法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか①……「正しい教えの白い蓮の花」とやら

法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか①

……「正しい教えの白い蓮の花」とやら



浄土宗や浄土真宗など、浄土系教団の所依の経典は無量寿経(大経)、観無量寿経(観経)、
阿弥陀経(小経)の浄土三部経である。
浄土宗の開祖である法然房源空(1133年-1212年)は、シナ浄土教の善導(613年-681年)
撰述の観無量寿経疏(観経疏)に説かれた「一心専念弥陀名号」に基づき、
阿弥陀如来に縋り、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽往生出来るとして、
他力本願の易行道、専修念仏を説いた。

「南無阿弥陀仏」との念仏は、「阿弥陀仏に帰依します」との意味である。
阿弥陀を大乗仏教の「如来」だの、「仏」だのと言うも、所詮はヒンドゥーの「神」
アミターバ(Amitābha)である。
「アミターバに帰依します」という意味の「namo- Amitābha」「ナーモ アミターバ」を
音写して、「なむあみだぶつ」と唱えている。
「ナーモ アミターバ」の音写が「なむあみだぶつ」とは、随分と訛っている訳であるが、
更に訛りに訛って、「なんまいだ」や「なんまいだぶ」と唱える人もいる。
日本語を脳内言語に変換し、ものを考えている日本人であるならば、本来は素直に、
日本語で「アミターバに帰依します」と唱えれば良いのである。

「南無阿弥陀仏」という唱え言葉は、サンスクリット語の「ナーモ アミターバ」の音写に過ぎず、
「南」「無」「阿」「弥」「陀」の各文字は表音漢字であり、文字自体に意味は無い。これこれ


祈りの姿3A


天台宗や日蓮宗、日蓮系諸教団の所依の経典は、シナの天台大師智顗(ちぎ)
(538年-597年)の教説に従がい、本経としての「法華経」、開経としての
「無量義経」、結経としての「観普賢経」の法華三部経である。

「法華経」は、大乗仏教経典「saddharma-pundariika-suutra(サッダルマ・プンダリーカ
・スートラ)」漢訳の「総称」であり、また、鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」の略称でもあって、
正式な経典名ではない。
法華経完訳は6種類あったというが、現存するのは3種類のみで、三存三欠
(六訳三存)と言われる。
それぞれの経典名は、
①「法華三昧経」(欠)六巻 正無畏訳 ②「薩芸芬陀利経」(欠)六巻 竺法護訳
③「正法華経」十巻 竺法護訳     ④「方等法華経」(欠)五巻 支道林訳
⑤「妙法蓮華経」八巻 鳩摩羅什訳   ⑥「添品法華経」七巻 闍那崛多・
達磨笈多共訳で、日蓮が宣揚したところの法華経は、鳩摩羅什(クマー ラジーヴァ)訳
「妙法蓮華経」である。

日蓮(1222年-1282年)は天台宗の法華経信仰を前提として、浄土教に於ける
易行としての専修念仏同様に、法華経の題目「南無妙法蓮華経」をひたすら
唱える「唱題(しょうだい)」を「正行(しょうぎょう)」として選択し、
他の法華経読誦などは補助的手段としての「助行(じょぎょう)」としたのである。

鳩摩羅什(350年?-409年?)は、「saddharma-pundariika-suutra」を意訳して、
法華経の表題を「妙法蓮華経」と漢訳した。
その「妙法蓮華経」に「帰依する」という意味の「namo(ナーモ)」の音写「南無」を冠して、
「南無妙法蓮華経(namo- saddharma-pundariika-suutra)」という。
日蓮の教説は煎じ詰めれば、「法華経の表題を唱えれば、即身成仏出来る」と
いうものである。

日本の仏教徒は怠慢極まりないことに、仏教伝来の飛鳥時代552年(538年説有り)以来、
仏教経典の読誦「読経」は、シナの訳経僧達がパーリ語やサンスクリット語の仏教経典を
漢訳つまり「意訳」したものを、そのまま日本語的に音読みしているのである。
真言宗や禅宗などで例外的に、漢音や宋音の発音が用いられるものの、仏教経典の読誦は
呉音の発音で行なわれるのが殆どである。
従がって、読誦される経文の音韻に意味は無い。これこれ

法華経のサンスクリット語原典「saddharma-pundariika(サッダルマ・プンダリーカ)」は、
「正しい教えの白い蓮の花」という意味である。
好意的に意訳すれば、「白い蓮の花のような正しい教え」になろうか。
仏教経典では、蓮の花を「蓮華(れんげ)」と美称するが、「pundariika(プンダリーカ)」は、
蓮の花全部を一括りにした命名ではなく、飽くまでも「白い蓮の花」を指す。
赤い蓮の花はパドマと呼び、青い蓮の花はウトパラと呼ぶように、色の違いで
別の名前を冠するほどに、インド人は蓮の花に敏感な感性を持っている。

