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仙谷由人氏が政治介入の裏工作を証言 …2010年の尖閣沖中国漁船衝突事件

 2013-09-24
仙谷由人氏が政治介入の裏工作を証言 

      …2010年の尖閣沖中国漁船衝突事件



2010年9月、沖縄県尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁巡視船に体当たりした
衝突事件を巡って、案の定、公務執行妨害で逮捕した中国人船長の釈放に向け、
菅直人内閣が法務当局、検察当局に水面下で圧力を掛け、裏指揮権を発動して
いたことを当時、官房長官であった仙谷由人氏が時事通信のインタビューで
証言したとのこと。
(2013年9月19日 於東京都内)

那覇地方検察庁は当時、「国民への影響や、今後の日中関係も考慮した」として、
中国人船長の処分保留での釈放を弁明した。
菅直人首相は「犯人である中国人船長の釈放は、検察独自の判断である」との
大嘘を吐いていた。
柳田稔法相は検察への指揮権発動を否定していたが、実状は見事に裏指揮権を
発動していた訳である。


仙谷由人氏裏工作を証言


2010年
9月 7日 尖閣諸島沖で、海上保安庁巡視船に中国漁船が体当たり。
9月 8日 海上保安庁が公務執行妨害容疑で中国人船長を逮捕。
9月19日 石垣簡易裁判所が、中国人船長の勾留延長を決定。


菅直人首相は2010年11月に横浜で開催予定のアジア太平洋経済協力会議
(APEC)首脳会議に「中国が来ないとどうするのか」と焦りを募らせ、
「解決を急いでくれ」と中国人船長釈放の不当な処置を命じた。
仙谷由人官房長官が法務事務次官に対し、「政治的・外交的問題もあるので、
自主的に検察庁内部で中国人船長の身柄を釈放して貰いたい」と強要。


9月23日 中国政府のレアアース(希土類)輸出通関業務停止が判明。


中国人船長釈放決定に先立ち、法務当局、検察当局からの要請で、内閣官房は
外務省幹部を那覇地方検察庁に派遣し、日中関係に就いての説明を実施。


9月24日 準大手ゼネコンのフジタが、中国当局による社員4人拘束を公表。
     最高検察庁、福岡高等検察庁、那覇地方検察庁に依る協議を実施。
     那覇地方検察庁が処分保留で、中国人船長を釈放する意向を発表。
9月25日 中国人船長を釈放。帰国させる。
10月 4日 菅直人首相と中国の温家宝首相がブリュッセルで非公式会談実施。
11月13日 菅直人首相と胡錦濤国家主席が横浜市で会談実施。








司法の屈服 …現代の「大津事件」 (記事再掲)


昨年9月、沖縄県尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁巡視船に
衝突した事件から、1年が経過した。
逮捕後、政治的判断で釈放された中国人船長(42歳)は、「英雄」として迎えられ、
華々しく凱旋帰国した。
「中華民族英雄」だの、領海侵犯やら巡視船への体当たりは「道徳模範」と
称賛されて、愚かしくも有頂天になっていたという。



何のことはない、あのアル中の馬鹿面船長とやら、現在は中国福建省晋江で
地方政府の監視下に置かれ、出漁を禁止処分。
衝突した漁船は買い上げられ、事件以前には約1万元の収入があったというが、
月額3000元(約3万9000円)の埠頭での仕事を宛がわれ、飼い殺し同然の
不自由な生活を強いられているという。

「日本の巡視船が突然、方向を変えた所為で衝突した」だの、
「停船後に乗り込んで来た海上保安庁の職員に棒で右肩を殴られ、
左足を蹴られ、暴行を受けた」などと国際社会に対し、大法螺吹いて、
日本国を貶めた天道の報いは受けて貰わねばならない。

ストレスで煙草を1日4箱も吸う様になったと愚痴っているそうだが、
1箱何本入りか知らないが、40本だろうが、80本だろうが、どうぞどうぞ、
お好きなようにご勝手に♪という話である。
これが「中華民族英雄」とやらの実像とは、笑止千万であることよ!
不自由な監視下の鳥籠生活に不満があるのならば、酒を浴びるほど喰らって、
地方政府本庁舎にお得意の体当たりでも敢行してみたら良いのだ。



ところで、この公務執行妨害容疑で逮捕された中国漁船船長の
不可解な釈放は、那覇地検、福岡高検、最高検が協議の上、
「わが国国民への影響や日中関係も考慮する」との理由で
決定したということであった。

