法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか③ ……日蓮門徒に「祈り」の言葉はあるのか?

法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか③

……日蓮門徒に「祈り」の言葉はあるのか?



大和言葉の「いのる」の「い」は「斎」であり、「のる」は「宣り言(のりごと)
=祝詞(のりと)」「宣り聞かせる言葉」の「宣(の)る」である。
また、「いのる」は「意乗る」でもあり、「意」を言葉に「乗せて」、神々に
お伝えする意味がある。
誠の心から湧き出ずる、清く明るく温かく素直な言葉を発することに依って、
その言葉の霊力、すなわち「言霊(ことだま)」が発動し、捧げた祈りが
現実化して、願いが成就するという言霊への信仰が「祈り」の根底にある。
つまり、祈りはその内容を言葉にして、口に出すことが肝要と言える。
高度難聴の方は発語出来なくても、無音の脳内言語を捧げれば、良いのである。

当然のことながら、ご神前に捧げる祈りの言葉は神々への語り掛けであり、
個人個人の創意工夫は自由であるが、定型文としての祝詞は現代でも平安時代
中期に選進された「延喜式」巻第八「祝詞」に収められている27篇が規範と
なっている。
神道には、罪や穢れ(けがれ)を清める「禊祓え」(みそぎはらえ)の思想があり、
神徒の捧げる日々の祈りは、祓い清めて頂く為に唱える「祓詞」(はらえことば)と、
祈願目的でご神前に奏上する祝詞の二種に大別することが出来る。
神徒がご神前で唱える「祓詞」(はらえことば)には、「延喜式祝詞」の中の
「大祓詞(おおはらえのことば)」があり、また、復古神道(古道)の大成者である
平田篤胤が、神祇伯(律令制の神祇官の長官)白川家や伊勢神宮、その他の神社や
神道諸派に伝えられる祝詞を再編し、文化12年(1815年)、その著書「大祓太詔刀考」に
発表した「天津祝詞(あまつのりと)」がある。
因みに、この「天津祝詞」の作成経緯に就いては、中世以来の「美曾岐祓
(みそぎはらえ)」四篇を編修し、一篇に纏めたという説もある。
神社本庁では「天津祝詞」を正式採用してはいないが、「天津祝詞」を簡略化
した「祓詞(はらえのことば)」「略拝詞(りゃくはいし)」を制定している。

「略拝詞」(りゃくはいし)
『祓へ(はらえ)給へ(たまえ) 清め給へ』或いは、『祓え給へ 清め給へ 
守り給へ 幸栄え(さきはえ)給へ』 (文責在詠山史純)

自宅などの神棚のご神前で唱える、祈願祝詞には「神棚拝詞」がある。
『此の神床(かむどこ)に坐(ま)す 掛けまくも畏(かしこ)き 
 天照大御神等(あまてらすおおみかみたち)
 産土大神等(うぶすなのおおかみたち)の大前(おおまえ)を
 拝(をろが)み奉(まつ)りて 畏(かしこ)み畏みも 申(もう)さく
 大神等(おおかみたち)の広き厚き御恵(みめぐみ)を
 辱(かたじけな)み奉(まつ)り 高き尊き神教(おしへ)のまにまに 
 直(なお)き正しき真心もちて 誠の道に違(たが)うことなく 
 負(お)ひ持つ業(わざ)に励ましめ給ひ
 家門(いえかど)高く 身健(みすこやか)に 世のため 人のために
 尽くさしめ給へと畏(かしこ)み畏みも 申(まを)す』(文責在詠山史純)

このように、祝詞は「やまと言葉」を用い、ご神前で語り掛けるように奏上する
「祈りの言葉」であり、神徒は日本語で祈りを捧げている。


古代出雲大社3


キリスト教に於いては、「あなた方が祈る時は……。だから、こう祈りなさい」
(新約聖書 マタイによる福音書6章9-13)、「祈る時には、こう言いなさい」
(ルカによる福音書11章2-4)と、イエスが弟子に教えたとされる祈りの言葉を
定型文として、ほぼ全ての教派で唱えられている祈祷文に、「主の祈り(主祷文)」がある。

