華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 宗教団体の組織的集票行動 …独裁と隷従、全体主義を好む人々

宗教団体の組織的集票行動 …独裁と隷従、全体主義を好む人々

宗教団体の組織的集票行動 

     …独裁と隷従、全体主義を好む人々



来週の日曜日、7月21日は、第23回参議院議員選挙の投票日である。
参議院では政権与党が過半数を下回る捩れ国会が続き、政治が停滞している
ことから、今回の選挙で非改選議員と合わせ、政権与党である自由民主党と
公明党とで過半数を確保出来るか、大いに注目されるところである。


投票1


東京では6月23日に、参議院議員選挙の前哨戦と目された東京都議会議員選挙
の投開票が行なわれた。
自由民主党は立候補者全員が当選するという圧勝で、39議席から59議席と
躍進し、都議会第1党に返り咲いた。
公明党は23議席を維持し、第1党であった民主党は43議席から15議席に
減らす惨敗で、第4党に転落した。
世間を驚かせたのは、意外にも日本共産党が8議席から17議席と躍進し、
15議席に止まった民主党を抜いて、都議会第3党となったことであった。

今回の東京都議会議員選挙の投票率は43.5%と、戦後2番目の低さを記録した。
投票率が低ければ低いほど、組織票の強みが顕著になる。
数理的に分子が同じで、分母が小さくなるのであるから、シェアが広がる。
堅い組織票と言っても、日本共産党は政党であるから、共産党員の構成する
組織票に異論は無い。

大いに問題があるのは、宗教団体の組織票である。
日本に於ける新興宗教団体の信者数(公称)ランキング1位は「幸福の科学」
1100万人、2位が「創価学会」827万所帯、3位「立正佼成会」408万9176人、
4位「霊友会」153万1932人、5位「仏所護念会」146万6002人と続く。
これらの信者数は教団発表であり、公明党と幸福実現党の選挙に於ける得票数
からして、明らかに水増しされた虚偽数である。

18万もある宗教法人の内、完全に政党化しているのは、創価学会と幸福の科学
である。
それ以外の巨大な教団では、支持政党や、選挙ごとに支援する候補者が教団
上層部から通達され、大方の信者はそれに従った投票行動を取っていることは、
候補者の票読みと得票結果に大差の無いことからして、先ず間違いない。


信者数 テレビ


民主主義とは、君主に依る統治体制を打倒し、市民が国家を支配すべく選択
された統治体制であり、市民が直接、もしくは選挙で選らんだ代表を通じて、
間接的に権限を行使する統治形態である。
主権在民が民主主義の前提であるが、その主権の行使とは、市民が選挙で
代表者を選ぶ、その一票の投票行為でしか無い。
民主主義の基本は個人の権利と義務であり、自由主義であり、個人主義である。
また、民主主義体制では個人の権利を守る為の戦いを継続させる必要があり、
権力の集中を警戒する為に分権主義を採る。
そして、何よりも民主主義の体制は衆愚政治に陥るという致命的欠点を持つ。


信仰の場で1

信仰の場で2


民主主義社会の構成員でありながら、教団信者は個人の政治的判断を放棄し、
所属する教団経営者に全権を委ねる。
「A党を支持します」「は~い!」  \ (´〇`) ゝはぁ~い!
「今度はB党に切り替えます」「は~い!」 \ (^‐^)ゝ了解!
「反対していた政策Aに、これからは賛成します」「は~い!」(o^-')b Okey!
「支那の天安門事件、チベット人、ウィグル人虐殺に関しては、沈黙すること」
「は~い!」  (・ω‐*)ъ ねっ!
「今までは反自民でしたが、これからは『何処までも付いて行きます下駄の雪』路線で
閣僚ポストを貰いま~す♪」「凄い時代になりましたねぇ~♪」
「わ~!」「すご~い!」  ('∀`*人) すご~い!

