華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ …敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格

岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ …敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格

岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ 

     …敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格



日露戦争は、西洋列強の外圧で開国を余儀無くされた小国日本が明治維新から
僅か37年後に国家の存亡を賭して、国力10倍の大帝国ロシアに敢然と戦いを
挑んだ大戦争で、明治37年(1904年)2月から明治38年(1905年)9月まで
戦われた。


日露戦争10


日露開戦前の明治34年(1901年)、清国公使内田康哉の求めに応じ、
民間人でありながら、「軍事探偵」として、支那大陸で諜報活動に従事、
日露開戦直後、ロシア軍の後方撹乱の為、東清鉄道鉄橋爆破の特殊任務に
出撃するも、ロシア軍に捕らえられ、ハルピン郊外で銃殺された横川省三
という岩手県盛岡出身の人物がいた。
昭和55年(1980年)制作の映画「二百三高地」は、この銃殺刑シーンから
始まる。横川省三を俳優の早川純一氏が演じた。

私が横川省三の人物像に惹かれるのは、彼が国家の危急存亡の時に、民間人で
ありながらも作戦任務に挺身し、祖国に殉じた忠君愛国の烈士であったという
日本的な英雄像からではなく、ロシア軍に捕らえられ、処刑される迄の僅かな
日々に馥郁と薫った彼の日本人としての品格が、敵軍のロシア兵やヨーロッパ
各国の観戦武官をも感服させ、更にヨーロッパ報道界にまで、彼の人格が感銘
を与えたという歴史的事実に対する驚きにある。


日露戦争2


横川省三は、元冶2年(1865年)4月4日、盛岡藩士三田村勝衛、クニの次男
「勇治」として、盛岡下小路(盛岡市愛宕町)で生まれた。
※元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日)、慶応に改元。
明治17年(1884年)、東和賀郡十二鏑村(花巻市東和町)の横川佳哉と結婚、
横川家に婿入りする。
「山田勇治」「横川勇治」と幾つかの名を名乗るが、荘子の言葉「日に三度己を
省みる」に因んで、明治34年(1901年)に「横川省三」と改名したという。
号は「北溟」とも、「精軒」とも称した。

横川省三の父、三田村勝衛は日本の開国直後、盛岡藩が江戸幕府に北方警備を
命じられたのに伴い、副司令として、函館に赴任した。
その函館で、三田村勝衛はロシア領事館附属礼拝堂の司祭であったニコライ・
カサートキン(ニコライ堂で有名なニコライ神父)と出会い、ギリシャ正教に
改宗し、篤信のキリスト教徒になったという。
この父の教育を受け、横川省三が熱心なキリスト教徒として育てられたことが、
彼の人格形成に多大な影響を与えたに相違ない。
明治13年(1880年)、横川省三は開学当初の名門岩手中学(現盛岡一高)
英文科に学ぶ。


横川省三 ポートレート


盛岡の「求我社」の感化を受け、自由民権運動に身を投じることとなった
横川省三は、結婚した年の明治17年(1884年)に上京し、自由民権運動の
一大拠点「有一館」に入門するが、加波山事件関係者を匿ったことで連座し、
6ヶ月間の禁固刑を受けることとなった。(1年8ヶ月の禁固刑との説も有り)
これに依って、横川省三は政府から危険人物と見做され、明治20年(1887年)、
保安条例に依って、皇居三里以内から追放処分を受けた。

※加波山事件は、自由民権運動の中で起きた武装蜂起で、関東諸県の急進的な
自由党員が、政府の弾圧に対してテロリズムで対抗すべく、栃木県庁落成時に、
自由民権運動を厳しく弾圧した福島県令三島通庸(栃木県令兼任)や政府高官
の爆殺を計画するも、爆弾製造中の誤爆で計画が破綻、茨城県加波山を拠点に
挙兵したが、数日で鎮圧された事件である。

