華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 従軍記者としての横川省三評 …海軍中佐小笠原長生述「横川省三君に就いて」

従軍記者としての横川省三評 …海軍中佐小笠原長生述「横川省三君に就いて」

従軍記者としての横川省三評 

…海軍中佐小笠原長生述「横川省三君に就いて」



★前稿「岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ…敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格」補遺★


海軍中佐小笠原長生述「日露戦争軍事談片」春陽堂 明治38年3月出版
「横川省三君に就いて」 於海軍省新聞記者集会室
                               (文責在詠山史純)


今回、ハルピンに於いて、銃殺の奇禍に遭いたる横川省三君のことについて、
少しお話を致しましょう。
私が同君に関し、この間もお話したことがあったが、到頭あの人は遣られて
しまった。
洵に残念に堪えません。


小笠原長生A


日清戦争の時、あの人は朝日新聞の従軍通信員として、初め「吉野」に乗って
いましたが、威海衛攻撃の時より「高千穂」に乗っていたのです。
私はその時も新聞社員の係をしていましたが、「高千穂」にはなお日日新聞の
佐伯君も乗っていて、横川君と二人でしたが、二人ともなかなか勉強家でした。
横川君は殊に、戦時通信員には適当の人でした。
戦いが始まると、櫓(マスト)のトップに乗って、仔細に戦況を視察していました。
それですから、いつも降りて来ると、煙の為に顔は真っ黒になって、
眼ばかりパチパチさせていましたから、皆が横川君はまた黒坊に成って来たと
よく言われましたが、その時の高千穂艦長は野村という人で、当時は大佐で、
後に少将成っていましたが、この人は非常の勇気があった人で、横川君も
この艦長の紹介に依って、水雷艇に乗る事に成りましたが、その時は「定遠」などを
沈めに行く時ですから、艇長などが拒んだのです。


横川省三 ポートレート


それは艇中にて邪魔にも成るし、また怪我をさしても成らぬからですが、
本人が請うて止まぬものですから、終に攻撃が終わってから後に乗せました。
その後、邪魔にも成るから、本艦に乗り換えを命じてもなかなか聞き入れ
なかったそうです。
しかし、水雷艇より本艦に帰って来た時は、非常に驚いていました。
端艇(ボート)に乗って、千島に行ったこともあるが、その時も随分酷いと
思ったが、とてもそんなものではない。
水雷艇には、実に驚きましたと語っておりました。


吉野
                       防護巡洋艦 吉野


それから、横川君は澎湖島より台湾にまで行きましたが、横川君には
その時分には一室を貸与しておりました。
先生(横川)随分肥満しておったものですから、非常な暑がりでした。
その室に行ってみると、片手に手拭を持ち、汗を拭き拭き、片手に筆を執って、
通信を書いていましたが、非常に勉強したものでした。
その後、拱北の砲台を取った時などは、上陸して真っ先に出掛けて行きました。
台湾に着いた時は、やはり高千穂に乗っていたが、陸軍に従がい、二三日ずつ
上陸していました。
その時も、いつも危険を冒して、真っ先に駆け出して行くのです。
その時一度、敵に追われて一目散に逃げ帰って来たが、田の中へ落ちて、
何処も彼処も泥だらけで、真っ黒になって来ましたが、その中で地図を
書いて来ているのです。
ここは自分の落ちた所だなどと語っていました。その図は今に朝日新聞社に
残っているでしょうが、良き記念物です。
実に横川君は軍事に於ける通信社の模範です。
こういう人でこそ、新聞記者の天職を尽くし得ることが出来るのである。
いつでも危険を冒して、戦闘の真っ先に立ち、仔細に視察して、綿密なる
通報をしようと勤めていたのです。


巡洋艦高千穂 排水量3709トン
                     防護巡洋艦 高千穂


当時の高千穂艦長野村大佐は非常な豪傑風な人で、日蓮が大好きでした。
私も日蓮のことについて読んだ書物がありますから、よく艦長の所へ行って、
その話をしました。
その時分、いつも艦長は横川君と佐伯君を室に招きました。
横川君も豪傑風の先生ですから、非常に艦長の気に入っていました。
野村艦長はいつも新聞通信員というものは、戦始まれば、真っ先に出て、
または艦橋などに登りて視察をせねばならぬと言われるものですから、
先生(横川)はまた一々艦長の言を尤もなりとして、これを実行したのです。
私は余り危険を冒してはいかんと注意しても、なかなか聞き入れませんでした。
そうして、艦長室ではいつもも艦長と英雄論が始まるのですが、英雄論と
来ると、横川君は艦長にでも一歩も譲らないのでした。
しかして、艦長は横川君の事を常に「達磨」「達磨」と言っていましたが、
用があると「達磨を呼べ」「達磨を呼べ」と言っていました。


水雷艇 霞
                       水雷艇 霞


私はその後、結婚しましたが、その時、日日(新聞)の佐伯君も来ましたが、
横川君も来て、非常に席を賑わしたことがありました。
それから私は、此処彼処と航海していましたから、
これが先生と最終の会見でした。

横川君は或る時、筆を以って世に立つ程、詰まらないことは無いと
語っていましたが、それより、筆を執って世に立つことを止めたのでしょう。
しかし、先生(横川)は満州の各地より種々の報告をせられて、大いに
国の為勤められたのですが、それらの通信の中にはなかなか趣味のある
ものが少なくないのです。

小笠原長生3

横1

横2


小笠原長生 慶応3年(1867年)-昭和33年(1958年)
肥前国唐津藩主家の生まれ。 江戸幕府老中小笠原長行の長男。
東郷平八郎元帥の側近。 最終階級海軍中将。



●岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ…敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2013/07/23 21:15 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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