出や来訪者との
面談を許すなど、かなり自由の利く軟禁状態に置いていたという。

当時の風潮として、国事犯(政治犯)を単なる罪人と見做すことはなかった
ようで、大江卓の場合はむしろ、天下の名士が盛岡の獄に在るということで、
岩手県民から尊敬の念を抱かれた向きもあったようである。
大江卓が出獄したのは明治17年(1884年)であり、第1回衆議院議員総選挙
が行われたのは明治23年(1890年)であるから、岩手の地を離れてから6年
の歳月が流れていたことになるが、県民の有志が上京し、大江卓に岩手選挙区
からの立候補を熱心に勧めたものだという。

西南戦争に於ける田原坂の戦いで、西郷軍の刀剣に依る斬り込みの白兵戦に、
農民や町人からの徴兵である鎮台兵では応戦出来なかったことから、撃剣に
優れた警視庁巡査を選抜し、白兵戦部隊である「抜刀隊」を臨時に編成する
ことになった。
警視隊として、九州各地で警備や兵站輸送の護衛の任に当たっていた警視庁
巡査300人の中から101人を選抜、更に東京警視庁でも約900人を選抜した。
東京で編成された警視庁抜刀隊には戊辰戦争で朝敵、賊軍の汚名を着せられた
旧幕臣や、旧会津藩士など東北諸藩の旧藩士たちが薩摩士族への恨みを晴ら
さんと、大勢志願したと言われ、突撃に際しては「戊辰の仇!戊辰の仇!」と
叫びながら、勇猛果敢に斬り込んで行ったという。
因みに、新撰組で撃剣師範を務めた三番隊組長の剣豪斎藤一も、藤田五郎と
偽名を名乗り、この抜刀隊の中にいた。

旧会津藩同様に賊軍扱いを受けた岩手県民であったが、報復どころか、その
「戊辰の仇」であるはずの土佐藩出身の大江卓を代議士に選出したのである。
尤も、大江卓の選挙区は旧仙台藩の領地であった県南で、旧盛岡藩の県北と
では、風土も違い、歴史的背景も維新後の処遇も、そもそも気質が違うので、
反骨心の強い県北の選挙区では起こり得なかったことであったかも知れない。


抜刀隊500

                     警視庁抜刀隊


大江卓と共に、歴史的な第1回衆議院議員選挙に当選された四氏は、さすがに
岩手県民を代表する代議士に相応しい立派な方々であったようである。
第1区選出の谷河尚忠は議員引退後、何と大江卓の出身県、高知県知事に
就かれている。
第1回衆議院議員選挙では1選挙区を官軍側の土佐人に譲ったが、その8年後、
賊軍とされた旧盛岡藩士が旧土佐藩である高知県の知事として、トップに君臨
してやったのだと思うと、「戊辰の仇」を取ったようで、実に愉快である。

第2区選出の伊東圭介は、獄中での大江卓との出会いがご縁となって、政界
進出に導かれたようである。
盛岡市のホームページに依れば、「官尊民卑の風潮が強い当時、伊東は弱い人々
の味方となる為、代言人(弁護士)の資格を弱冠20歳で取り活動した。
貧しい人々の依頼を進んで引き受け、自身の正義感に基づいて処理した為、
司法官からも好意を持たれた」という。
「明治27年(1894年)、既に政治活動も出来ないほど体が衰弱していた伊東
だが、日清戦争の為に広島に置かれた大本営で開催された臨時議会に出席した。
その為、この後すぐに召集された第8議会には、とても出席出来る状態では
なかった。しかし、自分の死期を悟った伊東は最後まで議会に出るべく上京、
翌年の2月5日に同志の坂本安孝宅で逝去した」という。 享年39歳。
南部盛岡が育んだ、清らかな御魂の俊才の一人であった。


開運橋から450


谷河尚忠 
天保5年(1834年)-大正7年(1918年)
旧盛岡藩士、自由民権運動家、郷土史家、教育者と活動は多岐に亘る。
明治9年(1876年)岩手県会議員となり、議長、副議長を歴任。
明治23年(1890年)第1回衆議院議員選挙に当選(自由党 当選4回)
明治31年(1898年)議員引退後、高知県知事に就任。
明治41年(1908年)私立盛岡女学校(現、盛岡白百合学園高等学校)に就任。
「白髯翁」の筆名で文筆活動、書家、漢文家としても高名。



伊東圭介
安政4年(1857年)-明治28年(1895年)
自由民権運動家、代言人(弁護士)
16歳で家督を相続し、県の聴訴課(現在の裁判所)に勤務。
20歳で代言人(弁護士)資格を取得し、弱者救済に努めた。
舌鋒鋭く痛烈に政府批判を展開した為、演説の禁止や禁固刑に処せられた。
大江卓から獄中で、東京に於ける自由民権運動の動向情報を得たことが、
彼の政界進出を促した。
明治23年(1890年)第1回衆議院議員選挙に当選(自由党 当選2回)



佐藤昌蔵
天保4年(1833年)-大正4年(1915年)
旧盛岡藩士
青森県、岩手県、茨城県などで、勧業課長や郡長を務めた。
明治23年(1890年)第1回衆議院議員選挙に当選(政友会 当選5回)
クラ-ク博士の教育を受けた第一期生で、北海道帝国大学初代総長の佐藤昌介
は、昌蔵の長男。



下飯坂権三郎
嘉永5年(1852年)-大正12年(1923年)
自由民権運動家
明治23年(1890年)第1回衆議院議員選挙に当選(自由党 当選4回)
議員引退後、明治35(1902年)から大正3年(1914年)までの13年間に亘り、
水沢町長を務めた。



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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2012/11/20 03:02 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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