因みに、三島通庸(旧薩摩藩士)の次女峰子は、大久保利通の次男牧野伸顕に
嫁ぎ、牧野伸顕の長女雪子は吉田茂に嫁いでいるので、麻生太郎現副総理は
三島通庸の玄孫に当たる。


盛岡城1


横川省三は出獄後、郷里で自由民権運動家として活躍した後、再び上京。
明治23年(1890年)、伝有って、東京朝日新聞社に入社。
郡司成忠の千島列島探検隊に同行取材し、「短艇遠征随行記」を書き、
日清戦争では従軍記者として防護巡洋艦「吉野」に乗艦し、「大海戦記」を
連載して、好評を博したという。
また、明治29年(1896年)の三陸大津波に際しては特派員として、
翌々日には早くも現地の被害状況を報じている。
同年、東京朝日新聞社を退社。
北米サンフランシスコに渡り、農園経営や日刊紙の創刊を手掛けるが、
妻危篤の報を受け、急遽帰国。
妻佳哉は、夫省三と一週間を過ごした後に永眠。
帰国途中に寄港したハワイで、日本移民の窮状を知ったことを切っ掛けとして、
再度ハワイに渡航し、人種差別やストライキの調停など移民事業に尽力した。


防護巡洋艦吉野
             防護巡洋艦吉野型『吉野』(明治29年11月25日 横須賀軍港)


横川省三 三陸大津波
          「三陸海嘯視察手帖」(明治29年)盛岡先人記念館蔵


明治34年(1901年)、如何なる人脈に依るものであったのかは定かでないが、
横川省三は清国公使内田康哉(熊本藩出身)の要請に応じて、清国に渡り、
北京の東文学舎に寄宿。
※内田康哉《慶応元年(1865年)-昭和11年(1936年)》は後に明治、大正、
昭和の三代に亘って外務大臣を務め、その外相在職期間通算7年5か月は、
現在に於いても最長記録である。

こうして、横川省三は内田康哉駐清公使の私設秘書を務め、清国の民情風俗を
視察し、また軍部の要請で「軍事探偵」として、諜報活動に従事した。

日露開戦後11日を経た明治37年(1904年)2月20日、陸軍参謀本部の命令
を受けた駐清公使館付武官の青木宣純大佐(薩摩藩支藩佐土原藩出身)が、
内田康哉駐清公使の協力の下に結成した特別任務班が北京某所に集められた。
軍人11名、民間人35名の計46名で編成された6班の特別任務班であった。
特別任務班の面々は頭髪と爪を白紙に包み、祭壇に捧げ、祖国の一大国難に
当たって、一死奉公を誓ったという。
伊藤柳太郎大尉(長州周防出身)率いる第一班に属する横川省三は39歳で
最年長者であった。

ロシア軍の兵員輸送と軍事物資輸送を妨害し、南下を遅らせる為、その補給路
であるシベリア鉄道の支線、東清鉄道を寸断するという戦略的に重大な意味の
ある作戦計画であった。
ロシア軍兵站の大動脈である大興安嶺山脈の北端を東西に横切る東清鉄道の
大興安嶺トンネルや、エニセイ河鉄橋などの爆破が計画された。


東新鉄道1


第一班はラマ僧や商人に変装し、大興安嶺トンネル爆破を目指して出撃し、
2月29日には喀喇沁王府(カラチン)に到着。
3月3日、大雪の為に大興安嶺トンネル爆破は困難と判断され、作戦計画を
変更し、第一班は二手に分かれ、伊藤柳太郎大尉率いる伊藤班はハイラルへ、
横川省三率いる横川班はチチハルに向かうこととなった。

北京を発って50余日を経た4月10日、約1200kmに及ぶ荒野の雪中行軍で、
チチハル南方6km程、東清鉄道のフラルギー駅付近の鉄橋が見渡せる地点に
到着し、天幕を張った。
翌4月11日未明、前夜からの吹雪の中、横川班は、松崎保一(延岡出身29歳)、
田村一三(宮崎出身23歳)、脇光三(滋賀出身22歳)、中山直熊(熊本出身
17歳)の4名を偵察に出し、沖禎介(長崎出身30歳)と横川省三は天幕に
残っていた。