教団内でのボスの独裁を是認し、それに隷属することを好み、自由主義も
個人主義も何のその、ひたすら金太郎飴化した言辞を吐き、行動する。
民主主義の土台である法治主義に叛いてまで、手土産ぶら提げては、せっせと
戸別訪問、投票日当日は自党への投票を依頼した人を確実に投票所に連れ出す
為に同行、教団の拠点と投票所を何度も往復する為、選挙違反行動がバレては
いけないとその都度、衣類を着替えるという悪知恵の確信犯。
身体の不自由な人であろうが、寝たきりのご老人であろうが、期日前投票など
を大いに利用して、何としても投票所にまで連れて行く。
選挙戦終盤に当選が難しいとなれば、「この選挙の戦い方次第で成仏出来るか、
出来ないかが決まるほど、それほどに大切な選挙だから…」と大法螺吹いて、
発破を掛ける始末(旧東京都第3区世田谷での実例)。
その癖、自分が選挙応援した政党でありながら、その政党が一体、如何なる類の
法案を通しているのかなどには一向に無関心。  ┐('~`;)┌


祈り1


如何なる類の宗教を信奉する信仰生活に於いても、誇り高く超然として、
「独立自尊の精神」を堅持すべきである。
特に、全国規模で狂信的に布教活動を展開している、恰も全国制覇を目指す
広域暴力団もどきの宗教団体などには、決して所属すべきではない。
親が特定の教団信者であったが為に、幼少期から自分の意志とは関わりなく、
強制的に教団メンバーであることを余儀なくされた環境で育ったなら、
遅くとも二十歳前後には離脱すべきである。
それでも、子供時代から教団内部で「阿呆陀羅センセーは絶対的存在である!」
「阿呆陀羅センセーは不世出の偉大な世界的指導者だ!」「阿呆陀羅猊下に
信服随従しなければ、成仏は叶わない」「この教団を辞めたら、地獄に堕ちる」
などと大法螺を吹き込まれて育つと、その精神的外傷を完全に払拭するのに、
教団メンバーであった期間の数倍の歳月を要することになる。


祈り2


信仰というものは、特定の宗教的概念に信を置いて、その教えを縁(よすが)に
生活する精神活動であろう。
信仰者が特定の神仏を対象として、絶対的に崇拝することは当然であるが、
宗教団体に属する信者は往々にして、教祖であれ、出家教団の管長であれ、
在家教団の経営者であれ、教会長であれ、講頭であれ、神仏と自分との間に
わざわざ生臭い宗教屋を差し挟み、そのボスの家臣であるかのように隷属する
ようになるのが常である。

ボス化する教団のリーダーというものは、教祖の権威や宗教的権威を、
月の光の如くに反射させる仕掛けを弄しているにも拘わらず、恰も太陽の光
の如くに、自分自身が輝いているかのように錯覚を起こさせて、権威付ける
演出が巧みなのである。
旧帝国陸海軍で、どんな無能な上官の命令であっても軍規上、上官の命令は
即ち、全軍の統帥権を持つ天皇陛下のご命令とした論理と同様で、信仰心など
微塵も持ち合わせていない俗物の癖に、さも偉そうに生き神様もどきを気取り、
自分に背いたならば、地獄に堕ちると宣(のたま)うまでに逆上せ上がって、
有頂天になる。
そういう輩は仕舞いには、自分が久遠の本仏だの、救世主だのと自己愛性人格
障害の発症をおっ始めることになる。