「天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇められますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください」
(新約聖書 マタイによる福音書6章9-13)
…聖書 新共同訳 日本聖書協会版

文語訳の「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。………」との文言は、キリスト教徒でなくとも
何処かで耳にしているのではなかろうか。
この様に日本のキリスト教徒も、礼拝用語である「アーメン(アメン、エイメン)」
以外は日本語で祈りを捧げている。


クリスチャンの祈り1


日蓮(1222年-1282年)は「祈祷抄」(1272年)と呼ばれる遺文で、
「大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、
日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」と述べている。
「法華経の持経者の祈りの叶わないことは、絶対に無い」という意味である。
また、石山中興の祖と称される26世日寛(1665年-1726年)はその著作
「観心本尊抄文段」で、「……故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と
唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として
来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と述べている。
「祈りが必ず叶う」ことが事実であれば、万病に効く薬と言われた越中富山の
万金丹の如くに、甚だ重宝するというものである。

石山系セクトには、「祈りは、祈り切ることから始まる。祈って祈って、
祈り抜けば、智慧が湧く。智慧が湧けば、行動が生まれる。行動すれば、
敵も味方に変わる。敵も諸天も諸菩薩も、全てを味方に、祈りを叶える。
それこそが、祈りのメカニズムだ」と、宗教である以上は当然のことながら、
「祈り」の重要性を強調した信仰指導をしている教団がある。
祈り抜こうが、祈り切ろうが、それは日蓮門徒のご勝手であるが、しかし、
そもそも、彼らは自国語である日本語を一語たりとも発しない読経、唱題の折、
一体どの場面で、どの様に祈っている積もりなのであろうか。

真言密教では、絵曼荼羅に向かい、手に印を結び、口に真言を唱え、
心に「大日如来」を描くという、身口意(しんくい)に依る三密を実践し、
大宇宙と一体化して、逆に宇宙の本体を動かして行くことが出来るという
「入我我入」の境地を目指す。
日蓮門徒は、文字曼荼羅に向かって、合掌し、法華経の題目を唱え、
虚空会の儀式(或いは久遠の本仏)を心に描くという身口意の三業を実践し、
「境智冥合」を目指す。
日蓮門徒は己の宗旨を顕教の頂点に立つ唯一絶対無二の正しい仏法とやらの
積もりでいる様であるが、その実、事相に於いて、真言密教と全く同様で、
所詮は天台宗の密教、台密(たいみつ)に過ぎないのである。
因みに、密教はヒンドゥー教化した仏教であり、淵源を辿れば、ゾロアスター教
であり、マニ教、ミトラ教である。
要するに日蓮門徒は、仏教の開祖ゴータマ・ブッダの教説とは何ら関わりの無い、
ヒンドゥー教やゾロアスター教もどきの信仰形態を取っているということである。


祈りのポーズ うさぎ1


鎌倉時代の易行ブームの結果、日蓮門徒は、浄土教に於ける専修念仏同様に、
法華経の表題である「妙法蓮華経」をひたすら唱える専唱題目を正行(しょうぎょう)と
している。
4世紀の訳経僧、鳩摩羅什(350年?-409年?)はサンスクリット語の
「saddharma-pundariika-suutra」(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)を、
「妙法蓮華経」と意訳した。
漢訳された「妙法蓮華経」の語を日本語的に「みょうほうれんげきょう」と
呉音読みし、その語頭に「namo」の音写である「なん」を付し、音韻自体には
何ら意味の無い呪文化した「なんみょうほうれんげきょう」との言葉を
ひたすら唱える。
サンスクリット語の「namo- saddharma-pundariika-suutra」は、「正しい教えの
白い蓮の花に帰依します」という意味であり、意訳すれば、「白い蓮の花のような
正しい教えに帰依します」という意味である。
この唱え言葉は、己の「信仰心の表明」であり、「宣誓の言葉」であって、
祈り言葉ではない。