チチハル駅付近に駐屯していたロシア軍メジャーク大佐指揮のコサック騎兵
第26中隊の6騎が鉄道沿線巡邏中に、その横川班の見慣れぬ天幕を見付け、
臨検の為に駆け付けて来た。
天幕の中を覗かれたが、横川省三と沖禎介の両名はラマ僧の扮装をしていた
ことから、一旦は何事もなく立ち去り掛けたものの、一人の兵士が瀬戸引きの
湯呑みの存在に不審を抱き、「彼らの持っている湯呑みは怪しい。ラマ僧の
持ち物ではない」と軍曹に進言、両名は不審を抱かれ、ハルピンの駐屯地に
連行されることになった。

偵察行から天幕に帰還した4名は、同行していた支那人のボーイから両名が
ロシア軍に連行されたことを聞き、急遽近くの蒙古人の墓地に隠しておいた
武器や爆薬を回収すべく、移動を開始した矢先、ロシア軍の一隊が向かって
来るのを察知、止むを得ず、西方に向かってその場を離脱した。
(この4名は後日、戦死を遂げた)


日露戦争7


4月12日、ロシア軍は天幕周辺を捜索し、横川班の武器、爆薬を発見、回収。
ここで、横川省三、沖禎介両名の身分は露見し、4月13日、二人の身柄は
ロシア軍司令部のあるハルピンに送致された。

4月16日、二人の軍法会議が開廷。
この軍法会議では、各国の観戦武官と、2名の外国新聞社記者の傍聴が許されて
いたという。

メジャーク大佐
「姓名は?」
横川「私は横川省三、そちらにいるのが沖禎介、両名とも日本人である」

メジャーク大佐
「階級及び、位階勲等は?」
横川「我ら両名は軍人ではない。無位無冠の一日本臣民である」

メジャーク大佐
「軍人ではない者が、鉄道爆破のような行為を為すとは思われないが?」
横川「否、日本人たる者は一人として国を思わない者はない。
軍籍にあると否とに拘わらず、我ら畏れ多くも天皇陛下のご命令と
あらば、いかなる任務であろうとも生命を投げ出して忠を尽くすのが
日本臣民である。」

メジャーク大佐
「汝らは如何なる目的を持ってこの地に入ったのか?」
横川「目的はロシア軍隊の大輸送を妨害せんが為、シベリア鉄道の鉄橋及び、  
線路、電信を爆破するにあった」

メジャーク大佐
「この作戦の指揮官の姓名は?」
横川「命に懸けて、言えぬ」

メジャーク大佐
「それを告白するならば、刑を半減してやるが、もう一度問う、
この作戦の指揮官の姓名は?」
横川「我らは日本人である。ここに武運拙く捕えられたからには、
元より死は覚悟の上である。
日本人にとって、死生は論ずるところではない。
天皇陛下の御為、御国の為なら、女子供に至るまで生命を惜しむ者など
唯の一人もいない。
我らは如何なる極刑をも喜んで受ける。
しかしながら、日本軍の機密に関することは断じて言わぬ」

二人は軍人ではないことから、捕虜としての待遇は受けられず、スパイ(間諜)
として絞首刑に処する判決が下った。
この判決に対し、横川省三は異議を申し立てた。
横川「異議有り」
メジャーク大佐
「告白する気になったか?」
横川「犯罪者として、絞首刑にされるのは納得いかない。
軍人に対する礼を以って、我らを銃殺にして頂きたい」

メジャーク大佐は休廷を宣し、別室で協議の後に開廷し、判決が改められた。
メジャーク大佐
「横川、沖両名は銃殺刑に処す。尚、本議は横川、沖の勇敢なる行為と
戦時国際法の精神に鑑み、死一等の減刑を請願し、捕虜として拘置せられん
ことを決議す」
驚くべきことに、軍法会議は被告両名に銃殺刑を申し渡したものの、
判決の最終決定者であるロシア軍総司令官(クロパトキン陸軍大将)に、
両名の死一等の減刑を請願し、捕虜として拘置せられんことを願うとの
付帯意見が添えられたのである。


