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仏とは一体、何であるのか? …無神論の法信仰に人格性を帯びた崇拝対象が必要か?

 2013-03-25
仏(ホトケ)とは一体、何であるのか? 

…無神論の法(ダルマ)信仰に人格性を帯びた崇拝対象が必要か?



日本の仏教徒が言うところの「ホトケ」という擬人化された概念とは一体、
如何なるものなのであろうか?
一般に「ホトケ」と聞けば、ビジュアル的に奈良東大寺の毘盧遮那仏(14.85m)
や鎌倉高徳院の阿弥陀如来坐像(11.5m)などの仏像を思い浮かべてしまう人が
多かろう。
「ホトケ」なるものを巡っては、21世紀の現代日本に至っても、釈迦如来は
本仏だ、迹仏だ、いやいや、阿弥陀如来だ、大日如来だ、挙句の果てには鎌倉
時代の日蓮が本仏だなどと、商業仏教徒連中は喧しい。


東大寺大仏


仏教とは本来、法(ダルマ)信仰であって、人格性を帯びた崇拝対象が信者を
救ってくれるの、くれないのというような、人間を超越した人格神の如き存在
が入り込む余地の無い無神論であるはずなのである。

「ブッダ」とは元来、「目覚めた人」という意味の「修行の完成者を指す呼び名」
であって、仏教に限らず、ジャイナ教でも「覚った人」と見做された修行者を
「ブッダ」と呼んでいたという。
その「ブッダ」がシナ人訳経僧に「仏陀」と音写され、日本では「仏」と呼ぶ
ようになったという経緯がある。


鎌倉大仏500


ゴータマ・ブッダの滅後、彼を慕う人々が、彼の説いた教法の記憶の中に
彼の優れた人格を追慕したであろうことは想像に難くない。
ゴータマ・ブッダの説いた教法を不滅の真理として、その永遠性を信仰する中で、
法(ダルマ)を体現化した人格として強調される余りに、教法の永遠性がやがて、
ゴータマ・ブッダの超人性や永遠性へと思想がエスカレート気味に変容し、
彼を人格神化した「法身(ほっしん)思想」が芽生えたということになる。

ゴータマ・ブッダの滅後、更に長い歳月を経る中で、仏教の指導者たちは彼を
礼賛する余りに、古代インドのバラモン教の神であり、ウパニシャッド哲学で
の宇宙の根本原理ブラフマンが人格化されたブラフマー(梵天)、ヒンドゥー教
に於ける世界創造神で、当時の最高神とされていたブラフマー(梵天)でさえ
もが「どうか、世の人々の為に教えを説いて下さい」(梵天の勧請)と崇拝した
ほどに、ゴータマ・ブッダは偉大な存在であったとバラモン教、ヒンドゥー教
の神々までをも節操無く取り込んで、仏教の権威付けを画策し、フィクション
にフィクションを重ね合わせては、大法螺を吹き捲くるようになったという
歴史的経緯がある。
最高神までが崇拝する存在となれば、ゴータマ・ブッダは人格神以外の何物
でもないではないか。


梵天勧請A
                梵天の勧請


「日本書紀」の記述に依れば、日本に仏教が公に伝来したのは飛鳥時代、
欽明天皇の552年(538年説の方が有力)で、ゴータマ・ブッダ滅後、
1000年を経ていたことになる。
(当時の仏教界の認識では、ゴータマ・ブッダ滅後1500年と考えられていた)

「日本書紀」の第19巻、天国排開広庭天皇(欽明天皇)には、欽明天皇13年
(552年)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を遣わし、「釈迦仏の金銅の像を
一体、幡(ばん)と蓋(がい)とを若干、経と論とを若干巻を献した」とある。
更に、「仏教を流布し、礼拝する功徳を讃えた」上表文も献上したとある。