蓮の花は花弁が開くと同時に、その花弁の中から種子が落ちるという。
花が開くという「結果」と、種子が土中に埋まり、新しい蓮の花を咲かせるという
「原因」の同時性から、「因果倶時」という概念に通じる例示に相応しいとして、
大乗仏教経典、特に法華経では尊ばれるが、それが第一の理由であるならば、
何も白い蓮の花でなくても良い訳である。
仏教に限らず、古代インドに於けるヴェーダやヒンドゥー教に於いても、
蓮の花には宗教的な意味が籠められ、象徴的に愛用されている。
要するに早い話が、インド人は古代から蓮の花が好きなのである。

泥水の中から生じながらも、清浄な美しい花を咲かせる姿に、仏陀の尊厳を
象徴させたり、仏道修行に於いて、菩薩が上に向かっては自ら菩提を求めて修行し、
下に向かっては、泥中に生きる存在である衆生を悟りへと化導して行くという
「上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)」の象徴とする穿った意義付けも、
結局は後付けに過ぎない。


祈りの姿3B


日本語を脳内言語に変換し、ものを考えている日本人であるならば、
「namo- saddharma-pundariika-suutra」を「なんみょうほうれんげきょう」ではなく、
「白い蓮の花のような正しい教えに帰依します」、もしくは「白い蓮の花のような
正しい法に帰依します」と唱えれば良いのである。
「saddharma-pundariika-suutra」を意訳した漢訳を、日本語的に呉音で発音して
いるのであるから、「みょうほうれんげきょう」の音韻に意味は無い。これこれ

「南無」を延山系では「なむ」、石山系では「なん」と発音するが、何れにせよ、
「namo(ナーモ)」の音写で、「無」を「む」と発音することに拘る必要がある訳も無く、
どちらも訛りに訛っていることに変わりは無いのであるから、どうでも良いことである。
尤も、石山系でも勤行の際の引き題目では、「な~む~」と発音する。

題目を唱えることを唱題と言うが、一時間の唱題で「なんみょうほうれんげきょう」を
3000遍程唱えることになろうか。
「なんみょうほうれんげきょう」と唱えていれば、何やら深遠な祈り言葉のようで、
有り難く感じるかも知れないが、「白い蓮の花のような正しい教えに帰依します」
「白い蓮の花のような正しい法に帰依します」と、毎日、毎日、一時間も二時間も
繰り返し、繰り返し、唱え続けていたら、幾ら何でも虚しくなって来る。
0050 (2)
正行である唱題でこの有様であるが、助行としての妙法蓮華経第二方便品(ほうべんぼん)、
第十六如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)読誦も、サンスクリット語の原典を漢訳、
つまり「意訳」したものを、そのまま日本語的に呉音で音読みしているので、物語の意味を
充分に認識していないが、読経に於いても和訳した文章を唱えたならば、一層虚しくなって来る。
0050 (2)
自我得仏来(じがとくぶつらい)所経諸劫数(しょきょうしょこっしゅ)
無量百千万(むりょうひゃくせんまん)憶載阿僧祇(おくさいあそぎ)
常説法教化(じょうせつぽうきょうけ)無数億衆生(むしゅおくしゅじょう)
令入於仏道(りょうにゅうおぶつどう)爾来無量劫(にらいむりょうこう)
と漢訳を日本語的に呉音で音読みするのではなく、和訳して、
「私が仏になってからというもの、数えきれないほどの永い永い歳月が経っている。
ずっと遠い昔より仏として法を説いて来た。そして無数億の数え切れないほどの
沢山の者を教化して仏道に入らしめた。そして、その時以来、無量劫である」と
日本語で読誦すれば、自分が何を唱えているか明瞭になるであろう。

そうすれば、一所懸命に何事かを祈っている積もりでいたが、そこには祈り言葉が
一つも無いことに気が付くのである。
0050 (2)
「白い蓮の花のような正しい教えに帰依します」という唱え言葉は祈り言葉ではなく、
自分の「信仰心の表明」であり、「宣誓の言葉」に過ぎないことに気が付くのである。
0050 (2)


仏教にせよ、キリスト教、イスラム教にせよ、半ば狂気の宗教的天才が創始した創唱宗教で、
後代の天才的な宗教詐欺師どもがその教義を肥大化させつつ、継承している虚構の体系に過ぎない。
時空を超えてまで、壮大な法螺話の呪縛に己の尊い人生を委ねることはない。
創唱宗教を信奉するなんぞ、止めておいた方が良い。



祈りの姿5S






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