華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 捕虜虐待という戦争犯罪の概念…アンダーソンヴィル裁判からBC級戦犯裁判へ

捕虜虐待という戦争犯罪の概念…アンダーソンヴィル裁判からBC級戦犯裁判へ

捕虜虐待という戦争犯罪の概念

…アンダーソンヴィル裁判からBC級戦犯裁判へ



昭和20年(1945年)8月14日午後11時、大日本帝国はポツダム宣言受諾を
連合国に通達し、事実上の無条件降伏をした。
厳密に言えば、大日本帝国陸海軍の無条件降伏であって、大日本帝国自体の
無条件降伏ではないのであるが。

ポツダム宣言の第10項に、「われわれは、日本を人種として奴隷化するつもり
もなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を
虐待した者を含めて、すべての戦争犯罪人に対しては、厳重な処罰を加える
ものである。……」とある。

(10)we do not intend that the japanese shall be enslaved as a race or
destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war
criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners.

終戦後、敗戦国日本はこのポツダム宣言10項に依拠する戦犯裁判で、5,000人
を超える旧日本軍将兵が裁かれ、国内外で獄中死も含み、1,068人が落命した。
特に捕虜収容所勤務者は、死刑を含む重罪に処せられた。



痩せさらばえた北軍兵士1 1863年撮影、1864年公表


痩せさらばえた北軍兵士2 1863年撮影、1864年公表

ワーズ裁判1
ワーズ裁判(映画の1シーン)

ワーズ裁判2
ワーズ裁判(映画の1シーン)

ワーズ裁判4
ワーズ裁判(映画の1シーン)


極東国際軍事裁判所条例に於ける、A級B級C級戦争犯罪という戦争犯罪類型
は、単なる分類であって、戦争犯罪の軽重を意味している訳ではない。

A級戦争犯罪とは、「平和に対する罪」(Crimes against Peace) であり、
東京の極東国際軍事裁判所(市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂)で審理された。
B級戦争犯罪とは、「通例の戦争犯罪」( Conventional War Crimes) であり、
戦時国際法に於ける交戦法規違反行為を意味し、戦場地域の各国に於いて、
審理された。
C級戦争犯罪とは、「人道に対する罪」( Crimes against Humanity) であり、
日本に対しては殆ど適用されなかったとは言え、現実には、「捕虜虐待の指揮、
監督当たった士官など」をB級、そして、「直接捕虜を取り扱い、虐待の命令を
具体的に実行した、主に下士官、兵士、軍属」がC級として、処断された。


Henry Wirz3
南軍アンダーソンヴィル捕虜収容所所長 ヘンリー・ワーズ大尉


ワーズ裁判


ワーズ裁判


現代の日本人は、戦争を倫理的判断から絶対的な罪悪と捉え、法律論より
道義論に走る傾向が強いが、国際法上、戦争自体は合法的な行為であり、
違法行為ではない。

「侵略戦争は犯罪である」との見解があるが、「侵略戦争」は「aggressive war」
の和訳で、本来は「先制攻撃」程度のニュアンスでしかない。
平成7年(1995年)8月15日に大日本帝国の植民地支配と侵略を謝罪する
「村山談話」を発表した村山富市元首相は「武力で敵国に乗り込めば、それが
侵略」と述べたが、実は侵略戦争の定義は国際的にも明確に定まってはいない。
国際法に於いては、「aggressive war」は犯罪とはならないのである。
そうであるからこそ、国際軍事裁判所条例(1945年8月8日、英米仏ソ4ヶ国
がロンドンで調印した、ニュルンベルク裁判及び、東京裁判の基本法)以前に
は存在しなかった「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい犯罪
規定の事後法が適用されたのである。

戦争犯罪とは言え、戦争自体は国際法上、合法的行為であることから、
戦場で展開された戦闘行為を犯罪と見做すものではない。
連合国が特に拘ったのは、ポツダム宣言の第10項に「捕虜を虐待した者」云々
とあるように、捕虜への暴行や食事、医療の不充分な処遇であって、多くの
旧日本軍将兵がB級、C級戦争犯罪人として、裁かれたのである。
食事に沢庵を出したケースでは、捕虜に腐った物を食わせたと死刑に処され、
ゴボウを出したケースでは、木の根っこを食わせたと死刑に処され、神経痛の
捕虜に好意でお灸を据えてやったケースでは、火責めの拷問に掛けたと死刑に
処され…と極めて理不尽な理由で処刑されているのである。

アメリカ映画には「第17捕虜収容所」(1953)や「戦場にかける橋」 (1957)、
「大脱走」 (1963)、「勝利への脱出」(1981)、「ジャスティス」 (2002)等々、
捕虜収容所を扱った名作が数多いが、日本人には理解し難いほど、捕虜の待遇
には強い拘りを持っているようである。
尤も、イラクのアブグレイブ刑務所に於ける捕虜虐待事件では、BC級戦犯裁判
であれば、死刑に処されていたはずの罪状でも禁固刑で済まされているように、
自国の軍隊の捕虜虐待体質に対しては追求が甚だ甘い。
そう言えば、昨年の暮れ、アンジェリーナ・ジョリーの監督で、日本軍に依る
捕虜虐待を描く小説「Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience,
and Redemption」が映画化されるという報道があったが、どうなったことやら。


アンダーソンビル収容所7
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所1
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所5
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所4
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所2
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州