那覇地検鈴木享次席検事

那覇地検の鈴木亨次席検事は会見で「今後の日中関係を考慮した」と
述べ、「外交などに与える影響を、あくまで本件の諸事情の一つとして、
考慮したに過ぎない」「中国政府に配慮したことはない」と、
政治的圧力に屈したことに対する説得力のない弁明に終始した。
そもそも「粛々と国内法に則った対応」であれば、
検察に外交上の政治的判断は無縁のはずではないか。

官邸からの圧力の有無を問われると、鈴木亨次席検事は語気を強めて
「そんなことはない。検察当局として決めたこと」と即座に否定したが、
司法の歴史に汚点を残すほどに検察が泥を被って、一身に責任を負う形に
した検察当局の価値判断は、一向に理解出来ない。

聞くところに依れば、仙石官房長官(当時)が官邸の意思として、
指揮権発動が有り得ることを法務大臣経由で検事総長に仄めかし、
検察当局はその事態を避けたというが、それは100年の後までも
禍根を残す「司法の屈服」となったのだ。



三権分立の国是から言えば、検察は独立した立ち位置で
「粛々と国内法に則った対応」を堅持し、それを首相が中国の我攻めに
屈服するという弱腰の政治判断で覆したかったのであるから、
泥を被るべきは意思決定者であって、検察当局としては莞爾として、
指揮権を発動させるべきであったのだ。




この中国漁船長釈放問題の報道に接し、
明治時代の「大津事件」に於ける「護法の神様」大審院長児島惟謙
(こじま これかた・いけん)を連想した人は多かったのではないだろうか。

大津事件とは……
明治24(1891)年、ロシア皇帝アレクサンドル3世の長子で
あった皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
(後のニコライ2世=最後のロシア皇帝)がロシア海軍艦隊を率い、
シベリア鉄道建設委員長として、ウラジオストックでの
極東地区起工式典に向かう途中、日本を訪問した。



そのロシア皇太子ニコライが、京都から琵琶湖への日帰り観光を
楽しみ、宿舎の京都・常磐ホテルへの帰り道、琵琶湖湖畔の大津で、
警備(護衛)の一巡査津田三蔵に人力車越しに頭部を切り付けられ、
軽傷を負う事件が起きた。

津田巡査は当時、日本に広く蔓延していたという「恐露(きょうろ)病」
に取り憑かれていて、ニコライが日本侵略の目的を以って、その軍事視察
の為に来日したと固く信じ、凶行に及んだとされている。

本人の供述によれば、以前から北方諸島などに関して、
ロシアの強硬な極東進出策を快く思っていなかったという。

また、津田三蔵は西南戦争で勲章を授与されていたが当時、
自刃したはずの西郷隆盛が、実はロシアに逃げ延び、ニコライと
共に帰国するという噂が実しやかに囁かれていたそうで、
もし西郷が帰還すれば、自分の勲位も剥奪されるのではないかと
危惧していたという説もある。



但し、ニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の
取り調べで、「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」
と武士らしい供述していたという記録もある。

「恐露病」と揶揄(やゆ)されたほどの松方正義首相ら、時の政府首脳は
賠償金や領土の割譲まで要求してくるのではないかとロシアの報復を恐れ、
津田巡査を即座に極刑に処すことを望んだのだ。
しかし、津田巡査の罪過は謀殺未遂罪で、当時の刑法では、殺人未遂の
最高刑は「無期徒刑(ずけい・とけい=旧刑法で、重罪人を島に送って
労役に服させた刑)」であったから、死刑には出来なかった。

そこで、政府首脳は外国皇太子に対する傷害事件を「皇室に対する罪」に
匹敵するものとして、旧刑法116条皇室罪の適用を主張し、極刑に
処すことを司法当局(大審院)に求めたのだ。


旧刑法 第3編 身体財産ニ対スル重罪軽罪
 第9章 未遂犯罪
第112条
 罪ヲ犯サントシテ已(すで)ニ其事ヲ行フト雖(いえど)モ
犯人意外ノ障礙(しょうがい)若クハ舛錯(せんさく=物事が反対に
なって乱れるさま)ニ因リ未タ遂ケサル時ハ已ニ遂ケタル者ノ刑ニ
1等又ハ2等ヲ減ス

