華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 日本の慟哭① … BC級戦犯処刑(上海) 鏑木正隆陸軍少将

日本の慟哭① … BC級戦犯処刑(上海) 鏑木正隆陸軍少将

日本の慟哭① 

… BC級戦犯処刑(上海) 鏑木正隆陸軍少将



鏑木(かぶらぎ)正隆陸軍少将(陸軍士官学校32期)広島市出身
終戦時の最終位置は、第55軍参謀長
昭和21年(1946年)4月22日 上海にて絞首刑 享年49歳


昭和19年11月、支那大陸奥地の航空基地を拠点に、漢口大空襲を展開して
いたアメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機を日本軍が撃墜し、脱出した搭乗員
3名を捕えた。
この捕虜3名の虐殺容疑で、復員を果たしていた陸軍第34軍関係者が逮捕され、
上海監獄に移送された上で、上海アメリカ軍事委員会に裁かれた。
命令者を特定しないまま、昭和21年(1946年)2月28日、絞首刑5名、
終身刑1名、有期刑11名の判決が下され、昭和21年4月22日、
衆人環視の中で5名の絞首刑が執行された。

鏑木正隆少将  (広島県出身) 第三十四軍参謀長  49歳
増田耕一軍曹  (香川県出身) 漢口憲兵隊     27歳
藤井力准尉   (徳島県出身) 漢口憲兵分隊    41歳
増井昌三曹長  (静岡県出身) 漢口憲兵分隊    29歳
白川興三郎伍長 (新潟県出身) 漢口憲兵分隊    23歳

この漢口事件当時、第34軍の司令官は佐野忠義中将であったが、昭和20年
(1945年)7月に戦病死していた為、その身替わりとして、参謀長であった
鏑木正隆少将が極刑に処せられたとの説がある。


鏑木正隆少将の「家族への手紙」

二月二十八日上海米軍公判の於て死刑の宣告を受く。
本件は予が呂武集団参謀長として漢口在任中に起りし米軍俘虜に対する
惨虐行為に関し責任を問はれたものにして、事件の真相は茲に詳記せざるも、
予個人としては俯仰天地に恥づる点なきを以て此点安心せられよ。
本事件により聖戦の真意義に汚点を印し又多数将兵が重き処刑を受くるに
至りしは断腸の至りにして、当時軍参謀長たりし予としては、此の惨虐行為を
未然に予防し得ざりし不明に対し責任の重大なるを痛感しあり。
軍人生活二十数年戦場にて散るべかりし身を此の如き最後に終らんとは
残念至極なり。

※文中の「呂武」とは、第34軍の通称号である。


鏑木正隆少将の「手紙」

冠省 被告十八名中死刑は小生を合し五名、無期一名、二十年一名、十五年
三名、十二年三名、三年二名、二年一名、一年半一名、無罪一名の極めて
峻烈なるものあり。
特に上官の命令により行動せし下士官兵多数重き処刑を受くるに至りしは
気の毒至極にて断腸の思あり。
当時事件の中心人物たる泉中尉は満州にありて不参、憲兵分隊長服部中佐は
自殺しあり、其の他下士官中当時の状況を最もよく承知しある者一名は既に
死亡しあり、一名は所在不明にて不参の状況下に公判は行はる。
泉中尉不参の為小生の立場を立証し呉れる者なく為に検事は小生が本事件を
計画し泉中尉に指示せる如く誤断想像し求刑せらるる結果となれり。
之も運命と諦めあり。
特に多数の下士官兵が重き処刑を受けたることを思へば自分の罪など軽かれ
とも思はれず、寧ろ当時の参謀長としての重責を痛感致し此の事件の惨虐性を
未然に防ぎ得ざりし不明を嘆ずるの外なし。


死刑執行の日を待ちつつ
今朝も亦身の辺ととのへ偲びけり
兜の内に香たきし人
我が責めは血もて償ひ今日よりは
あまかけりつつ御国護らむ


「絶筆」

「贖罪自決の心積りにて最後の場に臨むべく、見苦しからぬ最後を遂げたく
念願致居候。他の四名何れも立派な覚悟の様お見受け小生感激致居候」


鏑木正隆少将 4 22 1945 処刑直前

鏑木正隆少将 処刑直前、支那人僧侶に挨拶


鏑1 500


鏑木中将B500


鏑木正隆中将 絞首刑


鏑3 500


鏑 最期500


大東亜戦争に罪有りとするならば、国家の罪を個人が背負わされた究極的な悲劇の構図が
そこにはあったのである。






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2013/06/04 04:12 | 歴史資料COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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