アンダーソンビル収容所3
南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所 ジョージア州


戦後に捕虜虐待の責任者を追求するという裁判の雛形は、アメリカ合衆国の
南北戦争(American Civil War 1861年~1865年)の戦後処理にあった。
南北戦争の終結後、旧南軍(アメリカ連合国軍)の捕虜収容所に於ける、
北軍(アメリカ合衆国軍)捕虜への虐待行為に就いて、軍事法廷が開かれた。
その結果、ジョージア州のアンダーソンビル(Andersonville)捕虜収容所の
所長であったヘンリー・ワーズ(Henry Wirz)大尉が絞首刑に処せられた。
620,000人もの死者を出した大戦争で戦争犯罪を問われ、死刑に処せられた
唯一の人物が捕虜収容所勤務者であったのである。

南北戦争に於ける捕虜収容所の環境は南軍北軍を問わず、悲惨であったという。
開戦当初、リンカーン大統領は、捕虜の交換は南部連合を政府として公認する
ことを意味するとして、捕虜の交換を拒否していたが、特にヴァージニア戦線で
大勢の北軍兵士が南軍の捕虜となる事態を迎えるに至り、捕虜交換を諒承した。
1862年7月、北軍ジョン・ディックス(John Dix)将軍と南軍ダニエル・ヒル
(Daniel Hill)将軍間の交渉で、全ての捕虜は原則10日以内に交換、若しくは
従軍しないことを条件に仮釈放すること、階級に応じた交換比率が決められた。
しかし、1863年に北軍が黒人兵を投入、南軍は拘束した黒人兵を捕虜として
認めなかったことから、この協定は機能しなくなった。
1864年3月に北軍の総司令官に就いたユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)
将軍が従来の捕虜政策を転換させ、捕虜交換を停止させたことから、両軍共に
捕虜収容施設の整備に苦慮することとなった。

1864年2月、ジョージア州アンダーソンヴィルに急造された捕虜収容所サムター砦
(Fort Sumter)は収容定員8,000人に対し、最盛期の同年8月には32,000人
が収容され、1865年3月に閉鎖されるまでの14ヶ月で延べ45,000人の捕虜
が収容された。
45,000人の内、13,000人が死亡し、29%の死亡率であった。
南北戦争全期を通して、捕虜収容所での死亡は、北軍兵士捕虜211,400人の
内、30,208人(14%)、南軍兵士捕虜462,000人の内、25,976人(6%)である
ことからして、アンダーソンヴィル捕虜収容所の29%の死亡率は異様に高かった。


キャンプダグラス
北軍のダグラス捕虜収容所 イリノイ州シカゴ 

キャンプチェイス1
北軍のチェイス捕虜収容所 オハイオ州コロンバス

キャンプチェイス
北軍のチェイス捕虜収容所 オハイオ州コロンバス

キャンプチェイス3
北軍のチェイス捕虜収容所 オハイオ州コロンバス


戦争の長期化で食料や衣料、医薬品が極端に不足し、アンダーソンヴィル捕虜
収容所では医療も施せず、深刻な過密状態の収容スペースは極めて劣悪な衛生
環境状態で、飲料水の不足、赤痢などの伝染病の発生にも苦しめられたという。
収容所から脱走した北軍兵士の証言で、その劣悪な環境は新聞でも報じられ、
解放以前からアンダーソンヴィル捕虜収容所の悪名は高かった。

1963年に捕虜交換で帰還した北軍兵士の痩せさらばえた姿を写した写真8枚が
1964年に公開され、その余りの悲惨さに衝撃を受けた北部人は南軍への憎悪を
滾らせ、連邦議会では虐待した者を絞首刑にするとの決議をした。
これらの写真の被写体は「生ける屍(living corpse)」と称され、
ニューヨーク・タイムズ紙やハーバーズ・ウイークリー紙などに掲載され、
収容所内での捕虜虐待の証拠写真になった。
これらの写真を、アンダーソンヴィル捕虜収容所の解放後に撮影されたとする
記事があるが、アンダーソンヴィル捕虜収容所の開設は1864年2月で、1865年
3月に閉鎖されていることから、当該写真の北軍捕虜は別の収容所に居たはずである。

戦後、アンダーソンヴィル捕虜収容所の責任者であったヘンリー・ワーズ大尉
(1823年-1865年)は逮捕され、1865年8月23日から10月18日までの裁判で
絞首刑が宣告され、11月10日に執行された。
捕虜の殺害と虐待を訴因とする裁判であったが、死刑執行後11日を経て、
証人の偽証が明らかになるなど、初めに有罪の結論有りきの杜撰な審議で
あったようである。
この軍事法廷の開廷4ヶ月前、1965年4月14日にリンカーン大統領暗殺事件
が起きていたことも、ワーズ大尉にとっての不運であったと言える。
軍事法廷での絞首刑宣告後、ワーズ大尉は北軍から「全ての罪を認めろ。
アメリカ連合国大統領のジェファーソン・デイヴィス (1808年-1889年)の
命令であったと供述すれば、罪を許す」との司法取引を持ち掛けられたが、
「そんな嘘は吐けない」と拒否し、従容と処刑台の階段を上ったという。

因みに、1865年は日本では元治2年で、慶応に改元された年である。
徳川家茂が長州再征を上奏、薩摩の西郷吉之助が流罪から帰藩、長州で正義派
のクーデターが成功、坂本龍馬と中岡慎太郎が薩長連合に奔走、土佐勤皇党の
武市半平太や岡田以蔵などが刑死、そんな時代であった。

ワーズ処刑8

ワーズ処刑6

ワーズ処刑2

ワーズ処刑3









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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2013/10/02 12:06 | 歴史随想COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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