第1章 皇室ニ對スル罪
第116条
天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス

※三后(さんこう)とは、
「太皇太后」(たいこうたいごう=先々代の天皇の皇后)、
「皇太后」(こうたいごう=前天皇の皇后、また前天皇の皇后で、
現天皇の生母、皇太后宮《おおきさき》)、
「皇后」(こうごう=天皇・皇帝の正妻。きさき)のこと。
三宮(さんぐう)ともいう。

政府首脳は、本来、日本の皇室にしか適用されなかった「皇室に対する罪」を
類推適用(類似性を理由として法を適用する。ある事項について法律が
規定していることを、規定のない類似の事項にあてはめて解釈すること。
近代刑法では国民の基本的人権擁護の観点から禁止されている)して、
津田巡査を極刑(死刑)にすべしと、司法当局(大審院)に迫ったのだった。



児島惟謙(当時、52歳)が大審院長(いまの最高裁長官)に就任した
6日後の1891(明治24)年5月11日に、この「大津事件」が起きた
のである。
児島は宇和島藩家老視宍戸家の臣金子惟彬の二男として、
天保8年に生まれ、文武に優れ、幕末文久から慶応年間には諸国を
往来奔走し、長崎で坂本龍馬や五代友厚とも交わった勤皇の志士上がり
であった。


当時は大日本帝国憲法(明治憲法)が前年に実施されたばかりであった。
この帝国憲法には「司法権の独立」が保障してあり、また明文を以って、
臣民の権利を保障して、
「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非ズシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」
と規定してある。
また刑法第2条には
「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ズ」
との明文があるのである。


児島は「三権分立の理念」を説き、明治政府側の非立憲的発想に依る
皇室罪の適用は帝国憲法を損ない、裁判史に汚点を残すと考えたのだ。

法で裁くという信念から、「法の尊厳と裁判の独立」の堅持こそが、
「国家の自主性を確保する道」であるとして、法の拡張解釈に反対し、
外国皇太子に対する傷害事件には皇室罪でなく、謀殺罪を適用すべきだと
司法当局を纏め、果敢に政治介入を排除して、津田巡査に謀殺未遂罪に
依る無期徒刑を宣告させ、終に「司法権の独立」を守り通したのだった。

このことに依り、児島は、「護法の神様」「護法の巨人」と称えられ、
我が国の司法史上に不滅の光を放っているのだ。

児島惟謙250

実はこの時、司法当局が児島の見解で統一されていた訳ではない。

被告人である津田巡査は「皇室に対する罪(大逆罪)」に依り、
「大津地方裁判所」に起訴され、本来、地裁で開かれるべき裁判で
あったが、松方正義首相ら政府首脳が「皇室に対する罪」の適用を
強く主張して、圧力を掛けたことから、皇室罪に関する裁判は総べて
大審院に於ける一審に於いて判決が下される規定があったので、
適用可否判断を含めて、地方裁判所ではなく、大審院(大審院に依る
一審で終審の裁判。尚、地裁で大審院が開かれたのは、これが最初に
して最後である)に持ち込まれることになったという経緯がある。

大津事件を告発した大審院検事総長の三好退蔵は、児島とは反対に
「皇室に対する罪」に依り、死刑に処すべきものと論告求刑した。

これに対して、児島は津田巡査の行為は「皇室に対する罪」の
構成要件に該当しないとの信念の下、事件の審理を担当する堤裁判長以下、
判事一人ひとりを政府の圧力に屈することのないようにと説得したのだ。

その結果、大審院は事件から16日後の5月27日、一般人に対する
謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用して、無期徒刑(無期懲役)の判決を
下したのである。


※但し、権力の所在や運用が未熟・未分化であった時代を象徴した事件
であったが故に、大津地裁で扱われるべき事件を正常な手続き無しで
大審院に移管したり、裁判に直接関わっていなかった児島が判決直前に
裁判官を呼び出して翻意させるなど、干渉を重ねたことは審理に当たる
裁判官の判断の独立性を侵した問題として残ったと言える。
しかし、司法当局が政府の圧力をはねのけた事実は司法史上、
大きな意義を持っているのだ。


この事件判決で、大審院が司法の独立を達成したことに依り、
曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まり、世論から高く
評価された。

また海外でも大きく報じられ、児島は司法権の独立の維持に貢献し、
「護法の神様」と国際的に日本の司法権に対する信頼を高めたという。

大国ロシアの対日感情に悪影響を与えることが憂慮されたこの判決で
あったが、しかし、当時の欧米列強からも日本の近代化の進展振りを
示すものという高い評価を受け、国際的には日本の司法権、延いては
近代国家としての評価を高め、治外法権の撤廃を目指す明治政府の
不平等条約改正交渉にとって、大いにプラス材料となったという。

