華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 北上川は岩手県の母なる大河 …「北上」は「日高見」の転訛か?

北上川は岩手県の母なる大河 …「北上」は「日高見」の転訛か?

北上川は岩手県の母なる大河 

          …「北上」は「日高見」の転訛か?



「南部盛岡は日本一の美しい国でござんす。
西に岩手山がそびえ、東には早池峰。北には姫神山。
城下を流れる中津川は北上川に合わさって豊かな流れになり申す。
春には花が咲き乱れ、夏は緑、秋には紅葉。冬ともなりゃあ、
真綿のごとき雪こに、すっぽりとくるまれるのでござんす」
  (小説「壬生義士伝」浅田次郎著より)

「南部盛岡は日の本一の美しき所でござりやんす。
西に岩手山、南に早池峰山、城下を流れる中津川は桜の馬場の直ぐ下で
北上川と合わさって、当に絵に描いたような、絵に描いたような、
美しき国でござりやんす」
  (渡辺謙主演ドラマ「壬生義士伝」 2002年テレビ東京制作)

この台詞は、盛岡藩脱藩の新撰組隊士、吉村貫一郎(実名は嘉村権太郎?)の
語る作品中のお国自慢であるが、南部盛岡の魅力を知る者には誇張ではない。
実は古代文化を含めた文化圏としての「只事ではない」岩手には、目を見張る
べきものがあるのだが、それはこの稿の主要テーマではない。


一本松500
                      小岩井農場の一本桜

岩手県の面積のほぼ2/3を占める北上山地の西側を縁取るように流れる北上川
は県北部の岩手町御堂を源流として、南流する東北最大の大河である。
岩手県の中央部を北から南へ縦断し、川の東側の北上山地から流下する中津川、
猿ヶ石川など、西側の奥羽山脈から流下する雫石川、和賀川、胆沢川などの
支川を集めて本流となり、一関市の狭窄部を経て、宮城県に入る。
更に仙台平野を縦断し、宮城県津山町柳津地先で新北上川と旧北上川に分かれ、
新北上川は、石巻市北上町で追波湾に注ぎ、旧北上川は迫川、江合川などと
合流し、石巻湾へと流れ込んで、その長い旅を終える。

流路延長は249km、信濃川、利根川、石狩川、天塩川に次いで、全国第5位。
流域(降った雨が川に集まって来る区域)面積は1万150k㎡、利根川、石狩川、
信濃川に次いで、全国第4位。
北上川の流域面積は、岩手・宮城両県の45%、国土の凡そ1/38を占める。
支川数は大小合わせて、296に上る。

源泉には七時雨山麓説、丹藤川説、西岳山麓説など諸説あるが、国土交通省の
一級河川指定では、岩手町の御堂観音境内の湧水「弓弭(ゆはず)の泉」を
源流としている。
「弓弭」とは、弓の両端の弓弦を掛ける部分の意味。
平安時代の天喜5年(1057年)6月7日、前九年の役で源頼義、義家父子が、
日照りで苦しみながら、この地に遠征した時に、義家が矢を放った所を弓の端
で堀り出すと、清水が滾々と湧き出して、猛暑に喘ぐ兵馬を潤したという伝説
が伝わっている。
北上川は岩手の歴史を育んで来た、美しき母なる悠久の大河である。


北上川 図


石川啄木がその山河をこよなく愛した故郷、渋民村(現盛岡市玉山区渋民)は、
北上川の上流に位置する。
「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」
        歌集「一握の砂」明治43年(1910年)出版

「柔らかく柳の芽が青く色付いた(故郷渋民村の)北上川の河畔がふと目に
 見えた。私に泣けと言うかの如くに」

北海道への旅立ちを決めていた21歳の啄木が記した、
明治40年(1907年)5月3日の日記に「春の山、春の水、春の野、麦青く
風暖かにして、我が追憶の国は春の日の照らす下に、いと静かに、いと美しく
横はれり。
北上川の川岸の柳、目もさむる許りに浅緑の衣つけて、清けき水に春の影を
投げたり」とある。
5月4日の夜、青森から青函連絡船陸奥丸に乗り込み、翌5日、函館に到着。
北海道での漂泊時代が幕を開けた。


