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岩手陸軍飛行場からの特攻出撃…後藤野から出撃した九九式双発軽爆撃機3機

 2013-09-13
岩手陸軍飛行場からの特攻出撃

…後藤野から出撃した九九式双発軽爆撃機3機




昭和20年(1945年)の7月14日と8月9日、岩手県釜石市は2度に亘り、
アメリカ海軍第34.8.1任務隊所属の戦艦サウスダコタや重巡洋艦シカゴなど、
戦艦3隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻からの艦砲射撃で壊滅的な被害を被った。
長崎に原子爆弾が投下された8月9日の2度目の釜石艦砲射撃に至っては、
7月14日の作戦部隊であった第34.8.1任務隊に加え、イギリス海軍の軽巡洋艦
ニューファンドランド、ニュージーランド海軍の軽巡洋艦ガンビアや駆逐艦
3隻までもが作戦に参加していた。
この2度に亘る艦砲射撃で、アメリカ海軍だけでも16in1605発、8in2120発、
5in1621発、計5346発もの艦砲弾が釜石市内に撃ち込まれ、被災世帯4,543世帯、
被災人員16,992人、750余人もの死者を出すという、壊滅的な被害を被ったのである。






岩手県北上市和賀町後藤(当時は和賀郡藤根村)には嘗て、岩手県民が献納した
「献納飛行場」の「岩手陸軍飛行場」があった。
通称は「後藤野飛行場」で、「岩手愛国飛行場」とも呼ばれたという。

後藤野飛行場史跡整備委員会に依る碑文には、
「1937年(昭和12年)日中戦争が始まった7月、岩手県下の市町村長会議で
愛国機の献納と飛行場設置が決議され、当時の黒沢尻、花巻の二町と藤根、
江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の
11ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し、地権者から僅少価格で
用地を買収して、その実現を図った。
広さ120万坪(396ヘクタール」は、関東の熊谷飛行場(314ヘクタール)を
しのぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校
(現高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された青少年勤労報国団の
勤労奉仕によって、すべて人力によって行われた。
 翌年9月25日、秩父宮を迎えて献納式が行われ、岩手陸軍飛行場と
命名された。
起工式から竣工まで148日、延12万851人、総工費僅か8万7千円であった。
 当初は陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた
複葉練習機が飛び交ったが、1944年(昭和19年)本土が空襲を受けるように
なって俄かに実戦基地化され、『神鷲(かみわし)隊』という特攻隊が移駐し、
短期間の訓練の末、各地に配属されていった」とある。


見渡す限りの広大な原野であった後藤野は、802年の征夷大将軍坂上田村麻呂の
蝦夷征伐、1051年の前九年の役で、歴史的な合戦の舞台となった土地柄である。
17世紀には和賀川から上水し、大規模な開墾事業を行なった肥沃な大地である。
後藤野飛行場はその地形から、強風、積雪が多く、作戦用飛行場には適して
いないことから、当初は教育訓練用の飛行場として使用されていた。

昭和19年(1944年)、戦況が逼迫したことから、陸軍の飛行学校は改編され、
教導飛行師団が新たに編成されると、後藤野飛行場は作戦用飛行場として、
主に帝都防衛隊の特別攻撃隊「神鷲隊」が夜間飛行の訓練を行ない、次々と
前線の特攻出撃基地へと出陣して行った。
特攻隊員たちは北上や花巻に分宿し、出陣の日には地元の人々が鬼剣舞
(おにけんばい)を舞うなどして、心温かく見送って上げたという。


鬼剣舞A


8月9日の釜石攻撃は先ず、11時5分から機動部隊の艦載機に依る偵察飛行と
機銃掃射が開始され、艦砲射撃は12時47分から14時45分までの2時間に
亘って行われた。
この日は、後藤野飛行場もアメリカ海軍の艦載機に依る空襲を受けて、施設が
破壊され、隣接する民家に投下された爆弾で、横川目国民学校4年生(10歳)
の男子児童が犠牲となる悲劇も起きた。