日蓮門徒は助行(じょぎょう)として、妙法蓮華経第2章の方便品(ほうべんぼん)
と第16章の如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)の一部も読誦する。
「釈迦族の尊者(釈尊)」と称された、ゴータマ・ブッダの滅後から500年以上も
経た後に成立したと推定される、ブッダに仮託した宗教文学作品である法華経で、
ブッダがああ言った、こう言った、滑ったの、転んだのと物語が展開する訳である。
漢訳経典の読誦で「しっぽんしんこ」だの、「しょきょうしょこっしゅ」だのと、
訳の解らない音韻を神妙な面持ちで発するが、それが「失本心故」「所経諸劫数」の呉音読みで、
それぞれ「本心を失えるが故に」、「数えきれないほどの永い歳月が経っている」
との意味であることを、日本語を理解するように認識して唱えている訳ではない。

「じがとくぶつらい。しょきょうしょこっしゅ。むりょうひゃくせんまん。
おくさいあそぎ。じょうせつぽうきょうけ。むしゅおくしゅじょう。
りょうにゅうおぶつどう。にらいむりょうこう」(自我得仏来。所経諸劫数。
無量百千万。憶載阿僧祇。常説法教化。無数億衆生。令入於仏道。爾来無量劫)
との音韻を発しても、それが「私が仏に成ってからというもの、数え切れない程の
永い永い歳月が経っている。ずっと遠い昔より仏として法を説いて来た。
そして無数億の数え切れない程の沢山の者を教化して、仏道に入らしめた。
そして、その時以来、無量劫である」との意味であることを、読誦と同時に
認識している訳ではない。
「がじょうじゅうおし。いしょじんづうりき。りょうてんどうしゅじょう。
すいごんにふけん」(我常住於此。以諸神通力。令顛倒衆生。雖近而不見)との
音韻を発しても、それが「私は霊妙な力に依って、自らの姿を現わし、そして、
人々に加護を垂れる。人々は理性が転倒して愚かであり、私がそこに立っている
にも拘わらず、私を見ることはない」との意味であることを、読誦と同時に
認識している訳ではない。

要するに、日蓮門徒は読経、唱題に際し、サンスクリット語の原典を漢訳、
つまり「意訳」したものを、そのまま日本語的に呉音で音読みしているので、
一語たりとも日本語を唱えていないし、祈ってもいないということである。
これを日本のキリスト教に譬えたならば、ギリシャ語やラテン語の福音書の原文を
翻訳した英文をローマ字風に発音して読むような無意味な行為である。


白い蓮の花7


例えば、日蓮門徒が「一家和楽が実現しますように」「病が癒えますように」
「ヤクザに頼んで、批判者を抹殺した、教団の組織犯罪が露見しませんように」
との願望を念じつつ、唱題したとする。
御本尊様と称する文字曼荼羅に向かって、合掌し、「正しい教えの白い蓮の花に
帰依します」という意味のサンスクリット語「namo- saddharma-pundariika
-suutra」の漢訳を音読みした言葉を発している以上、心でも「正しい教えの
白い蓮の花に帰依します」と念じていなければ、身口意の三業が不一致で、
教理に整合しないことになる。
各々の日蓮門徒が礼拝時、法本尊を対境としている積もりなのか、人本尊を
対境としている積もりなのか、はたまた人法一箇の本尊とやらを対境としている
積もりなのかはいざ知らず、己の脳内言語を度外視し、日本語を一語たりとも
発することなく、祈った積もりになっている事相は不合理である。
勤行に於いても、「祈りの言葉」はお得意の「文底秘沈」とやらで、何処かに
秘し沈めているとでも言うのか?
                      0050 (2)









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