花巻市出身の宮沢賢治は、市内を流れる北上川と猿ヶ石川の合流点の西岸に、
イギリスのドーバー海峡に面した白亜の海岸を連想させる泥岩層が露出して
いることに因んで、これを「イギリス海岸」と名付けたり、詩「北上川は
熒(ケイ)気をながしィ」など、愛しき北上川を作品の中で取り上げている。
また、賢治は花巻農学校の教員時代、よく生徒たちを連れて、地質学の実習を
するなど、大いに北上川を慈しんだという。


イギリス海岸
                         イギリス海岸


私は嘗て、北上川ほどの大河に「北上」という方角地名が名付けられている
ことに違和感を覚えていた。
「北」と言うからには、例えば「南下川」とか「南」に何がしかの対象が
無ければ、成り立たないのではないかと理屈っぽく浅はかに考えたからである。
「北上」の名称の由来であるが、建設省東北地方建設局編著「北上川百十年史」
の見解では、日本書紀「景行天皇27年2月条」にある「武内宿禰、東国より
環りまいてきて奏して言さく『東の夷の中に日高見国あり…』」の日高見国では
ないかとのことである。

武内宿禰(たけのうちのすくね)大臣は、第12代景行天皇に北陸と東国の視察
を命じられ、その帰還報告の中で蝦夷(エミシ)の征討を進言した。
「東の夷(ひな)の中に、日高見国あり。
その国の人、男女並に椎結(かみをわ)け身を文(もどろ)けて、
人勇(ひととなりいさ)み悍(こわ)し。
これを総て蝦夷と曰(い)ふ。
亦土地沃壌(またくにこえ)て曠(ひろ)し。
撃ちて取りつべし」

「東の辺境に、日高見という国があります。
この国の民は男女とも、髪を椎(ツチ)のような形に結い、
刺青をしています。
勇敢で手強い性格です。その国の民を蝦夷と言います。
土地は肥沃で広大です。攻撃して、国を奪い取るべきです」

※ 「武内宿禰」の訓み方には、「たけうちのすくね」「たけしうちのすくね」
  との説もある。
この「日高見国」を流れる川である「ヒタカミ」川が徐々に「キタカミ」川と
転訛して、それに「北上」川と当て字されるようになったという説である。


冬の北上川500
                           冬の北上川


この「日高見国」という言葉は、私が6月30日の「夏越の祓(なごしのはらえ)」と、
12月31日の「年越の祓(としこしのはらえ)」の砌に奏上する大祓祝詞
(おおはらえののりと)の中にも記されている。
※ 「大祓祝詞」は、「大祓詞(おおはらえのことば)」、「中臣祓詞(なかとみの
はらえことば)」、「中臣祭文(なかとみさいもん)」、「六月晦大祓(みなづきの
つごもりのおおはらえ)」とも呼ばれる。

此久
(かく)
依奉里志
(よさしまつりし)
四方乃國中登
(よものくになかと)
大倭日高見國乎
(おおやまとひだかみのくにを)
安國登
(やすくにと)
定奉里氐
(ざだめまつりて)

「…斯(か)く依(よ)さし奉(まつ)りし四方(よも)の国中(くになか)と
 大倭日高見(おほやまとひだかみ)の国(くに)を
 安国(やすくに)と定(さだ)め奉(まつ)りて…」


★「國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館」様の現代語訳
「このようにして御委任申し上げた地上の国の真中のすぐれた所として、
この太陽が空高く輝く大倭(おおやまと)の国(大和の国)を、安泰な国と
して平定申し上げて」

★札幌市西区に鎮座される「西野神社」神職様の現代語訳
「こうして統治を任せられた国の中心として、大和国を安らかな国と定められ」

★NPO法人「にっぽん文明研究所」様の現代語訳
「このように、平穏に治めなさいと御委託を受けられた四方の国土の中心と
して、大和の国の陽が高く照り輝く美しい地に都を定められ」


上記の何れもが、「大倭日高見国」を一語として、「大和の国」と解釈している。
この場合には「日高見」を、「陽が高く照り輝く美しい」という賞賛の意味合い
を込めて、用いていることになる。
また、これらの解釈では「日高見」を「大倭国」の修飾語と捉え、「日高見国」
と「大倭国」を同一視していることになる。