日露戦争11


横川省三が絞首刑の判決に異議を申し立てた時、傍聴人の多くは彼が命乞いを
するものと予想していただけに、軍人としての名誉ある銃殺刑を望むという、
彼の凛然たる態度に、法廷内の誰しもが驚きと感動を禁じ得なかったという。
この軍法会議を傍聴していたドイツの観戦武官(フランスの武官との説も有り)
はロシア軍士官に「日本軍にこのような人物が多数あるとすれば、如何に
ロシア軍が優勢であっても、苦戦するのは必至であろう」と述べたという。

メジャーク大佐はクロパトキン将軍に急使を奔らせ、二人の減刑を嘆願したが、
クロパトキン将軍は、「自分は日本軍人の特性をよく知っている。日本の軍人は
一度死を決して大任に当った以上、事敗れて捕虜になるような場合、生還を
欲するような国民ではない。今回の両勇にしても、たとえ軍法会議で赦して
やっても、彼らは日本軍人の名誉のため、恐らく腹を切って自決するであろう。
すなわち、彼らの亡骸を山野に曝すより、彼ら勇士に敬意を払う為に、
直ちに銃殺刑に処せ」と述べ、減刑の請願を許可しなかったという。


死刑執行は4月21日と決まり、その前日、横川省三は二人の娘に遺書を認めた。

拝啓。
父は 天皇陛下の命により露国に来り、4月11日露兵の為に捕へられ、
今彼等の手により銃殺せらる。これ天なり命なり。汝等幸いに身を壮健にし
尚国の為に盡(つく)す所あれ。我死に臨んで別に言ふ所無し。
母上は勿論宜しく汝等より伝ふべし、富彌にも宜しく伝ふる所あれ。
明治37年4月20日      満州哈爾賓(ハルピン)横川省三

横川律子殿
横川勇子殿

此の手紙と共に支那北京の支那銀行手形にて五百両(テール)を送る。

井上敬次郎、山口熊野(ゆや)等の諸君と相談の上、金に換ふるの工夫を為すべし。


此の手紙と共に五百両(テール)を送らんと欲したれども、総て露国の赤十字社に
寄附したり。


横川省三遺書A


死刑執行の日を迎え、横川省三は独房を訪れたメジャーク大佐に愛娘である
横川律子(当時17歳)、横川勇子(当10歳)宛ての遺書を託した。
その遺書に所持金の全額を敵国ロシアの赤十字社に寄付すると書かれていた
ことにメジャーク大佐は驚き、
「遺されるご家族に送られるのが良いのではないか。法に従って、遺族に
送ってやるから、考え直したら、どうか」と念を押したそうであるが、
横川省三は
「貴官がそうお思いになるのもご尤もです。貴官の御厚意は誠に有り難い。
しかし、我らの天皇陛下は、決して我らの遺族をお見捨てになりません。
また、日本の国民は遺族を王侯の待遇を以って遇するので、少しも心配は
要りません。何卒、お納め願います」と応えたという。
メジャーク大佐が更に「それでは何故に、ロシアの赤十字に寄付をするのか」
と問うと、横川省三は 「この戦争に於いて、不幸にして日本軍の砲弾に依って
傷付き、病める貴国軍人に対し、少しでも罪滅ぼしをしようという気持である
から、どうか納めて欲しい」と応えたという。

二人の日本人が処刑を前にして、その所持金の全てを故国に待つ家族に遺す
のではなく、敵国たるロシアの赤十字社に寄付したことは忽ち、ロシア軍将兵、
列強諸国の観戦武官、従軍記者の知るところとなり、その天晴れな行為は
驚嘆と畏敬の念を以って受容された。


