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日本語史上、最大級の誤訳「神」② …日本の「カミ」の概念

 2013-06-14
日本語史上、最大級の誤訳「神」② 

…日本の「カミ」の概念



江戸時代中期の国学者、本居宣長は著書「古事記伝三」の中で、神の定義を
「尋常ではない、霊威を発するもの」と述べている。

「さて凡(すべ)て迦微(カミ)とは、古(いにしえ)の御典等(みふみども)
に見えたる天地(あめつち)の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を
祀れる社に巫(い)ます御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云わず、
鳥獣本草のたぐひ、海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)
ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云(いう)なり」

日本人は古代から、直感的に畏怖を覚えるような不思議な力を発する対象全て
を「カミ」として捉え、素朴に崇拝して来たのである。
そして、そのカミという観念は、聖なるものであるとか、善なるものである
とかの、正邪、善悪の範疇を超えたものであった。
本居宣長は、「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなど
の、優れたるのみを云に非(あら)ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、
よにすぐれて可畏きをば、神と云なり」とも述べている。


古事記伝A


日本神道(古道 こどう)は、素朴な自然崇拝、精霊崇拝から始まったと
考えられる日本固有の民族宗教である。
古代の日本人は、降り注ぐ太陽の光や闇夜の月明かり、川や湖の清水の恵み、
生き物を育む大地や海原に感謝の念を抱くと共に、雷や嵐、豪雨や吹雪、地震
や火山の噴火、津波の襲来などに恐れ慄き、人知では計り知れない自然現象の
圧倒的な猛威に平伏す思いであったろう。
それら多種多様な「モノ」「コト」に、畏れ多い霊威を感じ取ったのである。
日本神道の神々を「八百万(やおよろず)の神々」と称する所以はそこにあり、
神前で唱える祝詞(のりと)には、「掛けまくも畏き(かしこき)」という、
「心に思うのも恐れ多い」という意味の一節があるが、これは古来、日本人が
畏怖心を胸に抱きつつ、カミに接して来たことを意味する。


500成層圏からの日本列島


日本のカミは降臨しては霊威のみを人々に感じさせる存在であり、特定の姿を
顕わさないものである。
古代の日本人は、カミは山や岩、樹木や滝などの自然物を「依代(よりしろ)」
として、降臨され、宿られると捉えていたようである。
「依代」というのは、カミが顕現される際の媒体、寄り憑く有体物という意味で、
カミを招き、迎える立場からは、「招代(おぎしろ)」とも言う。
日本のカミは具体的な「モノ(事物、場所)」「コト(現象)」または「ヒト(人)」
などに於いて捉えられるものであって、一神教で言うところの唯一絶対神の
ように、抽象的、理念的、観念的な存在ではないのである。

カミの降臨は「モノ」や「コト」、または「ヒト」に寄り憑いて宿られ、鎮まる
形態を取り、その「モノ」や「コト」、または「ヒト」が「御神体(ごしんたい)」
ということになる。
従がって、依代としての「モノ」や「コト」、または「ヒト」である「御神体」
は、当然のことながら、カミそのものという訳ではない。
但し、崇敬する立場からの感覚としては、カミが宿られていると捉える限りに
於いて、「御神体」は、カミと不可分の畏怖すべき存在として、カミそのもので
あるかのように神聖視し、敬虔に拝することになる。

唯一絶対神(God)と人間は創造者と被創造者として、その間には絶対に超える
ことの出来ない断絶のある、隔絶された関係性にあるが、古来日本人は絶対的
な超越者としてのカミという概念を持ったことがない。
カミの「創造」という概念も無い。そもそも、カミであれ、国であれ、「成る」
のであり、「生まれる」のである。
氏神(うじがみ)信仰、敬神崇祖の信仰に象徴的な、親の親の親…とご先祖の
根源を辿れば、カミに辿り着くという連続性を持つのである。
天皇にしても、天津神の子孫として、皇祖皇宗の神霊が降臨される依代であり、
それ故に、御神体としての現御神(あまつみかみ)なのである。


出雲大社B


「カミ」の語源研究では、アイヌ語で高級な神格的存在としての神霊を意味する
「カムイ」と共通の起源を持つとの説がある。
また、「カミ」は古地名である神代(クマシロ)、神稲(クマシネ)、熊野(クマノ)
「クマ(神・熊・隅)」「クム(隠れる)」の転訛で、水源である山谷に隠れた
霊性を指したという説もある。
             (「神道を知る本―鎮守の森の神々への信仰の書―」より)

古代の日本人は、この「カミ」に「神」の漢字を当てたが、実はこれも誤訳に近い。
「神」の文字は、神を祀る祭壇の象形「示」+稲光の象形「申」で、「天の神」
「宇宙万物の主宰者」を意味する。
「神」は稲妻のように恐ろしい存在であると共に、稲妻に依って、稲が実を
結ぶと信じられていたという。
「霊妙で理性では計り知れない不可思議な働き」という意味合いに相違は無いが、
日本の「カミ」は、その霊威を顕現する具体的な「モノ」「コト」「ヒト」を
指すのであって、支那の「神」のように「理(ことわり)」や「性質」などの
抽象性は無いのである。

そもそも古来、日本人は宇宙万物の創造者、主宰者という概念を持ち合わせて
おらず、支那の「神」では日本の「カミ」の広範な意味合いを限定してしまい、
不調和であることは免れない。
日本のカミへの信仰は本来、「古道(こどう)」というべきであるが、奈良時代
に伝来した仏教への対抗上、「易経」にある「霊妙不可思議な自然の法則」を
意味する「神道」という言葉を援用し、「日本書紀」で初めて用いられた。
支那の「神(シン)」と日本の「神(カミ)」との間にさえ本質的な乖離がある。
支那でGodを「神(シン)」と誤訳しようが、しまいが異存は無いが、それを
そのまま援用し、日本の「神(カミ)」をGodと誤訳したのと、支那語の「神」を
Godと誤訳したのとでは、その誤訳の度合いが遥かに違うのである。


神 ヘボンの辞書

          本邦初の聖書辞典 明治25年(1892年)出版「聖書辞典」P152「神」の項
          ジェームス・カーティス・ヘボン&山本秀煌に依る編纂


支那で、Godを「神(シン)」と訳したのは、プロテスタントの宣教師たち、
アメリカ人のW.J.ブーンやW.M.ローリーなどの聖書協会であったという。
さすがにローマカトリック教会では、「神」ではなく、「天主」と訳した。

それでは、日本の「神(カミ)」をGodの訳語に当てた最初の馬鹿は誰なので
あろうか?
どうせ、聖書の日本語訳に携わった連中が安直に、支那語訳の聖書をベースに
翻訳した結果ということなのであろう。
どうやら、ヘボン式ローマ字の創始者で、明治学院の創設者であったアメリカ
長老派教会の医療伝道宣教師であったジェームス・カーティス・ヘボン辺りが
怪しいのではないかという説がある。
安政6年(1859年)に来日し、横浜で医療活動を開始しているが、慶応3年
(1867年)に日本最初の和英辞典「和英語林集成」を編纂、明治5年(1872年)には
在日宣教師仲間と福音書の和訳を開始、明治20年(1887年)には、旧約聖書を
含めた聖書全体の翻訳を完了させたという。
アメ公というものは日本にとって、何時の時代にも碌な事はしないものである。
それにしても情けないのは、聖書の翻訳に協力したであろう日本人たちである。
Godと日本の「神(カミ)」の相違さえ指摘しなかったほど、自国の文化も
碌に理解していない輩が、外来宗教を日本人に紹介しようなどと大それたこと
をするものではない。




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