天孫降臨の神話を念頭に置いて解釈すれば、「日高見」を「日が昇る」の意味
として、天孫が降臨された日向国から見れば、東方にあった大和国のことを
「日の昇る国」と呼んだが、神武天皇の東征後には王権が大和に移ったことで、
「日高見国」が大和国よりも更に東方の地域を指すようになったことになる。
この解釈であれば、歴史学者津田左右吉博士の学説のように、「日高見国は、
実際の地名とは関係ない」ことになる。

しかし、「大倭国」と「日高見国」と分けて考えれば、「大倭」を主語として、
「大王が治める大倭国が日高見国を平定して」という意味に解釈出来まいか?
大祓祝詞は「延喜式」巻八に「六月晦大祓」として記載されているが、
「延喜式」の編纂開始は延喜5年(905年)、完成は延長5年(927年)であり、
蝦夷の軍事指導者であったアテルイが朝廷軍に降伏し、蝦夷地であった現在の
北上川流域が平定されたのは、延暦21年(802年)のことである。


一関500
                            一関市


日本書紀で「東方の辺境に蝦夷の国『日高見国』があったが、景行天皇の
時代に服属せしめた」としていることは、大和朝廷に抵抗する勢力としての
蝦夷の「日高見国」が大和朝廷軍に征圧され、その勢力範囲を常陸国、現在の
茨城県、栃木県辺りから、陸奥国の宮城県、岩手県にまで後退させて行ったと
いうことか。
そうであれば、「日高見国」とは、「大和朝廷の権力の届かない辺境の地」を
指したものと考えられる。
嘗て「日高見国」であった「常陸国」の更にその「奥」、「常陸の奥」にある国
という意味で「陸奥国(むつのくに)」から「道奥国(みちのくに)」「みちのく」
と大和朝廷側から呼ばれたのかも知れない。
何れにせよ、平安時代には「日高見国」とは、北上川流域を指すようになった
と思われる。


展勝地 白鳥
                          冬の展勝地

北上川の名称は、鎌倉幕府が編纂した歴史書である吾妻鏡(東鑑)の文治5年
(1189年)9月27日の項に「麓に流河有りて南に落つ。これ北上河なり。衣河
北より流れ、降ってこの河に通ず」に「北上河」とあるのが初出であるという。

別の説に依れば、「日高見(ヒタカミ)」の「ヒタ」は「ヒダ」で、「蝦夷」、
「カ」は「場所」「住処」、「ミ」は「その辺り」を意味し、「日高見川」とは、
「蝦夷が住む国の川」という意味であるとの見解もある。
また、「ヒタカミ」は本来、「鄙上(ヒナカミ)」「鄙境(ヒナホトリ)」のことで、
「辺境」の意味であったものに、大和朝廷が「日高見」という好字を適用した
ものとの説もある。
この「日高見(ヒタカミ)川」の音が訛って、「北上川」になったと伝えられて
いるが、ごく自然にそうなったのか、或いは「北」「上」の文字を当てたことに、
何らかの意味があったものなのか、その経緯は判然としない。


北上市
                          北上市


松尾村(現在、八幡平市)緑ヶ丘にあった旧松尾鉱山は、大正3年(1914年)
から硫黄、黄鉄鉱の採掘を開始し、昭和47年(1972年)の閉山まで、東洋一
の規模を誇る硫黄鉱山として、その最盛期には、国内の硫黄産出の1/3を占め、
約60年間に亘って、日本の近代化、産業発展に多大な貢献を成し遂げた。

しかし、その反面、硫黄鉱石を採取することに依って湧出した強烈な酸性の
鉱毒水が大量に北上川の支流である赤川に注ぎ込み、本流の北上川までを
魚の棲めない赤茶色の「死の川」と化してしまったという。
昭和57年(1982年)からの中和処理施設の稼動などに依って、北上川の水質
は次第に綺麗になり、30年経った現在の北上川はその支流にも鮭が遡上して
来るまでに清流を取り戻している。


赤川と北上川の合流地点1
                     汚染時の赤川と北上川の合流地点


開運橋から500
                           開運橋から










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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2012/11/26 14:26 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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