横川省三 刑場


横川省三と沖禎介は馬車に乗せられ、ハルピンの郊外の刑場に護送された。
その場は既に、立派な日本人二人の最期の姿を一目見ようと集まった大勢の
ロシア軍将兵、観戦武官、従軍記者で埋まっていたという。

二人が馬車を降りると、監禁中の彼らが可愛がっていた一匹の犬が彼らを
慕って付いて来ていて、足下に駆け寄って来た。
二人は微笑みながら、代わる代わるその頭を撫で、声を掛け、ポケットに
残したパンを与え、死を目前に控えているとは思えない、その余裕綽々たる
二人の態度は、その場に居合わせた人々の涙を誘ったという。

死刑が執行されたのは、4月21日午後2時であった。(6時との説も有り)
刑場には2本の柱が立っていた。
その前に立った二人は、遥か彼方の祖国、皇居を望む東南の空に向かい、
遥拝した。
ロシア兵が近付き、二人を柱に縛り付けようとしたが、武人の端くれとして、
縄目の辱めは受けぬと断固拒絶したことが受け入れられた。
二人は「天皇陛下万歳!大日本帝国万歳!日本軍の大勝利万歳!」と叫んだ。

銃殺刑執行官のシモノフ大尉は12名の射撃手に向け、「射撃用意!」と命じ、
その後、声を落として、「愛を以って、撃て」と指示したという。
二人が苦しまずに死ねるよう、しっかり心臓を狙って撃てという意味であった。
こうして、満州の荒野に轟く12発の銃声と共に、二人の日本男児の命が果てた。
時に横川省三39歳、沖禎介30歳であった。


横川省三 刑場2


日本の国民はこの二人の消息を6月中旬、フランス国パリ発ロイター通信、
及びロシアの新聞2紙の記事に依って知ることになる。
横川省三と沖禎介の決死の行動、敵軍さえもが畏怖の念を抱いた凛然たる態度、
そして、悲劇的な最期を知り、開戦間も無い大戦争の先行きに不安を抱いて
いた多くの日本人の士気を大いに鼓舞したと言われる。

また、横川班以外の特別任務班は度々、シベリア鉄道の爆破に成功していた
ことから、横川省三や沖禎介のような、死をも恐れぬ勇敢な日本人たちが
満洲各地に潜入し、シベリア鉄道の破壊活動に邁進しているということは、
ロシア軍は大きな脅威と捉えた。
ロシア軍総司令部は急遽、シベリア鉄道警備にコサック騎兵50数個中隊を配置
したことで、ロシア軍の多大な戦力ダウンに繋がり、この戦力分散が後に奉天
大会戦の敗北を招いたとクロパトキン将軍は回顧したという。
横川省三らの特別任務班のシベリア鉄道破壊活動は戦略的に大きな意味を持ち、
日露戦争の勝利に影ながらも、多大な貢献をしたのである。

日露戦争の際、宮中に於いては、常宮(つねのみや)、周宮(かねのみや)
両内親王(明治天皇のお嬢様)が戦死者を祭壇にお祀りになられ、戦死者の
姓名を逐一ご記帳為され、冥福を祈っておられたという。
ある時、横川省三、沖禎介の名をご記帳になられたが、この二人に肩書きが
無いことを訝しく思われ、側近の者に理由を問われ、二人の事績をお聞きに
なったところ、お二方は涙に咽ばれ、お顔を伏せられたが、やがて筆をお執り
になって、二人の名の上に「忠君愛国之士」と記されたという。
※この逸話の主は、常宮、周宮両内親王ではなく、明治天皇との説もある。


横川省三2


横川省三が銃殺刑に処せられ、30年後の昭和9年(1934年)、岩手県盛岡に
住む横川の長女律子(47歳)をシモノフと名乗るロシア人の老人が訪れた。
彼は、横川省三と沖禎介の銃殺刑執行官を務めた、シモノフ大尉(当時)
その人であった。
シモノフ大尉はその後、帝政ロシア軍の陸軍少将にまで累進したが、大正6年
(1917年)のロシア革命後、日本に亡命して来ていた。
白髪の老人となったシモノフは律子と対面し、涙ながらに語ったという。
「私はいつの日か、お父様の立派なご最期の様子を直接お伝えしようと思って
おりました。貴女にお会い出来て、こんなに嬉しいことはない」
「私はあの時、真の日本武人の姿を見たような気がしました」