この日の夕刻、神鷲隊255隊の九九式双発軽爆撃機3機が500kg爆弾を装備し、
後藤野飛行場を特攻出撃基地として、三陸沖に遊弋していると推測された
敵空母機動部隊攻撃の為に出撃して行った。
このことから、後藤野飛行場は「日本最北の特攻出撃基地」と言われる。

特攻出撃した九九式双発軽爆撃機は略称、「九九双軽」と呼ばれ、日中戦争から
太平洋戦争全般に亘って、広範囲に活躍した陸軍航空爆撃隊の名機であった。
昭和15年(1940年)に制式採用され、昭和17年(1942年)までに557機、
改良型が昭和19年(1944年)までに1411機、合計1968機が生産された。
開発当初は、戦闘機並みの高速性能と急降下も可能な運動性能を持つ優秀機で、
中国戦線では多大な戦果を挙げたが、太平洋戦争ではアメリカ軍戦闘機の進化
には対応出来ずに旧式化した機体は、機首に触発信管を装備した特攻機として、
多数が体当たり攻撃に投入された。
昭和19年(1944年)10月に、鉾田教導飛行師団で編成された日本陸軍航空隊
初の特別攻撃隊「万朶(ばんだ)隊」の装備機種も九九式双発軽爆撃機であった。

九九式双発軽爆撃機の搭乗員は本来、操縦士、前部爆撃手兼機銃手、後部機銃手、
下部機銃手の4名であるが、万朶隊の場合、3機で1編隊、4編隊で12名の
操縦士、編隊長機にのみ、通信員が搭乗したことからすると、後藤野飛行場
から特攻出撃した神鷲隊255隊の九九式双発軽爆撃機の搭乗員は操縦士だけの
各1名であったと考えられる。
陸地を目視しながらの陸上航法を前提とする陸軍航空隊は、海軍航空隊とは
違い、洋上航法は不得手なはずであったことからすれば、航法士の居ない状態
での夜間飛行では、洋上の空母機動部隊を発見することは、さぞかし至難の業
であったろうと思われる。


99式軽爆3

九九式双発軽爆撃機7

九九式双発軽爆撃機6


8月9日の夕刻、後藤野飛行場から出撃した神鷲隊255隊の特攻隊員は、
吉村公男中尉(22歳)、渡辺秀男少尉(22歳)、石井 博伍長(19歳)と、
3名の名が残されている。
出撃した3機の内、1機はエンジンの不調で進撃を断念、爆弾を北上川の中洲に
投下して、後藤野飛行場に無事帰還したとのこと。
進撃した2機は洋上の敵空母機動部隊を発見出来ずに追跡を断念、帰還途中に
燃料が切れてしまったのであろうか、1機は仙台湾に、もう1機は福島県原町に
墜落して、無念の戦死を遂げたという。
釜石に艦砲射撃を行なった第34.8.1任務隊も、艦載機を発進させた機動部隊も
昼間の攻撃を終えた後には、三陸沖遥か洋上に退避していたのであった。

後藤野飛行場への帰還を目指したものの、仙台湾と福島県原町の方向に針路
を取ってしまったということなのであろうが、未熟なパイロットが灯火管制下
の陸地に向かって、飛べただけでも大した腕前であったと思う。
昭和19年(1944年)の秋に開始された特攻作戦は、昭和20年(1945年)に
入ると、アメリカ艦隊の防禦が厚く、接近することさえ難しくなっていたことから、
夜陰に紛れて、超低空飛行で敵艦の舷側に突っ込む戦法が採られていたのである。
闇夜ではなく、せめて、明るい太陽の下で死なせてやりたかったものである。

神鷲隊の特攻隊員たちは本来であれば、後藤野飛行場から特攻出撃基地に
進出した上で、出撃する予定であったろうに、後藤野飛行場が釜石に近い
ことから、急遽出撃が下令されたものであったに違いない。
6日後に、8月15日の終戦を迎えるこの日に特攻出撃命令が下るとは、
何と無慈悲な定めであったことか。






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