つまり、事なかれ主義で原則を曲げようとする政府に抗して、
司法の独立を貫こうとした児島の活躍によって、日本が近代国家
として世界に認められるようになった次第である。

大津事件 サーベル400

それにしても、当時の我が国に於ける「恐露病」の深刻さには、
現代の我々の想像を遥かに超えるものがある。
小国であった我が国が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、
「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が
走ったという。
学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、
皇太子平癒の祈祷が行われたという。
ニコライの元に届けられた見舞いの電報は1万通を超え、
山形県金山村(現・金山町)では、「津田」の姓及び「三蔵」
の命名を禁じるという、愚かしい条例を決議したという。

ロシア側に誠意を見せる為に、明治天皇の京都への緊急行幸を
要請し、負傷したロシア皇太子を慰問の上、謝罪。
天皇が拉致されるとの懸念があったにも拘わらず、ロシア側の招き
に応じ、敢えてロシア艦内に赴いたほどの異例の措置を採ったのだ。

また、天皇が謝罪したにも拘わらず、ニコライが東京訪問を中止し、
神戸から艦隊を率いてウラジオストックへ向かうと、死を以って詫びる
として、京都府庁前で剃刀で喉を突いて自害し、後に「房州の烈女」
と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現したというのだ。


この事件に対する政治的な圧力が如何に強大なものであったかを
推量するに足る事例を挙げてみる。

結果的には、賠償要求も武力報復も行われなかったが、ロシア皇帝
アレクサンドル3世は、暗に死刑を求めていた。

ロシア公使シェービッチは以前から日本に対して、恫喝的な態度を度々
取っており、この事件に関しても事件の対処に当たった青木周蔵外務大臣、
西郷従道内務大臣達に死刑を強硬に要求し、無期徒刑が決定したことを
知らせると「いかなる事態になるか判らない」旨の恫喝発言をしている。

青木外相が事件発生直後、駐日ロシア当局に、津田は死刑に処せられる
はずであるという言質(実は伊藤博文の意向)を与えていたという。

伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、「戒厳令」を発してでも
断行すべきであると主張したという。

松方正義首相、山田顕義法務大臣らが死刑適用に奔走した。

副島種臣は、「法律もし三蔵を殺すこと能わずんば、種臣彼を殺さん」
と語ったという。

逓信大臣の後藤象二郎などは「津田を拉致し拳銃で射殺することが
善後策になる」と語ったという。


幕末に活躍した勤皇の志士の内、一流の人物達は幕末の動乱、
萩の乱や西南戦争など明治初期の段階でこの世を去り、生き残った
二流三流の人物達が明治の顕官として、栄耀栄華に浴したのだから、
このような体たらくであった訳である。

津田三蔵は、事件から4ヶ月後の同年9月29日、北海道釧路監獄で
絶食、肺炎にて病没したとされる。享年38歳
しかし、死因に不審な点があることから、政府に依る謀殺説がある。

大日本帝国憲法(明治)下に於いては、司法行政(裁判官の)監督権が
司法大臣にあった(旧裁判所構成法135条)為に、政治権力(内閣)に
依る裁判官に対する統制(監督)が可能で、裁判官の職権の独立を
脅かしていたのだ。



これに対して日本国憲法下においては、行政機関には司法行政監督権が
与えられておらず、また行政機関は裁判官の懲戒処分を行うことも
出来ない(憲法78条)ので、法制上は、政治権力(行政機関)による司法
への干渉の危険性が無くなっていると言える。

但し、内閣(総理大臣)に最高裁の裁判官指名(任命)権が与えられており、
(憲法6条・裁判所法39条)、実際、時の政治権力(内閣)に依って、
最高裁の裁判官が選ばれ、その最高裁による下級裁判所の裁判官統制が
可能ではあるのだが…。


中国漁船船長の釈放問題は、国家意思として、国益と法との関係を
どのように考えるべきかを問われた、重大な問題であったのだ。
司法当局は取り返しの付かない誤った選択をしてしまったと言える。
大津事件の裁判で我が国が得た「司法の独立」を拙速に覆した
「司法の屈服」は、国家の自殺的行為である。
我が国は中国漁船船長釈放以前、「法治国家」であったはずであるが、
それ以後は中国同様に「人治国家」に転落してしまったのである。

因みに、尖閣諸島周辺では8月24日、中国の漁業監視船2隻が日本の領海を侵犯した。







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