以上、私が認めた横川省三の事績は、戦前の日本人であれば、小学生でも
知っていたことという。
横川省三や沖禎介が国家の為に挺身し、護国の大義に殉じた決死の行動を、
天皇への忠誠心篤き日本人の理想的な英雄像として、全国に喧伝されたこと
には当然、国家的要請、政治的必要性があったに違いない。
そして、彼らの天皇と国家を想う愛国的な言動や、明治天皇、若しくは常宮、
周宮両内親王が涙ながらに無位無官であった彼らの名の上に「忠君愛国之士」
と記されたことなどのエピソードには誇張や虚偽があったのかも知れない。
しかし、私は横川省三を虚飾の英雄とは思わない。


盛岡2


横川省三は幕末に、南部盛岡藩士の子として生まれた。
南部盛岡藩は幕末の戊辰戦争に於いて、奥羽越列藩同盟の雄藩として、
薩摩藩、長州藩を主力とする明治新政府に朝敵の汚名を着せられ、秋田戦争を
経て、降伏後には主席家老の楢山佐渡(ならやま さど)が処刑されるという
屈辱をも味合わされた。
南部盛岡藩降伏は、横川省三3歳の時であった。
岩手盛岡は江戸時代から澎湃たる文化圏で、今日に至るまで幾多の逸材を輩出
し続けている。
しかし、横川省三の生きた明治期は薩摩、長州出身者が政権を牛耳っていた
藩閥政治の時代であり、薩長閥であれば無能であっても栄達し、旧幕側の朝敵
とされた各藩出身者は不遇を余儀なくされていた時代であっただけに、場所を
得ない有能な人士はさぞや鬱積した思いの中を生きたに違いない。
横川省三のエネルギッシュな東奔西走振りには、地殻を突き破って、マグマが
噴出するかのような、異常なほどの激しさが感じられる。


幕末にアメリカ海軍のペリー艦隊が来航し、開国を迫られて以来、日本人の
国家観というものが徐々に形成されて行ったのであろうと思われる。
それ以前は、「くに」と言えば、武蔵の国であるとか、陸奥の国という地域を
指し、むしろ、もっと狭い範囲の自分の郷里を指していた。
「壬生義士伝」の中で、盛岡藩脱藩の新撰組隊士吉村貫一郎が語るお国自慢が、
「南部盛岡は日の本一の美しき所でござりやんす。西に岩手山、南に早池峰山、
城下を流れる中津川は桜の馬場の直ぐ下で北上川と合わさって、当に絵に
描いたような、絵に描いたような、美しき国でござりやんす」と、南部盛岡の
自慢であった如くである。

幕末ぎりぎりの時代に至って、「大和武士」という言葉が流行ったという。
徳川家の旗本や薩摩藩士、盛岡藩士という範疇ではなく、日本の武士という、
朝廷を中心とした国家の枠組みが意識し出された時代であったに違いない。
それでも、やはり横川省三には明治維新政府に朝敵の烙印を押されてしまった
南部盛岡藩出身の士族という自意識があって、薩摩の芋侍や議論倒れの長州人
どもよりも忠君愛国をより強く激しく体現することを無意識の内にも、
自らに課していたのかも知れない。

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で、アメリカ陸軍の日系人部隊であった
第442連隊戦闘団の兵士たちが、自分たちがアメリカ人であることを、
白人以上に証明しようと、米軍史上最強の部隊とまで称えられるほどに、
多大な犠牲を払いながらも勇猛果敢に戦った構図と似たものが、横川省三の
激しい生き様には感じられる。

横川省三は日露戦争後、勲5等を授けられ、明治40年(1907年)、靖国神社に合祀された。








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2013/07/22 20:23 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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