その礼賛内容は、「この法は諸法の中で、最も優れている。理解するのが難しく、
教に入るのも難しい。この法はまことに無量、無辺で、福徳、果報を生じ、
無上の菩提(仏果を得ること)を弁え、成し遂げるに至る。譬えて言うと、
物事が思いのままになる宝を懐(ふところ)にして、用いるところで用いて、
すべて思いのままであるように、この妙法の宝もまたそのようなものです。
思いのままに祈願して、何一つ乏しいところはない。……」

この万能薬の効能書きのような、「祈願して、叶わないことは無い」という
仏教礼拝の功徳とやらは、1500年後の現代日本に於けるインチキ仏教団体でも
同様、全く同じ台詞を吐いて、信者を獲得している有り様である。
しかし、元来、ゴータマ・ブッダの説いたところ(原始仏典に依る)は、
「二度と生き物には生まれて来たくない」という思いを根底にした現実否定の
思想であって、願いを叶えて幸せになるなどという現世利益を宣伝文句にした
現実肯定の思想ではない。
あるがままの現実を肯定し、あるがままの人間を肯定し、欲望を満たして、
幸せを味わいたいならば、仏教など信奉しなければ良いのである。
それが出来ないから、本来の日本人の考え方にそぐわないからと言って、
仏教の根本理念自体を180°変容させてまで、仏教ブランドに拘り、自宗自派
こそが世界最高唯一絶対無二の正しい宗教とほざく連中が現に何百万人も存在
しているのであるから、馬鹿馬鹿しいにも程がある。


釈迦像500


欽明天皇は、聖明王の使者の口上を聞き終えて、躍り上がって、喜んだという。
「朕は、昔からずっと、このように微妙な法を聞いたことが無い。 
しかし、朕は自分で決めることはしない。
西蕃(百済)の献上した仏の顔は光り輝いている。
まったくこれまでに無かったものだ。礼拝すべきか、どうか?」と、
仏教の信奉の可否に付いて、有力氏族から意見を聴取した。

蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)は「西蕃の諸国は、等しく皆礼拝して
いる。日本だけがどうして従がわずにいられましょうか」として、崇仏派の
立場を取った。
物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)と中臣連鎌子(なかとみの
むらじかまこ、後の中臣鎌足、藤原鎌足)は、「我が国家の、天下に王として
あるのは、常に天地、社稷(しゃしょく)の神々を春夏秋冬、祭り拝するのを
大事にして来たからです。まさに今改めて、蕃神(となりぐにのかみ)を
拝したりするならば、おそらくは国神の怒りを招くでしょう」と仏教信奉に
反対の立場を取った。
仏教の「ホトケ」は「蕃神(となりぐにのかみ)」と表現されたように、
日本の神と同次元の異国の「カミ」と理解されたのである。
更に他の文献でも、隣国の「客神(まろうどがみ)」、「大唐神(だいとうのかみ)」
「仏神(ほとけがみ)」などと、仏教の仏は神と認識され、表現されたのである。


ラホール釈迦像500


「ホトケ」という和語の発音に付いては、ブッダ(Buddha)の漢訳語「浮屠or
浮図(フト)」の訛化(がか)した音であるという説がある。
(因みに、浮屠、浮図は仏陀のみならず、仏塔《ストゥーパ=釈迦の遺骨を
安置した塔。釈迦の墓所》をも指す言葉である)
また、煩悩を解き放たれた者という意味で「解け(ほとけ)」、仏教が伝来した
時期に熱病が流行したことから、「熱気(ほとほりけ)」、霊妙な力のある者と
いう意味で、仏の「ホト」に「怪(ケ)」或いは、「気(ケ)」を添えたなどと
いう
説もある。
古代の骨壷(小さな壷状の土器)を「ホトキ(缶)」と呼んだことから、死者の
霊魂を「ホトケ」と呼ぶようになったという民俗学者の柳田國男博士の説を
仏(ほとけ)の語源とする見解もある。

何れにせよ、仏教とは元来、法(ダルマ)信仰なのである。
人格性を帯びた超人的な「仏」という想像上の崇拝対象が無ければ、
信仰出来ないというならば、仏教を信奉しなければ良いのである。


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