祈り3


宗教を人心統合の手段に用いる宗教屋は、何時の時代にも居るものだが、
問題とすべきは、その仕掛けの対象となる信仰者サイドの在り方である。
教団内権力掌握の為の見え透いた三文芝居に、何十万人、何百万人もの大の
大人が唯々諾々として、馬鹿面ぶら提げて付き従って行く教団信者たちの
精神構造の在り方が至極不可解である。
親玉の手駒のように、何でも言い成りになる信者たちには、反骨精神と
説かれる教理を充分に咀嚼する能力が不足しているのである。
その証拠に、その宗教教義を咀嚼した上で、自分の言葉で教理を語っている
信者に遭遇したことがない。
金太郎飴化が際立つのは、日蓮本仏論を振り翳す日興門流系の教団信者で、
インターネット上でも、行き成り喧嘩腰で突っ掛かって来ては罵詈雑言を吐く
のを常としているが、その理論展開から言葉遣いに至るまでが、恰も示し
合わせたかのように、皆一様に同じなのである。
悪態を吐く、その言葉までが同じであるということは、彼らが如何にその思想
を咀嚼して、自分自身の血肉と化していないかということの証である。
出来の悪い学生張りに、あんちょこの丸写しということである。


仏教教団では信者の判断停止化、金太郎飴化に、「我見(がけん)」という至極
重宝な言葉を多用する。
「我見」とは本来、個人の主体としての「我」が存在するという実体説を
「我執」として誤った見解とする、縁起説に立脚する仏教の立場からの
言葉であるが、転じて「自分だけの狭く偏った見方や狭い考え」という意味に
なり、更には「自分の考え」という意味にまで変化させて用いている。
信者が常識的に真っ当な考えを口にしたとしても、それが教団に都合の悪い
見解であれば、「それは我見である」として、徹底的に封殺する。
ならば、その教義が誰の見解であれば、我見ではないと言えるのか。
原始仏典であれ、大乗仏典であれ、ゴータマ・ブッダと何処の馬の骨とも知れ
ない経典制作者、編集者たちの我見であり、法然、親鸞、日蓮の教義であれ、
法然、親鸞、日蓮の我見であり、教団の公式見解であれ、教団の親玉の我見に
過ぎないものではないか。
「仏説」であるなどと、「仏」といういい加減な言葉で誤魔化すものではない。
教派神道の教祖たちにご神霊が懸かって、彼らがそのご神霊の言葉を自動書記
したり、お取次ぎをする場合のご神霊の言葉とは、訳が違うのである。

自分は「赤の他人」を生きている訳ではなく、あくまでも「自分」自身を
生きているのにも拘らず、何故に、自分の我見を否定して、赤の他人の我見を
金科玉条の如くに祀り上げる必要があるのか、よくよく考えてみたら良い。
主体性をかなぐり捨て、自分の頭脳の働きを差し置いて、わざわざ紀元前の
インドのおっさんや鎌倉時代のおっさん、現代の生臭い教団経営者のおっさん
の脳味噌に全ての判断をお任せするほど、奴隷根性丸出しで、自分を卑下する
馬鹿馬鹿しき行為はない。
超然として、独立自尊の精神を大いに発揚させて、自分は自分自身を誇り高く
生き抜けば良いのである。


祈り4


比叡山延暦寺を鎌倉時代の「総合大学」に譬えた書き物を見れば、S会の信者
お得意の表現であることが判るのだが、理系学部は無いのだから、それを言うなら
「総合大学」ではなくて「単科大学」であろうし、むしろ「大学院大学」
に譬えた方が良いのでは?などと思ってしまう。
罵倒する相手の文章を馬鹿にした表現で、彼らが好んで使う言葉に「噴飯もの」
という時代掛かった言い回しがあるのだが、喧嘩する時に使う言葉くらいは
猿真似ではなくて、己の個性を発揮しても良さそうなものだと思うのだが。
文章の最後に、日蓮の遺文の真似をして、「はかなし。はかなし。」と鎌倉時代
の言い回しそのままに書くのも、彼らの中ではパターン化しているのであるが、
取り分けて馬鹿の中の馬鹿は「墓無し。墓無し。」とグレードアップさせて書く。
思想的な咀嚼力不足の者が教団に入ると、教団からインプットされたデータを
理論武装に用いて、そのまま外部攻撃に発信するの他は無いのだ。


現代日本は、近世までの身分制度に縛られた封建社会ではなく、誰しもが平等に
諸権利を有する自由主義社会であるにも拘わらず、教団信者たちは一様に
独立自尊の精神は何処へやら、教団の親玉に信服随従することを宗教的正義と
考え、その教団内独裁を好み、喜び勇んでその支配下に収まり、直に会った
こともない、言葉を交わしたこともない、自分の名前さえ知りもしない親玉を
人生の師匠などと位置付けて、そのお神輿をクローン人間の集団のような
金太郎飴化した信者総出で担ぎ上げる。
一度、人の風下に立ったならば、半永久的にその後塵を拝することになるが、
独立自尊の気概というものを端から持ち合わせていないのだろうかと不思議に思う。


お地蔵さん1


何れの教団であれ、尤もらしいご大層な宗教スローガンを掲げ、その下で
教団に都合の良い教義の解釈を上意下達で教団内に浸透させ、行動も言動も
思考も醸し出す雰囲気までも、信者の誰もが皆同じという、どこを切っても
皆同じ金太郎飴のような教団になる。
教団というものは、大勢の信者が同じ対象に向かって、同じ方向性を持って、
宗教的思念を放射するので、自ずとそこに霊界が出来上がり、教団自体が
霊体化して、一つの教団霊のような化け物が形成されるものである。

面白いもので、一宗一派に拘泥し、凝り固まっている人の発する「気」に
依って、その信仰が教派神道系か、仏教系、中でも日蓮カルト系か、それとも
キリスト教系かは、大体感じ取れるものである。
特に、日蓮カルト系はその臭味が強いので、十中八九判別出来る。
「破折屈伏(はしゃくくっぷく)」略して「折伏(しゃくぶく)」、つまり
「他宗教、無宗教の相手を打ち負かして、自分に従わせる」ことをモットーと
する布教形態を採るだけに、非妥協的で独善的、偽善的、且つ好戦的なだけに、
愛想笑いの面の皮を一皮剥けば、常に喧嘩腰で争いを仕掛けて来る、心も御魂
もささくれて、尖がった人々である。
私が彼らを宗教ヤクザと呼びたくなるには、訳が有る。
霊能の優れた人であれば、感知出来ると思うのだが、彼らの教団は霊的に、
暴力団や右翼団体のそれと同系統なのである。


土ぼっくり 祈りタイプ


教団に属している信者は誰しも、自分の信仰している宗教が一番正しくて、
オールマイティなものだと考えているものである。
「ウチの宗教は世界で何番目かに正しい」などと考えている謙虚な信者など
居る訳が無い。
どんな宗教でもそれなりに教義体系というものを形成している訳で、それが
「体系」を為している以上、そのお伽噺を展開する同一のグラウンドに立って、
議論を進めれば、一応は辻褄の合う理論のように錯覚を起こすものである。
偽善的な愛想笑い、爽やかさを演出した教勢拡大の下心見え見えの信者どもに
車座態勢で囲まれ、美辞麗句を駆使して体系化された嘘八百を並べられると、
恰もそれらが正論であるかのように聞こえて来てしまうのは、1960年代から
70年代に掛けての、政治的に先鋭化し過ぎた学生運動盛んなりし時代、資本家
対労働者という構図での社会構造の矛盾を突いて、共産主義的革命思想を吹き
込み、活動家へと洗脳する一本釣りのオルグ同様である。
生活互助会化した教団に依存することを必要とする人々の居ること、思想的、
宗教的に独立独歩で生きて行くだけの咀嚼力を発揮出来ない人も居ることは
理解出来る。
しかし、だからと言って、飛んで火に入る夏の虫のように、自ら奴隷志願する
ことはないのではないか。
何処の教団にも隷属せず、誰にも隷従することなく、独立自尊の気概高らかに
一人静かに深く思惟し、正神界のご神霊のいらっしゃる清涼な神社に一人で
通って、大和言葉で祈り事を静かに囁くようにご神明に語り掛けるが良い。


富士 信仰







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テーマ : 宗教・信仰 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2013/07/15 04:21 | 現代社会雑感COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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